第二十話「ハニエル」
『そこの人、動かないでください』。
そういおうとした《蟻》タカハシのセリフが途切れる。
イデはバンシィをアルフとトリスに任せて振り向いた。
タカハシの足が宙に浮いている。
見覚えのない男が、タカハシを後ろから羽交い締めにしていた。
長身を猫背に丸めた、気怠そうな中年男性だ。腕にはよれた緑の腕章がぶらさがっている。
彼が手を離すと、タカハシは抵抗もなく落ちた。
「やあ、どうも。驚かせてすまねえな」
猫背の男は、硬直するイデに向かって愛想笑いをみせる。
「こんにちは。俺はハニエル。よろしくね」
彼の名乗りに、前方を向いていたアルフとトリスが強ばるのが伝わってきた。
前方のバンシィ。後方のハニエル。
ハニエルが腰のホルダーから、平たい鉄の板のような刃物を抜く。彼の腰には他にも手斧に刀と、物騒なラインナップが備えてある。
バンシィの髪が夕暮れの影のように不吉にゆらめく。
彼女は薄い唇からぼそぼそと話しかけてきた。
「侵入者は……捕獲。のち、然るべき尋問をおこなう。これは警告だ。投降しろ。そうすればワタシも手出しはしない。しかしきみ達が脱走を手助けし、また、これ以上の被害を出す危険があるのならば、命の保証は不可能だ。ワタシは……残念だが、力加減するより、しないほうが得意だ……」
イデ達とバンシィ達は視線をかちあわせる。
彼女の瞳は静かだった。焼きつける熱はなく、黙々とした意志が示されるのみ。暖炉の火を見つめているような心地になる。
バンシィも同じものをイデ達に見いだした。
「珍しい。侵入者特有のちぢみあがった恐怖心も、たかぶった驕りも感じない。切迫した使命をもつ、覚悟あるものの目だ」
「…………」
「できれば君達のような人達に血を流させたくはないのだが。お互い……ひけないか……」
バンシィの大きな手がもちあがった――
そう認識してすぐだ。彼女の影が、アルフの目の前にあった。
一番うしろにいたイデの視界に黒が映る。それが警棒であるとわかる頃には、防御が間に合わない速度。
観て知るより先に、イデを震えが襲う。心臓が凍ったような錯覚――本能的な恐怖だ。
これにあたったら死ぬ。
艶のない黒い本体のまとう圧は、殺意などというには生ぬるい。
激しい棘は一切無い。一秒の間もかけずに伝わる『圧』は、死そのものの気配だった。
アルフの手元には緑の炎が灯っていたが、本の形は顕れていない。
バンシィの一撃を、イデとアルフの代わりに止めるものがあった。
盾のように立ち塞がり、警棒を受け流したのは、平たい鉄の板。
バンシィが驚愕の声をあげる。
「ハニエル? どういうつもりなんだ」
「悪いねバンシィ」
ハニエルがいつのまにかイデを追い越し、最前に出ていた。
ハニエルの背がのび、関節の間の空気が「ポキ」と音をたてて潰れる。
「実は俺、あの子がオマエさんたちのとこにいくのをみててなあ。ずっと着いていた」
まさかシグマが暗闇のなかに駆けつけた時から、あとをつけていたというのか。
いいつつ、ハニエルは手斧をバンシィに投げつける。
バンシィの警棒はまだハニエルの鉄の板とふれあっていた。手斧は彼女の肌にたたきつけられた――が、血は流れない。
空中でぐにゃりと曲がって、みるみるうちに、丸められた紙くずのように小さくなってしまった。
だが警戒心は覚えたらしく、バンシィは後ろに下がった。
警棒を構え直し、バンシィの知らない事情を語るハニエルをジィと見定めている。
「ハニエルサン? 死ぬのにワタシを使う気なのだろうか。断らせて欲しい。あなたのことは尊敬している。それにワタシは殺すのがうまいだけで、好きなわけではないのだから……」
「それもないわけじゃあないが。これは単に、後悔の問題なんだ。仕事やオマエさんは関係ない」
ハニエルは二つ目の手斧を取り出す。
「この世には人生を変える出会いってのがあってな。それを失うと、想像ができないぐらいの後悔が残る。薄らいでも、何度でも『もしも』を繰り返す。そういう思いをするやつが出るのを黙って観ているのは、あんましいい気分じゃあねえ。『もしも』が増えちまう」
袖をめくって戦闘準備をするトリスがハニエルを見上げた。
ハニエルは頷きを返す。彼はあくまでトリスたちに話しかけている。
彼はイデで視線を止めた。イデの不信感に冷えた目に、曖昧ににこりと微笑みかける。
「明日の寝起きが悪くなるのは嫌なんだよなあ。特におっさんになってまでティーンみたいに過去の失敗の悪夢で起きるとか。死ぬよか嫌だね」
「……よろしくお願いします」
「応」
それからハニエルがイデに呼びかけた。
「三分、いや一分半でいい。耐えろ。そうしたら俺が足止めを引き受けてやる」