第七話「《蟻》―タカハシ」
イデは殺意全開の警備員達を前に冷や汗を垂らす。
加えていえば殺意以外に瞳孔も開いている。好奇心が強く働いた時にも瞳孔は開く。イデは完全にターゲッテイングされたという意味だ。
目の前の《蟻》、マテウスはじりじりとすり足で移動し、距離を測っている。
もうひとりの《蟻》は果敢にビィに殴りかかっている。
野球の投球のように振りかぶり、遠心力も加えて左から打ち込む。
狙ったのはカミッロを抱えた左脚だ。
「ッッシャぁラァアッ!」
どこから出ているのか不思議になる吠え声をあげ、黒い警棒で横なぎにぶつ。
空いた鉄脚で受け止められるも、《蟻》もビィが打撃を流すのは見越していた。
反動のまま、地に着いた片足を軸に回転し、今度は右から殴る。
「っげー、ジュラシックもビックリの迫力!」
「うっせェその脚ビィちゃんのじゃん、よくも盗みやがって返せクソ! クソ! クソー!」
『クソ』というたび、異なる角度から絶え間ない打撃が飛ぶ。
ビィは「ああもう」とじれた声をあげ、カミッロとベルを後方の床へ放った。
ベルの「きゃうん」という鳴き声がしたものの、受け身はとれたらしく、すぐ立ち上がった。
防御を考えない果敢な襲撃は見ているほうの肝が冷えるほどだ。
八本の脚すべて使えるようになったビィは、《蟻》を逃さぬよう、威嚇のように脚を広げた。
《蟻》から目を離さず、《蟻》マテウスと睨み合うイデに大声を発した。
「イっちゃん!」
一拍おいて、『イっちゃん』=イデと理解する。
イデと呼んで、後々の新入職員生活に支障を出さないためだ。
「なんだ?」
「殺したほうがいいよ、そいつ」
「――はっ?」
思わず目線がビィを追う。
面食い、目の前の《蟻》から目を離したイデの隙を逃さず、警棒が襲ってくる。
イデは特別秀でた才能のない人間だが、以前、訓練と評してアルフから徹底的にいじめられた経験がある。
『頭で考えるより体で先に動くように』。それがアルフのだす最低ラインだった。
死ぬような思い出とともに、襲い来る気配を感じ取って応じるよう躾けられた。
(殺す? マジで言ってんのか、久しぶりとはいえ同僚だろ!?)
困惑するイデに、アルフがさっと後方のトリスを一瞥した。
「トットちゃん。君、イっちゃんのテストのつもりかい?」
「さあ。心配なら助けてあげればよいのではないですか、アッさん」
ビィにならって即興のあだ名で呼び合う二人の意図は読めない。
「そう。なら仕方ないな」
「お願いします。僕達はタイミングをみていかせてもらいますから」
アルフは拳銃を抜く。
「本気でやる気か!?」
くちにだして正気を疑うイデに、アルフは目だけで頷いた。そのまま間髪入れずに発砲する。
連続して三発。《蟻》は一発は避けられたものの、もう一発は胴に喰らい、最後は脳天に直撃。
イデは間近で《蟻》の開いていた瞳孔が小さくなるのを観察する。
興奮していた《蟻》から表情が抜け落ちる。
糸の切れたマリオネットの如く倒れ込む。鈍く不細工な音がなる。水と肉の詰まった袋が落ちたような音だった。
「クソ、マジかよ――」
心臓に氷の粒を入れられた心地だ。
いくらネヴのお目付役で、我が娘のように大切にしていたからといって、そこまでするのか。
隠された凶器を覗いた気持ちにおののいたイデを、更なる驚愕が襲う。
イデは荒れ狂う心臓を落ち着ける努力とともに、ビィを見た。
文明の利器をもって、あっけなく殺された相棒を見て、ビィを相手取る《蟻》がどう動くか、警戒したのだ。
いっそう激昂する――そんなイデの予想と裏腹に、《蟻》は静かに伏した仲間を視界に捕らえていた。
不気味な沈黙に備えるイデを前に、《蟻》は腰元に手を伸ばす。
すぅう。呼吸で胸が大きく膨らむ。
「タカハシッ、逝きます! 代打、マテウス!」
唐突に名乗りを上げて、《蟻》は上着のしたにあったホルスターから拳銃を取り出す。
そして己の眉間に銃口をあて、引き金を引く。
血が勢いよく一本の太い線となって吹き出し、もうひとりの《蟻》も倒れた。
「は……あ、ああ!?」
わけがわからない。
あれだけ怒り狂った人間が、仲間が殺されて自殺するとは、どういった心境の動きなのだ?
自殺を見せつけられ、パニックに陥りかけるイデは、足下で蠢く影に気づかなかった。
「おら死ねクソ侵入者ァアア!」
「ぐあッ!?」
下からのアッパーカット。
綺麗に入った拳に脳が揺れる。
拳の主はマテウスであった。
額から流れる血が鼻筋を通って唇まで伝っている。銃痕は赤いマルを残して、綺麗に消えていた。
素手の拳で追撃を加えようとするマテウスから、アルフがいなす。銃はしまわれていた。
数度の攻防を経て、マテウスが一度下がる。
彼は忌々しげに二人を睨みながら、目に入った血を拭う。
「な、なんなんだよ、アンタ!?」
かろうじて気絶を堪えたイデは、《蟻》マテウスを頭からつま先まで眺める。
死んだはずの男は傷一つない。死が幻覚でなかった証拠は出血と、後方で入れ替わりに死者となったもうひとりの《蟻》タカハシのみである。
血を拭って捨てて、《蟻》マテウスは獣のように荒い息を吐く。
「は。警備員が一回殺された程度で止まってたまるか」
「――ビィ! ひとりのいまのうちだ、いくぞ!」
異形の攻防に緊迫が高まるまったがなか、トリスが鶴の一声を発す。
「あいさー!」
ビィの対応は速かった。
八本の脚をバネのように使い、イデと《蟻》達のもとから一気にとんで離れた。
気づいたときにはトリスの姿もなかった。
ビィはピョーンと先の廊下に抜ける。彼女の脚の一本がトリスを大事に包んでいる。
「じゃあ、僕達先にいってるからね。足止めよろしく」
たった一度振り向いて、ビィとトリスは廊下の先に消える。
いくら異能を有しているからといって、イデとアルフの二人がかりでひとりを足止めするぐらいなら、置いていくことはないのではないか。
そんな文句はすぐ消える。
すぐ背後の非常階段から、土砂崩れを思わせる足音の波が響いてきていた。