エピローグ
春も近いというのに、肌寒い夜だった。
ネヴが命を狙い来るものたちとの決着をつけて一週間。
アルフとネヴは管理センターのオペレーションルームに呼び出されていた。
半円の形に並んだパソコンの列を通り過ぎる。
パソコンの前に綺麗な背筋で座しているのは、管理チームにいる職員達だ。彼らはネヴ達がいないかのように一瞥もせず、自らの職務に集中していた。
彼らなりの他職員への気遣いである。
最奥にある室長室の扉を叩けば、秘書のミアキが「どうぞ」と二人を招きいれた。
「やあ。わざわざ来てもらってすまないね」
「貴方のほうが用のある人を訪ねたら、それだけで一日が終わりますよ。お元気そうでなによりです、トリスさん」
「僕も、君の変わらない脳天気な顔がみれると嬉しいよ」
表情の乏しさも相まって嫌みにしか聞こえない台詞に、ネヴはにっこり微笑み返す。
トリスは大きな木製のワークデスクで作業していたらしい。
手元の書類をトントンと整え、ネヴとアルフを順に見比べた。
「ビクトリアの首はしばらく収容センターで様子見することになったよ」
ネヴはすぐ本題に入る彼の思いきりの良さが好きだ。
散々な目に遭わせてきた少女メイドの名に、ネヴはわずかに目を細める。
「具体的にはどのように?」
「すぐには対応できないな。昔解決したはずの事件に関わるダヴィデくんに、なにより中途半端な【神降ろし】のカミッロくんの調査と処遇で忙しい。ただでさえ他のチームからあがってきた仕事の処理もしなくてはならないし。首しかないのをいいことに、後回しの予定」
アルフは「まあ、そうなるだろうな」と首肯した。
ANFAで異常な存在に対応すべく動いているのは、ネヴとアルフだけではないのだ。脅威のないものが後回しになるのはやむをえない。
「ああ。だから呪物とかツール系の異常存在を収容しておくロッカールームに置いてある」
「ぶっ」
続きには思わず吹き出してしまったが。
「笑わせるつもりの対処ではないんだよ? 生物用の大部屋に入れるにはサイズが余りすぎたんだもの。きちんと照明、換気装置、暖房器具は完備してある」
「ビクトリアちゃんのことはわかったよ。その主人の方は?」
「ああ。そちらは死体解剖を済ませて、資料にあがってる。ほら」
トリスが紙束のうちから一枚ひきだし、ネヴに手渡す。
「亡くなったんですか。あの人」
「元々病弱だったのは本当みたいだよ。能力はあったのに表舞台に出なかったのもそれが理由らしい。決め手は薬。異能が過剰に働いて、始動を止められなくなっていた」
「始動が止められない?」
「あの女神像がその異能だ。人を催眠状態にし、幽体離脱のように精神を肉体のくびきから解放する」
「一番最初のルーカスさんの時みたいに、暴走したってことですか」
「そうなるね。屋敷から回収した薬物を調べた限り、完成度はむしろあがっていたんだが。単純に心身の抵抗力が落ちていて、体質も合わなかったんだろう」
「そうですか」
ネヴは書類に一通り目を通して、その場でトリスに返却した。
ドラードもビクトリアの主人の異能の影響下にあった。
生命活動を行う意識のちからも委ねていた他の屋敷の住人同様、女主人の死とともに消えていなくなったはずだ。
コトの顛末と真相は把握できた。
ネヴとしては今回の件はこれで満足だ。殺されそうになった理由もわかって、親しい人は失ったもののケリはつけられた。
「ところで、イデさんは?」
そんなことより。ネヴは一連の事件に付き添ってくれた青年の名をあげる。
探さずともひとめで見つかれる大柄な体躯はない。
するとアルフとトリスが、気のせいか困ったように視線を交わし合った。
「イーデン・カリストラトフくんか」
「ええ。アルフからの報告書もあがってるでしょう? 特別目立つ能力があるわけではないのは事実ですが、私にとっては必要な人材です」
「そうだね。今まで異能も魔術適正もない人間を採用した前例は、なくもない」
「今回のことで実務経験があると主張できますよね?」
「本来部外者の乱入は歓迎されない。だが、今回は初動から巻き込まれた被害者として、職務等を援助する義務はあるかもね」
「つまり?」
「現状、正式採用しようとは思ってる。無論、多少研修は受けてもらう」
「よかった! トリスさん大好きー!」
ネヴは人目も気にせず手を叩く。
他の部署への説明に根回しと、トリスには負担をかけることになるだろう。
普段アルフに頼りがちなネヴも一生懸命動くつもりだ。
しかし、トリスとアルフは浮かない表情を続ける。だんだんネヴも笑みが引きつりだす。
「えっと。なにか、問題が?」
「ネヴくん。君、屋敷からの帰還後にイデくんと会ったかい?」
「え、ええ。検査の山で合間を縫ってではありましたが。いつも通りでしたよ」
「そう」
トリスのスカイブルーの瞳が伏せられ、口ごもる。
「なら、そうだね。彼の正式加入は間が開くだろう。なに、時間が解決することだ。君はなんにも考えず体を休めるといい」
「どういう意味です?」
「言ったままさ。みんな疲れがたまっている。いくらか休暇手当を出すから、休むんだ。僕から伝える連絡事項は以上。解散だよ」
◆ ◆ ◆
室長室を出たネヴは、アルフにエスコートされて食堂に連れて行かれた。
設置されたカウンターで直接注文を行う形式の食堂だ。
ネヴと自分の昼食を買うために、ネヴをテーブルにおいて注文に向かう。
ネヴはアルフがカウンターにて、ネヴから目を離しているすきに、その場を離れた。
真っ直ぐ向かうのはイデに仮にあてられた宿泊室のひとつだ。
(私と話すときは普通に見えた。冗談に呆れたりしてたのに)
身体検査に精神鑑定。渦中にあったネヴの検査は鬱陶しいぐらいに多かった。
イデが母親と再会した末、別れのスイッチを押すはめになったのは知っていた。
それがネヴのためであったことも。
ともに行動すると決めた際に、うっすら調べた際にイデが荒れる原因になった人だと知っていた。
なのでのんきに、重い心の傷にならなかったのだと胸を撫で下ろしてしまった。
あの屋敷で彼が母親とどんな会話をしたのか、知りもしないというのに。
イデの部屋の前に辿り着くなり、乱暴にノックする。
「イデさん、います? イデさん。突然ですが顔を見せてください」
どんどんどん。扉を壊さん勢いで叩くのに、返事はない。
ドアノブに触れると、抵抗もなく回転した。開いている。
じとっとした予感とともに足を踏み入れる。明かりはなく、真っ暗だった。
今宵は冷えているというのに、暖房器具のガタガタうるさい音もしない。
「イデさん……?」
「……帰れよ。見せられる顔じゃねえから」
ぶすっとした低い声に、ネヴの肩からちからが抜けかけた。
奥に進もうとして、こつん。靴先が硬いものにぶつかる。夜目もきく瞳でみてみれば、チェストだった。横向きで床に伏している。
引き出しが飛び出して、メモ帳とペンが転がり出ていた。乱暴に横になぎ倒したかのようだ。
「イデさん? 大丈夫ですか?」
こわごわ話しかけながら、己をなじる。
大丈夫なわけがあるか。もしアルフであればもっといい話しかけ方が出来ように!
またもやイデは無言になってしまう。
深い息づかいが静寂に響く。
ネヴは迷って、先ほど声がしたほうへ近づいた。
窓際に寄せられたベッドのうえに、イデはいた。
愛用のコートはざっくり椅子の背もたれにかけられている。
白いタンクトップに皺のついたズボンとラフな格好だ。ぐちゃぐちゃのシーツを気にもとめず、膝をたてて、頬杖がわりに顔の半分に手を置いている。
「帰れっていっただろ」
「私がここにいたら、しんどいですか?」
「……そうもいってねえよ。見ていて気持ちのいい格好じゃねえだろうが」
気怠げな溜息をつくイデの隣に腰掛ける。少し酒の匂いがした。
たっぷり数分以上、無言の時間が続く。
ネヴにもいい加減にわかった。
ネヴとイデの母を乗せた天秤は、決して軽くなかったのだろう。
(私のために肉親を諦めて。当たり前に苦しんで、葛藤してる。私とは違う)
ネヴは、母親を切り捨てる自分自身がそれなりにクズである自覚がある。
それ以上に、生きることを否定された絶望と憤怒があった。あの場でした選択を引きずっても、後悔はしていない。
イデは違う。
(あんな状況にさえならなければ、ほんとうにふつうの子だったのに)
胸がじくじくと痛む。ダヴィデに切られてビクトリアに殴られた時よりずっと痛い。
イデはきっともっとつらい。ネヴよりずっと柔らかい心を持っているぶん、余計に。
頭が悪いわけではないから、イデ自身、自分の人間性を理解できているはずだ。
母を殺す選択をする重みを予測したうえで受け止め、もがき苦しんでいる。
イデ自身はそんな己の脆弱さを疎み、余計に嫌気がさしているのだろうが。
「イデさんは頑張り屋さんですね」
ぼそっと、自然に気持ちが漏れた。
(ああ、本当に、本当に――――ちっぽけで可愛い人)
イデは身じろぎひとつしなかった。
ネヴの魔眼は、内側におし隠そうとする彼の本心も感じ取る。
(普通の人だ。私にばかみたいに暴力に優れてるわけじゃない。私はイヤなことをされたら反撃すればいいって思い切れるからまだ気楽だけれど。イデさんのそれは、暴力じゃ解決しないものね)
いまひととき、一切の光を受け入れきれないとばかりに暗闇に閉じこもる彼の背に、そっと頬を寄せる。
上着越しの肌は汗ばんで熱い。厚い肉に仕舞われたむき出しの心がじくじく血を流しているのを感じる。
痛覚の度合いなら、ネヴ自身のからだよりこちらのほうが鮮烈だった。
ガラスを踏んだような感情が伝染って、ずっと奥まで突き刺さる。
(びっくりするぐらい先が見えないだろうなあ。私がイデさんと同じぐらい無力だったら、同じことができたかな)
無力でも頑張る人間は好きだ。
できるとわかっていることをするのはさして大変ではないけれど、できる保証がないものを望むのは、茨の道だ。
ネヴは望む望まざるに関わらず、茨の道のうえに生まれてきた。
同じ道を歩もうとする人々の生きるちからに、人の強さに、どれだけ励まされ、魅入られてきたか。アルフや獣憑き達もまたそういった人々であった。
そのおかげでネヴは今日まで、希望を得て生きてこられた。
イデがそういう人間であることに、ささくれた心がじんわりと癒やされる。
(素敵な人。特別な人間じゃなくたって。幸せになって欲しい。こういう普通の人が泣くのは、悲しい)
獣憑きたちと違って弱い部分のあるこの人は、いつかネヴの母のように壊れてしまうかもしれない。
こんなに愛すべき人なのに。
想像すると、肺に綿をぎゅうぎゅうに詰められたように息がつらくなる。
ゆえに、ネヴは『その発想』に思い至った。
「……貴方が、幸せになれない世界は、おかしい……」
間違っている。
運が悪かったせいで、運がよかった人よりずっと一生懸命生きているこの人が幸せを感じられない世界なんて。
ネヴの内側から、幼い少女が囁いてくる。
――――思い立ったら、即実行。行かなくちゃ。
「待っていてくださいね、イデさん。私が必ず、イデさんを喜ばせてみせます」
最後にイデを背中をさすった。
一瞬イデが驚いて、振り向こうとする。
その顔を見るよりも先に、ネヴは部屋を出た。せっかくの決意が乱れてしまうのが怖かった。
ネヴは『絶対に幸せになれない』と予言されてから、幸福を求め続けて生きてきた。
戦いの高揚、怪異を退治することで貢献する快感、美味しいものを食べ、アルフと遊ぶこと。どれも間違いなくネヴに『生きる喜び』をもたらした。
そして、そのどれもより、イデが幸福になる想像が、もっともネヴをときめかせた。
答えを見つけた気がした。
数分後、施設内からネヴの目撃情報が完全に失われた。