霊幸師
自分で言うのもなんだが、私は社畜である。会社のいいように使われ、社員の理不尽なやつあたりも請け負っている。
「ここはどうなの?もっと安く抑えられないの?」
「はい、そこはまだ改善出来てなくて・・・。」
「そこをちゃんとしてくれないと困るよ。徹夜してでも改善してよね。」
「はあ・・・。」
またお金の話に喰いつかれた。この社長、内容は全然理解してないくせに金の話になるとごちゃごちゃ言ってくるから面倒臭いんだよなあ。会社勤めなんてこんなもんだろうけどさ。
私、尾崎菜月は地元島根を離れて岡山で働いている。金属加工の会社で私は低コストの加工法の開発を担当している。これがなかなか難しい。使う薬品は高いものばかり、予算もそんなにない、そんな中で担当は私一人。相談したくてもみんな自分の仕事にてんてこ舞いで、相談なんか聞いてもらえない。なのに、分からないなら聞けよ、とか、俺忙しいのに手伝いもしないのか、とか矛盾だらけのいちゃもんや要求をされている。社会に出て半年、ストレス社会というのはこのことか、と深く強く心の底まで実感する日々である。
私は学生時代の就活では地元就職を目指していた。島根で何がしたい、とかいう明確な目標などはなかったが、一人っ子だし、田舎のほうが性に合ってるし、ホームシックになるし、とにかく地元に帰りたかった。だが、現実はそんなに甘いものではなかった。地元での就活は全敗し、開き直って受けた今の会社から秋にようやく内定が出た。その時は安心したが、入社してすぐに地元から内定が出なかった悔しさと淋しさ、さらにこの会社で目標がないことへの不安に襲われた。何も取り柄がない自分のことが大嫌いになった。
ストレス社会を感じながらいつものように仕事をしていた。出来るだけ使う薬品の量を少なくして大量生産する方法、そんな都合のいい方法なんてあるのか、そもそも実験室レベルで上手くいっても実際に生産する能力なんてこの会社にはないじゃないか、色々なことを思いながら仕事をしていた。
「尾崎。ちょっとこっち手伝ってくれ。」
突然、先輩社員に声をかけられた。だが、私は生憎手が離せない。
「今手が離せないんです。五分経ったら行きますから。」
「今じゃないと駄目なんだ。そんな無意味な実験中断してさっさと手伝えよ。一年目のくせに本当に生意気だなあ。」
「・・・はい、すみませんでした。今行きますから。」
未だに社会にどう馴染めばいいのか、この会社で上手くやっていくにはどうしたらいいのか分からない。そう思いながら呼ばれたところに行くと、会議室の机のセッティングだったのだが、すでに何人かで作業していて、ほぼ終わりかけていた。
「もう人足りてるよ。」
「そうか。尾崎、邪魔だから仕事に戻れ。ほら、早く。」
「えっ、あっ、はい・・・。」
じゃあ呼ぶなよ!と、いう言葉をどうにか飲み込む。こんな納得のいかないことが毎日のように繰り返されている。正直、こんな会社辞めてしまいたい。
こんなこと、一年目なら仕方ないと耐えていたのだが、私の場合、給料の未払いがあったり、有給休暇が取れなかったり、すれ違うだけで軽くビンタされたりと、扱いは酷いものた。こんな事、他の社員さんはないのに、どうして自分だけ?私はサンドバック要因なの?そんな自問自答を毎日している。
週末、私は母に電話した。
「もしもし、母さん。あのさあ、私、会社辞めたいんだけど・・・。」
「辞めてどげするかね。今辞めても帰るところなんてないよ。」
「でも、もう・・・。」
「あんたより辛い思いしてる人は世の中にいっぱいいるの。あんたの考え方は甘すぎだがあ!」
そう言って切られてしまった。辛い思いしてる人はいっぱいいる。そんなこと言われたら何も言い返せないじゃないか。そうだとしても私だって辛いのだから。
同じ日の夜、父から電話がかかってきた。
「会社辞めたいって言ったそうだな。大学まで行かせてやったんだ。そんなこと絶対に許さんけんな。」
「大学に行かせてくれたのは感謝してるけど・・・。」
「だったら働け。俺はもう三十年働いてるんだ!」
一方的に切られた。何も自分の考えを言えなかった。私の会社での扱いを両親は知らない。一年目だから仕方ない、そう思った時もあったが、それにしても扱いが酷すぎる。それを私は両親に伝えられていない。
その後、気分転換にと思ってお風呂に入った。しかし、仕事で嫌だったことが頭の中に巡り、そのことを誰にも相談出来ない淋しさに襲われた。確かに、私より辛い思いをしている人なんて数えきれないほどいるだろう。でも、そんなことを言ったら、誰だって悩み相談なんて出来ないじゃないか。
「助けて・・・。」
救世主なんていない一人暮らしの浴槽で、無意識につぶやいた。
週明け月曜日、耐えがたいことが起こった。先輩社員が社長のズボンにコーヒーをこぼしてしまったのだが、なぜだかその原因が私になっていたのだ。
「尾崎、またやってくれたな。」
社長が責めてきた。事務所の社長の席の前で、私は立たされている。
「お言葉ですが、私はそのとき実験室で仕事をしていたのですが・・・。」
「お前が入社してから私は不運の連続だ。どう責任をとってくれるんだ。」
「そう言われましても・・・。」
後ろから社員さんたちの笑い声が聞こえてきた。いい標的だな。お人好しいじめって割といいな。ブスがいい気味だ。色々な陰口も聞こえてきた。社長の説教が終わり、歩き始めると、ほとんどの社員さんが笑いながら私を叩いてきた。
結局、原稿用紙五枚に反省文を書かされる羽目になったのだが、ペンが進まない。そりゃあそうだ。私は悪くないのだから。何を書こうかと困っていた時に、コーヒーをこぼした張本人が後ろから声をかけてきた。
「困ることはないやん。自分がいかにクズかを書いて反省すればいいだけじゃがあ。」
・・・もう反論も面倒だった。そいつはすぐに笑いながら自分の席に戻っていった。私はペンを置いて仕事に戻った。
定時のチャイムが鳴った。いつものように残業。いつも日をまたぐまで残業しているのだがいくらやっても片付かない。それもそうだ。周りの社員さんがやり残した仕事を全部私に押し付けて、みんな定時に帰っていくのだから。少しの休み時間の間に私は両親にメールを送った。
「今日・・・なことがあって、もう限界なんだけど。」
話すより文字にしたほうが聞いてくれると思った。すぐに返信がきた。
「それより辛い思いしてる人はたくさんいるの!あんたはまだマシ!あんたの努力は努力じゃない!」
「働かないと路頭に迷うぞ。今が踏ん張り時だろ。弱虫。」
もう、いいや。相談した私が馬鹿だった。
その日の夜、とは言ってももう次の日になっていたが、残業終わり、いつものように青信号を渡っていた。いつもと違ったのは、信号無視のトラックが突っ込んできたことだった。痛みも何もなかったが、気づいたら目の前で私が倒れていた。私、もう辛い思いしなくていいんだ。ようやく肩の荷が下りた。
あれから一か月。下宿先の片づけや役所の手続きなどで両親は疲れているだろう。ただ、信号無視の車に撥ねられたこと、私がまだ二十三歳だったことで多額の賠償金が親に舞い込んだことはよかったと思っている。親孝行も出来ずに先に逝ってしまったのだから、親が経済的に楽になるのはどんな形であれ安心できる。
あの事故をきっかけに地元の島根に戻ることが出来た。いつもと変わらない地元の風景が広がる。自然の中をゆっくりと移動する。この景色の中で、もう一度暮らす。そんな決意が思い出された。
同窓会にも参加したことのなかった私は、たまに遭遇する友達の集まりを陰でこっそりと覗くこともあった。こっそりとしていなくても、どうせみんなからは私は見えない。でも、そうしないといけない気がする。そうやって見るみんなはとても楽しそうだ。仕事が楽しいと言う者もいれば、結婚して子育てに奮闘している者もいる。それぞれの幸せを掴んでいる、そんな報告会が羨ましかった。
友だちが働く姿を見学することもあった。スーパーで接客をしている人、介護施設でお年寄りの介護を丁寧に行う人。みんな様々な形で働いている。仕事の愚痴をこぼすことはあっても、みんな働いているときはキラキラと輝いていた。
今日は市役所に来てみた。友達が窓口業務を行っているのだ。最後に見たツイッターには、仕事の愚痴がつぶやかれていたが、それでも笑顔で、理不尽な苦情にも精いっぱいの笑顔で対応していた。・・・やっぱり、私の努力って努力じゃなかったのかな。地元に帰ってからそう思うことが増えてきた。誰にも見えないが、涙をこらえた。今の私が出来る、精いっぱいの努力だ。今日はここで友だちの仕事を見よう、努力がどんなものなのか自分なりに考えよう、そう思った。
「なあ、見てるだけで面白いのかよ。」
友だちが市役所で働くところを見学していたら、突然誰かに話しかけられたようだ。驚きながら声の聞こえたほうを向いた。
「わ・・・私?」
「ああ、お前だよ。」
明らかに私に話しかけていた。
「本当にそれでいいのかよ。見てばかりいないで、自分も楽しいことしたらどうだ。」
「・・・本当に私と話してる?」
「ああ。俺はそういう人間だ。それより、こっちに来い。俺、今、すっげえ変な人になってっから。」
確かに、周りから見たら誰もいない長椅子に向かって空気に話しかけてるように見えるだろう。現に、窓口の人や待ってる人の何人かはこの男のことを可愛そうな目で見ている。
何のことか分からないまま、私は外に止めてあった男の車に連れて行かれた。ここならある程度目立たない。
「お前、本当につまんなそうな顔してたな。」
そんなことはない。さっきも友だちが働いているところを見ていたが、お役所勤めがどういうものかを実際に見ることが出来て新鮮だった。それに、どんなことを言われてもきちんと対応するところは見習いたいと思ったし、これが友だちの努力なんだと思った。
「口元は笑ってたから笑顔には見えたけど、目が淋しそうだったぞ。」
「別にそんなことないと思うけど・・・。」
「お前の同類は感情がもっとはっきり顔に出るんだがな。そんな状態になっても感情を隠そうとしてるやつは初めてだ。」
「あの、何が言いたいの?」
「自分が楽しいと思えることをしろってことだ。」
「はあ・・・。」
初めてその男をじっくり観察してみた。小顔で目がクリッとした、はっきりとした顔立ち。服装も白シャツにカーディガン、ジーンズと今どきという印象だ。こういう人が女の人からモテるのだろうな、そんな風に思う。そんな見ず知らずの人に、私は今、いちゃもんをつけられている。さっきから何なんだよ。
「初対面で説教するなって顔してるな。」
分ってんならしないでよね!
「自己紹介がまだだったな。さっき住民票の写しをもらってきたんだ。俺の名前はこれだ。」
氏名欄を見ると、神原弥琥斗、と書いてあった。
「カンバラヤトラト・・・?」
「違う!フリガナ書いてあるだろ!カンバラミコトだよ!ちゃんと見ろ!」
「変わった漢字使ってるんだからしょうがないじゃん。そんなに怒らないでよ。」
「まあ、自信たっぷりに読む奴なんて今まで見たことないからな。許してやるよ。それで、お前は?」
「えっ・・・、ああ、私は尾崎菜月。いたって普通の名前だよ。」
「一言余計だ。で、話を戻すけど、お前、菜月が楽しいと思ってたことってなんだ。」
「そんなのいきなり聞かれても・・・。こうなる前は家の中で一人漫画を読むのが好きだったけど。」
「・・・今どきの女ってそんなに陰気なのか?」
「みんながみんなこんなんじゃないよ。ただ、その、私が引きこもりなだけです。ごめんなさい。」
「別に謝らなくても・・・。何で引きこもってたんだよ。」
「・・・長くなるけど。」
「構わん。時間ならたっぷりあるからな。」
「じゃあ、言うけど。」
何秒かおいて、私は溜まっていたものを解放した。
「本当に疲れる会社だったんだけん!残業代も出る、有給も取りやすかったみたいだけど、私だけはなぜかそんなことはなかった!社員は家族って言って家族的経営を謳ってはいるけど実際は家族経営だし、全くのでたらめが噂として流れるし、技術や開発の上層部は製造のことを見下してるし!仲はいいかもしれないけど表面上なのが目に見えて分かるんだがあ!安月給で金銭的にきついこと分ってて高い会費の飲み会は酒に強いからって強制参加させられる!社長なんて私が厚着してるのに気づいたら、何枚着てるんだって言って袖口のところ一枚ずつめくり出すんだけん!ああ、キモいキモい!入社は私一人だったから他人と比べられなくて良かったけど、教えられてないことが出来なくてお局に散々文句を言われてさあ。そんなん出来るわけないがあ!それで私が作業しだすと私の背中に張り付いて監視。なんでもないときに突然の平手打ち!作業できるかってんだ!入社してすぐの飲み会なんて、参加者で一番歳が近かったのは二十上の課長さんだよ。私以外みんな課長以上の管理職。気にするなっていうほうが無理だがあ!それに毎日四時間残業は当たり前。私は家が近いからたまに土日にも来いって。行っても何をどうすればいいか分からんし。そのせいで給料泥棒とか言ってくるやついたけど、私にはどうせ残業代出ませんから!いろんな連絡事項も回すのが遅すぎて予定立てづらいのなんのって!こんなんばっかで会社にいると気疲れがひどくて、休日はできるだけ人に会いたくもないしお金も使いたくないから引きこもってた。ただそれだけの理由なの。」
「お、おう。相当溜まってたんだな。」
「それに・・・。」
「それに?」
ちょっと話しすぎたか。頭を冷やして口を開いた。
「いや、何でもない。でも、ようやく不満を誰かに話せてスッキリした。ありがとう。」
今のこの状態でこれ以上話すこともないだろう。せっかく愚痴を聞いてくれた人をこれ以上不快にしたくない。しかし、それ以外の不満は言えて清々しい。久しぶりの感情だった。
弥琥斗が市役所で住民票をとったのは免許証の住所変更の為だった。暇ならついて来い、ということで、車で一緒に警察署に行った。
「ちょっくら行ってくるから、そこで待ってろ。」
そういうと弥琥斗は警察署の中に入っていった。
私も就職と同時に警察署に住所変更しに行った。その時は、今まで書いてあった島根の住所が消えることがものすごく淋しかった。そして、必ず島根に戻ると誓った。まあ、こんな形ではあるが、その目標は達成された。
「お待たせ。お前どうせこの先ずっと暇だろ。」
「その言い方・・・。まあ、否定はできないけど。」
「よし、じゃあ、日御碕までドライブだ。」
「えっ・・・、ちょ・・・、ちょっと待って、私、乗り物酔いが激しい・・・」
「もうそんなの関係ないだろうが。」
「あっ、そうか。」
「菜月のいろいろなこと聞かせてもらうぜ。あと、俺が変な人になるから、シートベルトは外してくれ。」
「あっ、ごめん。」
弥琥斗は車を走らせた。
出雲大社前、神門通り。縁結びの神様で有名な出雲大社はパワースポットブームで観光客が以前よりもだいぶ増えた。それをきっかけに、神門通り沿いは改装された店や新たにオープンした店が立ち並ぶようになり、こちらも観光客で賑わっている。観光客の多くはカップルや出会いを求める女性である。日御碕はこの出雲大社よりもっと行ったところにある。
「ねえ、日御碕より出雲大社のほうが有名なのに、こっちには行かないの?」
「ああ。人が多すぎる。それに、俺は今、日御碕に行きたいと思っている。」
「何で?」
「まあ、いいだろ。」
自分の意思をしっかりと持っている人のようだ。
「それより、菜月。お前、どんな仕事してたんだよ。」
「え・・・。ああ、金属加工の会社で新しい加工方法の開発をしてたけど。」
「楽しかったか?」
「別に。しないと給料もらえなかったからやってただけだよ。さっきも言ったけど、残業まみれで楽しいとは思えなかった。仕事を楽しいと思ってる人のほうがこの世の中少ないでしょ。」
思い出すのは、怠いと思いながらも仕方なく、それでもひたすら仕事をしていた日々だ。もう、あんな生活に戻りたくない。目の前に広がり始めた、見慣れた日本海を見ながら振り返り、考える。
「まあ、確かにやりたい仕事ができてたら休みを心から喜ぶなんてしないよな。菜月は何をしたかったんだ?」
「・・・何もないよ、そんなもの。夢を持ったところで叶うなんてこと滅多にないんだから。私が頑張っても何にも起こらないんだから。」
そう、私が頑張ってもどうにもならない。私はその程度なんだから。
「そんなこと言うなよ。それより、何で今みたいになったんだよ。病気じゃないだろ。」
「う、うん。信号無視のトラックに撥ねられた。残業した帰りにね。」
「仕事楽しくなくても残業するんだな。」
「無気力ながら頑張ってたよ。」
別に何かを研究したり開発したかったわけではない。楽しさは感じず、むしろ辛かった。何でこんなもののために地元を離れてるのか、そもそもこの仕事に私は必要なのか。ミスの多い私はいつもそんなことばかり考えていた。
「よくやるなあ。じゃあ、学生時代、部活は何やってたんだ?」
「や、やってない。お金なかったから。得意なこともなかったし、私、人の輪に入るの苦手だから。」
「おい、全然そんな感じしないぞ。最初から俺と普通に喋ってるじゃねえか。」
「自分からは話しかけない。話しかけられたら喋れるの。」
「変わった人見知りだな。じゃあ、恋愛経験は?」
「彼氏いない歴と年齢はイコール。もともとそっち方面は興味なかった。」
「何で?」
「興味ないもんは仕方ないでしょ。そんな時間あったら一人で自由にしたかったし。だいたい、私の顔見れば分かるでしょ。こんなのが好かれるわけないじゃん。」
思えば、私は昔から人と関わるのが怖かった。出来る限り、イベント事や人の多いところを避けて過ごしていた。
「本当に引きこもってたんだな。」
「淋しい人って思ってんでしょ。別に構わないけど。」
「怒るなよ。じゃあ、何が好きだったんだ?」
「何って・・・。さっき漫画って言ったじゃない・・・。」
「それ以外は?」
「範囲が広すぎて答えにくいけど・・・。まあ、葡萄は好きだったよ。そのくらいかな。」
「本当にそれだけか?」
「え・・・、まあ、いきなり聞かれて答えられるのはそのくらい。もういいでしょ。私のことなんて。」
こんなに自分のことを喋ったのは初めてだ。これ以上、自分を晒したくないし、情報もない。流れを変えるために私は弥琥斗に質問した。
「そ、そういえば、免許の更新したってことは、引っ越したんでしょ。どこに住んでたの?」
「ああ、三重だ。」
「随分遠いところから・・・。何?転勤?」
「いや、俺、夜のほうが好きなんだ。それでだ。」
「・・・はあ?!何それ。」
この人、弥琥斗は何を考えてるのか全く分からない。
「ほら、もうすぐだぞ。」
そう言うと、弥琥斗は車の窓を開けた。風が車内を抜ける。きっと、頭にキーンとくるような、それでもシャキッとさせてくれる、潮の香り漂う風なんだろう。
日御碕は東洋一の高さを誇る灯台があり、観光地となっている。この灯台は現在も実際に使われているらしい。寒さが身に染みるであろうこの日も、観光客で賑わっていた。
「どこ見てんだ。行くぞ。」
灯台のほうを見ていたら、小声で弥琥斗にそう言われた。弥琥斗はうつむきながら、周りを気にしながら灯台とは逆方向へ歩いていく。灯台が目的ではないらしい。
「どうしてそんなに挙動不審なの?」
「さっきから言ってるだろ。菜月と喋ってると一人で喋ってる怪しい人になるんだよ。」
ああ、なるほど。でも、だったら私を連れてこなければいいのに。その言葉をグッと飲み込んで、首を縦に振り、納得をアピールした。
灯台と逆方向にもちらほらと店はあるが、灯台方面に比べれば少ないし、人も少ない。弥琥斗の顔も徐々に前を向いてきた。
「ねえ。どこに行くの?」
「菜月、地元だろ?この先何があるか知ってるだろ。」
「知らないよ。初めてこっち来たもん。」
「おい、本気か?有名なところだぞ。」
「有名って言われても・・・。」
「まあ、ついて来いって。」
とりあえずついて行った。すると、今までの細い道から港のある開けたところに出た。
「ほら。ここだ。」
港に背を向けると、山と山に挟まれた、赤くずっしりとした古い建物があった。
「日御碕神社だ。国の重要文化財になってる。」
「こんなところあったんだ・・・。知らなかった・・・。」
「俺も来るのは初めてだ。さあ、境内に入ろう。」
立ち姿が堂々としていて若干圧倒されてしまった。地元でも知らないところはあるもんだ。私は弥琥斗のあとに続いた。
境内は出雲大社ほどではないが、それでも結構広い。朱色と白が華やかな、それでいて自然に溶け込んでいる、不思議な感じの建物だ。いくつかの建物があるが、そのうちの一つの前で弥琥斗は止まった。
「さすがに八岐大蛇伝説は知ってるよな?」
「誰かが酒を飲ませて大蛇をやっつけたんでしょ?」
「おいおい、その程度か・・・。」
「悪い?」
「いや、別に。」
私は歴史が大の苦手である。おまけに読書もあまり好きではなかった。地元ではあるが神話はあまり知らない。
「ざっと言うと、天照大御神が治める高天原で暴れた素戔嗚尊はそこから追放されて出雲国に来たんだ。そこでアシナヅチノ神の家族と出会うんだ。そのときアシナヅチノ神はひどく悲しんでてな、頭が八つ、尾が八つ、八つの谷と峰ぐらいのすっげえ長い八岐大蛇に毎年娘を一人ずつ食われてたんだ。素戔嗚尊が会ったときは、最後の娘、クシナダヒメの番だったんだ。それで、素戔嗚尊はクシナダヒメを嫁にすることを条件に大蛇退治をしたってわけだ。さっき菜月が言ったように、大蛇に酒を飲ませて、酔っぱらったところを切り殺した、そういう話だ。」
「やけに詳しいね。」
「有名な話だ。まさか地元民に説明するとはな。」
「一言余計。」
そんな細かいところまでは、いくら地元でも興味がなければ知らない。昭和に起こった出来事にもあまり興味のない私がそんな大昔のことを詳しく知ってるはずがない。
「で、あの高台にあるお宮が素戔嗚尊を祀ってる神の宮、今、正面にある大きな社が天照大御神を祀ってる日沈宮だ。二人の神様が鎮座してるなんて神社、全国的に見ても珍しいんだぞ。」
「へえ。で、何でここに来たの?」
「挨拶に来た。」
「はっ?」
「伊勢神宮は日本の昼を守ってると言われている。反対にここ、日御碕神社は日本の夜を守ってると言われてるんだ。挨拶に来ないと罰当たりだろ。」
「ちょっと、だったら夜が好きで引っ越したって、守られてる感じがするからなの?」
「そういうことだ。太平洋側じゃ海に沈む夕日は見られないしな!」
「日本海側じゃ海から昇る太陽が見れないよ・・・。まあ、好みによるから、どっちでもいいけど。」
「自分の想いに素直に動く。これが俺のモットーだ。」
羨ましいぐらいに単純で行動力のある人だ。呆れはしたが、なかなか出来ることではないと感心し、見習いたいとも思った。そんな人の横で、日沈宮本殿を前にして一緒に手を合わせた。
お参りを終えて車に戻ってきた。戻る道では弥琥斗が変な人にならないよう、話しかけることはしなかった。弥琥斗自身も話しかけられないようにうつむいて歩いていたようだが、見た目は優しい顔立ちの好青年なので、ここでは運悪く記念撮影を三回お願いされていた。撮り終わると相手のお礼の言葉を最後まで聞かずに車へと向かった。
「私と話してるわけじゃないんだから、もっと堂々としてればいいのに。」
車の中で私は弥琥斗に言った。
「あ、ああ・・・。菜月の部類は平気なんだが、人と喋るときは緊張してなあ。それよりさっき何をお願いしたんだ?」
「何も。」
「は?だって手合わせてただろ。」
「神社では当たり前じゃない。それにこの状態で願ったってもう遅いよ。」
「お前、本当に夢ねえな。」
「ごめんなさいねえ。夢がなくて。それより、弥琥斗は何をお願いしたの?」
「お願いしたんじゃねえ。挨拶と決意表明だ。」
「挨拶と決意表明?何それ。」
「その前に、菜月、何歳だ。」
「え?えっと、一応二十三歳だけど。」
「同い年か。修行にはいいな。」
「はあ?さっきからなんなの?」
まるで話が見えてこない。挨拶と決意表明、それと私の歳が何の関係があるんだ。
「同い年なら分かるだろ。俺も一応は働いてる。修行中だがな。修行しながらバイトして、ようやく百万貯金出来たんだ。そしたら、実際に好きな場所でやってみろ、って師匠が言ってなあ。」
「ちょっと、どんな時給のいいバイトしてたの⁈」
「って、そっち⁈」
「私なんて撥ねられえまでに百万も貯金出来んかったがあ!やっぱりあの会社、ダラだったんか!」
「あ、あの。話、戻していいか・・・。」
「あ、ごめん。何の話だっけ?」
「修行の話だ。」
「ああ。でも、今どき修行って何の職業なの?陶芸家?」
「違う。今も仕事中みたいなもんだ。」
「どういうこと?私と喋ってるだけじゃない。」
弥琥斗はしばらく黙った。時間にしたら一分ぐらいだったが、その一分が私にとっては十分にも二十分にも感じられた。どう説明しようか、弥琥斗の目はそんな感じに迷っているように見えた。その後、弥琥斗は口を開いた。
「菜月みたいなやつの味方になるんだ。夢を探して、目指して、叶える。そういうことをするんだ。」
「へ?」
変な声が出た。どういうことなのか、全く消化できない。
「改めまして、尾崎菜月さん。私、神原弥琥斗は霊幸師としてあなたを導きます。」
「・・・。」
こいつ、頭、大丈夫か?
この時期の山陰にしては珍しく空には雲一つない。そんな空は青から赤へと変わっていった。きっと夕日は綺麗なんだろう。しかし、残念ながら私は弥琥斗と一緒に車の中にいて日本海に沈む夕日を見ることは出来ない。
その車中、突然霊幸師だの導くだのわけの分からないことを言われているのだから、文句を言いたいところだが、何を言ったらいいのか分からないほどに混乱している。
「霊幸師って・・・。聞いたことないけど・・・。弥琥斗なりの冗談なわけ?」
この程度しか言葉が出てこない。
「冗談じゃねえよ。俺は霊幸師。菜月みたいなやつらの夢や願いを叶えるのが仕事だ。」
「叶えるっていったって、この状態じゃ意味ないじゃん。この世にいないんだから。」
本当にわけが分らない。私なんかにそんなことを言う暇があったら、もっと美人で性格のいい人を幸せにしてあげればいい。弥琥斗ならいくらでも美人を彼女にできるのに。
「確かに、今の菜月はほとんどの人間からは見えてない。しかし、今、俺の前に確かにいる。人に見えようが見えまいが、菜月は確かにこの世界にいる。夢や願いを探したり叶えたりする権利は同じようにあるんじゃないのか。」
「そんなこと言ったって・・・。」
その通りだとしても、今から夢を見つけるだなんて出来る気がしない。それに、私なんかがそんなことしたって・・・。
「・・・私、もう夢叶ってるから。」
「・・・何が叶った?」
「信号無視のトラックに撥ねられたのは事実。保険金も賠償金も親に入った。でも、自分から飛び込んだ。保険金に賠償金が親に入れば、私はいなくなっても楽に暮らせるじゃん。親を楽に楽してもらいたかったっていうのが私の叶った願い。」
そうだ。あの日は自分の意思で危険な青信号を渡った。元々、信号無視の車が多い交差点だったので、いつか事故するとは思っていた。それが、日が経つにつれて、その中に飛び込みたい、そんな思いに変わっていった。そして、またとないチャンスが訪れた。仕事は無気力で社内でも無力。扱いも最悪で生き辛かった。そんな人生もういらない、自分で終わらせる、そんな思いだった。
「・・・。」
「別に変に慰めてもらわなくてもいいよ。そんな風になったのは全部自分のせいなんだから。」
「辛いまま、終わったのか・・・。」
「最期は清々しかったけどね。」
どうにかして言葉を選び、即答を心がけていた。
「分かった。だったら、今から俺と笑顔になれることを見つけよう。」
「今から?」
「菜月が嫌がっても俺はやる。菜月の夢を見つけて叶えることが、今俺がやりたいことでやらないといけないことだ。」
「・・・私に構うなんて、弥琥斗も暇だね。」
「それが俺の仕事なんだよ。じゃあ、さっそく移動だ。」
「どこに行くの?」
「まあ、乗ってれば分かるから。」
太陽は沈んでしまったようで、空は微妙な明るさを残して黒く染まっていた。この時期は日暮れが早い。そんな中、私は再び弥琥斗のドライブに付き合うこととなった。
日本海の海岸沿いを西に向かって進む。見たことのある風景から、地元とはいえ通ったことのない道まで、どれも懐かしい気分になった。やはり地元は自分の肌に合う。
小さい頃、よく父と行っていた海水浴場の少し手前の駐車場に弥琥斗は車を止めた。珍しく雲がない空に出ていた、少し太った半月がベルのついた塔を照らす。
「ここがいいな。」
「何がいいの?」
「月は出ているが、星が見えやすい。」
「もう少し行けば道の駅なのに。食べ物売れてるよ。」
もう晩ご飯にぴったりな時間は過ぎていた。私が見えるとはいっても、さすがに弥琥斗はお腹が空いているはずだ。私なりに気を遣ってみた。
「道の駅は人が多い。俺にとってはやりづらいんだ。」
「だったら何で私を連れて来たの・・・。」
それか、私がいないものとして堂々と歩けばいい。私の存在を認識できるのはおそらく弥琥斗だけだろうに。
「日御碕で言ったろ。俺は菜月の夢を叶える。つまり、今の俺のパートナーは菜月だ。パートナーを連れてこないとか、いないものとしてふるまうのは霊幸師としてのプライドが許さん。」
「はあ・・・、厳しい職なんだね、それ。」
何を言っても無駄だ。私は今は弥琥斗の行動に口を出さないことにした。
浜辺に沿って歩きながら夜空を見上げた。私は普通に歩けるが、弥琥斗は体を縮めて、それでも上を向いてゆっくりと歩いている。
「やっぱり綺麗だな。星がよく見える。さすが夜を守る神がいるだけある。」
「夜が好きって、星が好きだから?」
「そうだな。暗くていろんなものが見えづらくなるが、夜にならないと見えないものが俺は好きだから。」
なんだか風流な趣味をしている。そんな風に感じた。
「しっかし、この時期の島根は寒いな。」
「これからどんどん寒くなっていくみたいだよ。ほら、オリオン座がもう空のてっぺんに近いよ。」
「八岐大蛇は知らなくてもオリオン座は分かるんだな。」
「うるさい!まあ、神話よりは興味あるって程度で、オリオン座と北斗七星ぐらいしか分からないけど。」
「また、知識が浅いな。」
「ほっといて。」
なんだか一言余計なんだよな。心に引っ掛かりつつも私はオリオン座を見つめる。
「さっきからオリオン座ばっか見てるな。」
「いいじゃん。好きなんだから。」
「何で好きなんだよ。」
「分かりやすいっていうのもあるけど、真ん中の三つが綺麗に並んでるのがすごいなって。それを四つの星が囲んでるでしょ。なんか、大人が子供を守ってるみたいじゃん。それで。」
「変わってるな、菜月。」
「何で?普通でしょ。」
私が見える弥琥斗に変わってるなんて言われたくない。それに、星をどう感じようが個人の自由だ。誰に迷惑をかけるものでもない。
「でも、その感性はなかなかいい。菜月に無くしてほしくないものだな。」
「え・・・。」
そんな風に言われたのは初めてだ。だいたいは、変わってると笑われて終わりなのだが。やっぱり弥琥斗は変わっている。
「俺の師匠もオリオン座が好きなんだ。人間みたいにごちゃごちゃしてない、分かりやすいって言ってな。俺らは見えるってだけで色々冷やかされるから、誰もいない静かなところでよく見上げてたよ。」
「その、見えるものに深入りしたらまた色々言われるんじゃ・・・。見えても周りの人と同じようにしてればばれないのに・・・。」
「自分で言うのもなんだが、お人好しなんだ。ほっとけないってやつだ。変人扱いされてろくな就職も出来ないし、それに生身の人間よりずっと性質がいいし話してて楽しいしな!」
「弥琥斗も色々あるのね・・・。」
変人の居場所はない。それは私も就活で経験している。好きなものを正直に答える。それが面接官の予想から外れれば即変人だ。私も好きな花とその理由を聞かれ、「彼岸花です。名前は明るくはなく花びらも細いですが、鮮やかな朱色で丸みを帯びた開花は力強さと華やかさを感じることが出来るからです。」と言ったら、変わってるねえ、の一言で即面接が打ち切られたことがある。そのことを大学の友達に言ったら、面接官もそりゃあ引くよ、と笑われた。なぜ好みで落とされるのか。まるで分からない。弥琥斗の場合、生身の人間より私みたいなのがいい、なんて言えばそりゃ落とされるとは思うが、見えます、の一言で変人扱いするのは違うのではと私は思う。そんなことで仕事が出来るかどうかなんて分からない。結局は出来る出来ないに関わらず、標準的な、仲間になっても恥ずかしくない人を選んでいるんだと思う。まあ、今の私が考えることではないけど。
「そろそろ帰るか。菜月、今日から俺ん家で泊まれよ。どうせ今まで行きたいところがあっても踏み出せずに夜も外で過ごしてたんだろ?」
・・・なぜ分かったんだ、この変人。思わずそう思ってしまった。なんだか若干悔しい。
「ほら、戻るぞ。」
「ねえ。私、この時期の毛布が温かくて大好きだったんだけど・・・」
「安心しろ。毛布くらいある。俺、寒い中寝られねえから。」
「いや、そうじゃなくて。今みたいになってから感覚なんてないし、でも毛布は好きだし、温かいの感じられるかなあ、ってちょっと思っただけ。ごめんね、馬鹿みたいなこと言って。」
「出来るんじゃないか?それが求めてる感覚なら感じるくらい出来るだろ。」
変な人だが、こういう前向きなところは見習いたい。少し呆れたが、この一言でなんだか元気が出た。
「それに変なことでも何でもない。普通に人が求める癒しの感覚じゃねえか。まあ、ちょっと子供っぽいがな。」
・・・一言余計なところはどうにかならないものか。もやもやしながら弥琥斗の一歩後ろをついて行った。
今日会ったばかりなのに、色々なことがありすぎてわけが分らない。車の中で頭の中を整理しようと試みたが、疲れるだけだった。弥琥斗といることが苦痛というわけでもないし、仮に不審者であっても私はこの状態だからすぐに逃げられる。久しぶりに何が起こるのか興味も湧いてきた。考えるのはやめた、黙って弥琥斗について行こう。
車内の時計は二十三時になろうとしていた。弥琥斗と会ってから随分時間が経ったように思える。しかし、今日の昼前に出会ったばかりなのだ。こんな超初対面といっても過言ではない、突然霊幸師だのなんだのわけの分からないことを言う変な人とこんなにも話したのは初めてだ。この世にいれば、父さんも母さんも鬼のように私を叱っていることだろう。そんなことを思っている間にも車は進んでいく。さすが地元、進む道はほとんど知っている。やっぱり安心するなあ。
「やっぱり、地元だと安心か?表情が緩んでるぞ。」
「・・・本当に人の考えてることズバリ当てるんだから。」
小さな声で、呆れたようにつぶやいた。
「ん?何だって?」
「何でもない。まあ、安心するよ。こういうところで育ったんだもん。岡山の片側二車線とか三車線なんて何年かかっても慣れる気しないよ。」
「それが普通だろ。県庁所在地だし。」
「確かにそうかもしれないけど・・・。」
あんな道路、運転する気にもならない。車がたくさん走っているところで合流だの車線変更だの、気の小さい私には到底無理だ。なのに何で地元で就職しなかったのか・・・。
「ほら、着いたぞ。」
就職の反省をしていたら着いてしまったようだ。見た感じは一人暮らし向きの、割と綺麗なアパートである。私の母校の小学校も近い。かかりつけの歯医者も近い。・・・ここって・・・。
「ん、どうした?早く降りろよ。」
「ああ、うん。ごめん。」
まあいいか。車を降りて弥琥斗の部屋へと向かう。
一人暮らしの男性の部屋は、ほこりっぽくて、カップラーメンのカップがそこら辺に二、三個落ちてて、なんとなく疲れた空気に包まれているものだと思っていた。が、弥琥斗の部屋は掃除が行き届いている。部屋の中はもちろんだが、水回りもピカピカである。カップラーメンも見当たらない。カーテン、シーツは青で揃えられている。テレビの横には小さなサボテン、本棚が一つあって、小説で埋め尽くされている。私も部屋は綺麗にはしていたが、弥琥斗のほうがずっと綺麗だ。なんだか恥ずかしくなってきた。
「ほら、じろじろ部屋の中見てないで座れよ。」
「綺麗にしてるんだね。」
「ああ。引っ越してからなかなか修行に付き合ってくれそうな人が見つからなくてずっと暇だったから片付けと掃除ばかりしてたんだ。」
「何それ。ただの暇人じゃん。」
「そう言うな。それでどうしようかと悩んでたら免許証の更新をしてないことに気づいてなあ、それで市役所に行ったら菜月に出会ったというわけだ。」
「・・・でも、初対面の人を家に連れて来るって勇気いるんじゃない?」
「そうか?菜月は人見知りって言うわりにはよく喋るし、協力的だから別に初対面でも平気で連れて来れるぞ?」
「無防備ね・・・。私が変な人だったらどうするの?そのことちゃんと考えてるの?」
「大丈夫。その辺俺は見る目ある!」
「その自信、羨ましいわ・・・。でも、まあ、ありがとう。」
悪い気はしなかった。こんな風に信頼されたのは生まれて初めてだった。
「ほら、毛布だ。今日はもう寝よう。明日は服屋に行って菜月の着替えを買うぞ。」
「え、着替えって・・・。私が着れるような服なんて売れてないでしょ・・・。」
「専門に扱う、俺らと似たような奴らがどの都道府県にもいるんだ。菜月だっていつまでもその恰好は嫌だろ?」
撥ねられたときのままなので、私は会社の作業着をいつも着ていた。確かに、ずっとこの格好はさすがに・・・。
「この世にいればオシャレだって自由だ。場所はちゃんと調べてあるから。」
「う、うん。ありがとう。」
「じゃあ、おやすみ。」
明かりが消えた。私は毛布に包まった。もふもふの感覚も、温かさも、感じることは出来なかった。それでも、久しぶりの屋根の下での夜だ。眠たいとかいう感覚はなかったが、安心して眠れた。
「さっさとしろ!」
「クズはどうしようもないわね!」
「いつになったら努力するの!」
「弱虫!」
「やる気あるの?」
「へたくそ!」
・・・。夢か。汗は出ていないが、全身の水分が持っていかれたような感覚だ。それに、苦しくはないが息が荒くなっているようだ。まさか、今もこんな目に遭うなんて。本当に私にとって、生き辛い世の中だったんだ。
時計を見た。午前三時。当然だが、弥琥斗はまだ寝ている。もう一度寝ようかと、毛布を被った。でも、なんか怖い。私は毛布の中でひたすら朝日を待った。
待ちわびた朝日が部屋に入ってきた。働いていたころは監獄への入り口のように感じていたが、今は本当に嬉しい。私は毛布から出て、カーテンの隙間から外を見た。
「気、遣わなくてもいいぞ。起きてるから。」
突然、声がしたのでびっくりした。なんだ、起きてたのか。
「ごめん。起こしちゃった?」
「ああ、三時ごろうなされ声でな。」
「えっ・・・。」
「やめて、とか、無理、とか色々言ってたぞ。」
「へ、へえ・・・。」
全然覚えていない。人の家で何迷惑をかけているんだ。少し反省した。
「なあ、まだ肝心なこと俺に言ってないだろ。会社の不満のことでさあ。何があったんだよ。」
「・・・。別に。昨日話した通りだよ。」
「そうか。俺はいつでも聞いてやるから、話したくなったら話してくれよ。」
「・・・うん。ありがとう。」
誤魔化しても、何かあったことは見抜かれているようだ。だが、私もあの夢のすぐ後に話したくはない。やっぱり私はいつまでたってもクズで弱虫なのか。
「さあ!飯食って服屋に行くか!ちょっと待っててくれよ。」
「急かすことはしないよ。弥琥斗のペースでいいから。」
ここまでしてもらえると、なんだか申し訳ない。でも、嬉しかった。
午前八時、弥琥斗の車で私たちは出発した。この時間に外に出たのは高校生のとき以来だった。通勤通学の人で普段より道路が賑やかだった。
「さすがにこの時間は多いな。それにみんな忙しない。もっとゆっくりすればいいのに。」
「ゆっくりもしてられないでしょ。遅刻厳禁が基本なんだから。」
世界はどうか分からないが、日本はそういう社会だ。日本社会で生き抜くために、遅刻をしないというのは最低限のことだ、私はそう思っている。許されるなら、私だってゆっくりしたかった。
「それより、今から行く服屋ってどのくらい遠いの?今の時間から行くってことは市外にあるの?」
「ああ、少し遠いが市内だ。」
「・・・え?今から行って、お店開いてるの?普通は十時とかでしょ?」
「この世の人間向けの店はそうだな。だけど、今から行くのは菜月みたいなやつらが行くような店だ。店主が起きてさえいれば問題ない。」
「へ、へえ・・・。」
そんな緩い店なのか。そんな店が地元にあるなんて知らなかった。
「そうそう。店主はこの世の人間だ。俺みたいに見えるやつなんだ。こんな商売してるやつだからちょっと変わり者だが気にすることはない。」
「えっ、三重から引っ越してきたのに、島根の店主さんのこと知ってるの?」
「三重だろうが島根だろうが、そういう商売なんだから、だいたいは変わり者だ。奈良と滋賀のやつには会ったことがあるが、同じようなノリだったな。」
「う・・・、うん。」
関西の人は賑やかなんだろうなあ。島根はどんな人なんだろう。ワクワクとビクビクが交差した。
「ほら、着いた。ここだ。」
宍道湖のほとり、出雲空港近くの田んぼの中にポツンと建っているいたって普通の、和風の一軒家。その前で車が止まった。
「・・・お店なの、ここ?普通の民家にしか見えないけど。」
「まあ、いいから。行くぞ。」
戸惑いながらも車から降りて、弥琥斗について行った。本当に、全く、服屋になんか見えない。本当に服なんて売れてるのか?
弥琥斗は何の迷いもなく、勢いよく玄関を開けた。
「おはよう!弥琥斗だ!おっさんいるか!」
弥琥斗は大声で叫んだ。周りが田んぼで近所迷惑にならないのが幸いだが・・・。
「ちょっと、朝からそんな大声出したら迷惑なんじゃ・・・。」
「構わん。これでいいんだ。」
本当にいいのか?それに、話の流れからして弥琥斗はここの服屋さんとは初対面のはずだ。いくらなんでも図々しいんじゃ・・・?
「おう!元気がいいな!入ってこい!」
心配していたら、これまた大声が奥から聞こえてきた。どうやら無駄な心配だったようだ。
「入るぞ。」
私たちは民家に入った。弥琥斗は靴を脱いだが、私はその必要はない。
本当にいたって普通の民家にしか見えなかった。板張りの廊下に二階へ続く階段、その下には収納スペース、キッチンは掃除が行き届いていてテーブルの上には椿が飾られていた。どんな人が住んでいるのか。さっきの声の感じからしたら明るい人なのだろうけど、真面目で物静かな一面もあるのではないかと思えてきた。
キッチンの横の扉の前で弥琥斗は止まった。どうやら、ここのようだ。
「おっさん!入るぞ!」
「おう!入れ!」
扉が開いた。これまでの生活空間とは打って変わって、ピンク色の壁、何百とある服に鞄、靴が並べられ、明るいを通り越していた。ファンシーとでも言うのだろうか。そのくらい明るすぎてごちゃごちゃした空間である。しかし、元は和室のようで、床は畳、広さは六畳ほどである。
そんな空間の奥のほう、床の間に一人の男性が座っていた。キツネ顔で真っ赤なシャツ、黒いジャケットになぜかジーパンを合わせ、左胸には紳士のようにハンカチが綺麗にしまわれている。室内だというのにピカピカに磨かれた革靴を履いている。よくテレビに出ているようなファッションデザイナーのように全体的に若干派手である。中肉中背よりはちょっと痩せた感じのおじさんだった。
「おっさんがここの主か?」
「そげだ!僕が島根の人に見えない存在の人たちの味方、服屋のオヤジだ!」
この人、無駄に明るいな。ついて行けるだろうか・・・。
「君が弥琥斗か!話は大将に聞いとるぞ!新人の霊幸師だってなあ!」
「あ、ああ。師匠と知り合いなのか。」
「もちろん!なんたって、僕らの一番のお得意さんだけんなあ!たまに自力でここを見つけるお客さんもいるけど!ははは!」
明るすぎる人ではあるが、笑顔が素敵なおじさんだった。
「そうか。それより、早速だが、こいつに服を買ってやりたいんだ。終わった時のまんまだから、女らしい服でも着せたいと思ってな。」
「くう!やってくれるねえ、色男!」
そう言って、おじさんは私に視線を移した。
「ほう・・・。君か・・・。色男のハートを射止めたのは!やるじゃないの、子猫ちゃん!」
「え・・・、は・・・。」
顔を近づけながら、満面の笑みで言われ、戸惑った。私は相手に何を言われようがされようが、うまく受け流すよう最大限努力をしてきた。だが、私は今、心の底から引いている。ドン引きだ。私の処理能力をはるかに超えているおじさんのテンション、どう扱えばいいのだ!
「にしても、子猫ちゃん、地味な格好だがあ。作業着に薄汚れたスニーカー。ファッションセンスの欠片もない!どういう生活しとったかねえ!」
再び顔を近づけながらおじさんが聞いてきた。
「え、いやあ、その、・・・会社の制服がこれでして。だから、・・・この格好で通勤してて。・・・帰りに撥ねられたもんだから、このまま・・・。」
「いけんがあ!だめだがあ!もっとお洒落しようよ!服は気分を変える!気分が変われば希望も見つかる!さあ!まずは自分で気になる服を選ぶだわ!」
こちらは頼んではいないのだが、両手をいっぱいに広げて力説してくれた。私はまた戸惑ってしまって、たまらず小声で弥琥斗に助けを求めた。
「ねえ、ど、どうすればいいの?」
「まあ、戸惑うよな。大丈夫だ。おっさんの言うとおり、気になる服を選べばいい。」
「う、うん・・・。」
なんだかよく分からないし、悪い気もしたが、このまま何もしないのも苦痛だったので、私はおじさんに軽く会釈をしてから服を選び始めた。
選び始めたのはいいが、ここには派手な服が多い。休日は白や黒の無地の服を着ることが多かった私にとって目が痛い。赤、ピンク、オレンジ、黄色、青、緑などなど。非常にカラフルで、どの服にも柄がある。こんな服、着たことがない。私は出来るだけ柄の少ない、色もそんなに目立たないような服を探すので必死だった。三十分かけてようやく、薄いグレーの、左胸に小さな花の刺繍のあるシャツを見つけ出した。これなら私でも着ることが出来る。
「ようやくトップスを見つけたようだねえ。でもねえ、子猫ちゃん、それだと今までと気分が変わらないんじゃないの?」
すぐ後ろでおじさんが囁いた。いつの間に後ろにいたんだ。目を大きく見開いて振り返ってしまった。
「何があったか、僕には分からないよ。でも、これからは心機一転、イメチェンもありなんじゃないかなあ。」
「し・・・、心機一転っていっても、私はもう・・・。」
私なんかが今更イメチェンしたって、なんの意味もないじゃないか。私は作業着以外の服で地味な感じであればなんだっていい。それが私だ。
「いけんなあ、子猫ちゃん。意味ないなんてことはないんだよ。今が第二の人生なんだから、もっと楽しまなきゃ!」
なぜだか、私の思ったことがおじさんにはお見通しのようだった。唖然として、どうしていいのか分からず、何も言えなかった。
「おい、菜月。これなんかどうだ?」
これまた後ろから、弥琥斗が服を片手にやってきた。どうやら、私が選んでいた間に、弥琥斗も服を見ていたようだ。弥琥斗が持っていたのは、左胸に碇マークのある白いTシャツに胸ぐらいまでの短い丈のジージャン、膝までの長さのオレンジが鮮やかな花柄スカートだった。
「・・・それ、誰が着るの?」
「お前しかいないだろ。俺やおっさんが着るわけねえじゃねえか。」
「・・・私にはちょっと派手すぎない?」
「そうか?割とシンプルだと思うが。」
「シンプルだけじゃない!シンプルの中に華やかさがある!子猫ちゃんぐらいの世代にはぴったりな感じだがあ!弥琥斗、センスいいがあ!」
「まあな!俺もなかなかやるだろ!」
「大将には負けえけど!」
「うるせえ!まあ、いいや。菜月、靴選ぶぞ。お前一人だと地味なのしか選ばないからよ、俺も一緒に選んでやるよ。」
「・・・」
地味で悪うございました!その言葉をグッと飲み込んだ。確かに私は地味なものしか選ばない。素直に、弥琥斗と一緒に靴を見ることにした。
「こ、これなんか・・・。」
私が選んだのは黒のスニーカーだ。
「おいおい。さっきの服にそれはないだろ。寒いだが、さっきのは春夏向きの格好だからなあ。これなんかどうだ?」
弥琥斗が選んだのは足の甲のところが開いた茶色の靴にくるぶしの少し上ぐらいまでのレースのついた白い靴下だ。確かに、スニーカーよりはこっちのほうが合うだろう。しかし、私なんかに合うのか?
「着れば案外イケると思うぞ。」
何かを察したかのように弥琥斗が言った。こんな中から自分で服は選べない。私は弥琥斗が選んだ服をそのまま受け入れた。
決めた服を持っておじさんのところへ行くと、おじさんは何やら袋に入れていた。
「おっさん。何してんだ?菜月の服なら決まったぞ。」
「おう、もう決めたか。弥琥斗が選んだ服が季節外れだったからなあ、この時期に合う服を僕が選んどいたけん!プレゼント!よかったら着てよね、子猫ちゃん!」
「え・・・あ・・・はい。ありがとうございます・・・。」
どんな服を選んでもらってのだろうか。不安が大きい。
「とりあえず、弥琥斗が選んだ服に着替えんさい!試着室は左だから!」
指示されるがままに私は試着室に入り着替えた。久しぶりに作業着以外の服を着る。これで少しは仕事のことを忘れることが出来るだろうか・・・。
試着室には鏡がなかった。着替えたら作業着を抱えて弥琥斗とおじさんのところへ戻った。
「あ、あのお・・・。」
「お、着替えたか。なかなかいいじゃないか。似合ってるぞ。」
「ほんに、よく似合っとる!明るい色のほうが似合うがあ!」
「は、はあ。ありがとうございます・・・。でも、私、お金持ってませんけど・・・。」
「心配するな。俺らは金を払わなくてもいい。全部師匠の財布から落とされるんだ。」
「え?でも、それってなんか悪くない?」
「そういうルールになってんだよ。気にするな。」
気にするなと言われても気にしてしまう。しかし、今の私はどうすることも出来ない。
「じゃあ、おっさん。ありがとな。」
「おう、また来んしゃい!子猫ちゃん、またね!」
「あ、はい。ありがとうございました。」
服を着替えることが出来たのは嬉しかったが、おじさんと私のテンションには大きな差があった。私的には声を張ったつもりだったが、きっと元気のないお礼になってしまっただろう。申し訳なく思いながら、私たちはおじさんに見送られながら服屋を去った。
弥琥斗は車を来た道とは反対へ走らせていた。どこへ行くのだろう。宍道湖の真ん中ぐらいに差し掛かったところで聞いてみた。
「ねえ、ど、どこに行くの?」
「暇だし、松江までドライブもいいだろ。おっさんのところで結構時間喰っちまったしな。」
確かに、朝早くから服屋に押し掛けたのに、もうお昼を過ぎている。私、優柔不断でセンスもないから、選ぶの時間かかっちゃうんだよなあ・・・。申し訳ない気持ちがさらに増す。
「別に時間かかったっていい。申し訳なく思うことはない。これが俺の仕事だからな。」
またか。また考えてることが筒抜けのようだった。霊幸師なんかやってないで心理カウンセラーにでもなったほうがいいと思う。
朝は晴れていたが、さすが山陰で、今はどんより曇っている。松江ならもうすぐ雪が降るかもしれない。
「本当は宍道湖の夕日を見たかったんだがなあ。」
「仕方ないよ。冬は晴れてるほうが珍しいもん、この辺は。私はそのほうが落ち着くけど。」
「そうか・・・。だったら、宍道湖をぐるっと回って帰るか。」
弥琥斗は宍道湖の北側に向かって車を走らせた。横顔は少し残念そうだった。
「・・・そんなに見たかったの?夕日。」
「ああ。日が沈む国だからな。それに日本の夕日百選にもなってるだろ。そりゃ見てみたいに決まってんだろ。」
「でも、夜のほうが好きなんでしょ?」
「夕日は別だ。夜を迎えるイベントみたいなもんだからな。」
「・・・変なの。」
「どうとでも言っとけ。」
「でも、あまり晴れないから、晴れた時に見れる夕日が綺麗に見えるんだと思うよ。まだチャンスはあるんだからさ、そうがっかりしないでよ。」
「へえ。菜月もそんなこと言うんだ。」
「悪い?」
「いや、全然。」
よく分からないけど、笑えてきた。弥琥斗も同じ気分のようだ。車の中で、二人して、声に出して笑った。対向車の人たちはたまに変な目でこちらを見てきた。しかし、今はそんなこと、弥琥斗は気にしていない。そのうちに、雪が降ってきた。久しぶりに見る雪で、なんだかほっとする気持ちになった。
弥琥斗の家に着いたのは午後六時頃だった。そんなに時間が経っていたなんて、あっという間の一日だった。
「菜月、その作業着、貸せ。」
「え、うん。」
着替えてどうしようか困っていた作業着とスニーカーを弥琥斗に渡した。
「これ、もう着ないだろ。」
「う、うん。出来れば、もう、着たくは、ない、かな・・・。」
なんのいい思い出もない作業着なんて、いくらセンスがない私でも着たくはない。
「じゃあ、師匠に処分してもらうから。」
「え?お師匠さんに?」
「ああ。この作業着といい、菜月が今着てる服といい、普通のやつには見えないからな。普通に捨てたら回収の人がびっくりするだろ。」
なるほど。これも一つの分別というやつだろう。霊幸師も気を遣う仕事である。弥琥斗は段ボールに作業着を詰めて、ガムテープでふたをした。
「本当に、捨てていいんだな?」
「うん。本当に。今日せっかく服を買ってもらったし。それに、そんな服、二度と着たくないし。」
「よし、ならいい。たまにいるらしいんだ。捨てた後でわめくやつが。そうなったら後が面倒だからよ。」
そんな人がいるのか。まあ、私みたいに望んでこちら側になった人ばかりではないだろうし、いてもおかしくない。・・・。よく考えたら、望んでこちらに来た人って少ないのか?
「ねえ、弥琥斗が今までに会った人の中に、私みたいに、自分でこっち側に来た人っているの?」
「ん?そうだな・・・。俺は一人での初仕事が菜月だからなあ。でも、師匠の手伝いをしてた頃はそんなやついなかったぞ。わがまま放題のやつが多いな。来たくて来たんじゃない、幸せにしてくれるんだろ、どうせ見えないんだから好きにさせろってな。」
「へ、へえ。そうなんだ。」
意外だった。もっと、絶望感に溢れて、何もかも無意味に感じてる人が多いと思っていた。
「まあ、そういうやつは扱いに困るけどな。正直言うと。でも、仕事だし、喜んでくれたら嬉しいしな。楽しいぞ、割と。」
弥琥斗は、心からの優しい笑顔をしている。不満はあっても楽しさのほうが勝っている。私もこうなりたかった・・・。私、本当に、努力してなかったんだ。弱虫だったんだ。どうしようもないクズだったんだ・・・。そのことに気づいて、気分は最高に沈んでしまったが、弥琥斗は笑っている。私は今できる範囲内の、最大限の笑顔を作った。
弥琥斗は晩御飯の支度を始めた。私はその間、窓から外を眺めて過ごした。斜め前、青い車が止まっている一軒の家。家の前で長身の男性が車のタイヤ交換をしている。その男性を、奥さんである女性が呼びに来た。この家も晩御飯の時間だ。
「何見てんだよ。まあ、菜月なら怪しまれることはないけどさ。」
「斜め前のお家。あそこも晩御飯の時間みたい。」
「ああ、青い車のところか。あそこ、最近誰かが亡くなったみたいだ。忌って紙がつい最近まで貼ってあったからなあ。」
「へえ。そう。」
興味は湧いてこなかった。
「なんだよ、興味なさそうに。あのご夫婦は気の毒だろうが、菜月は友達になれるかもしれないんだぞ。」
「私、人見知りだから。」
「・・・全然そんな感じしないけどな。」
弥琥斗はキッチンに戻って料理の続き。私は夫婦が家の中に戻ってもなお、そのお家と車を眺め続けた。
弥琥斗がご飯を食べてる間に、私は服屋のおじさんがくれた、この時期に合うという服が入った袋を開けてみた。私が選ぶような服は入ってないだろうという予想は出来ていたが、予想外にもほどがある中身に、口を開けても言葉が出てこなかった。
「ぶっ、ははははは!さすがおっさんだ!明日着てみるか?」
「・・・保留。」
桜色に白のレース、スカートは人形のようにふんわりと広がり、リボンがやたらと付いている。薄い灰色のショートブーツに白のニーハイ、白いマフラーにピンクの手袋がおまけのようだ。これは・・・、絶対に一生着ないと位置づけていた、ロリータファッション・・・。あのおじさん、私の何を見てこんなチョイスをしたんだよ!
「ずっとその服着てても寒そうだからなあ。たまにはロリ服も着てみなって!き、きっと、ぶっ、温かいぞ!ははははは!」
「笑いすぎ!それに寒さなんて私には関係ないから!もう、今でもちょっと派手だと思ってるのに・・・。」
「悪い悪い。そうそう!そういえば、菜月、毛布どうだったんだ。温かかったか?」
「話変えすぎじゃない?別にいいけど。残念ながらそんな感じはしませんでした。」
ちょっと拗ねてしまった。
「そうか・・・。」
「何?当たり前なんじゃない?こうなっちゃったら。でも・・・、今日も毛布貸してほしいな・・・。」
「それは構わんが。いいのか?温かくないんだろ?」
「いい。私は毛布が好きだから。」
「子どもか!でも、それならいくらでも貸してやるよ。」
「ありがとう。」
お礼を言いつつも少し笑ってしまった。自分でも、弥琥斗の言うとおり、子供っぽいと思うから。それでも、私は本当に昔から、毛布の中ではどんなときも安心できる。
弥琥斗に出会って一か月、私は色んな所に連れて行かれた。それなりに人のいる駅前まで散歩することもあれば、車で島根県の西部までドライブすることもあった。クリスマスにはツリーを飾って、ささやかなパーティーもした。どれも、何でもない会話ばかりしていたが、嫌な気持ちにはならず、むしろ心が穏やかになるような、そんな時間だった。
もうすぐ年が変わる、そんなとき、弥琥斗が思いついたように話しかけてきた。
「なあ、菜月はいつも正月どう過ごしてたんだ?」
「特別なことなんてしてないよ。のんびりしてた。」
「帰省してたんだろ?親戚一同で集まるとか、家族で何かやるとかなかったのかよ。」
「何にもなかった。・・・そのほうが平和だしね。」
言葉が詰まる。どうにか絞り出して対応していた。
「そういえば、菜月のとこは何人家族なんだよ。」
「何、突然。」
「だって、菜月、あまり自分のこと話さないから。」
今までそんな質問されなかったし、話す必要なんて感じていなかった。むしろ、なんで私のことを話さないといけないのか。でも、こんなに私の面倒を見てくれている人だ。当たり障りのないことは聞かれたら答えよう。
「三人家族だったよ。父さんと母さんと私。」
「え?じゃあ、ご両親より先に?」
「そう。とんだ親不孝でしょ。別にいいけど。」
自分から望んで今の私がある。優柔不断な私の、精いっぱいの決断の結果だ。
「だったら、ご両親は淋しいかもしれないなあ。去年の想い出話に花が咲くな、きっと。」
「さあ、どうだか。」
「なんだよ、やけに素っ気ないな。」
「別に。」
「・・・何があったかは知らない。でも、話せば楽になることもあるんだ。それだけは忘れるなよ。」
気付けば目の前が濡れていた。私は弥琥斗の顔を見ることが出来なかった。
その日の夜、消灯後、私はなかなか寝付けなかった。目を開けて天井からぶら下がる電灯のひもを見ていた。
「寝れないのか。」
「起きてたの?」
「ああ。菜月は何で寝れない?」
「・・・また夢を見て弥琥斗を起こしたら悪いから。」
「そうか。俺はそれを警戒してたら目が冴えた。」
「・・・ごめん。」
「謝ることはない。俺自身ののせいだ。」
・・・会話が途切れた。その時の私はどうかしていたのか、口が緩んでしまっていた。
「喧嘩、したんだよね。親と。」
「は?」
「大晦日の夜に親と喧嘩した。最初は夫婦喧嘩だったけど、何も言わない私に腹が立ったんだろうね。気づいたら私が怒られてて、全部私が悪いってなってた。それで、大晦日の夜から正月の二日まで一人ぼっち。家族で初詣に毎年行ってるけど、今年は行けなかった。」
「なんで何も言わないからって菜月が悪くなるんだよ。」
「関係ないですよって顔と態度とってテレビ見てたからかな。それで目つけられて、何度も殴られた。」
「・・・。」
「でも、ちゃんと仲直りしたよ。冗談も言い合えるぐらいに。父さん、一月生まれだから、ちゃんとプレゼントも渡せたし。だから、正月過ぎたら楽しかった。」
何暗い話してるんだろう。だから、私は駄目なんだよ。
「そうか・・・。よし!だったら来年は賑やかに初詣だ!おっさんも誘ってな!」
「えっ?それは・・・。」
「大丈夫!どうにかなるし、喧嘩には絶対にならない。一年の一番最初は楽しまないとな。」
「・・・そうだね。」
怖い気もした。それでも、なんだかとても温かい気分になった。
「今年の年越しはいいがあ!三人もおるし、なんたって、子猫ちゃん、花だが!花がおると違うがあ!弥琥斗!いい子を見つけた!褒めちゃあぞ!」
大晦日、私と弥琥斗は服屋のおじさんの家に来ている。初詣に一緒に行くなら年越しも、という流れだ。
「おっさん、いつにも増してテンション高いな。」
「そげん、女の子と食卓を囲むなんて初めてだけん!さ、テンション上があがあ!子猫ちゃん、その服に合っとるよ!」
「は、はあ・・・。どうも・・・。」
今できる、最大限の笑顔で対応する。(ただし、声までは気を遣えない。)
「な、それ着て正解だろ。」
「そ、そうみたいだね・・・。」
弥琥斗と小声で話した。作業着から解放されてから、私はいつも弥琥斗が選んでくれた服を着ていた。しかし、ここに来るにあたって、おじさんがチョイスしたロリータを着たほうがいい、という弥琥斗と、着る勇気がない、という私の間でちょっとした会議が開催されたのだ。結果、私は現在、ロリータに身を包んでいる。それもあってか、おじさんは本当に機嫌がいいようだ。
「じゃあ、鍋パーティーの準備するかね!」
「手伝うよ。何したらいい?」
「ふふふ、そのつもりでまな板も包丁も二つ用意しとったけん!とにかく材料を切ってごせ!」
「任せろ。そのくらい楽勝だ。」
男たちのテンションはまだまだ上がっていく。それより、見てるだけというのもつまらないし、申し訳ない。
「あの・・・。私も何かお手伝いすることはありますか?」
「子猫ちゃん、あるよ!あるよ!そのつもりで今年を締めくくる、霊幸師のパートナーとしての課題を準備したよ!」
「か、課題ですか・・・?」
「そう!でも、難しくなんかない、簡単なことだがあ!部屋の飾りつけ、食器を選んで並べる、これをやってみよう!」
「あ、はい・・・。」
これが課題・・・?何をどう見るのだろうか・・・。おじさんはキッチンに戻って弥琥斗とどっちが多く材料を切れるかで盛り上がり始めた。
早速、取り掛かり始めたのだが、いざやってみるとどうしたらいいのか分からない。それ以前に飾るものはどこにあるのか。おじさんに尋ねようとキッチンに視線を移したとき、視界の端っこの辺りに山積みにされた何かが映り込んできた。よく見ると、鏡餅や門松といったお正月の定番から折り紙や花など、飾りになりそうなものがまとめられていた。どうやら、これを使えばいいらしい。
門松は家の中に置くには大きすぎる大きさだったので、まずは門松を玄関に飾ることにした。部屋の飾りはそれからだ。私は門松を持ち上げ、玄関へ向かった。重さも何も感じなかったが、久しぶりに働いているという感覚は感じた。玄関を開け、まずは片側に門松を置く。しかし、大晦日になるまで飾らないのはちょっと遅いんじゃないか。そんなことを思いながら引き返し、もう一つを玄関のもう片方に飾った。うん、なんかお正月っぽい。しかし、何か足りない気もする。・・・。しめ飾りだ。部屋に戻って探すと、鏡餅の台の下敷きになっていた。縁起物なんだから丁寧に扱おうよ。そう思ったが、ちょっと可笑しかった。形を整え、踏み台用椅子も持って、玄関の上のほうに飾った。
外の飾りで思いつくのはこれくらいだ。私は部屋の飾りに取り掛かった。鏡餅はテーブルの端のほうに置くとして、花はどうするか。白とピンクのシクラメンがあるが、どっちにしようか。それに、鍋パーティーなんだから、テーブルの真ん中に置くわけにもいかない。
「な、菜月・・・。まさか、鏡餅、そこに置くわけじゃないよな・・・?」
「え?ここしか置くとこないじゃん。」
キッチンから弥琥斗が声をかけてきた。腕いっぱいに白菜が丸々一個抱えていた。
「あのなあ、鏡餅ってのは、普通・・・」
「弥琥斗!口出ししない!これは子猫ちゃんの仕事だけん!ほら、よそ見してたら僕の圧勝だがあ!」
「圧勝だと!そんなことさせねえよ!菜月、どこに飾ってもいいから!頑張れよ!じゃあ!」
・・・二人の周りに激しく燃え上がる炎が見えた気がした。材料が切れる音と包丁とまな板がぶつかる音を聞きながら、続きに取り掛かった。鏡餅はとりあえず保留にしておこう。誕生日会でもないから折り紙は不要だろう。見つけたピンクのランチョンマットを敷き、壁には富士山の絵を飾った。うん、なんか様になってきた。残るは二つのシクラメンだ。どうしようか。鏡餅をどけて両側に置いてみた。いい感じだと思った。しかし、これでいくとなると、鏡餅はどこに置けばいいんだ?考えた末に、富士山の絵の真ん前に置くことにした。どうにか終わった。
キッチンを覗くと誰もいなかった。せっかく飾ったのに・・・。どこに行ったのだろうか?
「菜月。まさか、玄関の門松としめ飾り飾ったのって菜月か?」
「そうだよ。どうしたの?」
「どうやって飾った?」
「普通に手に持ってだけど・・・。」
「やっぱりな・・・。近くを通りかかったっていう小学生が騒いでるぞ。門松が勝手に動いただの、しめ飾りが自分で浮いて定位置についただのって。今おっさんが誤魔化してる。」
「あ・・・。ごめん・・・。」
すっかり忘れていた。普段は弥琥斗と普通に接しているが、ほとんどの人からしたらそう見えますよね・・・。
「いやあ。元気な小学生だった!」
「帰ったのか?」
「ああ!おじさんの友達が手伝ってくごしたんだけん、って言ったら笑いながら帰ったで!」
「すみませんでした・・・。そういう自覚を忘れていました・・・。」
「気にしなくてもいいがあ!飾ってくれてだんだんな!」
「え、あ・・・、はい。」
褒められるとは。戸惑ったが嬉しかった。
「ダンダンナ、ってなんだよ。」
弥琥斗が小声で訪ねてきた。
「だんだんが出雲弁でありがとうって意味。ありがとうなってことだよ。若者世代は使わないけどね。」
「へえ。知らなかった。」
おじさんの出雲弁を理解してるだけすごいよ、弥琥斗。そう言おうとしたのだが・・・。
「にしても、菜月本当にセンスないな。」
部屋を見回して弥琥斗が言い放った。なんで褒めようとしたときに余計なことを言うんだ!
「大胆な飾り方だがあ!ほとんどは良いにしても、鏡餅だけは移動するけんな、子猫ちゃん。」
そう言うと、おじさんは床の間に鏡餅を置いた。あ・・・。なんかそんな置き方、見たことあるかも・・・。
「何びっくりしてんだよ。もしかして、菜月、常識に弱いのか?」
「センスがないだけだよ。それなりに常識あるもん。」
実際のところ、あまり自信はない。
「まあ、いいがあ!さあ!鍋とコンロ、セットしてごせ!」
いよいよ鍋が始まる。こんな本格的な鍋は初めてで、緊張してきた。
「はい!コップ持って!」
鍋パーティーは乾杯で始まるらしい。こんな場は何度も見てきたが、私が存在するものとして扱われる乾杯は、久しぶりだ。しかし、私は食べなくても大丈夫だ。二人が乾杯の構えをしているところを眺めていた。
「菜月!何ボケッとしてんだ!お前も持てよ!」
「え・・・、でも・・・。」
「何も感じなくても、雰囲気を感じるだけで気分も変わるってもんだ。」
「弥琥斗、いいこと言うがあ!子猫ちゃん、弥琥斗のいうとおりだがあ!ほら!」
「は、はあ・・。」
二人に促され、私もコップを構える。
「準備はいいな!それじゃあ、乾杯!」
「乾杯!」
「か、乾杯。」
戸惑いはしたが、パーティーは始まった。二人は鍋に具を入れ始めた。牛肉、白菜、舞茸、水菜、豆腐、はんぺん、しらたきなど。皿に山のように積まれている。・・・具、ちょっと多すぎないか?
「ね、ねえ、これ、二人で食べ切れるの?」
「鍋に入れれば量も減るだろ。」
「僕はよう食べるほうだし、若い男の子はもっと食べるんだけん!」
「・・・。」
お前らの胃はブラックホールか!まあ、私はあまり食べるほうじゃなかったからそう思うのかもしれない。
「にしても、シクラメン邪魔だなあ。なんでここに置いたんだよ。」
「しょうがないじゃん。他に置くところなかったんだから。」
「バランスってもんがあるだろ。」
「しょうがないじゃん。慣れてないんだし。考えてこうなったんだから。」
「・・・考えたのか。」
「どうせまた、センス悪いって言うんでしょ?いいよ。私のセンスの悪さは美術の先生のお墨付きだから。」
「お墨付きって、何したんだよ。」
「メッセージカードにシールを貼っただけ。」
「重症だな。どんな貼り方したんだ?」
「適当に貼ったら、宝箱みたい、って言われた。貼りすぎたんだよ。」
「なるほど。それであるだけのシクラメンを置いてやったってわけか。」
「ごめん。」
「ぷっ!二人とも、だいぶ仲良くなっとるが!」
あ、おじさんのこと、忘れてた。視線をおじさんに移す。
「若いと早やに適応出来いけん、羨ましいわあ!」
「そりゃ、ずっと一緒にいて仲良くならないほうがどうかしてるだろ。」
「そげだな!だにかあに、弥琥斗のセンスの良さはまだ子猫ちゃんのセンスに影響されてないかあ!」
「そしたら、菜月の来年の目標はセンスを良くする、だな。」
「えっ?き、決まりなの?」
「ああ。決まりだ。」
ニヤリと笑いながら弥琥斗は私に言った。確かに、これは私にとってはずっと付きまとっていた課題だ。
「弥琥斗のセンスもいいけど、たまには僕のやり方も真似してよね!」
「え、あ・・・、はい。カラフルなのに慣れたら参考にします。」
「おっさん、軽く振られたぜ。」
「弥琥斗!言い方が悪いがあ!」
おじさんは弥琥斗の背後に移動すると、弥琥斗の耳の辺りをぐりぐりし始めた。
「おいおい!痛えよ、おっさん!」
「修行が足らんけんだが!ほれほれ!」
「うわあ!ふ、ははははは!」
二人とも笑っている。私もなんだか、よく分からないけど可笑しくて笑ってしまった。こんなに楽しい晩御飯、いつ振りだろうか。私は今という時間を心の底から楽しんだ。弥琥斗とおじさんは食べながら、私はいるだけだったが、三人で過ごしている今が本当に楽しい。
鍋が終わって、片づけをする頃には九時になっていた。二人は食器を洗い、私は部屋の片づけ。センスはなくても片づけは出来るほうだ。私は本気で片づけをした。物をどけて、テーブルと床を拭く。ピカピカになるころには年末恒例の歌合戦の結果発表が始まっていた。
「もうこんな時間かね!」
どうやら弥琥斗とおじさんは私が掃除をしている間、食器を洗い終わってお風呂に入っていたようだ。
「じゃあ、年越しはこれで!」
おじさんはチャンネルを変えた。男性アイドルの年越しコンサートだ。
「おっさん、その年でこれ見てるのかよ。」
「いいがあ!賑やかで楽しいんだけん!」
「私も毎年、これ見てましたよ。」
「子猫ちゃんも!ほら、弥琥斗だけ仲間外れ!」
「菜月は適齢だろ。まあ、楽しければなんだっていいがな!」
そんな雑談をしていると、カウントダウンが始まった。一分前だ。
「さあ、いよいよだがあ!二人とも、構えて!」
「か、構える?」
何のことか分からなかったが弥琥斗を見ると右足を後ろに引いて、手を左膝の上に置いている。おじさんもその恰好になっている。私も二人の真似をした。
「十、九、八・・・」
「七、六、五・・・」
「四、三、二、一!」
その瞬間、弥琥斗とおじさんは左足で床を蹴って勢いよくジャンプした。手は上に高く伸ばし、左右に向けている。私もワンテンポ遅れてそうした。多少はずれたが、大袈裟なハイタッチだ。
「ハッピーニューイヤー!」
「フー!あけおめ!」
なんだかよく分からない。でも、楽しさに理由なんて求めたくない。私はただただ楽しかった。二年ぶりの、平和な年越しだった。
「ほら!子猫ちゃん!じっとして!」
「ほ、本当にそれ着るんですか?」
「別にいいだろ。菜月は堂々と着ても変な目で見るやつはいねえよ。」
「いや、そうだけどさ・・・。華やかすぎない?」
「そぎゃんことないがあ!晴れ着はだいたいこんなもんだけん!」
元日の朝、私たちは初詣に行くための準備をしていた。弥琥斗とおじさんはちょっとだけ明るい普段着。私も諦めてロリータで行こうとしていた。そのとき、弥琥斗とおじさんは服屋の店舗スペースでこそこそしていた。
「何してるの?」
「菜月。」
「子猫ちゃん!」
「・・・はい?」
そんな流れで、私は二人が選んだ、真っ赤な生地に鶴が描かれた着物を金色の帯で着付けされている。
「お、おじさん?さっきから言ってますけど、派手すぎませんか?」
「子猫ちゃんはこのくらいのほうが似合うけん!」
「私はそう思わないんですが・・・」
「菜月、正月ぐらい明るい服着て明るい顔しろ。」
「明るい服ならきてたじゃん。顔は、まあ、ごめん。」
そんなこんなで、おじさんによる着付けは終わった。仕上げに、髪も軽く整えてもらって、髪飾りをつけられた。
「ようし!じゃあ、行くかあ!」
「行先は俺が決めていいな?」
「おう!弥琥斗が運転だけんなあ!」
準備を始めて一時間半。ようやく出発だ。薄曇りではあるが、初詣に支障はない。
出雲大社前。大勢の人で賑わっている。やはり、みんな考えることは同じなのだろう。渋滞に巻き込まれ、ここまで来るのに随分と時間がかかった。出雲大社の駐車場前を通過したところで久しぶりに車らしい速度になった。
「ん?出雲大社じゃないんか?」
「俺は人混みが嫌いだ。それに菜月もいるからな。せっかくなら三人で堂々と初詣したいだろ?」
「で、どこに向かっとるかいね?」
「この先有名なところといえばあそこに決まってんだろ!」
「・・・分からん!」
「おっさんもかよ・・・。菜月といい、お前ら二人、本当に地元か?」
「子猫ちゃん、どこ向かっとるか分かあかい?」
「たぶん、日御碕神社じゃないですか?」
「ああ!そぎゃん名前なら聞いたことある!」
「その程度かよ!おっさん!」
「だども、遠いけん!道も狭いし!」
「理由それ?」
おじさんの言うことに納得してしまった。日御碕神社までは、出雲市駅近辺に住んでいた私でも遠いと感じるし、ましてや出雲空港近くに住むおじさんなら当然遠いと感じるだろう。海沿いの道で上ったり下ったり、カーブも多いため、乗り物酔いの激しかった私は酔い止めが手放せなかった。しかし、ライダーには人気の道のようで、よくバイクとすれ違う。そんなこんなで、地元の人は、よほど近くに住んでいない限り、あまり行かないんじゃないか、というのが私の推理である。
「遠くて道が狭くてもなあ、それだけの価値はあるぜ!あまり行かないんなら今日よく見てみろ!」
弥琥斗の言うことにも納得である。出雲大社と比べて規模は小さいが、華やかで堂々とした立ち姿には圧倒される。おじさんも私が見えているのなら、弥琥斗と同じような感じ方をするんじゃないかと思う。
途中、しめ飾りをつけた車やバイク何台かとすれ違った。遠いとはいえ、前に来た時よりは人は多いようだ。
「車多いな・・・。」
「初詣だけんなあ!人数多いほうが雰囲気も楽しくなるがあ!」
「弥琥斗だけの日御碕神社じゃないんだから。それに、私は無視すればいいんだし。」
「それは霊幸師のプライドが許さん。」
「周りから見たら男二人でも、僕らは三人で来てるんだけん!そぎゃん消極的なこと言わんだわあ!」
「・・・はい。」
この二人は日御碕神社より圧倒的な何かがある。密かに思ってしまった。
「これも修行ってことだが!きっと!」
「そうだな。まあ、気楽にいくか。」
そんな雑談をしているうちに、駐車場に着いた。これから二年ぶりの初詣。しかも、三人で。弥琥斗は修行も兼ねていて、私もうまく周りに溶け込まなければならない。緊張とワクワク、何かを身体で感じるわけでもない。今年、家族三人で行ってたら、きっと良い意味でのドキドキを感じていただろう、そう思った。
さすが正月。神社までの道沿いの店は繁盛していた。私は初めて日御碕神社に初詣に来たが、出雲大社の印象が強くて、正直ここまで人が多いとは思わなかった。もっとよく周りの店を見たいのだが、私の状態が状態なので、人をうまく避けながら弥琥斗とおじさんの後を追っていく。
「菜月、大丈夫か?」
弥琥斗が小声で話しかけてきた。
「う、うん。どうにか。」
「ちゃんとついてこいよ。」
「うん。」
周りに気づかれない程度に会話する。気疲れはするが、それ以上になんだか安心できる。
雲はおじさんの家を出た時より厚くなってきた。そんな天気でも日御碕神社の朱色はよく映える。私も今は赤い着物を着ている(着せられている)が、それがとても申し訳ない気持ちになる。堂々と建っている神社の境内に、弥琥斗とおじさんの後についておどおどと入っていく。
「菜月、何ビビってんだよ。一か月前くらいにも来てるだろ。」
「いや、だって・・・。着物派手だし・・・。」
「恥ずかしいのか?」
「そうじゃなくて、何ていうか・・・。私なんかがこんな華やかなの着て、合わないっていうか・・・、申し訳ないっていうか・・・。」
「誰が何着てもいいだろ。自信持てよ。結構似合ってるぞ。」
「そげだけん!わりと明るい色のほうが子猫ちゃんには似合うがあ!」
「でも・・・。」
「いいから行くぞ。」
弥琥斗が先頭になって歩いて行く。地元民の私とおじさんは弥琥斗の後を追う。入ってすぐの日沈宮本殿の前で横一列に並んだ。
「よし。二人ともいいか?賽銭入れるぞ。菜月、これ、お前の分だ。」
「あ、ありがとう。」
三人顔を見合わせて、同時に賽銭を投げ入れた。三拍してから合わせた両手をおでこにつけてお願い事。おじさんはブツブツと声に出している。弥琥斗は目を瞑っているが、思いは真っ直ぐ本殿の中にいるであろう神様に向けられている感じだ。私も目を瞑って、お願い事をした。こんな状態だが、真剣に、本気でお願いした。
「なあ、何お願いしたんだ?」
弥琥斗がにやつきながら聞いてきた。
「なんでもいいでしょ。弥琥斗こそ、何お願いしたの?」
「秘密だ。」
「何それ。」
思わず笑ってしまった。でも、なんだかそれも弥琥斗らしい。
「お願いだけじゃなくてちゃんと経過報告もしたけどな。」
「経過報告?」
「そりゃあ、一回挨拶に来てるんだ。経過報告もしないとだめだろ?」
「・・・律儀だね。」
「ちょっと!二人だけで盛り上があだないがあ!僕にも聞いてごせやあ!」
「あ、悪い。おっさんは何をお願いしたんだ?」
「内緒!」
「なんだよそれ!結局そうなのかよ!」
・・・見える人はみんなこういうノリなのだろうか。でも、面白い人たちだ。私たちは本殿の前で顔を見合わせて笑った。
「ねえ、お母さん。あの男の人たち、空気に話しかけてるよお。何でえ?」
「こら、近づいちゃだめだがあ。」
私たちを見て疑問に思った子供が、こちらを指さして親に聞いている。そんな子供を、不審者から守るかのように親が私たちから引き離している。
「ね、ねえ。だいぶ怪しまれてるみたいだけど・・・。」
「気にさんでもいい!僕らはそぎゃんもんだがあ!なあ、弥琥斗!」
「あ、ああ。そうだな。」
おじさんは完全に吹っ切れているようだが、弥琥斗はやっぱり気になるらしい。そりゃそうだよね。私も弥琥斗の立場だったら気にする。そんな弥琥斗を思ってか、おじさんが弥琥斗の肩を叩きながら高台の拝殿を指さして声をかけた。
「そげな顔すーだないが。なんなら、もう一人にも経過報告しようや。」
「素戔嗚尊に・・・か・・・?」
「二人に報告するんだけん、気が引き締まあで!」
そういうわけで、高台のお宮、神の宮にもお参りすることになった。
神の宮は日沈宮と比べて規模は小さい。しかし、日沈宮よりは高い位置にある。二人の神様を山と海に囲まれた土地に同じように敬いながら祀っているのだろう。規模や高さで差はあっても、やはり朱色はよく映えている。
「ここはここでオーラがあるな。」
「おい、あれだけ車の中で語っといて、こっちまで上がってなかったかね!?」
「ああ。日沈宮だけで満足してた。」
そういえば、前に来たときは日沈宮でお参りしただけでこっちには来ていない。
「でも、おっさん、よく知らねえのにこっちにも神様がいるなんてよく分かったな。」
「立派なお宮が二つもあーだけん、そりゃ分かあがあ!ここに素戔嗚尊がおるってことは知らんかったけどなあ!」
・・・こんなところで堂々と。おじさん、バチ当たらないように気を付けてね。
弥琥斗が本殿の前に立った。私とおじさんは後ろで待機。
「って、お前らはお参りしないのかよ。」
「僕は特に報告することなんてないけん!」
「おじさんに同じ。」
「素戔嗚尊が泣くぜ・・・。ほら、早く!」
弥琥斗は私とおじさんの腕を掴んで本殿の前に並ばせた。私とおじさんは顔を見合わせて、しょうがないか、と目で語って大人しく本殿の前に立った。そして、日沈宮と同じようにしてお参りした。
「どげだ?ちょっとは気分変わっただない?」
「ああ。本当にちょっとな。俺もまだまだ修行が足りねえってことか。」
「そう落ち込むなや。すぐにできたら修行なんていらんがあ。」
「・・・そうだな。」
弥琥斗の目が、なんだかちょっと淋しそうに見えた。そんな目をされたら私も責任を感じてしまう。でも、私は二人のやり取りを見るだけで、何も言葉が出なかった。やっぱり、こういう気の小さいところはずっとついて回るらしい。
「ん?菜月、どうした?ボーとして。」
「え、ああ、なんでもないよ。」
気の利いたことが一つも思いつかない。とりあえず、笑って誤魔化した。
「よし!これからも修行を積むか!菜月、よろしくな!」
「う、うん。」
「じゃあ、帰るか!」
「だったら、その辺の売店で何かおごってやあよ!楽しい気分で帰ろうや!」
「さすがおっさん!ごちそうさま!」
私たちは日御碕神社をあとにした。気のせいに違いないのだが、なんだか背中を押されている感じがした。
年が明けて十日。お正月の雰囲気はもうどこにもない。街もテレビに映る様子も慌ただしいいつもの雰囲気になっている。
初詣のあと、弥琥斗の家に戻ってすぐにいつもの服に着替えた。オレンジを着ることに抵抗のあった私だが、今はこれもいいのではないかと思い始めてきた。そんな私は、今現在、弥琥斗からの提案で激しく抵抗している。
「だから、行けば何か気持ちが変わるかもしれないだろ。」
「嫌だ!もう、岡山なんか行きたくない!」
「会社に行くわけじゃないんだから別にいいだろ。」
そう、私は今、弥琥斗から岡山に行こうと提案されている。嫌な思い出が私を襲い始めてきた。
「そんなこと言ったって、会社は岡山にあるの!そもそも、何で岡山に行くの?」
「師匠に頼まれてなあ。最近、岡山にやりたい放題やってる菜月の同類がいるらしくて、そいつをどうにかしてほしいんだと。」
「だったら、弥琥斗だけで行けばいいじゃん。何も私まで行かなくても・・・。」
「菜月は俺のパートナーだ。一人にはさせない。」
「・・・それ、今の雰囲気で言われてもねえ。」
「とにかく行くぞ。会社のせいで岡山全部を嫌いになるなんて淋しいからなあ。ついでに観光でもするか!」
「はあ!?だから、私は・・・」
言いたいことを言い切る前に、弥琥斗に腰の辺りから持ち上げられ、そのまま車の中に投げ入れられた。
「ちょ、強引すぎない?」
「パートナー!じゃ、部屋の鍵閉めて来るから。」
「今から行くの?」
「もちろん!」
だめだ。こうなっては弥琥斗に何を言っても無駄だ。私は仕方なく、本当に仕方なく、弥琥斗とともに岡山に行くことにした。はあ・・・。
島根は曇っていて時々雪がちらついていたが、県境付近ではそれなりに降っていて積もっていた。しかし、瀬戸内海に近づくにつれて雪はなくなり、青く晴れ渡る空が広がり始めた。やはりこちら側は私には眩しすぎる。
「よし、もうすぐ岡山インターだ。菜月にとっては懐かしい景色だろ。」
「まあ、懐かしいけど。まさか、またこの景色を見るなんてね・・・。」
車は何の迷いもなく岡山市に向かっている。近づくにつれて私は無意識にそわそわする。やっぱり、弥琥斗の家で留守番しとけばよかった。今更後悔し始めた。
「おい、顔が怖いぞ。」
「そ、そう?そんなことないと思うけど・・・。」
「眉間がしわしわだし、目も淋しそうだ。初めて菜月と会った時と同じ目だ。」
「別にその頃と今とでそんなに差はないと思うけどなあ・・・。」
どうやら自然と顔が強張っていたようだ。私は弥琥斗のほうを向いて精いっぱいの軽い笑みを見せた。
「・・・無理するな。大丈夫。トラウマをなくすと思え。いい機会だからな。」
「トラウマって・・・。そんな・・・。」
「隠しても何かあったことぐらい見てれば分かる。俺がついてる。見捨てたりはしない。大丈夫だ。」
「・・・。」
今はまだ、話す気にはなれない。
岡山インターを降りて、いよいよ市街地に近づいた。今日はどうやら運動公園のスタジアムでサッカーの試合があるらしく、多くの人がユニフォームを着て笑顔で歩いている。
「人多いなあ。何かあるのか?」
「サッカーの試合だよ。岡山はJリーグのチームがあるから。」
「・・・サッカーか。」
「何?サッカー嫌いなの?」
「いや、苦手なだけだ。見るのはどうとも思わん。」
「へえ。男の子ならだいたい興味あるかと思ってた。」
「偏見だ、そんなの。それより、懐かしいと思わないのか?岡山なんて四、五か月振りだろ?」
「そうだけど、この辺はすごく懐かしいよ。大学はこの近くに住んでたから。仕事始めてからは来なくなったけど。」
「何で?ここから遠いのか?」
「自転車で来れる距離だよ。人に会いたくなくて引きこもってたから。」
「そうか・・・。だったらちょうどいい。やりたい放題やってるってやつを探しながら観光でもするか。」
そんな気分ではない。いくら周りから見えないとはいえ、嫌な思い出が多い街を観光だなんて、のびのび出来ない。
「さて、どこ行くかなあ。菜月、どこかいいところ知らないのか?」
「この辺の観光地は岡山城と後楽園しか知らない。」
「・・・岡山住んでたんだよなあ?」
「五年ね。でも、あまり外に出なかったからよく知らないの。」
「・・・マジか。まあ、地元の神社も知らなかったぐらいだから、岡山の観光地なんて知るはずないか。」
「しょうがないでしょ。知らないものは知らないんだから。」
そんな会話をしていたら、旭川に架かる橋の上まで来てしまった。
「じゃあ、とりあえず、見えてるから城にでも行くか!」
ノープランな観光で気分も乗らないが、今は弥琥斗についているのが一番賢いのだろう。岡山城に向かうことに文句は言わず、大人しく運ばれることにした。
岡山城は後楽園のすぐ隣にある、黒っぽいお城だ。私は一回だけ来たことがあるが、松江城や名古屋城のように何段も階段を上がる必要はなく、すんなりとお城の前まで行くことが出来る。なんというか、ちょっと階段を上ったら突然目の前に立派なお屋敷がありました、といった感じとでもいうのか。大学生の時に一回だけ行って以来、いつ行ったかも覚えていなかった私は、なんだか初めて来たような感覚だった。ゆっくりと外観を見ていたかったが、弥琥斗はすたすたと早足で行ってしまう。
「ねえ、ゆっくり見ないの?」
「ああ。城には神様がいないだろ?」
「・・・神社にしか興味ないってやつ?」
「仏閣も興味ある。職業柄ってやつだ。それに、今優先するべきは菜月の同類の問題児を探すことだ。」
「・・・そうだね。でも、どうやって探すの?」
「こうして人の多いところ探すしかないだろ。」
「・・・本気?」
「それ以外方法あるのかよ。」
「いや、どういうところにいるとか、お師匠さんから聞いてないの?性別とかさあ。」
「そういやあ、三十前後の女って言ってたなあ。」
「・・・だったらこんなところいないんじゃない?まあ、私はこういうところ好きだけど、そのくらいの女の人は服とか雑貨とかがあるショッピングモールみたいなところに興味あると思うけど。ほ、ほら、・・・好き勝手やるならそういうところじゃない?」
「・・・菜月、賢いな。」
「いや、普通に考えたらそうなるでしょ。」
「だったら、この辺でそんな場所ってあるか?」
「駅の周りかなあ・・・。駅でもそういうお店あるし、近くにそういうショッピングモールあるし。」
「よし、そうと決まれば早速行くぞ!菜月、走れるか?」
「え?走れるけど・・・。」
「車までダッシュ。何でかは周りを見れば分かる。」
そういうと、弥琥斗は本当に全力疾走で走り出した。慌てて私も全力で弥琥斗を追う。追いながら周りを見たら、弥琥斗を指さしながら色々言っているのが聞こえてきた。
「あの人、誰と話してるの?」
「何?妄想?ウケる!」
「頭おかしいんじゃない?」
「可哀想。」
「ああいう人に近づいちゃだめだよ。」
・・・そりゃあ、走りたくなるか。もしかして、弥琥斗はずっとこんな環境で過ごしてきたのか?弥琥斗は私のすぐ前を前だけ見て走っていた。
駅前のパーキングに車を止めて、まずは駅の地下街を調べることになった。
「しっかし、馬鹿みたいに人がいるな。」
「平日はこんなもんだよ。土日はもっと多いから。」
「まじかよ。どんだけだよ。」
「私も全く慣れなかったけどね。でも、東京とかはもっと多いんでしょ。」
「行く気すらないな・・・。まあいい、探すか。」
「ね、ねえ。」
「なんだ?」
「あ、あの・・・」
「なんだよ。」
「ううん、何でもない。」
「はあ?変なの。行くぞ。」
果たして、私がついて行ってもいいのだろうか。さっきまでのやり取りはあまり人には見られていなかったが、これから色々な人に見られたら、弥琥斗は耐えられるのだろうか。そればかりが心配だった。なるべく話しかけず、話しかけられたら手短に答える。弥琥斗を守るにはこれしかない。
ここにはたくさんの店がある。服屋が断トツで多い。私は何度もここに来ているが、値段が高いのと似合いそうな服がまるでないのとで、買ったことはない。いつも寄っていたのは蜂蜜の店で、蜂蜜ドリンクを買っていた。
そこら中を隈なく見て回ったが、それらしき人は見つからない。今まで何人かの私の同類を見てきたが、なんとなくの雰囲気というのがある。それを頼りに探しているのだが、見つからない。いるのは、学校帰りの若い女の子や駅に向かうサラリーマン、お洒落な女性ばかりだ。
「いないなあ。場所を変えるか。」
「うん。」
「ここ以外、どこがある?」
「南にショッピングモールが二つ。」
「じゃあ、近くから行ってみるか。」
歩いて行ける距離なので、私たちは外に出て歩き始めた。地下よりも人は多い。私は弥琥斗の後ろを、弥琥斗を見失わないように歩いていた。すると、弥琥斗は突然振り返った。
「なあ。よく考えたら、俺、この辺初めてだからよく分からねえんだ。菜月前歩いてくれねえか?」
「え、う、うん。」
弥琥斗と前後を入れ替えて再び歩き出す。地下駐輪場の横を右に曲がればすぐに目的地は見えた。
「ここ。」
振り返って言った。弥琥斗は真っ直ぐこちらを向いている。
「なんで、俺が後ろにいると思った。」
「は?」
「なんで俺がついてきてると思った。」
「なんでって、そりゃあ、一緒にここまで来たんだし・・・。」
「俺が逃げるとは思わなかったのか?」
「え、だ、だって・・・」
何をこの人は言っているのだろう。そう思いながら私は質問に答えた。
「だって、ついててくれるんでしょ?パートナーだからって。」
しばらくの沈黙。弥琥斗は鋭い目でこちらを見ていたが、やがて笑顔に変わった。
「ふっ、ははは!悪い、変なこと聞いて。岡山城で菜月のこと考えずに走ったから、どう思われたかと思って!呆れられたかと思ったけど、よかったよ!そう思ってくれてて!」
「そんなこと気にしてないよ。さあ、行こ。お師匠さんの頼みごとなんでしょ?」
「ああ、そうだな。」
弥琥斗の目が左右に動いた。あんなに派手に笑ったもんだから、周りの人は弥琥斗を可哀想な目で見つめ、何か色々言っている。その時の弥琥斗の目はどこか悲しそうだったが、私を見るなり笑顔になった。・・・無理してるよね?それでも、弥琥斗は再び私の前を歩いて、ショッピングモールの入り口に向かった。本当に強い人だな。私もこれくらいの忍耐力が欲しかった。
ここは去年出来たばかりの新スポットである。そのためか、駅の地下街よりも多くの人で混雑している。
「な、なあ・・・。いくらなんでも多すぎじゃねえか?」
「オープンしてまだ半年経ってないから、仕方ないよ・・・。」
「そうか・・・。で、三十前後の女がいそうな店ってどの辺にあるんだ?」
「知らないよ・・・。私、初めて来たから・・・。」
「・・・マジか?」
「出来る前にトラックに撥ねられた。」
「そ、そうか。悪い。じゃあ、手当たり次第に探そう。」
私たちは一階から順番に探し始めた。一階は主に食品売り場だ。一応覗いたが、私と同類なら用はないのだろう。それらしき人はいなかった。その他のテナントも覗いたが、一階にはいない。
探している間、私たちは無言だった。二人で来ているが、周りから見たら弥琥斗一人でここに来ている。しかも、何かを一生懸命探しながら歩いている。年頃の若いグループから見たら相当怪しい人だろう。それなのに私と喋ったらもっと怪しくなってしまう。私は弥琥斗を見失わないように、それでも対象の人物を探しながら前に進んでいく。私だって、周りに見えないとはいえ、岡山にいることが怖い。務めていた会社の人に出会ってしまったらどうしよう。でも、弥琥斗も頑張って耐えてる。頑張らなきゃ。そう自分に言い聞かせていた。
二階の婦人服売り場。ここには全国展開しているブランドも多数入っていて、若い女性でいっぱいだった。男性もいることはいるが、みんな彼女と思われる女性と一緒だ。男一人は目立つ。
「女ばっかだな・・・。まあ、女探してるからこういうところ探さないと駄目なんだけどな・・・。」
弥琥斗がぼそっとつぶやいた。耐えきれず、私は弥琥斗の近くで、小声で聞いた。
「ね、ねえ・・・。大丈夫?」
「何が?」
「すごくやりづらそうだし・・・。」
「やりづらいが、これも修行だからなあ。仕方ないんだ。」
お互い、周りを気にしながらの小声の会話を終わらせ、再び探し始めた。しかし、私と同じ状態で好き勝手やるとは、一体何をどうするのか。想像ができなかった。
「菜月は好き勝手やってる馬鹿は見たことなかったよな?」
突然弥琥斗が口を開いた。
「え?う、うん。」
「菜月は大人しいからなあ。ほら、ああいうのがそうだ。」
弥琥斗の視線の先、学校帰りなのか、制服を着た高校生ぐらいの女の子二人組が楽しそうに服を選んでいる。私もああいうことしてみたかったなあ・・・。羨ましく見ていたら、すぐ近くに女性が一人、二人組を見つめている。あの人、私と一緒・・・。雰囲気で分かった。しかし、立っているだけで何もしていない。
「ねえ、どこが好き勝手やってるの?何もしてないじゃん。」
「まあ、見てなって。」
再び女性を観察。すると、女性は二人組のすぐ後ろまで移動した。楽しそうに話している女の子は当然そのことに気づかない。二人が服を戻すために体を商品棚に向けた。それを待っていたかのように女性は口元に笑みを浮かべた。何が面白いのか。そう思った次の瞬間、女性は女の子二人の背中を思いっきり押した。声を上げて前に転ぶ女の子。二人は棚に頭を思いっきりぶつけて、後ろを振り返るが、二人の目には誰の姿も映らない。キョトンとしている女の子を見て高らかに笑う女性は、二人を残して店舗から出てきた。次のターゲットを探しているのだろうか。笑顔で色んな店を覗き始めた。
「岡山でこの手の悪戯が頻発してるからって師匠が言ってたんだ。人が困るのを見て喜ぶ馬鹿なパターンだ。後を追うぞ。」
その後も女性はそんなことを繰り返していた。主に遊びに来たお客さんに仕掛けていたが、時には店員さんも狙っていた。一番ひどかったのは、ケーキ屋の店員さんが商品を取り出す瞬間に背中を押し、顔をクリームまみれにしたことだ。店長も出てきてお客さんに頭を下げ、狙われた店員さんは泣きながら店長に怒られていた。その様子をお腹を抱えて大笑いする、そんな人を見るのは気分がいいもんじゃない。
「前に、菜月は珍しいって言ったろ。こういうのが多いんだよ。今目の前にしてるのはいくらなんでもやりすぎだがな。」
「・・・ああはなりたくない。いくら見えてないからって・・・。」
「ああ。俺もだ。あいつが外に出たら車まで連れて行くぞ。」
私たちが外に出た時はもう日が暮れていた。スキップしながら進む女性の背後に忍び寄り、弥琥斗が女性の腕をがっちり掴んで全力で走る。私ももう片方の女性の腕を握ってダッシュ。ギャーギャー騒ぐ女性を気にせず、車まで走り、後部座席に放り込んだ。
「あんたら、何しよらあ!何?!誘拐?!」
「どちらかといえば逮捕に近いな。」
「はあ?!馬鹿やん!うちはもうこういう身じゃけえ!やれるもんならやってみいや!」
見えないなら何してもいい。そんな風に思っているのか、この人・・・。たちの悪い人だ。しかし、私はなんだか撥ねられる前にどこかで会ったことがあるような気がしてきた。こんな人、過去に会ったことがあるだなんて信じられない。きっと気のせいだ。そう思ったら、女性は私の顔を覗き込んできた。
「・・・あの、何か?」
「やっぱり!尾崎のクズじゃあ!まだしぶとくこの世にすがってたんやあ!ウケるわあ!」
「菜月、知り合いか?」
「わ、分からない・・・。」
「はあ?!覚えとらんの?!私だよ!あんた、会社では散々干されて、揚句死んだから社内では笑いのネタだったんじゃあ!」
・・・あいつか。服装が違ってて分からなかったが、あいつだ。社長にコーヒーぶちまけた張本人。あんたも私と同じことになってたのね・・・。
まさか、こんな形で会社であったことを弥琥斗に話す羽目になるとは。しかも、会社の人間がいる目の前で話さないといけないのだから、気が気でない。どうにか私は弥琥斗に話した。色々言われて辛かったこと、私に対する扱い、それとコーヒーのことも全て話した。私は話したくなかったのだが、弥琥斗はこれが仕事なのだ。どうにか弥琥斗に貢献したいと思い、頑張って今の雰囲気に耐えた。
「まあ、だいたいこんな感じかな・・・。」
「なるほどな。そりゃあ、辛いわな。」
「ねえ、尾崎はほっといて、あんたは誰じゃあ?人を強引に車につれこんで自己紹介もせんのか。」
「ああ、悪い。俺は神原弥琥斗だ。職業は霊幸師。」
「霊幸師?何それ?」
「菜月やあんたみたいなやつを幸せな気分にする仕事だ。」
「へえ。見えないと出来ないってことじゃなあ。」
「そういうことだ。」
「だったら、尾崎なんか捨てて、うちを幸せにしてよ!こんなブス相手にしてもつまらんじゃろ!」
・・・言うと思いました。私は社内では厄介者だった。私より劣るということは絶対に許されない、そんな裏ルールもあった。私より不幸ということは、この人にとっては絶対に許されないことなのだ。
「ね?うちのほうが美人だし、はっきりとものも言える。コミュ力もある。うちと一緒にいるほうが楽しいと思うじゃろ?」
どんだけ私に負けたくないんだよ!でも、今この人が言ったことは全部正しい。私より綺麗だし、私は話下手だし、人を楽しませることが出来ない。弥琥斗のことを思えば、私なんかよりこの人といるほうが修行ははかどりそうだ。
「それに、さっきの話聞いて思ったじゃろ?尾崎は被害妄想癖があるんじゃあ。そんな風に社内で扱われたのは自分のせいだって、今になっても気づかんのじゃあ。マジで馬鹿じゃろお?」
被害妄想・・・。そんな風に思われていたのか。全部私が悪かったのか?私が全部・・・。もう、頭がごちゃごちゃしてきた。この人の言うことを全部受け入れたほうが楽な気がしてきた。
「なあ。人のせいにしかできんこんなやつより、うちといたほうがお得やん。うちを幸せにせんか?」
決めるのは弥琥斗だ。弥琥斗の決断はすべて受け入れよう。私は本当に、この人の言うとおり、その程度だ。見捨てられてもおかしくない。
「・・・さっきから聞いてれば、すごい自信だな。だが、心配はいらん。俺はだいたい三か月、菜月と過ごしてきた。十分すぎるくらい楽しい。」
「だったら、うちと過ごせばもっと楽しいはずや。」
「そうかな?弱いものを踏み台にしてまで幸せを掴むようなやつといたって、いい気分じゃないだろうと思うがな。」
「はあ?!どういうこと、それ?!」
「言葉のままだ。お前といてもつまらない。さっきまでのやりたい放題っぷりもしっかり見させてもらったが、人の不幸をゲラゲラ笑うその神経、幸せ掴む前にどうにかしな。」
「別にいいじゃろお!うちは死にたくて死んだんじゃないんじゃ!工場歩いてたら上から鉄パイプが落ちてきたんじゃあ!こんな不運あってたまるかあ!だから、この世に残ってるやつらにちょっかい出して、不運に巻き込んで、そうすれば今のうちより不運じゃ!ということは、うちはそいつらより幸せってことじゃろお!このくらいして何が悪いんじゃあ!」
・・・呆れた。そこまでして幸せになりたいのか。こんな人と同じ職場で半年、よく耐えた。短い期間だが、心の中で自分を褒めた。
「ほう。だったら、お前、今、幸せなんだな?だったら、俺は必要ない。」
「なんで?今よりもっと幸せにしてよ!」
「残念だが、お前はやりたい放題やりすぎた。刑法でいえば傷害罪くらいになってもおかしくない。」
「だとしてもこんなんじゃ裁けんじゃろ?残念じゃなあ!」
本当に迷惑な人だ。こんな人たちを相手にする霊幸師もストレスが溜まる仕事だ。
「その口、今すぐ黙らせてやるよ。」
・・・え?弥琥斗らしくないセリフで、低く響く声だった。目つきもいつもの優しい感じは今はなく、黒目に光が見られない。どうする気なんだろう。弥琥斗は運転席から後部座席に移動した。人差し指と中指をくっつけて、それをこの人の額に置いた。
「おお、ついにうちと一緒にいることにしたんじゃなあ!それがいい!」
さっきの弥琥斗の言葉、この人には聞こえていなかったようだ。弥琥斗の目が変わっていることにも気づいていない。
「黙れ。」
「は?」
「お前がこの世に留まる資格はない。」
「そんなことあんたが決めることじゃないじゃろお!あんた馬鹿・・・」
「封印。」
この人が言いたいことを言い切る前に、弥琥斗は低く小さい声で囁いた。それと同時に車内は光と風に包まれた。風は感じないが、光はさすがに眩しいと思った。しばらく明るすぎて何も見えなかった。光が消えた時、ゆっくりと発生源に視線を移した。そこには弥琥斗だけで、女性はいない。女性の代わりに、小さな立方体の箱のようなものがあった。
「ね、ねえ・・・。あの人、どこに・・・?」
「この中だ。もう出て来れない。」
「・・・封印、本当にしちゃったの?」
「ああ、そうだな。」
光のない瞳で小さな箱を見つめる弥琥斗は、どこか淋しそうな感じがした。その箱を人差し指と親指で掴んで、後部座席で仰向けになった。
「びっくりしたか?」
「う、うん・・・。なんか、いつもの弥琥斗じゃないっていうか、霊幸師のイメージと合わなかったっていうか・・・。」
「全員を相手にするわけじゃねえよ。迷惑が過ぎるやつはとりあえず話は聞く。聞いてみて反省の色が見られないなら、こうする。これも仕事なんだ。」
「ど、どうして?」
「どうしてだろうな。でも、現実でも言うこと聞かないやつを叩いたり会社をクビにしたりするだろ。そういうことが、菜月やこいつの世界ではこういうことなんだ。厳しすぎる気もするけどな。」
現実より厳しいルールで、ちょっと怖かった。でも、私みたいな人は、この世の中のエキストラみたいなものだと思ったら、勝手な振る舞いで人の人生を変えてしまったら、そう思えば当たり前なのかもしれない。多くの人からしたら、私たちの人生は終わっている。そんなやつらに人生壊されたらたまったもんじゃない。厳しいが、これが私たちのルールなのだ。受け入れなければどうにもならない。
「俺、これで二人目なんだ。封印。」
「もう一人したことあるの?」
「ああ。三重でな。」
口は笑ってるけど、目は笑っていない。何て声をかければいいのだろうか。気の利いた言葉はやはり出ず、ちょっとずれた言葉が出てしまった。
「そ、その箱、どうするの?」
「封印したら師匠がお堂で管理するんだ。一応、こんなやつでも仏だからな。今頃、師匠がよくしてくれてると思うけどな。」
「その人もお師匠さんのところに?」
「もちろん。綺麗に包んで他のものと一緒に宅配便だな。」
案外扱いは適当なんだ。その言葉をグッと飲み込んだ。
「仕事も済んだし、島根帰るか。」
「うん。そうしよ。」
ようやく帰れる。車内の雰囲気はちょっと重いが、弥琥斗の目に少しずつ光が戻っていた。どうにかなる。そう思えた。
鳥取に差し掛かった辺りではかなり吹雪いていた。岡山と季節が全く違うのではないか、そう思えるほどの吹雪だった。
「すごいな。冬用タイヤでも大丈夫なのか?」
「道路に塩撒いてるはずだから、大抵は大丈夫でしょ。」
「あ、それ聞いたことある。凍結防止らしいな。」
「そうだけど、この時期は道路に塩が置いてあるじゃん。見たことないの?」
「三重はあまり雪が降らないからなあ。」
「さすが太平洋側・・・。」
雰囲気はいつも通りに戻った。いつもの弥琥斗の目である。
「しっかし、よくあんな女のところで半年も耐えたなあ。俺なら殴って会社辞めるぜ?」
「しょうがないでしょ。不景気で嫌でもやるしかなかったし、親も辞めるのに賛成してくれなかったし。」
「世間体、気にしたんだろうな、それ。」
「たぶんね。」
「そういえば、菜月のご両親ってどんな人なんだよ。まだ聞いてなかったよな?」
「え、うん・・・。」
正月のことを話しただけで、まだそんなに話してなかったっけ。どう説明しようか。考えた末に、ちょっと長い一文になった。
「優しいけど、変なところにこだわる厳しい頑固な人。・・・かな。」
「おい、優しさが全く伝わってこないぞ、それ・・・。」
・・・だよね。確かに優しいのだが、最期のほうのやり取りのせいで、うまい言葉が見つからない。本気で言葉を探している私を見て、弥琥斗は笑い始めた。
「何?なんか面白いことした?」
「ふふふ、いいや。でも、菜月、なんか面白い。」
「何それ。」
私も、弥琥斗につられて笑ってしまった。感覚はなくても感情は残っていることに感謝しないと。私は今、なんかよく分からないけど、楽しい。こんなの、いつから経験してなかったかな。
「もうすぐ米子か。島根ももうすぐだ。ついでだから、おっさんとこ寄ってくか!」
「そうだね。そうしよ。」
年末年始で、おじさんに対する苦手意識もなくなった。親とはもう一緒に何かすることはできないけど、今は弥琥斗やおじさんと楽しく過ごせる。家族団らんに近いことは出来る。そのことにも感謝しないとね。
松江市内、高速道路上。私には、やっぱり、幸せなんて、似合わないのかな・・・。私たちの車に、中央分離帯を乗り越えて、トラックが突っ込んできた。車は原型を留めないくらいに壊れた。私は社外に投げ出されたが、こういう身なので無傷。すぐに立ち上がって辺りを見渡す。弥琥斗は・・・?車の下を覗く。いた。弥琥斗だ。
「弥琥斗!大丈夫?」
返事はない。
「弥琥斗!聞こえてるんでしょ!返事してよ!」
何も反応がない。
「・・・ねえ。何か言ってよ!私を一人にしないんでしょ!ねえ!」
まさか、こんな形でお別れだなんて。あんまりだ。
十日後。私はおじさんと弥琥斗のアパートに来た。あの日はお師匠さんがおじさんに弥琥斗のことを頼んだらしく、病院には代理でおじさんが来た。引取りの手続きもして、弥琥斗の横で泣いていた私を慰めるように、おじさんの家まで連れてってくれた。いろんな手続きを済ませ、ようやくアパートの整理に来たのだ。
「ほんに、綺麗好きだんたんだなあ!男の部屋とは思えんがあ!」
「おじさん・・・。いいから、片付けよ・・・。」
「はは!ごめんごめん!」
テンションに大きな差があったが、そんなこと気にする余裕はない。とにかく、今はお師匠さんのところに荷物を送り返す準備をしないと。私は黙々と段ボールにものを詰める。
「これ、どげする?」
「え?」
おじさんが持っていたのは弥琥斗に借りていた毛布だ。
「子猫ちゃんが使ってたんだが?どげする?」
「確かに私が使ってましたが、弥琥斗のものなので・・・」
「だったら、子猫ちゃん用に僕が持って帰るけん!」
「え?でも・・・」
「こんなことで怒るような器じゃないけん、あいつは。」
そんなこんなで、毛布以外、すべての荷づくりが終わったときは、もう次の日になっていた。
「明日、ていうかもう今日か!午前中に宅配呼んどるけん、宅配に全部預けよう!そのあとは、毛布を僕の家に持って帰って、これは直接大将のところに持っていくか!」
おじさんが持っていたのは岡山で封印された、あの人の箱だ。
「それ・・・、弥琥斗は宅配で送るって・・・。」
「はあ?!あいつダラかあ?!仮にも仏だで!丁重に扱わなあ!」
おじさんは本当にびっくりしている。
「まあ、ということだけん!子猫ちゃん、ついでだから大将に挨拶しようや!」
「わ、私も行くんですか?!」
「当たり前だがあ!まだ怖いかもしれんけど、車でな!色々話したいけん!」
この手の人たちは強引なのか・・・?とりあえず、私はおじさんと朝を待った。斜め前の青い車の家に明かりがついたのは五時になってからだった。
宅配業者に荷物を預け、不動産屋のチェックが終わったのは十一時過ぎだった。それからおじさんの家に行き、毛布を置いて十二時前。これから三重に行くなんて、向こうに着くのは何時なんだろうか・・・。
「よし、行くかあ!」
私の心配をよそに、元気よくおじさんが言う。
「おじさん、お師匠さんのところまでどれくらい時間かかるんですか?」
「そげだなあ・・・。七時間くらいかな!混んでたらもっとかかるけど!」
「な、七時間?!」
さすがに遠い。今まで片付けでドタバタしていて気にしていなかったが、おじさんと二人きりというのはなかなか新鮮だ。
「大丈夫!大将は夜遅くになっても入れてごすけん!」
「あ、いやあ、・・・はい。」
車に乗り込んだ。もう、従うしかない。弥琥斗がいない今、私はおじさんしか頼る人がいないのだから。
宍道インター手前、なんだかちょっぴり不安になってきた。事故から一か月も経っていないため、あの時の映像がはっきりと思い出される。
「あの、大丈夫ですよね?」
聞かずにはいられなかった。
「ん?何が?」
「いや、その・・・、トラックとか・・・。」
「ああ!そういうこと!大丈夫だがあ!そう滅多にあることじゃないけん!」
「で、ですよねえ。」
前はおじさんのポジティブでハイテンションなノリに苦手意識を持っていたが、だんだんと薄らぎ、今はそれが私を安心させている。うん、大丈夫。三重まで行って、島根に帰れる。そう思うことが出来る。
いよいよ高速道路に乗ったとき、おじさんが弥琥斗について聞いてきた。
「そういえば、弥琥斗が三重にいた頃の話、聞いたことある?」
「え?えーと・・・。ああ。なんか私みたいなのが見えて、変人扱いだったっていうのは聞きましたが、それ以外は特に・・・。」
「そげかあ。いやあね、最近いろんな手続きで大将と話すこと多かったけど、そこで色々初耳なこと聞いたけんさあ。」
「た、例えば?」
「弥琥斗、大将の孫だってよ。知ってた?」
マジで?!それは知らなかった。てっきり、見える能力活かしたいとかで弟子入りしたんだと思っていた。
「弥琥斗は四歳ぐらいから大将に育てられたんだと。なんでも、親御さんは見えない体質で、弥琥斗が見えることに気づいたらすぐに大将に預けてそれっきりって話だ。捨てられたも同然だがあ。」
「そんなこと・・・、弥琥斗、一言も言ってませんでした・・・。」
「言わんだろうなあ、あいつは。大将と同じだがあ。パートナーに心配かけるようなことは言わんが。」
ずっと、子供のころからずっと、そんなことを一人で抱え込んでいたのか。そう思うと、なんだか私自身の心の弱さが恥ずかしくなってきた。
「まあ、そのことは今は置いとこうか。着いてから大将に色々聞こうや。子猫ちゃん、三重、行ったことある?」
「ないです。あまり旅行したことないですから。」
「だったら、楽しく行かやあ!気分は乗らないかもさんけど、初めてのことはちょっとは楽しまなきゃもったいないがあ!」
「・・・ですね。」
「無理して笑顔にならんでもいいけんね。楽しいと思ったら笑えばいい!」
本当に、なんでこの人に苦手意識持ってたのかな。たぶん、派手な服のせいだろうけど。すごくいい人だ。自分の偏見を少し反省した。
おじさんはいろんなサービスエリアに寄って、その土地の名物について教えてくれた。職業柄、全国の同業者以外とはあまり話すことがないらしく、その時には必ず自分たちが店を構える土地の話で盛り上がるらしい。そのため、全国の名物や観光地についてはざっくりとなら説明可能、と宣言していた。
「でも、おじさん、日御碕についてはあまり知らなかったんですよね・・・。」
「僕は仲間の中では一番そっち方面に弱いけんなあ。県外のことは人から聞いて知ってるけど、島根県のことは説明できるか不安だがあ。」
そんな当たり障りのない会話だが、自然と笑みがこぼれた。やはり、色々な土地を巡るというのは新鮮だ。もっと旅行すればよかったと思った。
おじさんは、私に気を遣ってか、岡山ではそんなことはしなかった。休むことなく、少しスピードを上げて、兵庫県に入っていく。兵庫に入ってからはまた、その土地についてのおじさんの説明があった。次はなんだろうと、自然と楽しみになっていた。そんなことをしながらだったもんだから、三重県に入ったのは島根を出発してから八時間とちょっと経っていた。
車は三重県内の高速道路を順調に進んでいく。一体、どこまで行くのだろうか。そんなことを思っていたら、高速道路が途切れているところまできた。ここ、伊勢インターで高速道路から降りた。
「伊勢、ですか?」
「そげだよ!大将の家、弥琥斗から聞いてなかった?」
「はい・・・。三重県ってことしか聞いてなくて・・・。」
「そげかあ!大将は伊勢神宮の内宮の近くの山の中に住んどるけん!」
「内宮?何ですか、それ。」
「子猫ちゃん、知らんの?伊勢神宮は内宮と外宮の二つあーよ。」
「マジですか!知りませんでした。」
「確か、内宮が天照大御神で外宮が豊受大御神だったかなあ。どげな神様かは知らんけどね。」
「それだけ知ってれば十分すごいですよ・・・。」
あと、何で伊勢神宮で祀ってる神様は知ってて、日御碕神社は知らないんだ。不思議な人である。
「それは置いといて、これから山道だけん。もう少し辛抱してごせや!」
どんなところに住んでんだ?車は本当に山道に入っていく。
どれくらい進んだのか。内宮に近いのかどうか、微妙な距離まで進んだところに、ようやく一軒の民家が見えた。もう夜中の十一時を回っている。
「ここだがあ。大将の家は。」
明かりはついているが、人の家にいきなりお邪魔する時間ではない。
「遅い時間ですけど、大丈夫ですか・・・?」
「さっきも言ったがあ!大将なら大丈夫だけん!さあ、降りいだわ。」
おじさんに急かされるままに車を降りた。本当に大丈夫なんだろうか・・・。私の心配をよそに、おじさんは何の躊躇もなく玄関チャイムを鳴らした。しばらくして、玄関が開いた。おじいさんが一人、立っている。
「大将!久しぶり!」
「島根か・・・。」
「おお!覚えとってくれた?さすがだがあ!」
「忘れんよ・・・。こんな時間にでも気にせず突然来るのはお前しかおらんからなあ・・・。」
この人がお師匠さんのようだ。しかし、やっぱり、ちょっとまずかったんじゃないか?冷や冷やしていたら、お師匠さんの視線が私に向けられた。
「そちらのお嬢さんは?」
「ああ、弥琥斗のパートナーだ!この手の人間にしては珍しく、随分控えめだがあ!」
「ほう、このお嬢さんがねえ・・・。」
お師匠さんがこちらに歩み寄ってきた。ちょっと怖い。
「あ、あのお・・・、わ、私、尾崎菜月と申します!み、弥琥斗さんには大変お世話になりまして・・・」
「構わんよ。弥琥斗から話は聞いてるから。外で話すのもなんだから、上がりなさい。」
まるで、仙人だな。和服をピシッと着こなし、顎鬚を生やした、凛とした風貌で優しさに溢れるおじいちゃん、って感じか。何でか分からないが、呆気にとられて突っ立っていた。
「子猫ちゃん!早く上がろうや!玄関、閉めえよ!」
「あ、はい!すみません。」
お師匠さんの家、つまりは弥琥斗の実家に初めてお邪魔する。そう思ったら、ちょっぴりワクワクして、ちょっぴり淋しさも出てきた。
家の中は、これぞ日本の家、という感じだった。土間、かまど、風呂は薪で温めるやつだ。こたつも炭火で温めるものだった。まだ、こんな家があったのか。そう思わずにはいられない。
「で、島根よ。こんな時間に突然押し掛けて何しに来た。」
色々と、とげとげしいものを感じたが、おじさんはそんなことはちっとも気にしていない。
「そげそげ!大将が弥琥斗に頼んだっていう岡山の迷惑女。そいつの封印を持ってきたんだがあ!」
「ああ。あいつか。宅配でもよかったのに。」
「大将!仏!そんな人でも一応仏!」
「そういうところだけはきっちりしとるなあ、お前は・・・。」
封印の扱い、適当すぎやしないか・・・。おじさんじゃなくても、これは突っ込むだろう。
「ところで、何でお嬢さんも連れて来たんだ?」
「大将に会ったことないだろうけん、ちょうどいいと思って!それに、僕ら弥琥斗のこと、あんまり分かってなかったけん。」
それは言えている。弥琥斗の人柄は分かったが、過去に何があったのか、あまり知らないまま今に至っている。私が自分の過去をなかなか話さなかったのも原因かもしれないが。
「知ってどうする。」
「弥琥斗のこと、ちゃんと分かってあげたいがあ!」
お師匠さんは真剣な眼差しだが、おじさんは笑顔である。温度差激しいなあ・・・。
「うむ・・・。それなら話してやろうか。」
・・・いいんだ。結構渋ってるように見えたけど。それでも、私も知りたかったし、おじさんと二人で耳を傾けた。
お師匠さんは幼い頃、気づいた時から私のような人が見えたらしい。最初は区別がつかなくて、周りの人から気味悪がられ、孤立したようだ。そんなお師匠さんの唯一の拠り所はご両親だった。ご両親も、お師匠さんと似たような育ち方をして、随分と淋しい思いをしたらしい。
「父と母は私には淋しい思いをしてほしくなかったみたいだったなあ。だから、せめて、家の中ではと、本当によくしてもらったんだよ。」
お師匠さんの目が優しく、細く伸びていく。本当によいご両親に恵まれたようだ。
「私たちの家系は代々見える人間が多かったんだ。そのせいで、周りから孤立することもしょっちゅうあったんだ・・・。」
そういう家系ってあるんだ。しかも、両親共に見えるとは、類は友を呼ぶというやつか。
「それで、私の先祖は考えたんだろうなあ。人間より、霊とうまくやっていきたいと。それで、霊幸師を思いついたって言い伝えだ。」
「随分適当な感じだがあ。」
「おじさん、失礼ですよ。」
「構わんよ、お嬢さん。島根はこんなやつだから。」
「大将、県名で呼ぶのやめてごせや。」
「分かりやすいんだ。許してくれ。」
そういえば、私はおじさんとお師匠さんの名前を知らない。しかし、今はそれは置いておこう。話がどんどん逸れてしまう。
霊幸師の家系で育ったお師匠さんのお父さん、友だちが霊しかいなかったお母さんのもとにお師匠さんが生まれた。霊幸師として、早くから修行を重ね、その修行の中で、同じ見える仲間の奥さんと出会った。二人の間には息子さんが一人生まれたが、その息子さんは見えなかった。お師匠さんのやってることが理解できず、高校卒業と同時に家を出てしまった。
「それっきり、帰省もしなかった息子が、十年ぐらい経ってから、綺麗なお嬢さんと可愛らしい五歳の男の子を連れて来たんだ。孫の顔でも見せに来てくれたかと思って、その時は嬉しかった。」
「その男の子が弥琥斗だな。」
「そうだ。だが、弥琥斗は私がつけた名だ。本当の名前は知らない。」
「は?さ、どぎゃんことだや?」
「・・・お嬢さん、島根は何と言った。」
「それはどういうことですか?です。私も先程のお師匠さんのお言葉はどういうことか分からないのですが・・・。」
「ああ、そういうことか。そりゃあ、分からんだろうなあ。」
お師匠さんは深いため息をついた。一度下に向けた視線をもう一度私とおじさんに向けて、重い口を開いた。
「弥琥斗は見えたんだ。私と同じように、区別がつかなくて、周りの友達から孤立して、淋しかったんだ。そんな弥琥斗を見て、息子は私を思い出したと言っていたよ。せっかく逃げ出したのに息子がこれか、とも言ってた。奥さんも、近所中の噂になって耐えられなかったみたいだ。それで、私に預けに来たんだよ。似た者同士でいれば淋しくないだろ、ってなあ。私もちょうど妻を亡くしていたからねえ。でも、私は淋しくなくても、弥琥斗が悲しむだろ?そのことを言ったら、何て言ったと思う?こいつがいたら俺たちが苦しむんだ、だってさ。そう言って、さっさと帰って行ったよ。それ以来、自分の息子の顔を一度も見に来ないんだ。自分の息子のことを気持ち悪がって、名前も呼ばなくてなあ。仕方なく、私がつけたんだ。」
「理解得るのって難しい商売だが、そんなやつ、いたかやあ・・・。いや、大将の息子さんに失礼か・・・。」
「気を遣うな、島根。確かに最低なんだ。息子が帰り際に私に預けた書類、弥琥斗の死亡届のコピーだったよ。名前のところを塗りつぶしてあった。どういうやり方をしたか知らんが、弥琥斗は戸籍も、名前も奪われたんだ。」
「・・・。」
私もそうだが、いつも明るいおじさんも、今は無表情で言葉が出ない。そんな風に親に捨てられるなんて、あまりにも酷だ。
「そんな風に息子を育てて、そのせいで弥琥斗がこんなことになってしまった。責任は感じすぎるぐらい感じたよ。とにかく、役所で戸籍作って、愛情いっぱいに育てる。これが、弥琥斗にしてやらなきゃいけない、私の義務だったんだ。」
もう、何を言ったらいいのか分からない。見えるだけでそんな思いをしなくてはいけないのか。そんなの、あんまりだ。
お師匠さんに弥琥斗と名付けられ、弥琥斗はすくすくと育った。五歳でご両親と離れて暮らし始めたのだから、自分の名前を憶えていてもいいじゃん。そう思ったが、そうもいかなかったらしい。
「私が『弥琥斗』と呼んだら、あいつは何と言ったと思う?『それが俺の名前?』って言ったんだ。『気に入らないか?』って聞き返したら、『ううん。父さんも母さんも、俺のこと名前で呼んだことないから、知らなかったんだ。』って。息子は私がこういう商売だから、自分の息子に警戒心を持ってたんだろうなあ。」
「なんだそりゃあ!見えたら捨てる気だったってことだがあ!」
「そうだなあ。見えるか見えないか、分かるまであまり外に出さなかったみたいだけど、子どもだからな。勝手に外に出て、どっちかの区別もつかないまま遊んでたんだ。」
そんな環境から解放され、お師匠さんから見分け方を教わった弥琥斗は、高校卒業まで普通の子と同じように学校に通った。しかし、どういうわけか、弥琥斗は私のような人としか親しくなろうとしなかった。
「『人は残酷だ。本音を隠して裏で差別をする。霊はそんなことないからな。』と言っていた。弥琥斗らしいだろ?」
「確かに。」
「弥琥斗なら言いそうですね・・・。」
高校卒業後、霊幸師として修行を始めた弥琥斗は、アルバイトからの帰りに一人の男性と出会った。
「弥琥斗の初めてのパートナーだった。二人はすぐに意気投合して仲良くなったんだ。どんな形であれ、弥琥斗の口から初めて親友という言葉が聞けて嬉しかった。名は忘れたがなあ。」
初めてのパートナーで、親友と呼べる存在。弥琥斗は自然と笑顔がこぼれ、張り切ったそうだ。一緒に住むことはなかったが、それからというもの、弥琥斗はこの人と毎日、色んなところに行って、色んな話をして、笑顔の想い出を作っていった。
「楽しむだけじゃない。心のつっかえをなくして、本当に幸せにしてやることも霊幸師の仕事。弥琥斗はそのことも忘れてはなかった。その青年との会話の中で、見つけようと努力してたさ。何かある、そう思って話しかけたんだからなあ。」
しかし、何も見えなかったようだ。何がその男性を縛り付けているのか、全く分からなかったらしい。
分からぬまま三か月が過ぎた。なかなか見えてこないことに弥琥斗は焦ったが、お師匠さんは見守り、励ました。
「まだ駆け出しだから、焦ることはない。そうやって成長していくんだから。そう言ってやると、弥琥斗はまた笑顔になってくれたんだ。」
ちょうどその頃、市内では騒動が起きていた。二十代の若者が川沿いを歩いていると、誰かに突き落とされるという事態が起こっていたのだ。
「落とされた人は口をそろえて誰かに押された、そう言うが、目撃者は周りに誰もいなかったと言うし、防犯カメラがあった現場にも被害者以外誰も映ってないんだ。だから、警察も相手にはしなかったみたいだが、街中で話題になっていたよ。」
お師匠さんも弥琥斗も、私のような人の悪戯を疑った。二人で川沿いを交代で見まわり、弥琥斗は親友と一緒に探したりもしたが見つからなかった。
「一か月経っても見つからないから、私たちも被害者の気のせいだったのか、そう思い始めていたよ。」
そんなとき、弥琥斗はパートナーのこの人と海に行った。気分転換のつもりで行ったようだ。海を見て、いつものように他愛もない話をしていた。すると、突然、男性が口を開いた。
「俺さあ、最近、なんか清々しいんや。お前のおかげや。」
何もしてない、何も見えてないのに。弥琥斗は戸惑った。そんな弥琥斗を見て、男性は笑い出した。
「何ビビってんや。色んなとこに連れてってくれたやんか。おかげで俺を痛い目に遭わせてくれたやつらに復讐できた。ありがとな。」
どういうことか、弥琥斗は分からなかった。何言ってんだ、そう聞き返したらしい。
「川に突き落としてるんは俺や。理不尽ないじめに耐えれんなって死んだけど、お前が色んなとこ連れてってくれた。それで同級生や上級生の今の家が分かって、狙いやすかったわ。」
弥琥斗と分れたあと、被害者の行動を探り、川沿いに行ったところで突き落としていたようだ。
「どんな理由であれ、人に迷惑をかけてはならない。それが、その人の今後の人生を狂わせたり、命を危険に晒すようなら尚更だ。そのことも弥琥斗には教えていた。辛かったろうなあ。ようやくできた親友を、自分で封印してなくすのは・・・。」
そのとき、弥琥斗はかなり迷ったようだ。ルールに従うか、どうにか更生させて悲しいことを止めさせるか。弥琥斗は男性を家に連れて行き、お師匠さんに相談した。どうするべきか。お師匠さんの答えは封印。それも修行の一つだと。辛いなら私がやる、そう言ったが、弥琥斗はお師匠さんの提案を断った。自分がやる。そう言って、親友と別れたのだ。この男性が、弥琥斗にとって、一人目の封印だった。
「そのあと、さすがに弥琥斗もふさぎ込んだよ。一か月ぐらいだったかなあ。そのあとは、何かに取りつかれたようにアルバイトしてたなあ。それで、お金貯めて、突然出雲に行くとか言って家を出たんだ。」
「そぎゃんことがあったなんてなあ。人生何があるか分からんがあ。」
「それでも、最近は楽しかったみたいで安心したよ。たまに連絡よこしてきたが、声に元気が出てきた。お嬢さん、君のおかげだよ。」
「え・・・、私は何も・・・。お礼を言うのは私のほうですから・・・。」
本当に私は弥琥斗のために何かをしたわけではない。私のことを思ってくれて、私のためにいろんな体験をさせてくれた。弥琥斗に何があったかなんて知らなかった。いろんな話を、今、初めて知った。何と言ってらいいのか、正直分からない。ただ、私が元気づけたなんて、そんなことありえない。
「あ、あの・・・。お師匠さんに一つ、お聞きしたいのですが・・・。」
「ん?なんだい?」
何を言ったらいいのか分からなくて、唐突に、私は一番気になっていたことをお師匠さんに聞いた。
「わ、私でもこのような形ですが、この世に留まっています・・・。弥琥斗もどこかにいると思うのですが・・・。」
「それは、分からんのだよ、お嬢さん。」
「分からない?」
「お嬢さんのように、留まる人もいるが、完全に消える人もいる。留まっても、お嬢さんのようにすぐ近くで生まれ変わる人もいれば、全然違う場所で生まれ変わる人もいる。誰がどうなるか、分からんのだよ・・・。」
「そ、そんな・・・。」
運命とは、残酷なものだ。それを分かりやすすぎるほど、今、感じている。気づけば、海から太陽が顔を出そうとしていた。多くの人にとって、楽しみな一日の始まりの合図。
おじさんは、話を聞いてから少しばかりの仮眠をとり、昼過ぎに島根に帰るため、車に乗り込んだ。
「じゃあ大将!またな!」
「ああ。いつ来ても構わんが、今度は来る前に連絡ぐらいよこせ。」
「おう!そげすーよ!」
「お嬢さん、元気でね。」
「あ、はい!お世話になりました。」
おじさんはアクセルを踏んだ。
車は再び高速道路に乗った。しばらくは会話がなかったが、その雰囲気におじさんは耐えきれなくなったようだ。
「子猫ちゃん!何か喋ろうよ!」
「えっ?いやあ、いきなりそう言われても・・・。」
正直、今は楽しく会話できる状態じゃない。
「怖い顔して、どげしたかね?弥琥斗の事か?」
「はあ、まあ・・・。」
「ほら、何でもいいから行ってみんしゃい!」
車内の雰囲気を暗くすることしかできないが、何か喋らないとおじさんが納得しないだろう。私は観念して口を開いた。
「私って、本当に卑怯者だなあ、と思いまして・・・。」
「え?なして?」
「弥琥斗の話を、お師匠さんがせっかくしてくれたのに、何も気の利いたことが言えなくて・・・。何か言ったと思ったら、弥琥斗は今どこにいるんだって聞いちゃって・・・。会いたいのは私だけじゃないのに、自分のことしか考えてないみたいになっちゃって・・・。本当に情けないんです。」
「そぎゃんことないわね。誰だってパートナーに会いたいもんだが。」
「それだけじゃないんです・・・。なんか、こうなる前の自分と弥琥斗を比べたら、なんか自分が小っちゃく感じて・・・。辛い思いをずっとしてきた弥琥斗は一生懸命頑張って生きてきたのに、私はたまにある辛いことがちょっと積み重なっただけで絶望しちゃって・・・。私なんかをパートナーにしちゃって、弥琥斗、辛かっただろうなあって・・・。」
「子猫ちゃん、それは考えすぎだがあ。」
「で、でも・・・」
「人を幸せにするって、どげ足掻いても簡単なことじゃない。その対象が人生投げ捨てて彷徨っとる子猫ちゃんみたいな人なら尚更。弥琥斗は自ら望んでその道に進んだんだが。子猫ちゃんをパートナーにすることは弥琥斗にとって必然だったんじゃないかなあ。」
「・・・だといいんですけど。」
「そげだよ。霊幸師はそういう仕事だけん。」
「でも、今回お師匠さんのお話が聞けて良かったです。弥琥斗の事も、自分の小ささも、色んなことに気づかされましたから・・・。」
「なあ、子猫ちゃん。ずっと気になっとんだけど、どげしてそげん自身がないかね?」
「さあ、何ででしょうね・・・。まあ、実際、私は何も出来なくて何も持ってないですから、変に自信持っても仕方ないんですけどね・・・。」
やはり、車内の雰囲気は暗くなった。本当に、こんなことしかできない自分が情けない。私に夢や希望を持たせようとしてくれた、弥琥斗と過ごした日々は何だったのだろう・・・。
「そげか。だったら、気分、また変ええか!」
「はい?」
「帰ったら、店から好きなもん選んでみんさい。」
「ふ、服をですか?」
「なんでもいいけん!その服がいいなら、アクセサリー足すぐらいでもいいけん!」
「は・・・はい。」
おじさんが何を思ってこんなことを言ったのか、理解できなかった。私を励ますためのサービスかな?そのくらいにしか思わなかった。
岡山に着いたのは夕方だった。今までトイレ休憩以外は止まらなかったが、さすがに疲れたのか、仮眠をとるために止まった。
「事故してもつまらんけん、ちょんぼし寝えわ。外の景色でも見とっていいけん。大丈夫、置き去りになんてせんけん。」
そう言って、おじさんは目を閉じた。あまり気分は乗らなかったが、車の中にいるだけなのも暇なので、周りの人が見ていない隙にドアを開け、外に出た。
晴れの国を謳っている岡山だが、今は厚い雲に覆われている。今にも雨が降り出しそうだ。市街からは離れている、山の中のサービスエリアから低い土地を見渡す。見晴らしは良すぎる。私が住んでいたところとは違い、田んぼと畑が広がり、家がぽつぽつと点在している、のどかな風景だ。不思議と、安心感が湧いてきた。あんなに避けたかった、二度と行くまいと思った土地でこんな気持ちになるなんて・・・。
『会社のせいで岡山全部を嫌いになるなんて淋しいからなあ』
あの日の弥琥斗の言葉が再生される。なんだろう、この感じ。人もたくさんいるのにおどおどしない自分。みんなから見えないから?違う。人に慣れたから?それもなんか違う。じゃあ、なんで?
『会社のせいで岡山全部を嫌いになるなんて淋しいからなあ』
また再生される。会社が嫌で、人が嫌で、そこから外に出たくなくなって、島根に帰りたくてしょうがなかった。本当に嫌だった。・・・そうか。私が避けたいのは、会社だけなんだ。岡山が嫌いなわけじゃない。会社も、会社の人も、ここにはいない。そうか。会社だけだったんだ。なんでか分からないが、いつの間にか避けたい対象がすり替わっていた。辛いだけじゃない。大学時代は楽しかった。友だちとくだらない話も真剣な話も、いろんなお店でご飯を食べたことも、カラオケで盛り上がったことも、ちょっともめたこともあったが、楽しい思い出もたくさん詰まった街だ。そんな思い出が、辛いことで覆い隠されていたなんて、私はどれだけ追い詰められ、視野が狭くなっていたのだろうか。私は・・・。たぶん、逃げたかった。辛いことしか見えなくて、楽しいことが見えなくなって、そんな毎日から逃げたかった。
雨が降り出した。外にいた人は建物の中や車の中に入っていった。雨を感じない私は、そのまま景色を見ていた。雨でよく見えなくなったが、それでも見える。私は、この街でも、楽しいことはあった。そう思うと、目の辺りが熱くなってきた。久しぶりの感覚だった。
「雨の中で泣くなんて、何か悲しいことでも思い出したかね?」
おじさんが傘を差しだした。もう仮眠はいいらしい。
「いえ。忘れてた楽しいことを、思い出したんです。」
「ほう。だったら、その涙は素敵な涙だ。」
「・・・はい。どこにいるか、分かりませんが、弥琥斗にお礼を言わないと。」
「弥琥斗に?」
「はい。弥琥斗のおかげで気づいたんです。あ、もちろん、ここまで連れてきてくれたおじさんにも感謝してますよ。ありがとうございます。」
「そげか。なら、僕も嬉しい。弥琥斗も喜んどるよ、きっと。」
「・・・また、会えますよね?」
「会える。僕はそう思っとる。」
「・・・私も信じます。会えるって。」
「ようし!意見が合った!だったら、帰るか!弥琥斗がいるかもせんけん!」
「はい!」
私たちは車に乗り込み、島根への帰路に戻った。
おじさんの家に帰ってきたのは午後八時過ぎだった。無事に戻れたことに、本当に感謝した。お正月、ここで三人で騒いだのが嘘のように、綺麗に片付いている。楽しかった日が遠い昔のように感じた。ボーと突っ立っていると、おじさんが声をかけてきた。
「ほら、子猫ちゃん!ここで好きなもん、選ぶだわ!」
そういえば、お店で好きなもの、自由に選んでいいんだったっけ?すっかり忘れていた。
「本当にいいんですか?」
「いいよ!ゆっくりじっくり選ぶだわ!」
そう言っておじさんはお風呂に行った。私はお店に入って早速商品を見た。相変わらず、派手な服が多い。ロリータの品揃えが、島根ではトップクラスなんじゃないかと思う。狭いお店にぎゅうぎゅうに詰められた様々な商品を一つずつ、ゆっくり見ていくことにした。
服を見ているのはいいが、正直、服は弥琥斗が選んでくれたこのままでいい。最初は本当に抵抗があったが、今はもう慣れた。愛着も湧いてきている。それにまだ、服の組み合わせのセンスに自信がない。服じゃない、別のものにしよう。でも、靴もソックスも、弥琥斗が選んでくれたものだ。何を選べばいいのか。そういえば、おじさんが、アクセサリーでもいいって言ってたっけ?お店を見渡し、アクセサリーが置いているところを探した。
アクセサリーを身に付けたことなんてない。そんなもので飾ったって、私という人間には無意味だと思っていたから。身に付けて輝く人は、内面にもきらりと光るものを持った人だ。私はそんなもの持っていない。だから、アクセサリーなんて興味なかったし、たまに友だちが誕生日でくれることがあったが、特に付けようとも思わなかった。そんな私が今、品揃え豊富な狭いお店のどこにアクセサリーがあるのか、割と本気で探している。今、この状態で過ごしていることを人生と言っていいのか分からないが、人生、どんな心境の変化が起こるのか、自分でも分からないものだ。探し始めて約五分、初めてここに来た時におじさんが座っていた床の間で発見した。品揃えは服と同様豊富である。まさか、おじさん、商品を尻に敷いて商売していたのか・・・?まあ、いい。この中から選ぼう。
ネックレスに指輪にヘアアクセサリー、ブローチとブレスレッドまである。何にしようか、一つずつ取ってみるのだが、鎖が絡まってなかなか一つずつ取れない。一回一回解いて一つずつ床の間に並べていった。花、星、ハート、ドット柄、私にはよく分からない柄まで様々だ。長さの短いネックレスもあれば、長いものもある。ただ赤いだけのヘアゴムもあれば、ピンクのチェック柄のシュシュもある。動物のブローチもあれば、碇のブローチもある。シンプルな銀色の指輪もあれば、大きな赤いガラス玉のようなものがついた指輪もある。どれも興味を持とうとせず、見ようともしなかったものだ。今見ると、なんか、とりあえず可愛いな、と思う。私が付けたらどうなるのかな、と興味も湧いてきた。それと同時に、私なんかが付けて似合うのかな、という不安も出てきた。ちょっと怖い。それでも、気になるものを見つけた。茶色の合皮なのか、そのような長めのひもに緑色の四葉のクローバーのモチーフが付いたネックレス。これなら弥琥斗が選んでくれたこの服に合うんじゃないかな・・・?首にかけて鏡を見てみた。うん。服には合ってると思う。私に似合ってるかは別として、弥琥斗が選んでくれた服の良さは殺してはない。これにしよう。首にかけたまま、お店を出た。好きなものを選んでもいいと言われたとはいえ、無断で貰うわけにはいかない。おじさんに一応報告をしなければ。
おじさんはお風呂上がりだった。私はそんなに長く選んでいた感覚はなかったが、時計を見たら、四十分は経っていた。ああ、こんなんでも、私は女なんだなあ。そう思って、おじさんに話しかけた。
「おじさん。これにしようと思うんですけど、ど、どうでしょうか・・・。」
「お、決まったかあ!ほう!良いがね!」
「ほ、本当ですか?」
「おう!その服によく似合っとる!僕が選んだ服にはあまり合わなさそうなのが悔しいけど!」
「あ、ごめんなさい・・・。」
「いやいや、気にせんだわ!それより、なんでそれにしたかね?」
「え・・・。おじさんがアクセサリーって言ってたから、それで・・・。」
「他には?」
「・・・服を選ぶのは苦手なので。」
「本当にそげ思っとる?」
「え?」
「弥琥斗の為なんじゃないかね?」
そう言われて、しばらく考えた。センスに自信がないから?確かに、それもあるけど、本当に、真剣に考えたことは?
「・・・いえ、自分の為です。いつか、また、弥琥斗に会えるって、信じることにしましたから。弥琥斗に気付いてもらえるように、このままの服でいたいんです。」
「ほう。で、なんでその首飾りなの?」
「弥琥斗が選んだ服を殺してない感じがしたので・・・。それに、四葉は幸せの印です。弥琥斗に出会って、色んな楽しい思い出が出来たんです。おじさんにも会えましたし。今度はまた、弥琥斗に会いたい。その幸せを呼び込みたいんです。」
自分で、無茶苦茶なことを言ったなあ、と思った。わけの分からない、理想ばかり語ってしまったかなあ・・・。おじさんはうつむいたまま、腕を組んでいる。何を考えてるのかな・・・。不安になった。そのまま一分、沈黙が続き、おじさんは顔を上げた。
「子猫ちゃん・・・」
「は、はい・・・」
「いいよ!すごくいい!前に比べたらだいぶ前向きで、はっきり意見も言えるようになっとるがあ!その調子でいこう!弥琥斗もびっくりするで!」
「は、はい!」
予想外の展開だ。でも、偉そうじゃなかったかな・・・?それでも、おじさんは私の言葉を受け止めてくれた。こんなに嬉しいことなんだ。新しい発見だ。
あれから、私はおじさんのお店のお手伝いをすることになった。服屋ならいつか弥琥斗がフラッとくるかもせんがあ、というおじさんの提案だった。お客さんは滅多に来ないが、掃除、在庫整理、陳列作業など、やることは多い。おじさんはこの仕事を始めてから、ほぼ毎日この作業をしているらしい。
「そげん、滅多に人が来んけん!毎日が休みみたいなもんだがあ!だけん、陳列が汚いんだがあ!」
なんともおじさんらしい理由だ。私は、その陳列作業を主にしている。ネックレスを見ていた時にも気になったのだが、非常に見づらい。その他にも、服や靴の整理をしているが、狭いお店にどう並べるのか、毎日考えている。
まだ、雪はちらつくが、つくしが顔を出す季節になった。それまでお客さんは一人も来なかったが、この日、一人の男性がやって来た。私と同じ、周りから見えない人だ。
「いらっしゃい!お兄さん、一人?」
「はい・・。それより、僕が見えるんだ・・・。」
「当たり前だ!ここはお兄さんみたいな人のためのお店だけん!」
「へえ。そんなところあるんだ・・・。」
覇気がないのか、ただ戸惑っているだけなのか。歳はちょっと下くらい、背は弥琥斗より少し高いくらい、服は灰色のトレーナーにジーパンとかなり地味、髪もぼさぼさで肩まで届きそうな長さだ。前髪で顔全体は見えない。暗い印象である。
「ん?お姉さん、僕と同じ・・・?」
「えっ、あ、はい。同じ分類にはなりますね。」
突然、話しかけられたので、私まで戸惑ってしまった。一体、この人はどんな人なんだろう・・・?
「お姉さん、お名前は?」
突然の質問。戸惑いは増すばかりだ。相手の名前も分からないまま聞かれて本当にどうしたらいいのか分からなくなったが、とりあえず答えた。
「あ、はい。尾崎菜月といいます。」
「菜月さんか・・・。よろしく。」
「は、はあ・・・。」
この人、一体なんなんだ?元が人見知りな私は自然とこの人から一歩離れた。
「お兄さん、その服、いつから着とるかね?だいぶ地味だけど。」
この人の視界から戸惑う私を救い出すかのように、おじさんが言葉を発した。とりあえず一安心だ。
「ああ、死んだ日からずっとこの服ですよ・・・。引きこもりだったし、別に何着てもいいでしょ・・・。」
「そ、そげか。だったら、ここで気分転換に服変えんか!な!」
「いや、他にも服持ってるんで。」
「持っとるんか。お兄さん、どこに住んどるかね?」
「いいでしょ、どこだって・・・。」
な、なんて態度だ。初対面のおじさんに対して失礼極まりない。ちょっとした怒りも湧いてきたが、なんだかよく分からない怖さもあった。
「じゃあ、僕、帰るから・・・。」
「お、おう。気が向いたらまた来るだわ!」
「・・・。」
おじさんのほうを、前髪の隙間から見える右目でじろっと見ながら、何も言わずにお店を出ていった。一体、何なんだよ!本当に!
「か、変わった人でしたね。」
「そげだなあ。初対面のときの子猫ちゃんよりひどいな、ありゃあ。」
「え。私、あんな感じでした?」
「雰囲気がちょんぼしな。でも、態度はあいつよりずっといいで!」
なんだか、とっても複雑な気持ちになった。もうちょっとトーン上げて喋ろうかな・・・。
そんな不思議なお客さんが来てから半月が経っただろうか。桜が咲き乱れる新学期。あれ以来、お客さんは来ないが、穏やかな季節はやって来た。クラス替えで新しい友達と一緒に遊ぶ小学生、春の新人戦に燃える運動部、ドキドキの新社会人など、多くの人が新たなスタートを迎えている。テレビや道で見かける、そんな人たちを見ると、私にもそんな時期があったなあ、としんみりしてしまう。
「どげしたかね、子猫ちゃん!目がとろーんとしちょーよ!」
「あ、いえ。春だなあと思って。私も春は何だかんだでドキドキしてましたから。」
「そういえば、子猫ちゃんの学校生活、聞いたことないなあ。どんなだった?」
「楽しかったですよ。家より好きでした。」
「お客さんも来んけん。もっと詳しく聞かせてごせやあ。」
そういうわけで、私の思い出話が始まった。
幼稚園時代は本当に辛かった。自分から行きたいと言ったはいいが、仲間外れにされ、すぐに行きたくなくなった。でも、自分から行きたい、と言ったから、親は辞めさせてくれなかった。家にいれば怒られ、幼稚園に行けば仲間外れ。どこにいても一人ぼっちだった。だから、早く小学校に行きたかった。自分を知らない人が多く集まるところでリベンジしたかった。
待ちに待った小学校の入学式。同じ幼稚園の人もクラスに何人かいたが、ほとんど知らない人。安心したが、不安もあった。そのころはまだ極度の人見知りで、なかなか声が出なかった。でも、なんとかしなきゃ。そう思って、入学式で隣に座った女の子に話しかけた。女の子は笑顔で話してくれた。初めての友達だった。ちょっとした自身も出てきた。それから六年間、クラス替えはあっても本当に楽しく過ごせた。クラスのみんなで遊んで、音楽、図工、体育はみんなと一緒に笑顔になれた。遠足、運動会、修学旅行、社会科見学。全部が思い出だ。あんなに消極的だった私も、遠足で班長をやったりして、本当に性格が明るくなったと自分で振り返っても思う。二十歳すぎても仲のいい友達もここで出来た。
中学校は小学校の持ち上がりみたいなものだったので、ほとんどが知った人だった。安心感があったが、徐々にみんな変わっていく不安もあった。一緒に遊んでた子が不登校になったり、逆に小学校の頃地味だった子がいじめっ子になったり、スクールカーストなんて当たり前の世界になった。やり辛さ、緊張感もあったが、それでも仲のいい子は私でも二十人はいた。だから、そんな中でも笑顔で楽しく通えた。
私が進学した高校は進学校だった。学内模試で学年での自分の順位を知り、競い合う、そんな高校だった。一年の頃は冗談も、遊びも、みんなでワイワイ楽しめる、そんなクラスだったが、二年、三年はそんな雰囲気じゃなかった。大学進学を目指す、ピリピリとした雰囲気、世間話をすればそんなことより勉強の話に持っていかれ、なんだか物足りない感じがした。それでも、気の合う友達はいたから乗り切れた。修学旅行はなかったが、友達と過ごした休み時間は楽しかった。
小学校、中学校、高校と、私は国語が大の苦手だった。他の教科は良い点が取れても、国語はいつも底辺レベル。なぜかは分からない。真面目に勉強しても全然ダメだった。国語の先生からは哀れみの目で見られ、たまにお説教も食らうほどだった。そんな私だが、一回だけ、国語で褒められたことがある。小学校のときの、教科書に載ってる話の続きを自分で考えるという課題だ。先生はいつもの私の成績を知っているから、目を丸くして驚いていたが、本当に褒めてくれた。国語で褒められたのはこの一回だけだが、大好きな担任の先生に国語で褒められたというのは私の一生の宝物だ。
大学は理系の大学に進学した。やはり、苦手な国語が響いたため、興味のあった文学系には進めなかった。それでも、実験は好きだったし、何より趣味の合う仲間が大勢いたことが本当に楽しかった。日本中からいろんな人が集まったところでは、人見知りも何も関係ない。みんな初対面なんだからと、話しかけた人とは仲良くなれた。二十歳になってお酒が飲めるようになれば友達と飲みに行ったりも出来た。初めての一人暮らし、いろんなことを自分でする必要があって大変だったが、そこは大学で情報交換してやりやすい方法を見つけていった。教授もユニークで、高校とは違い、本当に楽しんで講義をされていた。就活がうまくいかないときは、友達や教授に相談して笑いに変えた。社会に対する希望、何歳になったらこうするんだという人生設計の話も盛り上がった。
「ざっと話せば、こんな感じです。」
「ほんに、ざっとだけど、楽しかったんだなあ。」
「はい。本当に。夏休みが嫌いなくらいに好きでした。」
「珍しっ!そぎゃん子もいるんだなあ。」
「いやあ。」
「なして夏休みが嫌いだったかね?」
「え?だって、長すぎですもん。何しろって言うんですか?」
「家族で旅行とか。家族で何かするもんだがあ。」
「・・・それは出来ませんよ。うちでは。」
「なして?」
「そういう家だったんです。」
「何があったかね?」
「そういえば、おじさんには去年のお正月の話、してませんでしたっけ?」
「そげだけど、弥琥斗から聞いた。でも、それ、去年のことだがあ。それまではどげかね?」
「・・・いえ。いたって普通の家庭でしたよ。本当に。」
我が家にとっては、普通なんだ。うん。普通のことがずっと続いてただけなんだ。だから、話すことなんてない。そういうことにしておこう。
「そげか。ならいいけど。また気が向いたら聞かせーだわ。」
「・・・はい。」
「そげだわ!ちょっと、大将に頼まれて、これから出かけんといけんくなったけん!明日の朝までには戻るけど、それまで留守番、頼んでいい?」
「はい。構いませんよ。何かあったんですか?」
「ちょっとした調べもん。じゃあ、よろしくね!」
「お気をつけて。」
おじさんは車でどこかへ出かけて行った。だいぶ急いで、ちょっと怖い顔に見えた。どこに行くんだろう?何を調べるのだろう?気にはなったが、私も自分のこと、あまり喋らなかったから、なんだかズバズバと質問するのも失礼な気がした。とにかく、今は店番だ。いつ、お客さんが来るかは分からない。来たらちゃんと接客しなきゃ!
と、張り切ったはいいが、やはりお客さんが来る気配はない。考えてみれば、年が明けてからほとんどおじさんの家に居候させてもらっているが、お客さんはあの暗い感じの男性しか見たことがない。こんなんで、よく生活できるなあ。どこから生活費を捻出しているのか、そっちが気になってきた。何もしないまま、床の間のちょっとしたスペースに腰を下ろして一時間。このまま過ごすのも何かと思い、商品の整理でもしようと腰を上げたまさにその時、一人のお客さんがやって来た。
「いらっしゃいませ!」
「やあ。菜月さん。」
「・・・」
あの、暗い感じの男性だった。まじかよ・・・。
しばらく沈黙が続いた。何を喋ればいいのか。最近は弥琥斗とおじさんぐらいしか話したことがなかったためだろうか。何も言葉が出てこない。接客をしないといけないのは分かるが、早く帰ってほしいとも思ってしまう。
「ああ、大丈夫。服を買いに来たわけじゃないから。」
何かに気が付いたかのようにこの人は言葉を発した。服を買いに来たわけじゃないなら何しに来たんだよ!この言葉を出来るだけオブラードに包んで言ってみた。
「で、でしたら、どのようなご用件で・・・?」
うん。私にしては上出来だ。実際の社会で使えば褒められただろうなあ。勝手に想像してしまった。
「菜月さんに会いに来た。」
「はい?」
何を言ってんだ、この人。
「いやあ。この前はあまり喋れなかったから。同じ境遇の人とはなかなか会えないでしょ?」
「まあ、確かにあまり会いませんよね・・・。」
「それにしても、菜月さん、お洒落だね。その恰好で終わっちゃったの?」
「あ、いえ。作業着だったんですけど、ここで人に選んでもらったんです。」
「あのおじさんに?」
「いえ、違う人に・・・。センスが私なんかよりずっといいんです。」
「へえ。どんな人なの?」
「え?どんなって、一言余計で何考えてるか分からないところもありますけど、優しくて、私のことを思っていろいろしてくれて、感謝しっぱなしですよ。」
「そのひと、今、どこにいるの?」
「・・・三か月前くらいに事故で。でも、また会える気がするんです。」
「ふーん。そうなんだ。」
乗せられていろいろ喋ってしまったが、大丈夫だろうか。知らない人にはついて行くなと学校でも言われていた。この人は一度会ったことはあるが、どんな人なのかよく分からないし、名前すらも知らない。・・・名前についてはおじさんとお師匠さんも同じか。
「あの、失礼ですが、まだお名前をお伺いしていませんよね・・・?」
「ああ、名乗るほどの者じゃないから。」
・・・なんだそりゃあ!意味が分からなさすぎて会話を続ける気もなくなった。おじさん、早く帰ってこないかなあ。しかし、今はお昼前。おじさんは明日の朝までに帰ってくると言っていた。まだまだ帰ってきてはくれない。耐えるしかないか。
「それで、菜月さんの服を選んだって人、何してる人なの?」
どうやら弥琥斗に興味があるらしい。私の顔を覗き込むように聞いてきた。
「何って・・・。私のこと、幸せにしてやるって言って、いろいろしてくれてた人ですよ。」
そうとしか言えない。霊幸師について、私が知ってる全てを説明してはいけないと思った。知らない人には余計に。この人はどんな反応をするのか、怖かった。
「なんか、面白い人だね、その人。」
「で、ですよねえ・・・。」
「それで、その人の職業は何なの?」
「え、えーと・・・。フリーターみたいでしたよ?」
間違ってはいないだろう。だって、三重にいた時は修行しながらバイトしてたって言ってたし。
「フリーターかあ・・・。フリーターで幸せにしてやるって大きく出たなあ、その人。」
「そういうことが好きみたいでした。お節介妬きってやつじゃないですか?」
「そうや・・・そうだね。」
また沈黙が広がる。自分の顔は見えないけど、きっとこの人を睨むようなひどい困り顔をしてたんだと思う。そんな私とは違い、この人は常に口元に笑みを浮かべている。何か、私、面白いこと言った・・・?それとも、私の顔が面白いの・・・?
「ねえ。その人と行ったところで一番印象に残ってるところ、どこ?」
「え?そ、そうですねえ・・・。日御碕神社でしょうか・・・。」
さっきから質問ばかりだ。そんなことまで聞いて何になるというのだ。
「・・・なるほど。菜月さん。今から僕とその日御碕神社に行こう。」
「い、今ですか?今は・・・。店番もありますし・・・。」
「どうせお客さんなんて来ないでしょ。さあ、早く。」
「いや、ですから・・・」
必死に断ろうとした。私はどんなに退屈でも、ここにいたい。この人と一緒に、しかも二人でお出掛けなんて、嫌だ。
「来い。」
この人は思いっきり私を睨んで腕を掴んだ。その瞬間、私は凍りついた。どうしよう。そう思いながら、気が付いたらこの人について行っていた。
「出雲空港から出雲市駅に行くバスが出てる。それに乗って、駅まで行こう。そこから乗り継ぐんだ。ね。」
そういうこの人はまた笑顔に戻っていた。何がしたいんだろう・・・。
出雲市駅経由で日御碕に着いたのは夕方だった。地元とはいえ、地元のバスに乗ったことがなかった私はどのバスに乗ればいいのか分からなかった。とりあえず、出雲大社行きのバスに乗り込んで、そこから歩いたり走ったりを繰り返してなんとかたどり着いた。移動中、この人は私のほうをたまに見て微笑んできたが、特にこれといった会話もなく、無言のままだった。もしかしたら、この人も私と何を話したらいいのか困っているのではないだろうか。そんなことを思いながら、ここまで来た。
春の天気はよく分からない。寒かったり、暖かかったり、青空が広がったり、一日中雨だったり。今は、曇っているが雨は降っていない。周りの人を見る限り、今日はちょっぴり寒いようだ。私はこの人の背中を見ながら、日沈宮の前まで来た。何がしたいかはまるで分からない。ただ突っ立てるだけの時間が過ぎていく。その間にも、雲の色はどんどん黒っぽくなっていく。
十分は経っただろうか。ようやくこの人は私のほうを向いて、口を開いた。
「菜月さん。話を聞いてよく分かったよ。君は素敵な人に出会えたんだね。」
「え?あ、はい。そ、そうですね・・・。」
「その人の名前、よかったら教えてもらえないかな?」
言ってもいいのか、迷ったが、何をしてるのか言うわけじゃないし、それにもう弥琥斗はいない。言わなかったら言わなかったで面倒臭そうだったので観念した。
「か、神原弥琥斗です。」
「へえ。」
この人は口元に笑みを浮かべた。名前が面白かったのかなあ?そんな風に考えたいが、なんだかそんな雰囲気でもない。再び沈黙が広がる。何が何だか分からない、気まずい時間が過ぎていく。耐えられなくなって、今度は私が沈黙を破ってみた。
「あ、あの・・・。どうかされましたか?」
「いやあ、ごめんごめん。ちょっと考え事。」
「か、考え事?」
「菜月さんはどうしてこんな状態に?」
全然話が違う。なんの話がしたいのだろうか。
「と、トラックの前に飛び出して・・・」
「なんで?」
「えーと・・・。会社とか、いろんなことが嫌になったから・・・。」
「ふーん。僕と似てるね。」
「え?」
こんなやつと似てるなんて!感覚があれば背筋がゾゾッとしているだろう。
「僕はねえ、高校でいじめられてたんだ。理由は分からない。でも、ひどいこと、たくさんされた。机の上に花が置いてあったり、鞄を窓から捨てられたり、すれ違いざまに突然殴られたり。みんな笑いながらしてるんだ。何もかも嫌になって、とにかく消えたくなったんだ。だから、校舎の屋上から飛んだんだけど、こんな状態で残ったんだ。」
・・・私よりもひどいかも。そんなこと、ドラマの中だけだと思っていた。
「それから僕はずーっと、森の中にいたんだ。誰とも会いたくなくて。でも、半年経って、森の中も飽きてきた。だから街に出たんだ。そしたら、見えるやつに見つかった。」
本当に誰とも話したくなかったんだなあ。でも、その気持ちは私も分かる気がした。
「そいつ、何て言ったと思う?僕の希望を見つけるって言ったんだ。ウケるよなあ。でも、本当に親身になって色んなところに連れてってくれたよ。僕が住んでた市内は隅々まで。だから、働いて一人暮らしになってるやつとか、もともと家を知らなかったやつの居場所が手に取るように分かった。そのうちに、だんだん仕返ししたくなってさあ。やるしかないって思ったんだ。」
あれ?なんか、こんな話、どっかで聞いたことあるような・・・。そうだ。弥琥斗の一人目のパートナー。その人もそんな感じだったって、お師匠さんが言ってた。じゃあ、この人って?いや、でも、封印されているはずだ。二度と出られないって弥琥斗も言ってたし。
「僕は仕返しを実行したんだ。とにかく、川に人を突き落として、中には泳げないやつもいたから可笑しくて!本当に愉快だった。だんだん気が晴れてきて、希望も見えてきた気がしたんだ!なのに!やつは僕を!封印とかなんとか格好つけて小さな空間に閉じ込めた!あんたをいい思いにした神原弥琥斗になあ!」
・・・本当に一人目の人なのか?でも、なんで?
「最初の頃は本当に楽しかったなあ。僕の話、親身になって聞いてくれて、僕のこと親友言ってくれてなあ。でも、僕のやってること知ったら途端に態度変えたんだ。せっかくやりたいこと見つけたっていうのに。」
「で、でも・・・、やりたいことって、仕返しですよね?同級生の皆さんへの・・・。」
「そうだな。なのに、あいつは途中で僕を閉じ込めたんだ。なんでなんだよ?」
この人は本気で言っているのだろうか?確かに私も会社の人間は恨んだ。でも、この状況になってまで会いたくもなかったし、弥琥斗と一緒に会った時も出来るだけ関わりあいたくなかった。仕返しなんて、考えもしなかった。
「菜月さんは?仕返ししないと、腹の虫治まらんでしょ?」
「いやあ、私は・・・。確かに嫌でしたが・・・。そこまでは・・・。関わりたくなかったので・・・。」
「そうは言っても心のどこかで何か考えたんじゃないのか?そんなのありえない!」
「そう言われても・・・。だって、そんなことしたら、嫌な人と同じになっちゃうじゃないですか・・・。」
「そんな教科書通りの答えはいらん!自分の言葉で言えや!」
どうしよう。なんで私が怒られているのか、分からない。今のこの人なら、何を言っても怒るだろう。でも、何も言わなくても同じじゃないか?
「さっきも言いましたが、私だって恨みました。私をこうなるまで追い詰めた人たちですから。そうなったのは、きっとその人たちのストレスの発散の仕方が下手なんですよ。下手で、どうしようもなくて、人に当たるんです。その受け皿がたまたま私だったんです。私はそのことに耐える強さを持ってなかった。望んでこの世を去ることを選びましたが、こんな形で残りました。それなら、仕返しなんて考えずに、好きに、自由にしようと思いました。私はとりあえず地元に帰りたかった。そこで何か楽しいことでもあればいい。そう思ってたら弥琥斗に会ったんです。仕返しなんて、せっかくこの世に残ったのに、時間がもったいないですよ。」
この人は目を閉じて、少しうつむき加減で聞いていた。しばらくしてから顔を上げた。髪の毛を左右に分け、初めて顔全体が見えた。弥琥斗とは違うタイプだが、整った顔をしている。しかし、今、その眼は何か別の、ガラス玉のような、感情のこもっていない目をしていて、真っ直ぐ私を見ている。
「弥琥斗に会って、何を思った?」
突然の問いかけに少しびっくりした。
「え・・・。しょ、正直、死ななきゃよかったって、そう思っちゃいました・・・。私だって、夢はあったから。」
「何だ、夢って?」
「・・・声優です。私は顔がこんなんだから、あまり人前に出たくなかった。でも、演技にはすごく興味があったんです。顔を出さなくてもいい、でも、人を感動させる、そんな仕事をしたかった。でも、周りの人は賛成なんてしてくれなかった。成功するかも分からない、不安定な仕事ですから。こんな無謀なこと言ってたから、私が何言っても否定されるようになっちゃって。まあ、自業自得ですよね。」
「その夢、綺麗に諦めたんか?」
「はい。でも、その他にやりたいことなんてなくて。ただただ生きてるだけな人生になってしまって・・・。嫌気が差して、色んな嫌なこともありましたからトラックの前に飛び出たんです。でも、弥琥斗に会ったら、なんか親や友達が反対してても自力で目指せばよかったって、後悔ばかりで・・・。」
「そうか・・・。」
ガラス玉のような目は私から視線を動かさない。何を思っているのだろうか。この後、何が起こるのだろうか。不安がじわじわとこみ上げてきた。おそらく、五分ほど、冷たい視線を受けていただろうが、その五分が私には一時間以上の長い時間のように思えた。その後、この人はようやくガラス玉を社殿のほうに向けた。解放されたんだ。少し安心した。しかし、すぐにその眼は私に向けられた。今度は燃えるような真っ赤なルビーのような、怒りに満ちた目で。私は驚いてあからさまに後ずさりした。
「僕はそんな風に自分に原因があるって考えるやつが大嫌いなんだ。ただ善人ぶってるだけだろ。悪いのは自分じゃない、周りの人間なんだ。それに、菜月さん、君には友達がいたんだね。なんだか、裏切られた気分だよ。それなのに弥琥斗とも仲良くなるなんて。弥琥斗は僕の友達だ。」
どこから出したのだろうか。気づけばこの人の右手には短剣が握られている。
「と、いうわけで、君には消えてもらう。二度死ぬなんて、気の毒だな。」
剣先は私の胸に向けられている。剣から不思議なオーラみたいなものも出てる。この人の真っ赤な目は変わらない。口元は笑っている。人を消すのが楽しいみたいな笑いだ。そうか、私、殺されるのか・・・。恐怖と諦めが半分半分。動くことは出来ない。父さん、母さん、友達、会社の人、弥琥斗に服屋のおじさん、いい人にも悪い人にも会って、色んな楽しいことや嫌なことを経験した。夢は追えなかったけど、人見知りにしては出会いはあったほうじゃないかな?
みんな、ありがとう。本当に、サヨウナラ。
剣先は勢いよく私に向かってきたようだ。私には非常にゆっくりした動きに見えた。
あともうちょっとで刺さる、そんなときだった。この人の腕を誰かの手が固く握ってきた。二人して怯み、手が伸びてきたほうに目をやる。一体誰なんだ?
「よう!久しぶりだなあ、お二人さん。」
明るい口調ではじける笑顔の男が一人。弥琥斗なの?・・・うん、間違いない、弥琥斗だ。あの事故の時と同じ服装だ。この世に残ってたんだ。
「み、弥琥斗なの・・・?」
どう見ても弥琥斗だが、確認せずにはいられない。
「他に誰に見えるんだよ。服屋のおっさんには見えないだろ?」
「い、今までどこにいたの?」
「玉造温泉。」
「はあ!?」
「事故の後、俺は玉造温泉に飛ばされた。すぐに帰ってもよかったんだが、居心地よくてさあ。」
「・・・何言ってるの。」
あんまり当たり前な感じで言うもんだから、私の声が少々野太くなってしまった。
「冗談だ冗談!そんな冷たい目するなよ。本当はおっさんの家とか、色々調べ物をな。」
「はあ!?」
居たなら何で出てこなかったかや!どんだけ心配したと思っとおかや!心の中は文句で埋め尽くされていく。
「お、おい。菜月、目が怖いぞ。」
「そりゃあ、こげ・・・、こうなるよ。何で今まで私からこそこそ逃げてたの。」
思わずお国言葉が口から漏れ出す。慌てて標準語にした。
「逃げてたんじゃねえ。調べたいことも本当にあったし、それになんか感じたんだよ。もう一度会いたかったけど、会いたくない気もしてたやつの気配をな。」
そう言って、弥琥斗は視線を目の前の男性に移した。
「茶番は終わりか、お二人さん?」
「ああ。久しぶりだなあ、咲哉。」
咲哉。どうやらこの人は咲哉というらしい。
「せっかく菜月さんに名前秘密にしてたのに、あっさり呼ぶなよ。まあ、別にいいけど。」
「だったらいいだろ。それより、咲哉。早く箱に戻れ。お前がこの世の中に留まる資格はない。」
「おいおい、久しぶりに会った親友に向かってそれはないだろ。僕を封印するくらいなら、その女、代わりに箱に入れてまた僕を導いてくれよな、幸せとかいうやつにさ。」
「咲哉の場合は幸せでも夢でもなんでもねえ。他人の不幸を蜜にしか思わない、ただの腐った快感だ。」
「おいおい、そんな言い方ないだろ。霊幸師なんだから、霊には礼儀正しくしろよな。」
「黙れ。俺のパートナーを傷つけるやつはもちろん許さんが、消そうとするやつは論外だ。」
「おぉ、怖っ。」
笑顔の咲哉。その向かい、弥琥斗は無表情だ。目元にも、口元にも、何の動きもない。ただ、目の奥に色んな感情を詰め込んでいるのか、無表情なのに目が怖い。独特の威圧感を放っている。今まさに、弥琥斗を頼っているのに、なんだか少し怖い。私、近くにいていいのかな・・・?
「菜月。」
「え、あ、はい!」
そんなことを考えているときにいきなり名前を言われたもんだから、変な声で変な返事をしてしまった。
「おいおい、なんだよその声。」
「ご、ごめん・・・。」
「まあ、いい。菜月、俺のそばから離れるな。」
「う、うん・・・。」
どうやら近くにいてもいいようだ。と、いうより、近くにいないといけないらしい。
「咲哉。もう一度言うが、お前には箱に戻ってもらう。」
「だから、それは拒否する。菜月さんを消してまたお前に色々働いてもらう。僕の支配下に入ってもらう。」
「断る。俺を支配下に入れるって、それでどうする気だよ。勘違いもいい加減にしろ。霊幸師はパートナーと対等だ。」
「それだけじゃ僕は幸せにはなれない。僕を拒絶した人間を全員潰さないと腹の虫が治まらないんだ。それで僕は幸せになれる。手伝えよ。」
なんだか言ってることが滅茶苦茶だ。どうやら、今、咲哉は復讐のことで頭がいっぱいらしい。話している間に、口調は落ち着いていても、目の奥に潜む感情がこちらまで突き刺さるように伝わってくる。この世で人生を一旦終えてもなお、復讐心に支配されている。
「どうしてお前の復讐の手伝いをしなきゃならねえんだ。一人で勝手にしてろ。まあ、一人でやってようが、俺は咲哉を封印するがな。」
「お前、それでも霊幸師かよ。霊幸師なら霊を敬え。霊に幸運をもたらせ。」
咲哉の目の奥から、別の感情が伝わってきたように思えた。なんだろう・・・。なんだか、他人事じゃないような、そんな変な感じ。直接の接点なんて全くないのに、自分のことのように思えてならない。
「そんな勝手なこと言ってるやつの言うことは聞けないな。それに、俺の今のパートナーは菜月だ。お前みたいな自己中野郎が入る隙なんてないぞ。」
「・・・そうか。ははは!」
突然、笑い出した咲哉だが、面白くて笑っているわけではないようだ。諦めと何か、いろんな感情が混ざった笑いだ。
「弥琥斗、世話になったな。これ以上話しても埒が明かない。菜月さんと一緒に消えろ。」
咲哉が短剣を持ってこちらに走ってくる。弥琥斗は私を庇うようにして構えている。親友だったこの二人がお互いを敵だと見なしている。こんな事ってあるの?いや、現実のこの世にはたくさんあるのだろう。この姿に、状態になってもこんなことが・・・。私は嫌だ。見たくない。そう思ったら、弥琥斗の肩をがっしり掴んで叫んでいた。
「本当にそれでいいんですか!」
弥琥斗は驚いて振り返り私を見ている。咲哉も驚いて動きは止めたが、復讐心と他の感情がこもった目は変えずに私を見ている。少し恥ずかしかったが私は続けた。
「本当はそんなんじゃないんでしょう?本当は弥琥斗と仲良くしたいんでしょう?」
「はあ?何言ってるんだ?」
「おい、菜月。あんまり刺激するな。」
文句を言われようが、止められようが、もう自分の感情を押さえられない。
「もう、いいんじゃないですか?あなたにとって私は邪魔かもしれませんけど、弥琥斗はうじゃないんでしょ?初めてできた大切な親友なんでしょ?」
「黙れ女!」
「黙りません!」
咲哉の眼光の鋭さが増している。その眼光を浴びせまいと、弥琥斗は私を自分の背中で隠そうとしているが、私はそれに逆らい弥琥斗の横に並んだ。
「初めての親友と一緒にいるのが楽しくて、見えないって分かってても今まで散々邪魔してきた人たちに邪魔されたくなかったんでしょ?」
「違う!」
「邪魔されたくなくて、弥琥斗との思い出を守りたくて、増やしたくて、そしたら復讐に変わっちゃったんでしょ?」
「違う!黙れ!」
「おい、菜月・・・。何を・・・。」
咲哉は耳を塞いでいる。私の言葉を全て拒絶しているようだ。弥琥斗はそんな私たちを見て呆然としている。
「弥琥斗、私にもそんなことがあったんだ。私、友達はいるけど、親友かって聞かれたら自信がない。だって、みんな私なんかよりずっと仲のいい友達がいるから。もっと遊びたかったけど、他の子と約束とかしてたら一緒にって言われても入れなかった。邪魔になったら嫌だから。そんなんだから、何回か、誰かいなくなればいいのにって、そうすれば気を遣わずに楽しめるのにって、思っちゃったことがある。すごく自己中で呆れるでしょ?まあ、だから、自分をいじめてた人に復讐してた咲哉さんの気持ちも少し分かる気がする。せっかくできた親友、取られたくないもん。」
こんな自己中な考え、弥琥斗に聞かれたくはなかった。私をパートナーとして受け入れてくれた弥琥斗に、こんな弱い自分をさらに弱く見せてしまう考えを聞かれたくはなかった。しかし、今、目の前で親友同士が争っているのを見て、自分を隠すことが何だか卑怯に思えた。自分から逃げて、弥琥斗に気に入られようとしている。それで本当にいいのか、複雑な気分になった。
「咲哉さんも同じかなって思ったんだ・・・。相手に見えなくても、邪魔されたくないから。楽しい時間を・・・。ただ、咲哉さんの場合はやり方が悪かったんだよ。どんどんエスカレートして、守りたいものも忘れて、復讐心に火が付いたんじゃないかなあって。そう思ったんだ・・・。」
咲哉は目を丸くし、口をぽっかり空けてこちらを見ている。何言ってるんだこいつは、お前に何が分かる、そう顔が言っている。
「違う、そんなんじゃない・・・、そんなんじゃない!」
拳を握りしめ、地面に向かって咲哉は叫んだ。声が境内に響く。とは言っても、この叫びは私たちにしか聞こえない。
「咲哉。」
思い起こしたように、弥琥斗が咲哉に近づいていく。顔を上げた咲哉の目に再び鋭さが戻る。
「咲哉。俺はお前を封印する。だがなあ、俺はお前のこと、親友だと思ってるぞ。」
「は・・・?」
予想もしない一言だった。咲哉はもちろん、私もびっくりした。そんな私たちに気づいているのかいないのか、気にすることなく弥琥斗は続ける。
「は、じゃねえよ。咲哉は俺の親友だ。そう思ってたから前に封印したとき、若干躊躇しちまって、この様だ。今のパートナーを危ない目に遭わせちまってる。咲哉、菜月の言ってたこと、当たってるのか?」
「・・・さあな。」
「まあ、当たってるとして。お前不器用だな。邪魔してくるようなやつを俺は友達とは思わねえ。俺だって咲哉ともっと遊びたかった。あのときの事件の犯人がお前じゃなかったら、お前と捕まえて、軽い慰労会みたいなこともしたかった。」
咲哉はそっと立ち上がり、社殿に背を向けた。もしも私が咲哉の立場だったら、同じことをしていただろう。よく分からない、それでもぬくもりを感じるこの空気は咲哉の立場から見れば少々重い。
「なあ、咲哉・・・。なんであんなことしたんだよ。」
咲哉の背中に淋しそうな弥琥斗の視線が突き刺さる。復讐心に任せてやったことだ、本人にも完璧には分からないことだろう。しばらくの沈黙が続いたが、顔を空に向けた咲哉の口からようやく言葉が出た。
「・・・だいたい、菜月さんの言ったとおりかもな。初めての親友だったんだ。手放したくはなかった・・・。ただ、道端で同級生や知り合いの顔を見るたびに、なんかむしゃくしゃしてたんだ。見えてないって分かってても、邪魔されるんじゃないかって不安がわき出てきてたんだ・・・。」
「俺の初めての親友もお前だよ、咲哉。」
「え?」
私はお師匠さんから話を聞いていたから知っていたが、咲哉は知らなかったらしい。口に出して相手に言うことでもないから、知らないのも無理もないが。
「俺は見える体質だったからな。生身の人間の友達なんていなかった。本当に仲良くなれた相手は咲哉が初めてだ。」
空を向いていた咲哉の目が弥琥斗に向けられた。弥琥斗は笑いながら話を続ける。
「だから、親友のお前を封印するのは辛かったぞ。自分から親友をなくすんだからな。仕事だって分かってても、躊躇するぜ。俺もまだ半人前だからなあ。咲哉の支配下に入れられても役に立たねえな!ははは!」
顔は笑顔、笑い声も出しているが、弥琥斗の全体的な雰囲気はそれとは全く逆のように思えた。そんな風に思ってしまったからか、境内に響く笑い声が、さらに場の雰囲気を物悲しくさせている感じだった。そんな弥琥斗に、咲哉は人一人分開けるぐらいまで弥琥斗に近づいた。
「なあ、弥琥斗。」
「なんだ?」
「封印された人間に来世はあるのか?」
「・・・師匠が供養してくれるから、来世はもうちょいまともな人間になるはずだ。」
「そうか。だったら、また来世で、今度は生身の人間同士として、親友になってくれないか?」
弥琥斗は驚きの表情を浮かべた。しかし、すぐに心からの笑顔でうなずいた。
「ああ、もちろん!」
「じゃあ、またな。楽しかったよ。すっごく。それと、ごめんな。」
「お詫びは箱の中でしとけ。俺も楽しかった。じゃあ、また来世で。」
弥琥斗は咲哉を封印した。その瞬間、弥琥斗も咲哉も、すごくいい笑顔だった。咲哉は一瞬だけ、私のほうを見たように思えた。
箱を拾い、弥琥斗はその箱をじっと見つめている。淋しいような、でもなんだか吹っ切れたような、そんな背中だ。もう辺りは暗かった。星も見えない。曇り空のようだ。
「あ、あの・・・、弥琥斗。なんか・・・、ごめんね。偉そうなこと言っちゃって・・・。」
弥琥斗に出会って、自分の心の弱さが身に染みて分かった。自分でどうにかすることも怖くて、逃げてばかりで、人生も投げ出した。そんな私が説教じみたことを言うなんて、後悔しか残っていなかった。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「何言ってんだよ。」
弥琥斗は咲哉の箱をポケットに入れ、こちらを向いて、私をそっと抱きしめる。こんな私にこんなに優しくしてくれる人がいるのか。驚きでいっぱいだった。きっとこんな状態じゃなければ身も心も温かいのだろう。今は心だけがほっこりしている。今の私にはそれだけで十分だ。むしろ贅沢すぎる。
「菜月があんな事言わなかったら、今頃は俺も咲哉もモヤモヤしながらお別れしてた。菜月が喝を入れてくれたから、お互い分かりあえたんだ。」
「・・・う、うん・・・。」
「ほら、もっと自信持てよ。」
弥琥斗は私の肩に手を置いたまま、社殿のほうに体を向けた。辺りはすっかり暗くなっていたが、真っ赤な装いの堂々とした立ち姿は、どんな時も、目の前で何があっても変わらない。
「ねえ、弥琥斗・・・。」
頭では何も考えていなかった。もう一人の自分が喋っているような感覚で社殿を見つめていた。
「弥琥斗が未来でまた咲哉さんと親友になったとき、私もその中にいたら駄目かなあ・・・。」
なんて図々しいことを!普段の私なら後悔ばかりが募っていただろう。しかし、このときは本当に何にも考えていなかった。恥ずかしいとも思わないくらい、頭の中は空っぽだった。
「え・・・?ふ、ははははは・・・!」
弥琥斗は驚いていたが、突然笑い出した。その笑い声で、ようやく普段の私が戻ってきた。急に恥ずかしくなって、弥琥斗の顔を見ることが出来ない。
「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃん!」
肩に置かれた弥琥斗の手を振り払って、私なりの大声を出したのだが、弥琥斗の足元に向かって言ってしまった。駄目だ。やっぱり顔を直視できない。弥琥斗はそんな私の両肩に手を置いて、まるで小さい子に話すように顔を覗き込んできた。
「悪い。なんか菜月らしくなくてビビってさ。ほら、そんなに拗ねてないで俺の顔を見ろ。」
肩に手を置いたまま立ち上がった弥琥斗の顔をチラッと下から見上げた。笑顔だが、私を馬鹿にしている感じはしない。恥ずかしさを押し殺してゆっくりと弥琥斗の顔に視線を移した。しっかりと私が弥琥斗の顔を見たのを確認して、弥琥斗の口が開いた。
「菜月。友だちの輪の中に入って悪いことなんて一つもない。駄目なことなんてないんだ。菜月が俺たち二人の輪の中に入らず近くで一人でいたら、頼まれなくても仲間に入れる。友だちや親友は多いほうが楽しそうだからな。って、学生時代に友達を作らなかった俺が言っても説得力ないか。まあ、あれだ。咲哉と二人、男同士の話もいいが、菜月も入った男女混合三人チームはもっと楽しくなる。そんな気しかしない!」
弥琥斗はワクワクしている。将来を夢見る少年のように目を輝かせている。生まれてから私は自分の居場所がまるで見つからなかった。しかし、未来の世界は心温まる空間があるような気がする。そう思うと、自然と笑えてくる。弥琥斗はそんな私を見て、ポケットから咲哉の箱を取り出し、私の前に出した。
「今度会うときは何も裏のない、正真正銘、親友同士だ!世界が平和でも、滅びかけてても!約束だぞ!」
「うん。約束。」
弥琥斗が差し出している箱の上に手を置いた。見た目は二人、だけど三人で未来に約束した。
「どんだけ時間かけとぉかね。待ちくたべぇたわぁ。」
帰り道、海沿いを走る車の中でおじさんは弥琥斗に愚痴をこぼしている。弥琥斗に頼まれて日御碕まで車を飛ばし、私たちが駐車場に戻るまで二、三時間の待ちぼうけを食らったのだから無理もないのだが。弥琥斗はさっきから何回も両手を合わせて謝っている。
「本当にごめん!咲哉は現れるし菜月は危ないところだったし、そんなこんなで余韻に浸ってたら余計に時間がかかっちまってさ・・・。」
「あ、あの・・・。弥琥斗の事、許してあげてください。私がおじさんのお店を無断で出てしまってのがそもそも悪いので・・・。」
「そんな、子猫ちゃんは悪くないけんね。弥琥斗、今回は子猫ちゃんに免じて許しちゃる。今度僕の事忘れたら恨むけんね!」
「おう!忘れねえよ!さすがおっさん、話が分かるな!」
弥琥斗とおじさんの話が決着した頃、車は海岸沿いを離れて出雲大社に向かって行った。さっきまでいた日御碕神社も何人か人がいたが、ここは人がいるなんてもんじゃない。観光客や観光客をもてなす地元の人でごった返している。車のスピードも自然と落ちる。
「ほんに、大社さんはようけ人がおおなあ。」
「は?おっさん、何て?」
「本当に出雲大社はたくさん人がいるね、って。弥琥斗、おじさんと結構長く一緒にいるんでしょ?」
「訛り過ぎてたり言葉自体が全然違ってたらまだ分かんねえんだよ。菜月は分かるのか?」
「当たり前でしょ。地元なんだし、私も素が出たら出雲弁だよ。まあ、慣れてなかったら分かんないなんて当たり前だけどさ・・・。」
県外の会社に就職して、私も方言にはだいぶ苦しめられた。仕事が出来ないことよりも、相手が何を言っているのか分からず、話の輪に入れないことのほうが辛かった。そのこともあって、目を付けられたのだろう、と今更気付く。素を出すなんて余裕も隙もなかった、と窓の外の賑わいを見ながら自分の気の小ささに改めて情けない気持ちになった。
「でも、弥琥斗なら大丈夫だよ!弥琥斗は前向きだし、気さくだからさ!」
窓に薄っすら映った自分の顔が楽しさの欠片もないことに気づき、慌てて笑顔で弥琥斗を励ますようなことを言う。なんだか弥琥斗を理由に自分を隠しているような気もしたが、今は弥琥斗とおじさんと私の三人、楽しいドライブを壊したくない一心だ。私の私情なんていらない、この場には似合わない、そう自分に言い聞かす。
車はさらに西へ向かっておじさんの家に戻る、そう思っていたが、なぜか南に向かっていることに気づいたのは弥琥斗が事故の前まで住んでいたアパートに近づいてからだった。どこに向かっているのか、全く分からない。遠回りでもして帰るのか?話に夢中の二人の会話が一瞬途切れたところを狙って私は割り込んだ。
「あ、あの・・・。おじさんの家の方向じゃないですよね・・・?」
「お、気づいた?弥琥斗に頼まれたけんさあ。」
「ちょっと寄りたいところがあってな。おっさん、菜月も連れて行くから、また待ちぼうけしててくれ。」
「またあ?!」
「大丈夫、今度は長くて二時間で終わらせる。」
「さっきと変わらんがあ!」
「じゃあ、その辺ドライブしててくれ。おっさんのこと忘れてるわけじゃないから。」
弥琥斗の顔が急に真面目になったせいもあって、おじさんは不満そうだったが軽く縦に頷いた。・・・それより、私も連れて行くって、何するの?
おじさんは弥琥斗の指示通り、私たちを弥琥斗が住んでたアパートの前に下ろして、一人でドライブに行った。周りには街灯が二本、あとは家の明かりがちらほらとあるだけで静かだった。
「ねえ、アパートに戻って何を・・・」
「はあ?アパートで何するんだよ?」
「え?アパートに来たんじゃないの?」
「何言ってんだ。俺は菜月のためにここに来たんだ。この辺で菜月に関係するところって言えば、だいたいの検討はつくんじゃねえの?菜月、馬鹿じゃねえからな。」
この辺は、弥琥斗のアパートの周りには、田んぼ、埋め立て地、歯医者、民家、あと青い車が止まっている家・・・。私はまさかと思って自分でも分かるくらいに目を大きく開けて弥琥斗を見る。
「そうだ。青い車のあの家。菜月の実家だ。」
・・・何で?
「ねえ、いいよぉ!おじさん呼んで帰ろうよぉ!」
私の実家に乗り込もうとする弥琥斗の腕を掴んで、家に行くことを必死で阻止しようとするが、弥琥斗は聞く耳を持ってくれない。
「菜月、お前いつもとキャラ違うんじゃねえか・・・?なんか子供みたいだぞ。」
「そんなのどうだっていいじゃん!ねえ、やめとこうよぉ!」
「なんだ?実家に恥ずかしいもんでもあるのかよ?」
「別にそんなんじゃないけどさあ・・・。」
普段は親との仲は良かったが、正月に一騒動があってもやもやが残ったまま就職して、その就職先での悩み相談でも親をイライラさせて、そのままトラックに撥ねられて今に至る。親からは見えないとはいえ、今更家に足を踏み入れる気にもならないし、そうしちゃいけないんじゃないかと躊躇ってしまう。
「とにかく、早くおじさん呼ん・・・」
「おっと、見ろ。二階の窓が開いてる。あそこから入ろう。ほら、行くぞ。」
・・・人の話を聞け!
弥琥斗が雨樋を足場にして登って行く。弥琥斗一人で実家に乗り込むのも気が引けたので、私も嫌々その後を追う。まさか、実家にこんな形で入る日が来ようとは・・・。ベランダまで登ると、先に着いていた弥琥斗が手を貸してくれた。その手を素直に掴んで、私は家の中に入った。
「しっかし、二階の窓にも鍵かけねえとこのご時世危ねえだろ。お前の親さんってその辺甘いのか?」
「ううん。いつもはしつこいぐらいに戸締り確認してるから、そんなことはないけど・・・。」
戸締りがされていないことが少々気にはなったが、それ以上に私は感動していた。
「うん?菜月、何きょろきょろしてんだ?実家だろ?」
「いやあ・・・。たぶん、この家、私の保険金とか慰謝料とかで建てた家だと思うんだよね・・・。私が親と住んでたのは近くのアパートだったから、私この家入るの初めて。」
「・・・なるほどな。てことは、この家には思い入れは・・・」
「皆無。」
確かに、この家に思い出なんてない。それでも、夢にまで見た持家だ。私は住めなかったが、親が住んでいる。それだけで安心した。トラックの前に上手く飛び込んでよかったと思ってしまった。
「よかったのか・・・本当にそれで。」
私の考えを察したかのように弥琥斗が聞いてきた。弥琥斗は悲しい目をしていたが、私は笑顔を心がけた。
「うん。私には十分すぎるくらい。」
「・・・なら、いいけどな。」
二階は六畳間が二つ、どうやら一階に台所、茶の間、水回りがあるようだ。いわゆる、典型的な一軒家。友だちの家でしか見たことがなかった、私にとっては憧れの空間だ。その空間の一階、茶の間を覗いたとき、私は息を殺した。父さんと母さんだ。ワクワクがピリピリとした緊張感に変わっていく。
「大丈夫。心配することはない。親さんからは俺たちの姿も声も認識できない。」
弥琥斗が強張った顔の私に声をかけ、肩を抱いてくれた。
「う、うん。でも・・・」
それでもやっぱり何か不安だった。何が不安なのか、よくは分からないが、また何か罵声を浴びるようなことが起こるんじゃないかと思ってしまう。
「大丈夫。まあ、近くで二人の会話でも聞いとこう。」
二人の会話を盗み聞いて何になるというんだ。それでも、弥琥斗は私の肩を抱いたまま、二人との距離を縮めた。嫌でも私も一緒に二人に近づく。
布団を取り払ったこたつ台に向かい合って座る父さんと母さん。テレビを見ながら珈琲を飲んでいる。二人の脇には初めて見る写真立てが伏せて置いてある。しばらく無言が続いていたが、父さんが思いついたように写真立てを立たせた。私の写真だった。
「菜月は本当にこの番組好きだったがあ。」
「うん。そげだねえ。ほら、なっちゃんも見んさいや。」
写真に写る私の頭を指で撫でながら母さんは写真をテレビに向けた。
「少し甘やかし過ぎたかねえ。」
「父さん、なっちゃんには甘かったけんねえ。」
「母さんだって甘かったがあ。」
「父さんほどではないけん。でも、仕事しながら一生懸命転職先を探しとったみたいだがあ。」
「・・・死んでしまったらそんなん水の泡だがあ。」
「就職してからあの子は本当に運がなかったんだがあ。私らより先に逝くなんて・・・。」
「甘やかしちゃいけん思っとったけん、突き放すようなこと言っとったけど、帰ってきてくれたら嬉しかったなあ。」
「そりゃそげだがあ。私もきついこと言いすぎたかもせんわ。うちらの事、散々恨んだまま死んだんかなあ。」
「娘の保険金で家が建つなんて皮肉だけん・・・。」
「だからさっさと家建ててなっちゃんと住めば良かったんだがあ!それをケチケチするけん!」
「それとこれとは別だがあ!」
しばらく暴言の浴びせ合いが続いたが、二人して私の写真を再び見てまた静かになった。ほっとして二人の顔を見たら、二人とも目が赤くなっていた。
「・・・私、今度生まれ変わったら、また、なっちゃん産んで、今度はちゃんと育てるけんね。」
「俺もまた、菜月の父ちゃんやあけん。今度は色んなところに連れてっちゃあけん。・・・、何もしてやれんかったなあ。」
何を言ってるんだこの人たちは。私のこと、うっとおしいんじゃなかったの?父さんと母さん、どちらの顔を見ればいいのか分からなかった。
「もう行くぞ。窓閉められたらまたおっさんを待たせちまう。」
「う、うん・・・。待って。その前に。」
肩に置かれた弥琥斗の手から抜け出して、二人のところに歩み寄る。父さんの右手と母さんの左手をぎゅっと握った。二人は何かいるのか、そんな目でこちらを見てきた。
「父さん、母さん、産んでくれて、育ててくれて、ありがとう。」
二人には決して届くことのない感謝の言葉。二人の視界から姿を消した私からの精一杯のこの声は二人には届かない。しかし、自分の満足感がそうさせたのか、二人は穏やかな顔をしているように見える。その顔を見て私は手を離し、差し出された弥琥斗の手を握った。
二階の窓から外に出ると、ちょうどおじさんが迎えに来てくれたところだった。真夜中の路地裏には誰もいない。何も気にすることなく私と弥琥斗は車に乗った。
「どげだった?」
「ああ。予想通り、同じ会話をしてたよ。」
計画が上手くいったかのように話す弥琥斗とおじさん。これは弥琥斗の急なお願いじゃなかったのか?
「ねえ。予想通りって・・・?」
「弥琥斗。まさかまだ子猫ちゃんに何も言っとらんかね?」
「そういえば、まだだったな。」
「な、何を・・・?」
何を言われるのか、怖さもあったが弥琥斗とおじさんの話についていきたい気持ちもある。このモヤモヤはやはり私に話していないその何かを知る以外にはないらしい。
「悪いなあ。俺がこうなってすぐに咲哉の気配は感じてたんだが、咲哉の前に出るに出れない状況だったし、確かめたいこともあったから、ちょっと潜入捜査的なことしてたんだ。」
「潜入捜査的なって・・・、何してたの?」
「菜月の実家に潜り込んで菜月の親さんを人間観察してた。」
「・・・はあ!?」
人の親を観察するために私の前から姿くらまして勝手に人んちにあがり込んでたんかい、こいつ!
「おい、そんなに睨むなよ!怖えぞ!」
「人があなたのこと心配して不安になってこの先どうしよう何したらいいのって色々悩んでる時に人んちに勝手に・・・」
「そう怒るなよ!ほらっ!スマイル!菜月は笑顔が一番似合うぞ!」
「・・・もう、勘弁してよね。」
弥琥斗の行動は先が全く読めなくて突っ込みどころ満載だが、ちょっとしたところを褒められると誤魔化しだと分かっていても悪い気はしない。湧き上がっていた色んな文句も一旦落ち着いた。
「で、その潜入捜査気取りの不法侵入で何が分かったの?」
「なんか棘があるなあ・・・。まあいいや。菜月もさっき見たろ。毎晩あんな感じだ。」
あんな感じ?どういうこと?さっきとは違う不信の目を弥琥斗に向ける。
「ん?納得出来ねえか?」
「そりゃあ、まあ・・・。電話やメールとは全然違うし・・・。」
「不器用だったんだよ。菜月の親さんは。さっきはあまりはっきり言ってなかったけど、できれば戻ってきてほしかったとか、辛いならそんなに頑張らなくてもよかったのにとか、毎晩それだ。」
「嘘でしょ・・・。だって、あんなに突き放してたのに・・・。」
「それでもこれが答えだ。俺が言葉で言っても信用しないと思ったから、おっさんにいつか菜月と一緒に連れてってくれって頼んでたんだ。まあ、今日、てか昨日か、ちょうど咲哉のこともあったし、ちょうどいいかと思ってな。」
「いや・・・、でも・・・」
「いい加減、素直になれよ。さっきも見ただろ。確かに言い争いは絶えねえ。それでも、自分がどんなに愛されて育ったか。それが分かったから腕掴んでお礼言ったんだろ?」
確かに、あの時、確かに感じた。どれだけ心配されていたのか、そして甘く育ててしまったのか悩む親の葛藤。言葉では突き放していてが、心配と葛藤の狭間でどうしたらよいのか分からなくなっていたことを。それを真意と勘違いした私の愚かさも。さっき流すべきだった涙が今になって流れ出てくる。
「俺はろくな親じゃなかったから、どんな親が普通で悪くて良いのか分からねえけど、菜月の親さんは正真正銘、愛に溢れた親さんだよ。素直じゃないのが親子揃って玉に瑕だがな。」
「・・・一言余計。でも、・・・ありがと。」
こうならないと知ることが出来なかったなんて思いたくはない。こうなってから知るなんて、皮肉だとも思う。でも、嬉しい。私、愛されてたんだ。泣きながら思わずにやけてしまう。
「うん!子猫ちゃん、いい笑顔!」
泣きながら笑っているのがバックミラーに映っていたらしい。おじさんが突っ込んできた。
「あと一時間で夜明けだがあ!このまま宍道湖まで行ってスッキリしようやあ!」
「そうだな。色々ありすぎてさすがに疲れたしなあ。」
トロトロと走行していた車は宍道湖へと急ぐ。
宍道湖西岸に着いた頃には向かい側の松江の街がほんのり明るくなり始めていた。昨日とは違い、今朝はよく晴れている。弥琥斗もおじさんも車から降りたので、私も後を追うように車から降りた。運転席側のドアに背中を付けて立っているおじさん、その横には上から足が出ている。びっくりして上を見ると、車の屋根の上に弥琥斗が座っていた。
「びっくりしたぁ・・・。」
「そんなに驚くなよ。ほら、菜月も上がれよ。」
差し出された弥琥斗の手をすぐに握って車の屋根の上、弥琥斗の隣に座った。うん、若干眺めはいい。どんどん松江の街が明るくなっていく。こちら側もつられるように明るいほうへと向かっていっている。
「日の出って、こんなに綺麗なんだね・・・。」
「ん?どうした、急に?」
「私さ、夜勤の時しか日の出見たことなかったから、日の出は色んなことからの解放の印にしか思わなかったけど、こんなに綺麗なんだね。街も違う街に見えるし、何かが始まるって感じ。新鮮、ってやつかな・・・。」
日の出が解放の印だった頃、太陽に早く出てきてもらいたくて仕方がなかった。それで全てが終わってくれる、そう思っていた。しかし、今は一秒でも長く太陽が昇るときを感じていたい。この新鮮な気分、何か新しいことが待ち構えていると思えるワクワク。この世にいる中で初めて感じるものだ。
「日の出は一日の始まり。だから、今日も仕事かって気分が沈む奴もたくさんいるけどな。でも、菜月がそう思えたんなら良かったんじゃねえの?」
「感じ方は押し付けなければ個人の自由でしょ。」
「そぉでも、子猫ちゃんが夜勤の頃に思ってた日の出の感じ方、間違ってはないと思うけどなあ。」
「何?おっさんも辛いことがあったのかよ?」
「そげなもんじゃないけど。まあ、日の出は昨日からの解放、今日のスタートラインってな。辛くても楽しくても、いつまでも昨日に浸ってるわけにはいかんがあ。向かっていく先が辛くても、進まないと楽しさには手が届かんけん。」
「おっさん、珍しく真面目だな。」
「僕はいつも真面目だけん!」
「どこがだ!」
三人揃って大爆笑。通りすがりのおじいさんは不思議そうな顔でこちらを見ている。きっと、おじさんが一人で笑っているように見えるのだろう。それでも、おじさんはそんなこと気にしない人だし、私も久しぶりに腹の底から笑ったような感覚で気持ちよかった。そうこうしているうちに、日の出を迎えたようだ。
「じゃあ、そろそろ帰えか!・・・って子猫ちゃん?どげしたかね?」
「へ?何がですか?」
「菜月、お前、体が・・・。」
自分の手をよく見てみる。手の向こう側に宍道湖が透けて見えた。そうか・・・。友だちと一緒に遊んだこと、時には喧嘩もしたけど仲直りできたこと、家族と過ごした日々、お世話になった人、そして、弥琥斗と出会ってからの色んな出来事が私の中に溢れてくる。私は車の屋根から飛び降りて、弥琥斗とおじさんのほうを向いた。
「弥琥斗、おじさん。私、すごく楽しかった。楽しかったし、親のことは本当に感謝してる。ありがとう。」
改まって言うのもなんだが恥ずかしい。恥ずかしいが、今は不思議と笑顔でいられる。
「私、不安になりすぎてた。自分に自信だってない。でも、楽しい思い出をくれた父さんも母さんも友達も、弥琥斗もおじさんも大好きだよ。」
弥琥斗もおじさんも、悟ったのだろう。私のことをじっと見ているが、笑顔で聞いてくれている。
「だから、今度会うときは、もっと強くなってる。強い人になって、みんなに恩返ししたい。」
「その思いだけで十分だがあ、子猫ちゃん。僕も楽しかったけん。ありがとう。」
「菜月。」
弥琥斗が車の屋根の上から降りて私に近づく。その眼は真っ直ぐ、私に向けられていた。私も視線を弥琥斗に合わせる。
「菜月。前にも言ったが、未来がどんなことになってても、俺は菜月を見つける。咲哉もだ。俺たち、最高のチームになろう。だから、・・・死ぬなよ。絶対に。」
死ぬな。弥琥斗からの言葉が胸に突き刺さるが、気持ちが軽くなった気がした。私は笑顔で頷いて、長くて、希望に満ちた、一人旅に出た。
「あっさりと行っちゃったがあ。よかったんか、弥琥斗?」
「・・・いいんだ、これで。俺は霊幸師だからな。これも仕事の内だし、これが最高の終わり方なんだよ。それに、俺は平均的な親の像を知らないんだ。その一部を教えてくれた菜月には感謝してるよ。」
「そげか。でも、本当は惜しいくせに。」
「うるせえ。まあ、そんなんだから、俺もまだまだ霊幸師としては半人前なんだけどな。」
「ほう。大変なご身分ですなあ。」
「笑いながら言うな。いいんだ、今回はこれで。今度会ったときも俺が菜月を幸せにしてやるさ。霊幸師としてじゃなく、一人の男としてな。」
「それをさっき言ってあげれば良かったがあ。」
「今は半人前でも霊幸師だ。霊は皆平等に対応するのが俺らの礼儀だよ。それはおっさんも一緒だろ。」
「そげだな。ただ、僕は未来の世界では弥琥斗たちの近くでまた商売しとると思うけん、皆平等ってのは変わらんけどなあ。」
「ちゃっかり近くにいる気か!でも、その時は三人で遊びに行ってやるよ。」
「そげしてごせや。じゃ、帰るか!もう完全に夜も明けたけん!弥琥斗、子猫ちゃんの代わりに店手伝ってごせ!」
「ったく、しょうがねえなあ。次のパートナーが決まるまでな。」