第十四話「クリスティナ・トストマン」
「シグマ、なんでここに?」
「そりゃ職場だからね」
大きな声をあげそうになって思いっきり脇腹を殴られた。
シグマの筋力は控えめだ。たいしたことのない威力ではある。ヴァンニに聞こえない声量で話せというお叱りなのはすぐわかった。
「用があってここで暇潰してたら、色んな音が聞こえてきたの。通り道にあんたの歩くドスドス音が聞こえてきたから寄っただけ」
シグマの異能は超人的な聴力である。ダヴィデの事件の際も活躍した耳で、ここまでやってきたという。
彼女の記憶と違わないつっけんどんな物言いに、安心感を覚える。
「ほら。引っ張るからついてきて。あたしなら暗闇でも音で道がわかる。地上階で暇してた警備員以外の職員達もそのうち投入されるわ」
警備チーム以外とは、予想するに、ネヴとシグマ達も属するという収容チームメンバーだろう。
どう考えても性格に問題がありそうだ。
「来そうなのはエフィジオとかガスパロとか……顔がいいけどすぐキレる傲慢くそパツキン野郎と元医者のサイコなサディストで……とにかくどいつも癖がある奴らだから、会わない方がいい。急いで」
「アルフとヴァンニは?」
シグマはイデの手をつかみ、引っ張ろうとする。
捕まれたのは利き手のほうだ。折れた骨の痛みに顔をしかめた。
シグマに対し、イデは足をとどめて動かない。
「まだ逃げられねえ」
「は? ここから三人も引っ張って行けって? あんた掴んでアルフさんに合図するので精一杯よ。いい? あんたは早く逃げたほうがいい。人のこと気にできる実力じゃないくせに」
シグマはあくまで脱出を勧め、何度も袖をひいたが、イデは「用がある」と首を振る。
「……はあああ、めんどくさ」
衣擦れとともに手が離れる。
「だったらあんたがすべきなのは、バケモノの注意をひくことよ。どう動けばいいかは、全部あたしの言うとおりにして。致命傷は考えるな。暗闇が消える前に逃げるのは絶対条件」
「おう」
イデは手を握ってみる。
警棒はヴァンニに取り押さえられた際に落とされてしまった。武器がない。
「《影胞子》はあたりが暗くなるだけで、闇の中に複数居る本体達ぜんぶに触れば景色も晴れる。闇に混じって移動してるのは……やわい足音にしなる金属の鳴き声。《骨細工師》ね」
「どんなバケモノだ」
「仲の悪い隣人に『あいつの家は死体で家具を作っている』とかいう嫌がらせの噂まかれて、なんやかんやで不幸になった家族がいたっていう地元の怪談がカタチを得た怪異。足が猫で腕は鋸、頭は犬の骸骨。静かに歩いてずこずこ殺す。たまに噛む。ヴァンニなら問題なくやれるよ」
「怪我は」
「するだろうけど。どうでもいい」
イデの背をシグマがそっと押す。そちらに《骨細工師》がいるのだ。
「素直に目覚めが悪くなるから助けたいっていえば?」
「あんまり被害が大きくなりすぎると、後々面倒極まる可能性があるんだよ」
「はいはい」
シグマは心底理解できないというふうに、適当な相づちをうつ。
だがイデとて単純な正義感から、暗闇での戦闘に望んだわけではない。
数メートル先から特徴的な音色が響く。
くわんくわん。音符が歪曲したような不安になるそれは、特大の鋸がたわむ交戦の歌だ。
相手取っているのはヴァンニであろう。
大きく足を踏み出せば触れられる距離なのに、まだ相手の輪郭すら見えない。
シグマはもう口を開かずに、イデの背を指でなぞって指示をだす。
猫の手の形に曲げた手の爪で、左の肩甲骨を捕まれる。
イデは左手をのばし、掴んでみた。
冷たく丸まったものが手に収まる。
イデに触れられたそれは大きく動く。イデが掴んだのは肩だった。
身をよじって暴れるそれ――《骨細工師》はイデと同じぐらいの背丈だ。イデは懸命に指を離さず、背後にまわる。
肩は布地などまとっておらず、つるりとしていた。
つかみ続けられない。イデは触れた肩を目印に、背後と考えられるほうに移動し、脇のある箇所から腕を通す。
イデに背後から拘束された《骨細工師》は身をよじって暴れた。
鋸の二の腕が顎をかすめる。ぎざぎざの刃の押し引きで肉が削がれ、乱れた傷口が刻まれた。
光があれば、ヴァンニの首にあった痣と似た傷跡が見えたはずだ。
出血に対する生理的な恐怖をこらえて、イデは更に《骨細工師》と密着した。
《骨細工師》の背がイデの胸板にくっつく。
頬にくっついた《骨細工師》の頭部は冷たくも温かくもなく、土と鉄の匂いがした。
「ふっ」
ヴァンニの呼気とともに、腹部に衝撃が襲った。
思い切った突き。みぞおちのあたりに入った。
「ここか」
ヴァンニは《骨細工師》の位置を測りあぐねていたらしい。
笑い混じりに、大ぶりにふった警棒が風をきりさく。
イデの前髪がぶわりとまきあがった。くわんくわん。《骨細工師》の頭の骨が盛大に砕け、怪物の耳障りな絶叫があがる。
シグマがパンとイデを叩いた。
一度袖を引っ張ってから、軽い足音が離れていった。
そちらが逃げるべき方向というわけだ。
イデは三撃目が来る前に逃げ出した。
暗闇はまだ晴れない。真っ直ぐ走ればいいと信じても、真っ直ぐ走れているかもわからない。
足がもつれそうになった時、左右から腕を支えられた。
急に視界が開ける。
唐突な明かりに網膜が焼ける。白く塗りつぶされる目をおさえた後ろで、扉がかちゃんと閉じた。
「全く。早々に逃げればよかったのに。バカだな」
左で、イデを男がやれやれとからかう。
まだチカチカ星がまたたく視線を移動させると、アルフがベストをひいて、居住まいを正していた。
「わけがわからないわ。まさかアルフさんがこの大騒ぎを?」
扉を閉じたシグマは落ち着かなさそうに腕をさする。
「イエス。間接的にね」
「信じられない……どうするおつもりで?」
「もう俺達の用は済んでいるはず。だからあとはトリスくんと合流してここを出る」
「トリスさんまで。ああやだ、わたし上に何きかれても知らないふりしますから。そうできる程度の手伝いしかしません」
「あら、手伝ってくれるんだ」
「……いじらないでください! 成り行きです!」
むくれるシグマに目を細める。だがアルフは次いでイデをみやると、僅かに表情を曇らせた。
「顎と腕。やられちゃったね」
「まあ、あとは脱出するだけだからな。あいつら連れ出す旅行代と考えればお手頃価格だろ」
強気にふるまうも、自分がどんな有様か気になってくる。
目線を下げると、シャツの胸のあたりがべったりと赤く染まっていた。
切られた顎からはまだ血が流れている。
「顎は出血が酷くなりやすいんだ。絆創膏をもっておいてよかったよ」
どこからともなく取り出した大きな絆創膏で、顎の傷を塞いでくれる。
すぐに血が溢れて役目を果たさなくなるだろうが、気休めにはなる。
「昔はお嬢がよく転んでねえ。絆創膏を持ち歩くのが習慣になったんだよ。しかし骨のほうはどうしようもないな」
「はああ。あとは逃げるだけじゃあなかったら、あんたのこと最悪のバカだと思うところだった。で、トリスさんとの合流は?」
「彼は地下下層二階のB通路にいる。地上に出るために、彼のことだからどうにか地下下層一階を通るはず。問題なのはどの通路を使って合流するか」
アルフは携帯通信機を取り出す。
イデにはみたこともないタイプの機械だ。短い小説サイズの板の形で、薄いガラスの画面に地図が広がっている。
地図のうえで、赤い点が殺人現場の血痕のように散っていた。
アルフの両サイドから、イデとシグマはまじまじと画面を覗く。
「一階、結構脱走対象がわちゃわちゃしてるね。こりゃ職員と遭遇せずに通るのは無理そうだぞ」
「ここは? 誰にも指示を出してないみたいですよ」
赤い点には小さな白い吹き出しがあり、それを押すと職員の名前らしきリストが表示された。
赤い点があるものの、吹き出しのない通路を発見したシグマだが、アルフは眉を下げて悲しそうな顔を作る。
「ってことは、切り離しが済んでいるってことでしょ。多分、シャッターが降りてる。職員証を使えば通れるだろうけれど。管理室に記録が残るからなあ」
「だったら大丈夫だ」
イデの言葉に、アルフとシグマは揃って疑問符を浮かべる。
二人の前でイデはニヤリと笑い、片手をあげた。
指先には一枚のカードがはさまれている。
トリスがエレベーターに乗った際に使ったカードに近い造りのそれに、アルフが「ははっ」と驚歎する。
「ヴァンニの『職員証』!」
「これでも下層育ちだからな」
イデは正義感からバケモノを足止めたのではない。
あまり被害が大きすぎると、トリスの手間が増え、後々のイデ達の面倒に繋がると思ったのも本音だ。
だが一番は、これ。
暗闇は恐れるべき脅威であると同時に、悪巧みに助力してくれる頼もしい味方でもある。
警備が時間が経つにつれ厳しくなるのはわかっていた。
イデの一番の目的は、極力ヴァンニに接近し、カードを盗ることだったのだ。
いくら魑魅魍魎うずまく怪物をうがつ守護者といえど、命のかかった応戦中に、くだらぬ盗みに配慮している暇はないだろうから。