第五話「ベアトリクス・トストマン」
耳をつんざく放送に、トリスは素早く人形にビクトリアの首を取り付けようとする。
靴を脱いで他の荷物に片足を乗せ、バランスの悪い姿勢でやりづらそうだ。
イデは子どもを抱き上げるように見た目よりしっかりした腰を支えてやる。
アラームは相変わらずうるさい。
いやがおうでも焦る。
「いっそ置いていくか?」
「いや、ダヴィデの回収にビクトリアがいる」
「そうか……しかしちゃんと動けばいいが」
「このマネキン、メンテナンス用時に動かせるようになってるんだ。本来は専用のコードが必要で、研究室にある機械とケーブルで繋いで動かす」
トリスが首をなんやかんやいじる。
「ダヴィデの解説上、脳に、いざとなったら他人の死体と繋げて最低限動かせるよう自動変換機能が仕込んであるらしい。彼の腕を信じよう」
イデの手を軽く叩いて降ろすよう要求した。
ビクトリアのまつげが震えた気がしたが、まだ目覚める気配はない。適応までもう少し時間がある。
ここで立ち止まる余裕はない。
ネヴより小さなビクトリアの体をひきよせて担ぐ。引くほど重い。まるで肥えた丸太だ。
彼女の新しい細腕を首にまわす。ひきずると床に傷がつきそうだ。
どうにか根性で、つまさきが浮く程度に持ち上げなければならない。
平均的な身長と筋力といった体つきのトリスでは難しかろう。
他に、自発的に四肢を動かす様子のないカミッロのほうは、アルフが抱き上げた。そのまま慣れた動作でおぶる。
アルフは鋼鉄の補助具に被せられていた布をちぎった。
器用に背負い紐を作って、カミッロを固定する。
「イデくん、大丈夫そう?」
「ああ。くそ重いから走るのは避けたい」
「そこはベルちゃんにカミッロの通訳を頼んで、うまく逃げたいねえ。ひとまず首がついたなら、早く移動しないと」
「警戒レベル3か。十分以内に地下下層まで昇らないと、地下深層のエレベーターは停止、階段がシャッターで閉鎖される」
「はあ!?」
「エレベーター前は誘導のため異物管理課の職員がいるはずだ、階段を目指そう」
状況がわからずキョトンとしているベルを、ビクトリアのついでに小脇に抱え、《屋根裏部屋》を飛び出した。
アラームはおさまっている。代わりに近い通路で、イデ達とは違う方向へむかって早足に進む足音が連なっていた。
誘導を受けて表面上は静かである。それにしては一歩一歩の歩みがせわしなく、興奮と緊張がうかがえた。
不安定な足音に、数年前、故郷で大雨が降った日を思い出す。
あの街は海が近い街だった。
大地震によって全てが一変した歴史を持つバラール国では、災害時のパニックの恐ろしさは痛感しているらしく、避難所とシェルターが設定されている。
医療制度に関してはまだ問題が山積みなのと大違いだ。
気の昂ぶった足音は、洪水を恐れて避難所に移動する人々のそれを思い起こさせた。
ANFAについて何も知らないイデは、地下下層二階に昇るまでの道すがら、小声で質疑を重ねる。
「警戒レベル3ってヤバイのか」
「まあまあかな。警戒レベルは何も起こっていない『0』から『7』まで」
職員と鉢合わせそうになると、ベルがイデの服を引っ張って警告する。
おかげで物陰に隠れるなどして、職員達とはギリギリ顔を合わせずに道を選べた。
次に回収すべきダヴィデがいるのは地下下層二階だ。
地下下層は一階と二階から成り、二階のほうが地下側となる。
下層の収容物は上中下で中程度の危険度で、二階はコミュニケーション可能な異常存在と勤務不可能な獣憑き達が納められているという。
「警戒レベル1はほぼ危険性のない単独脱走。2はマニュアル通り対応すれば安全に対応できるトラブル。3は施設のほんの一部が破損する程度の脱走。でも多分それは、ピクシーが脱走してまだ時間が経っていないせいだ。恐らくすぐ――」
『緊急事態。警戒レベルが上昇しました。警戒レベル4。繰り返します。警戒レベル4』
いうかいわないかのうちに、再びアナウンスが放送された。
トリスとアルフが揃って心底嫌そうに天を仰ぐ。
「レベル4。施設の一部が激しく破損する危険性あり。重傷者発生が懸念される。ピクシーが捕まるのが遅れ、脱走が増え続ければ、レベル5の『死傷者多数』『階層封鎖』もありえるね」
「えー。めっちゃヤバー」
「そうだよ。とてもヤバい。君たち姉弟のおかげでね」
一同は非常階段前で足を止めた。アルフが他を背後に回し、分厚い扉に聞き耳を立てる。扉の先に誰もいないのを探ると、拳銃を構え、ゆっくりドアを開いた。
アルフの安全確認をまつ間、じっとりした視線で姉弟二人を見たトリスに、ベルはからから笑う。
イデにぬいぐるみのように抱えられ遊んでもらっている気分なのか。ベルだけやたら楽しそうだ。
「えー、あたしには関係ないもん? カミッロがお姉さんを止めないといけないっていうから、そうしてるだけ」
「ふむ」
非常階段をあらためたアルフが、無言て残りメンバーを手招く。
非常階段は薄暗い。踊り場に一つずつある照明が、暗闇にぼんやりまるい光の球を浮かべる。
「《神降ろし》から見ても、彼女の異能が成立したらまずいか。それはそうだな。餌が減ることになる」
トリスとベルの話に疑問符を浮かべ、口を挟もうとした。
そこで、ビクトリアが「んん」と唸った。
試しに降ろそうとしてみると、ふらついたものの、彼女は八本の足でしっかり自立した。
眠たそうにまぶたをこすって、あくび混じりに第一声を発する。
「んああ、やっと体動いたなあ……」
「ようやく起きやがったか」
「んー? あんちゃん、誰さ。いい体してんじゃん。新職員くんかな?」
「あ?」
おかしい。
きゃんきゃんよく鳴く子犬めいていたビクトリアは、柔和な笑顔でイデに挨拶をする。
混乱にしても違和感が強い。第一なんだ、その話し方は。
アルフがビクトリアのほうを振り返っている。
トリスはやや背筋を伸ばして驚いていたが、すぐひとり勝手に得心した。
「そういえばビクトリアの習得している魔術は『憑依』だったね」
「お! トリスちゃんにアルフさんじゃん」
数秒前のまどろみが嘘のように、ビクトリアは満面の笑みで二人に駆け寄った。
マネキンの黒い腕で遠慮無く、ばんばんトリスとアルフの背を叩きまくる。
「やだ懐! おひさ! 数ヶ月ぶりに帰ったよ、てか状況変わりすぎでマジわけわかんないですけど! ウケるー!」
「ああ、うん。久しぶり。ベエタ――ビィ。ベアトリス。君、そんなとこにいたのかい」