第十九話「上層二階」
シグマとビィは、他には聞こえない声量で話し合った。
時間にしておよそ二分前後。
二人はしっかり手を繋いでトリスのもとへ戻ってくる。
シグマは赤い目元を乱暴にこすった。ビィの肌は人肌に似ていても作り物であるから、涙のあとはない。自分より高い位置にある妹を、気遣わしげに見上げている。
「トリスさん。このまま地上へ向かうんですよね。私達はどうすれば?」
「君たち姉妹は別行動。先回りして、僕達を船がある場所までスムーズに誘導できるよう、待機していて欲しい」
トリスがいっているのは、ダヴィデとアンヘル姉弟、ビクトリアが乗る予定の船である。
収容施設からぬけだし次第、シグマ達がその耳をもって危険な生物を避けて、海岸を目指す。
シグマ達がいない段階では、カミッロの異能だよりで毒電波を流して収容施設外縁部の森を突破する予定だった。
森には魔法生物も放たれている。カミッロのような精神汚染能力をもつ存在のために、自律して敵を狙う機関兵器も用意してあった。
生物に対しては脅威であるカミッロの悪意も、意志がなくプログラムで動く機械には通じない。
最初は機械との戦闘覚悟の計画だった。その足音を察して避けられるシグマがいれば、脱出の成功率がぐんとあがる。
「せっかく合流したのに、また別れるのか」
「ひとかたまりで行動すると、詰まった時が大変だ。動脈硬化みたいにね。合流は経過確認と打ち合わせのためだ。隠密行動に向いている二人に先行して抜けてもらう。あとアンヘル姉弟も連れて行ってもらおう。ここじゃ面倒起こすだけで全然役に立たないし」
しばらく大人しくしていたベルがきゃいきゃいと騒ぐ。
「ひどーい! 逃げやすくしてあげたのに!」
「悪戯半分に騒動を起こしたようにも見えるがね」
トリスが指摘した通り、ベルの目は三日月を描いている。は不平をのべているというよりは、大人をからかって遊ぶ悪童の笑い方だ。
アルフも冷たい目で姉弟をみた。
子ども好きな彼だが、豊かな経験からある程度は『純粋な悪』の判断がついてしまうのかもしれない。
「まあいいじゃあないか。起こったことは仕方が無い。みずからのしたことの責任はいずれ自分で背負うだろう。過去は追いかけてくるものだからね。今は先のない未来が来ないようにするのが先決だ」
「そうだね。ネヴちゃんを止めるのが優先だ」
話題がずれたところを、ビィがもどす。
「トリスちゃん、アルフさん。とにかくあたしたちは海岸にいけばいいのね?」
「うん。僕らは君達に目が向きにくいよう、陽動にいこう。上層には手強い敵がいるはずだ」
「避けては通れないのかよ」
「無駄だ。上層には彼女しかいないだろうが、どこに行こうがすぐにくる。なら、探しに来られるより、先にぶつかりに行ったほうがいい。シグマ達と鉢合わせさせたくない」
イデには『彼女』というのが誰かはわからない。
アルフ達、ANFAの職員には心当たりがあるらしい。全員、トリスの案に異論を唱えなかった。
イデ達は再び二つのグループにわかれ、脱出を再開する。
シグマとビィは完全な無音で、中央層一階にある別の階段へ移動した。
彼女たちがいなくなったあとの道すがら、トリスは唐突に口を開いた。
「それに、他にも理由がある」
「……シグマとビィを別行動させた理由か?」
あまりに急だったので虚をつかれた。
イデの返答は正解だった。トリスは神妙に頷く。
「ビィに残された時間は長くない」
「なんだと?」
「僕の見立てでは今日の夜まで保たないだろう」
イデは数度くちを無意味に開閉させた。
イデにとってビィはやかましく明るい女性だ。根っこの部分はシグマと鏡で合わせたようなそっくりぶりなものの、あれだけ軽妙にふる舞っていたのが、あと数時間の命?
「あんなに元気なのに」
「元気ではあるよ。体の問題じゃあない」
「イデくん、君も散々経験しただろう? 不可思議で理不尽な終わりは通り雨のようにやってくる。目に新しく感じるが、よくあることだ」
アルフの手がイデを慰めるように肩に乗る。
トリスは行くべき通路に先導しつつ、一度だけ嘆息した。
「肉体と魂が離れている期間が長すぎた。今までは《無意識の海》のなかで、曖昧に自分の状況を認識していたから、現実にならなかったんだ。他人の体にああもはっきりおさまっているのも、親しんだ義足と繋がっているからだけじゃない。簡単に他の体に入れるぐらい、本体との繋がりが薄くなってる」
「つまり、どうなるんだよ」
「彼女はもうはっきり自分の状態を認識している。もう亡霊に近い。看護長が『患者をいじめるな』といっていた。ビィの終わりをどう扱うかの話だろう。意識が現実に浮上した時点で、肉体も先んじて生命活動を停止しはじめたのかもしれない。あの子は本当の死を迎える」
三人のあいだを沈黙が支配する。
あの姉妹は、このあまりに慌ただしい最後のときをどう過ごすのか。
「……まあ、まだ黙祷には早ぇわな」
「そうだね。彼女達のことは彼女達のものだ。偶然の再会とはいえ、結果的に貴重な時間をわけてもらって失敗は許されない。僕達も仕事をしよう」
トリス達は上層に繋がる非常口に辿り着いた。
トリスは様子もうかがわず、大胆にドアを潜り抜けた。
もう見飽きてきた長い廊下。その中心に、椅子を置き、座り込んでいる女性がいた。
腕には赤い腕章。
ぴっちりしたパンツをはいた長い足を開いて、こうべを垂れている。長い深緋の髪が重苦しくさがり、顔を覆い隠す。
イデは女性を観たとたんに構えてしまった武器をとる手から、ちからをぬく。
扉を開いたとき、彼女がすぐちかくにいたように感じてしまったのだ。
椅子の大きさをみるに、まだ距離は数十メートル以上開いているのに。
距離感が狂う。
その女性は異様に大きかった。
イデよりも大きい。へたをすれば身の丈が二メートルを越しているかもしれない。
女性だとわかるのは形のいいくびれや胸のラインのためだ。
「やはりいたな」
「彼女は?」
まだ話し声ぐらいなら届かない距離。
相手もイデ達に気づいたのか、悠然と椅子から立つ。
幽鬼が立ち上るようなのっそりとした立ち上がり方で、大股で、歩み寄ってくる。
「あまたの不吉をつめた地下の箱から、怪物達が地上にとびでないよう押しとどめる最後の番人ってとこだ」
「なんだそりゃ。あいつは?」
「バンシィ。警備Aチームのリーダーであり、警備チーム全体の頭。管理部に所属するメンバーでは、収容チームをおさえて最強と呼ばれる女の子だ」
立ち上がると、前髪がゆれ、わずかに相貌があらわれる。
思ったより大人しい顔立ちだ。切れ長の瞳の下には朱がひかれ、感情の読めないめもとを華やかに彩っている。
自然にさがった手から、警棒が硬質な音をたてのびた。
《蟻》達がもっていたものより太く、見るからに重い警棒。
イデが唾を飲んだとき。
すぐ背後から「ちゃか」とオモチャじみだ音がした。
銃口を向ける音だ。
三人のものではない、若い男の鋭い警句が飛ぶ。記憶力のいいイデにはすぐにわかった。
一番最初に交戦した《蟻》のひとりだ。
「そこの人達、動かないで下さ――」