第二十二話「ファム・ファタル」
ビクトリアが肘を伸ばせば、拳は届く。
閃光弾で視界を潰されたタイミングを狙った凶刃。
「はは」
ネヴのくちが逆三角をえがく。犬歯が凶悪な白さが、獲物を求めて光る。
致命の一撃を放とうとしていたビクトリアが、戦士の直感で硬直した。
「はは! 下ががら空きィッ!」
哄笑とともに左足が振り上げられた。
下から上へ向かっての一蹴。ブーツをはいたつま先が届くより先に、避けられるはずだった。
ビクトリアが上方へ吹っ飛ぶ。
顎を打ち上げる強烈な一撃。
相当な自重があるせいですぐに地に足がつき、意識も飛びはしなかったが。
ネヴにはそれでじゅうぶんだ。
ビクトリア、あるいはビクトリアのなかの女主人が驚愕にしろばむ。
「今、なにが」
視線が原因を探る。その猫のような大きいひとみが空中に止まる。
刀の柄があった。
いま、宙を舞い、重力に従って落ちてこようとしている。
先ほどビクトリアに破壊された武器だ。
ネヴは折れた刀を即座に捨てた。
だが放り投げてはいなかった。そのまま床に落とした。
そして持ち手の最後尾を軽く踏みつけて遊ばせていたのである。
タイミングを見計らったのはネヴのほうだったというわけだ。
ビクトリアが勝ちの目を狙って接近したので、刀をテコの尻をはじくようにたて、器用にも唾をひっかけて浮かせた後、ビクトリアの顎めがけて打ち込んだ。
結果的に、ネヴの間合いがのび、攻撃の到達速度が速まった。
もっとも、ビクトリアもかろうじて反撃に反応した。
少し懐かしい金属がすれる音が、ネヴの耳たぶをかすめる。
アッパーを喰らうと同時、放たれたロケットパンチは摩擦熱を纏う。
直近で発射し、瞬間的に猛加速したパンチは避けきれず、ネヴの耳に火傷と裂傷が生じる。
だら、と垂れる血と、赤く色づくやわい肌。
勿論、致命傷とはほど遠い。
「……役に立つかもわからない攻撃手段を温存していたとは。はは」
ビクトリアが乾いた笑い声をもらす。
ネヴがやったのは曲芸に近しい乱暴な技だ。
だがビクトリアが見誤ったのはネヴのギャンブル性のみではなく、研鑽である。
ネヴは子どもの頃から大人に囲まれ、十年近く働いてきた。
使い込まれた肉体は、わざわざ考えるまでもなく最適な動きをしてくれる。
モノを掴む感覚、どうチカラを込めればどの程度動くのか。
ネヴには「自分にはできる」という確信と、迷わずこなす胆力があった。
いくら使命感があっても、ビクトリアはメイドで、彼女の主人は貴族。
ドラードの助言通り精神を壊せなかった時点で、有利はネヴにある。
「参ったな。これじゃあ終わりにならないじゃあないの」
「そうおっしゃるならすぐ終わりにするよう努めますよ。ええ。運動は得意なので」
ネヴは落ちてきた刀の柄を片手でキャッチする。
刀身は半分になっていた。そう、まだ半分は「凶器」が残っている。
腰から鞘を抜き、武器を増やすネヴから、ビクトリアはバックステップで距離をとる。
ネヴがビクトリアを解体するのが早いか。
ビクトリアが耐久しきり、息も絶え絶えになったネヴを処分するのが早いか。
構え直し、睨み合うさなか、ふとネヴは思い当たる。
(そういえば、ドラード先生。どこにいるのかしら)
◇◆ ◇
イデは重い重い足を引きずり、部屋を出た。
患者達をおさめていた部屋だ。巨大なホールの中心に『それ』はあった。
無数に折り重なった女神像の群れ。
スプリット積みのようにびっしり組み合った女神像は、まじまじと近くから確かめると、足の部位が継ぎ目無くひとつになっていた。
まるで象牙色のキノコである。
「鏡のもこいつが原因だったのか、やっぱり」
ダヴィデ然りカミッロ然り、こういったものはろくな印象がない。
下手に触ると手痛いしっぺ返しを喰らう。
「最小の手段で止めねえと」
記憶のなかの『迷宮の女神像』と『ホールの女神像』を照らし合わせる。
基本的な造形は毛先のひとつまで瓜二つだった。
違うのは、
「……目の色が違うな」
迷宮にあったのは赤瑪瑙の眼球がはめられていた。
ホールの女神像も瑪瑙は瑪瑙であるが、赤のみでなく、ちらほら黒が混じっている。
白眼の部分も宝石に染められている造形は、遠目に見ればくりぬかれた眼窩に見間違えてしまうだろう。
イデは上着からポケットナイフを取り出し、女神像によじ登る。
そして意を決し、赤い瑪瑙の目をくくりぬいていった。
ひとつくりぬくたびに猛烈な吐き気に襲われる。実際、何度か胃の中身が逆流した。
さりとて、ネヴに至っては毎回入院沙汰なのだから、嘔吐などまだ可愛らしい。
最後は薄い胃液のなかに、何か赤黒いものが混じりだし、冷や汗が止まらなくなっていた。
かくしてイデは無事、赤い瞳に摘出した。
変異が起きたのかは、素人のイデにはさっぱりわからない。
下腹部がじくじく痛んでたまらない。臓腑を雑巾絞りされたかのようだ。
一秒でも早くその場に留まりたくなくて、ほうほうのていで部屋を出る。
そこで。いつかのように。
ひとりの男とかちあった。
「――――あんた」
「ああ、君だったのか……懐かしいね」
酷くげっそりと痩せて、いくらか無精髭が生えていたが。
ライオネル・ドラードがそこにいた。
落ちくぼんでクマの出来た相貌で、彼はちからなくイデを見上げる。
「確か、君はANFAの職員じゃなかったよね。もしかして僕が巻き込んでしまったのかな。参ったなあ。そんなつもりじゃあなかったんだけれど」
「あんた……あんた、なんのつもりなんだよ」
「え?」
癖のある髪が生えたこめかみをひっかくドラードの胸倉を掴もうと腕を伸ばす。
「主治医ってことは、あいつの健康を一番守る奴のはずだろ。なんでこんなことを!」
ほんの数秒前まで意気消沈していたのが嘘のように、怒りがあふれ出る。
この冴えない中年男が組織を抜け出て、ビクトリア達になにかしらの取引をもちかけなければ、ネヴはあんなに傷つかなくてよかった。
そして、イデの母ナタリアがこの世にかえらぬ人になってしまうことも、きっとなかった。
「ああ、そうか。君も……はは」
ドラードは一切抵抗しなかった。
代わりに、イデの広い掌が、ドラードのよれたシャツの胸元をすりぬける。
「……!?」
「確かに私がしたことは愚かだ。でも僕は知っているんだ。あの呪われた母子のことを。ANFAのことも。このまま成長すれば、いずれ最悪なことになる。その最悪の可能性に比べれば、早く終わらせてあげるべきだったんだ」
イデは己の掌を軽く開閉する。
掴めるのは空気ばかりだ。いるはずのドラードに触れない。
さながら、よく見える幽霊に触っている、ような。
疲れ果て、夢の虜囚へと逃げた医者はわらう。
「君も僕の二の舞になってはいけないよ。教えてあげようか。あの母子になにがあったのか」
ドラードの手が、逆にイデのほうへのび、
「その子から下がれ、先生!」
イデの後方から、パンパンパンと小気味いい銃声が撃たれた。