第十三話「影胞子」
イデ達の状況が変わったのは、トリス達がダヴィデを連れ出す三分前のことだった。
《蟻》二人は気絶。起きているのはイデ、アルフ、ヴァンニ。
数のみあげれば二対一だ。しかしアルフとヴァンニはにらみ合い、膠着状態にある。
ヴァンニがイデの腕をおったうえ、取り押さえているからだ。
そのイデの腕を、服の布がすれる音が聞こえんばかりに強く握り直す。
神経が骨と筋肉ごと雑巾よろしく絞られる。イデは唇の内側をかみ、悲鳴を耐えた。
ヴァンニは二度問う。
「おまえはおれの知ってる人?」
「男をナンパする趣味があるようには見えないな」
アルフの挑発に、ヴァンニは顎で《蟻》達をさした。
「さっきそいつらが受けた打撃の感覚。なああんか覚えがあるんだよなあ」
見せつけるように、見上げんばかりに顔をあげる。
顎を動かしたのは《蟻》をさすためだけでなく、首を見せる意図もあったのだろう。
まともな反撃ひとつ受けていないはずのヴァンニの首には、目をこらさねばわからない濃さの『切り傷の痣』があった。
鋸で切りつけたような、ぎざついた傷痕だ。
イデは遅れて察する。
首の傷跡は、他の《蟻》が負った傷なのだろう。
ヴァンニは感情を共有しない代わり、他の《蟻》の痛覚を共有するのだ。
彼は《蟻》の肉体を通じてアルフの攻撃を受け、その感覚に記憶を刺激されたのである。
「よく知ってるんだよ。おれ個人的な訓練もよくするからさあ。マジメなの。いつも親切に付き合ってくれるよね。なあ、ア――」
地下下層二階、非常口前廊下に、激しいブザーが襲う。
脱走を知らせた放送アラームとはまた違う、生理的な嫌悪をかきたてるうるさわしい警戒音。
ヴァンニがしたたかに舌打つ。
「なんだと? おれの《蟻》どもが失敗したっていうのか?」
「……バケモノが来るのか?」
廊下の先を潜り抜けた《蟻》は二つのグループに別れた。
ひとつはトリス達を追い、もうひとつは脱走した収容対象の鎮圧へ。
ちょうど彼らが通った、収容ルームへ続くドアが、ゆっくり、ゆっくりと開く。
非常口に駆けつけたばかりの《蟻》達は興奮と殺気とともに、こうこぼしていた。
『《影胞子》を捕まえにいく途中だったのに』。
三人の視線がドアに集まる。
誕生日パーティでプレゼントを開封するように、時間をかけてひらかれていくドア。
その先にあったのは、闇だった。
イデは拍子抜けした。そしてすぐに異常に気づいた。
トリス達も《蟻》も迷わず向こうを進んでいった。その足音ははっきり聞こえていた。
迷わずいったのだ。いったのが、足下も見えぬ、塗りつぶした漆黒の闇であったはずがない。
ぬっ、ぞり。
じっとりぬめった闇が、ドアから這い出てくる。
明かりの下にさらされた闇は、人の頭の形をしていた。14歳の少年程度の子どもの頭に見えた。大人になる直前特有の、可愛らしさから抜け出しかけのあおくさい丸みを残した形。
黒い影は石の下に隠れていた小虫の群れを思わせるモゾついた動きでにじみ出てくる。
首まで抜けたところで、その首がいきなり伸びた。
折れそうな首がぐんとのび、先端がわかれる。四方八方に向かって、分裂した頭が、首をするする伸ばして広がっていく。
先端のまるい物体が急速に空間にはびこる様は、エノキダケの成長ビデオを早回しで眺めているかのようだ。
「気持ち悪、火炎放射器でもねえのか」
素直な感想をだす以外にできることがないイデの頭上で、ヴァンニは独りごちる。
「こいつに戦闘力はないはず……ついでにいるのは、どいつだ」
「え?」
ついでにいるのは?
不穏な発言がもたらす予感を、黒い影――《影胞子》が補強する。
またたくまに数十以上に増殖した頭は、キノコの傘のように広がった。
頭の傘が一斉にぶるぶる震え出す。震えた頭から宇宙の闇のような色をした目玉大の綿が飛び散る。
頭と同じ闇色を増やそうという動きはまるで繁殖だ。じっとり生暖かい生物感がある。
散会した綿を中心に、『暗闇』が円上に展開しだした。
名前の通り、漆黒のカーテンをおろすように。
イデ達のいた場所もあっというまに闇に染まる。
一寸先が暗闇に落ちる。
イデは激痛が走る腕が軽くなるのを感じた。ヴァンニが腕を解放したのだ。
(解放された? 《影胞子》があたりを暗闇にする能力しかないなら、別に《蟻》を押しのけた奴がいるってことか。……この闇の中に?)
輪郭すら掴めないそれと戦うために、ヴァンニはイデのために使っていた腕を空けたのだ。
難題がひとつ解決した。これで動ける。
では次の問題だ。見えない、知りもしない敵からどう生き残る?
習っていない単元のテストをやれと言われた気分だ。
「くっ……!?」
焦るイデの後ろから、パタパタと足音がした。
振り払おうと腕をあげたら、顔を思い切り殴られた。
……小さい。冷たい。体温の低い女の手だ。
予想より弱い攻撃は一度だった。それもうっとうしがるようにはたくもので、苛立っていて、悪意がなかった。
混乱のうちに、女の手がイデを「こちらへこい」といわんばかりに引っ張る。
動かないイデに女も止まる。気配が近づく。吐息が耳たぶを撫でた。
「あんたさ、なにしてんの?」
シグマであった。