火鉢
その日が突然やって来た。妹が病に倒れ高熱が下がらぬ中、咳もめっぽう酷くなり、母親もそれに同調し始めた。母親も日に日に衰弱し、やっとの思いで炊いたご飯を大きめの握り飯2個作ってくれ沢庵とトマトやらきゅうりやらを新聞紙に包み「すまないけど、これ昼ごはんに食べておくれと。」と渡してくれた。
そんなある日の事である、母は握り飯を握ってくれたけれども、握っても握ってもご飯は結ばれる事はなく、ばらばらと解けて新聞紙の上に落ちた。それを何度も拾い集め、やっとの思いで新聞紙に包み、まだ焼かれていないめざし二尾を別の新聞紙に包み「店で練炭を借り、店の片隅で焼かせてもらってお食べ。くれぐれも火の始末には気をつけるんだよ。」と言って彼に渡した。
彼は、紙包みを受取とった時、生まれて初めて自分以外の者の事が気にかかった。彼は、長屋の引き戸を開け、桟に片足をかけた時、母親を振り返った。母はもう既に、妹の傍で九の字に倒れこみ、妹の掌を握りしめていた。午前中、彼は時折横たわった母親の姿が思い出され気をもんだが、それ以上の事は彼には、何も出来なかった。昼になり、火鉢を借り店の隅で火を起こし、めざしを二尾網の上に置き、握り飯の包まれた新聞紙を膝の上で広げた。母の結んだお結びは、広げた新聞紙の中で解け、ばらばらとなった。それらをかき集め口に運び、めざしをひっくり返そうと火鉢に目をやった時、外回りをして居たはずの番頭が、引きも絶え絶えに戻ってきて、彼の火鉢へ近寄ってきた。
「お母さんが、倒れて大変なことになっているらしい。今すぐ戻ってやれ。」彼は、いきなり立ち上がり、その為、膝のおにぎりがばらばらと地面に散らばり落ちた。
彼が火のついた火鉢に目をやると、番頭が。「そんなものは俺がやっておくから、今すぐ急いで戻ってやれ」彼は、駆け出し少し駆けたと頃で番頭の方を振り返り、小さく二度頭を下げて「うぉ、うぉ」と声をかけ、振り返り全速力で深川の長屋へと走り出した。
長屋にやっとの思いで着いたとき、救急車が珍しことも手伝って人で長屋全体がごった返していた。それゆえ彼の母の元に近寄れる余地はなかった、母のか細い真白い腕はタンカーからぶらりと下がり顔はもう既に正気を失っていた。ふと亡くなった父を思い出した。妹はと言うと、息も絶え絶えにぐったりとしていて、消防団員に抱きかかえられながら救急車へと乗り込むところだった。彼は、長屋の入り口で「うわっ~」大きな声をあげ長屋から走り去った。例の若衆は気が付き、人をかき分けかき分け彼のもとへと進んだだが、ついた時にはもう既に彼の姿はそこには無かった。
長屋から北へ北へ隅田河を沿うように。全速力で走りまた、だらだらとあるき、止まることをせず歩み続けた。。。彼と母と妹三人のささやかな幸せは、ココで終端を迎えるのである。