第八話「ヴァンニ・スリーニ」
いましがた通ってきた非常階段からの足音は、上からどんどん大きくなる。
地下下層一階から地下下層二階へからやってきた警備員の応援だ。
イデとアルフは非常階段の前から離れる。足止めのため、トリス達がいった廊下の前を位置取った。
地下下層二階の廊下は必要分の広さしかない。すれ違う人がぶつからずに歩ける幅だ。
真っ直ぐ続く廊下の両面に、鍵付きのドアがずらりと並ぶ。
磨き上げられた白黒のハーリキンチェックの床に、イデ達と《蟻》の足の影が映る。
小綺麗な通路の造りは、ホテルと独房の合いの子といった景色だ。
そんなところに大人の男が横に並んで腕を広げれば、壁が出来あがる。
《蟻》マテウスはイデとアルフを無理矢理かいくぐる真似はしなかった。警棒を持ち直し、血を拭ききった顔に獰猛な牙を見せている。
応援がやってきたのは、そんなイデ達と《蟻》マテウスの中間地点だった。
インナーは白いワイシャツやら黒いベストやらガラモノのTシャツやら、自由度が高い。
しかしサンドカラーの上着はおそろいだ。
赤にピンクのラインが入った腕章。数は八人。全員Bチームの《蟻》だ。
合計十人の《蟻》と二人の侵入者が、廊下に詰まったわけである。
一気に廊下に満員の地下鉄のような熱気が満ちる。
じわじわ汗に蒸れるような感覚は、なにも体温のせいばかりではなかろう。
《蟻》達はいずれも獲物を見つけた狩人の目で侵入者を射貫いた。
マテウスを含めた十人の《蟻》が、腰をかがめ、距離を詰めようとする。
辿り着いたばかりの《蟻》達ですら頭に血が上っているらしく、食いしばった歯の間からシュウシュウと呼気が漏れていた。
《蟻》達はいちように、夢遊病患者のようにぶつぶつと呟く。
「俺達は収容違反を取り締まるんだ。絶対に取り締まるんだ」
「殺してやる。潰してやる。引きずり回してやる」
「俺達の内臓を全部掻きだされても職務を全うしてやるぞ」
「《影胞子》を捕まえにいく途中だったのに、クソ」
「ころす、ころす、こーろす、ころす」
「任意で報告、任意で捕縛、任務で鎮圧!」
黙って死んでいる《蟻》タカハシを助け起こそうとするものはいない。
もしふたりで埋まってしまう通路で一斉に襲えば、動きにくいのはかえって彼らだ。お互いに衝突し、動けなくなる危険がある。
だが彼らならば、お構いなしに襲いかかってきそうな気迫があった。
そうなれば優位なのは彼らかもしれない。数こそは力、暴力なのだから。
「おまえら、『待て』」
《蟻》達の最後方から、男の声があがる。
鼻息荒く息巻いた《蟻》達が止まった。若い男のたった一言で。
合図を受けたかのように《蟻》達は背を伸ばし、後ろの男を通すために両脇に別れた。
最後方で様子をうかがっていた男は、モーセのように《蟻》達の前を通り、最前列に出る。
イデは誰が出てくるかと思い、彼を見て拍子抜けする。
見た目だけならかなり軽薄そうな若者だ。
懐っこい犬のようなくりくり輝く黒い瞳。軽薄な印象を抱かせるのは、へらへら笑う表情と、なにより髪であろう。
元は黒髪なのであろうに、金のメッシュに加え、白いインナーカラーまで仕込んでいた。
チャラついた男は陽気に片手をあげ、挨拶する。
「ど~も~! 侵入者諸君、元気? 名前は? どこ住み? メルアド持ってる~?」
「名乗るなら自分から。そう礼儀をならっただろう?」
「いや侵入者って普通、律儀に名乗らねえんじゃねえか?」
イデは自然に会話をしようとするアルフに、反射的につっこむ。
ダメだ、ネヴとの生活が長すぎた。
「それもそっか。おれはヴァンニ。警備チームの副リーダーだよー。っつってもおまえらにはどこのどんな立ち位置かなんて関係ないか。友達になるには名前さえ知ってればいいもんね」
笑う男の腕を確認する。
腕章は赤にピンク。間違いなく《蟻》だ。
他と違いすぎる気さくさに、じわじわ警戒心が戻ってくる。
軽薄な男=《蟻》達を率いる警備Bチームリーダー、ヴァンニはもう一度にっこり笑顔を浮かべた。
イデ達のほうを見たまま、待機中の《蟻》に指示を飛ばす。
「ドパルデュー。ピエリ。チロ」
「「「はい」」」
「おまえ達は廊下の奥へ行った奴らを追え。マテウス、バルトロメはここに残れ。ラミとセシリオ、コパチュカは脱走の鎮圧に行け」
「「「「「了解!」」」」」
「ああ、そうそう。侵入より脱走を優先しろ。シクヨロ!」
十人のうち、六人が前進した。
警棒をもって威嚇しようとしたイデは、横のアルフに腕を伸ばして遮られた。
「?」
「行かせなさい。三分は稼いださ。九人を相手取るのは厳しいぞ」
「……わかった」
イデとアルフのやりとりに、ヴァンニは満足そうに笑みを深める。
「そういうわけだ。可愛い《蟻》ちゃん達、急いでんのはこっちも一緒。くれぐれも不意打ちなんかしておれの顔に泥を塗るなよ。礼儀はタイセツに、だ」
「そういって。自分が楽しむのが魂胆でしょう、あんたは」
憎まれ口を叩いた《蟻》達は、警棒を抜いてから早足にイデ達のわきを通っていった。
すれ違いざまに一度睨んではいくが、武器を振るう者はいない。
本当に手出しをせずに去っていく。
ヴァンニと、倒れたタカハシを含む三人の《蟻》が残る。
ヴァンニはほくほくとイデとアルフを見比べた。値踏みする目だ。
「強いか、頑丈か。迷うねぇ」
んんんと唸って、しきりに迷う。これがまた妙に嬉しそうに口元が緩んでいる。
誕生日プレゼントを買うためにデパートへ連れてこられた子どものようだ。
《蟻》バルトロメに肘で脇をつつかれ、ヴァンニはやっと決断した。
「こっちにすっか。強い人がいいなら今度アルフさんに手合わせ頼めばいいし。ハニエルさんと違ってあの人、サボらないもん」
「始めていいのかな」
いうやいなやアルフはヴァンニめがけて発砲した。
ヴァンニは猛烈な勢いで飛んできた弾を避ける。
膝を落として、頭の位置を大きく下げての回避だった。
驚愕しているイデにめがけてヴァンニは悪戯っぽくウィンクする。
残る《蟻》二人は揃ってアルフに殴りかかる。
銃撃直後の動きだった。アルフもまた彼らの行動を予測していたかのように、先んじて二人のほうへ踏み込んでいた。
リーダーへの銃撃に一瞬気をとられた《蟻》達よりも早く。
最初からヴァンニが避けるとわかっていて、《蟻》達の意識の空白を作るための銃撃だったかのように。
ヴァンニはアルフには目もくれず、中腰から前転してイデに接近した。
「おまえって暴力好き?」
「ぐっ」
「おれはねえ、殴るのは好きっ!」
立ち上がりざまに腹筋と腕のちからで逆立ちし、踵落としに変えてくる。
速く奇抜ではあるが一連の動作が直線上ではあるがゆえに、動きは読みやすかった。
まだ完全な冷静さを手に入れていないイデでも、警棒で受けることに成功する。
その警棒がなんとたわみ、嫌な悲鳴をあげた。
(マテウスとかいう《蟻》も相当なバカぢからだったが、こいつは――ていどが違う! 暴走に近かったあいつと違って、落ち着いてる。冷静じゃあないが、落ち着いてる。自分の意志で死にに来てやがる!)
攻撃力が高く遊びの多い技は、捨て身だから出来ること。
もしヴァンニが、Bチームとして他の《蟻》マテウスとタカハシのような復活ごっこができるなら、ある意味合理的な判断ではある。
敵の反撃がリスクにならないのなら、ダメージが大きい方がいい。
それと、死ぬのが怖くないかは別の話だ。
他の《蟻》はみな同じ心境と暴走性を獲得していた。ヴァンニは明らかに違うのである。
これはヴァンニが、あの暴走性なしに死に近い行動を選べることを意味している。
ヴァンニは基本的な、2本足で立つ体勢になる。
イデは間合いに彼を入れないよう下がりながら、ほんの一瞬だけアルフに気を配った。
アルフはひとりで二人を器用にいなしているようである。
動きは最小限に。反撃はせず、受け流しにのみ注力していた。
気合いが入って一層攻撃のキレが増した二人を、油断なく相手取る。
二人の《蟻》は必死だ。洗練された動きとは、格闘という無骨な目的と反対に、大仰な動きが削ぎ落とされて美しい。
さながら赤い花の周りで二匹の蜂が飛んでいるかのようだ。
イデ達が有利にたつよりも、相手の時間を奪うやり方だ。
ああはいったが、イデ達の目的は相手を倒すのではなく時間を稼ぐことだというのは変わっていないらしい。
イデは『トリスとビィならば、三人であればさばききれる』という判断を読み取る。
ならばイデも倒すのではなく、タイムリミットまでヴァンニと遊ぶまで。
(つっても――あまりいい方には考えるべきじゃあねえだろうな)
生まれ持っての肉体の質ならば、イデにもぶがあるように見える。
身長は力だ。身長差はそのまま筋肉量の差になる。
ヴァンニは身長175センチ前後。イデとは15センチ近い差がある。腕力に高さが加われば、素のちからはイデの方が強い。
(いや、いや。こいつは『正式な職員』、しかも上司だぞ。年齢が離れていなくても、実戦経験は雲泥の差だ。路地裏のステゴロなんか、何年も訓練を受けた相手に通じるものか)
イデは一切しかけず、ヴァンニが動くのを待つ。
ヴァンニがはじめて笑みを消し、「ちぇっ」とつまらなそうに言う。
「高身長から繰り出される頭上からのガツンとした一撃、楽しみにしてるのに」
いいながら首に警棒を突きを繰り出した。あたれば人体の急所である。
脳裏にアルフにたたき込まれた奇襲が蘇る。
イデは突きを避けるとともに、手を振り払った。
それが右手首に伸びていたヴァンニのてのひらを弾く。警棒に意識がそれたのと同時に、右手をとらえてひき、バランスを崩すつもりだったのだろう。
以前習った。
(以前したこと。時間稼ぎ。俺の経験でこいつに通じるものがあるか?)
違いすぎる環境で、当てはまりそうな記憶は多くない。
あるとすれば、どんな戦場にも言える大原則ぐらい。
イデは教科書で難題を見つけてしまったような、気の遠い思いを覚えながら、ヴァンニを見据えた。
(――相手が一番嫌がることをしつづける)
そのためには、相手が何を嫌がるか分析すること。
幸い、イデは既にひとつ、わかっていることがあった。
(アルフは、最初のひとり以外、銃で殺そうとしてない。今も警棒だけで戦っている。数を減らしたいなら撃てばいい。こいつらも自殺に銃を使ったのに、何故使わない?)
ネヴと同じように、彼らにも異能があり、その異能には『詳細』が存在するはずだ。
恐らくそこには『自殺すれば死者が蘇る』以外の要素がある。
(多分、身内が死ぬほど強くなるんだ、こいつら)
ヴァンニがどうだかは比べられないが、《蟻》マテウスは、先ほどよりきもち強い。
ビィが「殺したほうがいい」といったのも今はわかる。
恐らく、彼らは虫の知らせのように、他の《蟻》が死を感じ取れる。
でなければ、通信機器を使った時間が一切なかったのに、彼らが駆けつけ、タカハシの死体に反応しなかったのが不自然だ。
二人が並ぶと通路を塞がれるのは、アルフとイデもやったから、わかっている。
数を減らしてひとりにし、応援が来る前にダヴィデが収容されている廊下に抜けるしか、《蟻》より先行する方法がなかったのだろう。
説明すれば、内部事情に詳しいとばれる。だからああいう言い方しか出来なかった。
ここまでは整理できた。
あとは、致命傷を避け続けつつ、『相手が嫌がる行動』を思いつかねばならない。
凡人には厳しい芸当だ。イデは自暴自棄に舌打ちする。
「ったく。寿命が縮むぜ、クソ」