第二十三話「警告」
「その顔、いつぶりにみるかな。ファッション好きは相変わらずらしいですね、アルフさん」
ドラードは抑揚もなく、平坦にボソボソと喋る。
「君はやつれたね。裏切りを後悔しているか?」
「……イーデンくん、だったかな。君はどう思う?」
アルフにしては珍しい直球な文句を、ドラードは無視した。
様子のおかしいドラードに、アルフは眉間に皺を寄せ、秀麗な顔を険しくした。
ドラードから庇うようにイデの前に立つ。
「変なことされたのか、イデくん」
「―――こいつが、触ってきたら。よくわからねえもんが見えて」
カミッロの《声》を思い出す。
濃縮した毒をホットミルクで煮込んで霧状に散布したような《声》に比べれば、水のように薄い。
だが、これは確かに、『思考そのものを流し込まれる』という、あの感覚だ。
「記憶だよ。僕の記憶。僕の人生、その幕間の記録だ」
イデは呼吸をするのも忘れ、眉間をきつく寄せる。
ドラードがイデに与えた記憶は、別段面白いものでもない。
ひとりの男が美しい女に横恋慕し、無残に破れる物語だ。
イデが感心を寄せたのは、その末尾。
女が娘を哀れみ、その生を否定した救いようのない終わり。死によって二度と回復される機会を失った断絶だ。
イデとは違って、正真正銘の否定である。
「だからなんだよ。何がしたいんだ、アンタ」
何故、ネヴの仲間であるイデにそれを見せる?
イデがネヴの母ルリエの意見に賛同するとでも思ったのか。
睨まれたドラードは、「あはは」と引きつり笑いで首を振る。
「ああ、いや。そうじゃない。もっとそのあとが問題だったんだけど……うまくいかないな。やっぱり。僕は生粋の獣憑きじゃないから」
ドラードは手ぶらであるにしては平静だ。
イデがドラードと会話らしい会話をするのは初めてだ。しかし無知ではない。ネヴとアルフに時たまこぼれ話を聞くことはあった。
想像のなかで汲み上げたドラードの人物像と、ここにいるドラードは食い違いがある。
ここまでくれば、大雑把だが予想がつく。
ドラードは気が弱い。
自分のしていることに耐えられず、心の弱さを補うため、自らの製造した薬物に手を出したのだ。
幽霊じみた体になっているあたり、『女神像』の影響下にもあるかもしれない。
「ドラード先生。十年もあの子に付き添い続けたあなたが、どうして」
アルフは銃口を合わせ直す。
その瞳はいたって強かだ。訴えかけるといった感傷的な揺れはない。
ただの疑問で、確認事項。
ドラードが十年の付き合いならば、アルフもドラードと十年付き合ったという意味だ。
にも関わらず、断罪を決定している。その冷徹さに、イデのほうが冷や汗を流す。
「確かに僕はネヴちゃんの主治医だったけれど。だからこそ君より深刻に思ってた部分もある。僕の主な担当は体じゃなくて心だった。血生臭い現場が多いところだから、医療チームは別にあったしね。
もうトリスくんから話は聞いているんじゃあないかな。異能が精神を発端とする以上、カウンセリングは精神衛生の改善のみならず、【神降ろし】の発生阻止の役割もある」
「トリスから聞いたって、なにをだよ。おっさん」
「重要な話じゃないさ」
イデの興味を短く断ち切ろうとした一言に、ドラードが深い溜息をつく。
溜息とはちからをぬく動作のはずなのに、ドラードの肩はがちがちに張ったままだ。
初めての感情的な行動に表れるのは、疲弊だ。
長年にわたる緊張と労苦の積み重なった、鉄塊のように重い疲れだ。
「アルフさんも気づいているんでしょう? ネヴちゃんの異能の本質は、魔眼ではないということに!」
「先生」
「彼女は視たモノが何でできているのかわかる。化学式のような物理的な意味だけじゃあない。むしろ熱心に視ているのは魂の構造だ。わかるかい? 意識を目視して、直接触れて、解体するんだ」
「ドラード先生。最後の通告だ」
誤射のないよう伸ばされた指が、引き金にかかる。
「ここで話すのはいい。聞かなかったことにする。だがそれを上層に報告しないと誓え。でなければ二度とここから出さない」
「みてわからないか? もう出るつもりはないんだよ。僕だって上にいいたくなかったから、こうしたんじゃあないか!」
アルフとドラード。双方の口調が剣呑さを増すにつれ、空気がたわみ始める。
挟まれたイデは困惑に、ひとまずアルフの後方へ下がるため、ドラードを監視したまま後退するしかできなかった。
「アルフさんも知っている、知っているはずだ」
「ドラード先生。可能性の話だろう? まだ現実になっていないことで……」
「その可能性の『確率』があがってきていた。だから僕は薬を作ろうとしたんだ」
「…………獣憑きが悪化してた? 君がダヴィデくんを使って、お嬢を追い詰める前から?」
「研究は止められた。薬はもう間に合わない。だから別の方法で止めるしかないと思った!」
アルフが目を見開いた。イデも、彼とは違う意味で驚く。
二人が何を焦点に言い争っているのか知らない。だが今のドラードの発言を鑑みるならば――――
Balamを作ったのを追われたから、ネヴを殺めようとしているのではない。
ネヴを助けるために薬を造り、失敗したから、殺そうとしている。
脱走したのも薬を完成させるためではない。
最初から全て、ネヴを狙ったものだった。
「なんで。なんでそこまで」
「ネヴちゃんの真に恐れるべき可能性は、概念にすら触れられる魔眼ではない」
「は?」」
「彼女の異能の本質は、極めて無差別的な、精神汚染だ」
ドラードが天井を見上げる。
見計らったかのように天井がミシリときしみ、パラパラとかけらが振る。
上の階で誰かが戦っている。
甲高い金属音――ネヴとビクトリアだ。
「今は解体のみだからマシだ。だがもし、そこに侵略性が加わったら? 破壊ではなく、変容にこそ異能を扱うようになったら?
目が合うだけで相手を書き換えてしまう怪物の誕生だよ。獣憑きひとりにさえ手を焼くのに、どれだけ厄介か、想像つくよね」
最悪の可能性を語るドラードを否定しようとして、言葉が止まる。
イデは、ドラードに怪物と言われてカミッロを連想した。
そしてその戦場で、ネヴがイデやシグマほど影響を受けずに戦い続けていたのに思い当たる。
あれは本当に、ただ『能力の相性がよかった』だけなのか?
「少しずつだけれど、検査の結果は悪化していた。もしも【神降ろし】の候補に認定され、封印措置が決定されれば、彼女はフォースアウトチームによって特別な管理施設に収容されてしまう」
アルフが拳銃をしまった。
その目は激しく埃を落とす天井にある。
ドラードに攻撃手段がないと判断し、彼を後回しにしてネヴの援護に向かうつもりだ。
「行ったことはなくても噂ぐらい知っている。民間に影響が出ないよう作られた最深の地下施設。暗い暗い海の底だよ。精鋭の職員以外誰もいない、寂しい場所だ」
ドラードはアルフを止めない。
代わりに、太い矢で射貫くように見つめているのは、イデのほうだ。
「うら若い少女がそんなところで一生を終えていく。毎日同じ屋根のしたで、機械の入れ替える無味無臭の空気を吸って、代わり映えしない朝を繰り返して、毎日肌がたるんでいくのを数えながら老いる。あんまりだ」
努力の果てに希望を打ち砕かれた男の目に、イデは見覚えがあった。
心臓が素手で捕まれたかのように高鳴る。
(見抜かれている)
本質的に近しい同類だと。
ドラードがルリエを慕ったように、イデもネヴを想っていると。
「僕は……僕も、最初はネヴちゃんの味方でいようと思ったんだ。ルリエさんの代わりに育てなきゃって。だから遺体だって隠した」
諦めた男はしわくちゃの白衣の胸元を握る。
「でも、無意味な生のなかで朽ちてしまうのなら。もしかして、ルリエさんのいうほうが正しかったのかもしれない。僕は、今度こそルリエさんの味方をする。あの誰にも救われなかった人に、今度こそ、報いてみせる」
冷静なのは声の抑揚ばかりで、ドラードは壊れていた。
ルリエはもう死んでいるし、イデは二人目のドラードではない。
だからイデはたまらない不愉快さのなかで吐き捨てた。
「は? テメーが死ね」