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秋晴れ

作者: La Certeza

「くっそー…何やってんだよ私は。」

山林に沿って走る国道脇にある小洒落た喫茶店の隅で、美郷(みさと)は頭髪を掻き毟り、

大きく溜息をついた。

北関東の山間部では、9月の終わりには日中の気温が20℃を下回ることも多い。この時期には都心から避暑を目的にここを訪れる観光客の姿はめっきり見かけなくなり、これまでとは打って変わって道で出会うのは地元の人間ばかりである。美郷のように市内の高校に通う生徒たちの中には夏休みを利用して東京方面へと出かけ、都会の風にあたって来る者も少なくないが、新学期も始まり皆いつもの平凡な高校生活に勤しんでいる。しかし平凡な高校生活とは、実に複雑な諸々の出来事によって構成されているものであると、美郷は今その身に沁みて思い知っているのだった。事の発端は一週間ほど前。

彼女が放課後、所属する女子サッカー部の練習に行くために教室で荷物をまとめたいたところに、

普段から親しく付き合っている大前理花(おおまえ りか)が相談を持ちかけてきたのだった。

「美郷と竹下くんって、小学校から一緒なのよね。」

「うん、ああ、そうだよ。」

「それでさ、お願いがあるんだけど。」

竹下浩輝(たけした こうき)とは小学校1年生から一度も別のクラスになったことがない。何の縁か自宅がすぐ近くということもあり、幼い頃から活動的な遊びを好んだ美郷はしばしば彼と他の友達と共に野山を駆け回り、昆虫採集や秘密基地ごっこに興じたものだ。高校生となった現在も日に一度はメールのやりとりをする。美郷たちの通う県立檜枝(ひえだ)高校野球部でキャッチャーとして活躍する体育会系で、真っ黒に日焼けした笑顔が印象的な少年である。当然彼に想いを寄せている女子生徒が多いということは知っていたが、まさか理花まで浩輝のファンだったとは…。

「竹下くんメールアドレスを聞いて欲しくて…」

頬を赤らめ恥ずかしげに俯く理花は、別段目立つ存在ではないが女子バドミントン部のエースとして活躍する彼女にもまた、隠れファンが多いということも知っている。物腰の柔らかい、おとなしい女の子で、美女というタイプでこそないがそれなりに整った容姿を持っている。肩にかかる程度に伸ばしたさらさらの髪は、隠れファンたちの憧れの的である。

「全く、アドレスくらい自分で聞いたらどうなんだよ。いちいち私を介して聞くようなモンじゃねえだろ。」

これまでも何人もの女子生徒から、浩輝の「個人情報」について問いただされていた美郷は、呆れた様子でもじもじと体をくねらせる理花を見た。

「いいじゃない、ね。一生のお願い。」

珍しく食い下がる理花の様子を見て、美郷はやれやれと大袈裟にかぶりをふって見せた。「じゃあ、部活のあとにでも聞いてみるよ。夜には理花に連絡する。それでいいか。」

「わあ、美郷、ありがとう。」

心の底から嬉しそうな理花を見て、美郷は仕方ねえな、とぼやきながらショルダーバッグを持ち直すと部室へと向かった。

練習を終えると、美郷はすぐに浩輝にメールを送った。

― 理花がお前のアドレス知りたいんだと。教えてもいいか?


浩輝のメールの返信速度は異常に早い。この時もものの数分で携帯が振動した。


― 理花って誰?


自分と一緒にいる時に会って話したこともあるはずだがと思いつつも、美郷はすぐに返信する。


― 大前理花だよ。 バド部の。


― ああ、あの子か!別にいいぜ。


― じゃあ教えとく。そんだけ。


― ほーい。


浩輝の返答を伝え、彼のアドレスを教えたときの理花の喜びようといったら、それこそ狂喜乱舞という言葉がぴったりな有様だった。ともあれ、これで美郷の役目は全て終了、あとは二人に任せるだけのはずであった。

ところが自体は思っても見ないような、それも極めてややこしい方向へと展開していくのだった。

この一件から数日経った土曜日の午前。

だしぬけに玄関のチャイムが鳴り、今しがた起床したばかりの美郷がドアをゆっくりと開けると、そこにはTシャツに短パン姿の浩輝が立っていた。

「悪い、寝てた?」

「寝てたに決まってんだろ。こっちは午後から練習なんだぜ。」

まだ起きてこない両親を気にしながら、美郷は寝癖を押さえつけ呻くように言った。

「で、どうしたんだ。この間買ったゲームならまだクリアしてないから貸さねえぞ。」

「いや、そうじゃないんだけど…。」

どこかおどおどした浩輝を尻目に、美郷は裸足のまま玄関を出ると、郵便受けに配達された朝刊を取り出す。

「あの…このあいだの大前のことでさ。」

ほー、と言って美郷は浩輝を振り返った。仲の良い友達と幼馴染みの話である。どんなやりとりがあったのか、気にならないでもない。手にした朝刊で扇ぎ、話の先を促す。

「こ、告られた。」

「まじ?」

あの、メールアドレスすら聞き出せないような理花がそこまで素早く漕ぎ着けるとは予想していなかった美郷は、驚いて目を見開いた。それにしても早業である。よほど好きなのだろう、そう思うと苦い笑みがこぼれた。

「で、オーケーしたのかよ。」

意地悪い上目遣いで浩輝を見つめる。ファンの多い彼だが、これまで個人的に告白されたのは美郷の知る限り他に二人しかいない。それに二人とも、いわゆるチャラチャラした女の子であったために結局浩輝が断る形で玉砕している。しかし理花は浩輝の苦手なチャラチャラタイプではないし、クラスでもよく顔を会わせる相手である。少なくとも美郷には浩輝が断る理由を見つけることは出来なかった。

「いや。」

「え?」

「断った。」

一呼吸置いて言い放った浩輝に、美郷は思いきり驚いて見せた。

「えーっ、なんでだよ。いいじゃん、理花。」

浩輝は明らかに困ったような顔をして、それから何も言わず黙ってしまった。美郷が怪訝そうに顔を覗き込むと、彼は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をして美郷に向き直り、絞り出すような声で言った。

「俺…美郷のことが好きなんだ…。」

予想外の言葉に美郷は視線を動かすことも出来ず、二人はしばらくの間睨み合うようにして固まっていた。

秋晴れの雲一つない青空が急激に質感を伴ったものに感じられ、気を抜くと吸い込まれていきそうな感覚を美郷は覚えた。静寂を破って先に口を開いたのは浩輝だった。

「大前には、本当のこと言った。俺、その、小学校ん時からお前のこと…」

「や、やめろよ。いくらお前でも変な冗談…。」

「冗談じゃねえよ!!」

あまりの剣幕に一瞬肩が跳ねる。あきらかに狼狽しているのが自分でもよくわかり、それを意識してしまうと完全に返す言葉が見つからない。

「いつか言おう、きっと言おうなんて思ってるうちに、今になっちまったけど、いい機会だと思って今日、言いに来た。」

聞いたことのないような上ずった声でそう言う浩輝を前にして、美郷は混乱していた。

なにがいい機会だ。

よりによって理花に正直に話すなんて。

まるで私が理花をハメて面白がってたみたいじゃないか。

様々な感情が一気に彼女の精神に降りかかってくる。気づいた時には、家の中に逃げ込み、玄関に蹲っていた。

「美郷!なあ!」

ピシャリと閉めてしまったドアの向こうから、浩輝の慌てたような声が聞こえる。しかし美郷にはもう一度ドアを開ける勇気はなかった。情けなさで涙が出た。しばらくそうしていると、再び浩輝の声がした。

「いきなりこんなこと言って悪かった。でも、返事だけはくれよな。来週の土曜日、「ウディネーゼ」に来てほしい。その時返事を聞かせてくれ。じゃあ、な。部活、頑張れよ。」

ドアの向こうの気配が消えてしばらくしても、美郷はその場から動くことが出来なかった。夢を見ていたような気もした。同時に、夢であれば楽なのにとも思った。

あれから一週間考え続けたが、実は今も明確な答えは出ていない。突き付けられた現実が余りにもショッキングなものであったせいか、いくら考えてもまとまった答えに行き着かないのである。成績は優秀、頭の回転が早いとよく周囲の人間には言われるが、このときばかりは自分の頭がひどく低性能なものに思えた。告白された日の部活は全く身が入らず、キャプテンの3年生からははじめ強い言葉で叱責されたが何を言われても上の空といった様子を見て、どこか悪いのかと心配されてしまった。一方なぜその場で断らなかったのかという自問も彼女を苦しめた。もし自分が浩輝と付き合うようなことがあれば、理花との関係が極めて険悪なものになりかねない。あの理花のことである。激しく糾弾し罵るようなことはないとしても、内心憎悪をみなぎらせるかも知れない。いずれにせよ以前の関係を続けていくことは不可能だ。理花は美郷のよき理解者であり、大切な友達である。断るには充分な理由ではないか。

それでもその場で断れなかったのは自分も浩輝に対し好意を抱いているせいであるという事実には薄々勘づいてはいるのだが、どうしてもそれを認めたくないのである。


― 時間は?


― 11時。午前練だから、遅れるようなら連絡する。


前日のメールのやりとりを見返しながら、美郷はまたひとつ、溜息をつく。むしろ遅れてきてくれ、などと思いながらアイスカフェオレを口に含む。出来ることならまだ猶予が欲しい。頭の中に霞がかかったような状態で、美郷はいつしか遠く懐かしい日々に想いを馳せていた。


小学1年生の入学式のあと、担任に連れられ教室へ向かった。整然と並べられた机には、ひらがなで大きく児童たちの名前が貼られている。まだひらがなすら読めない児童も多く、そういうときは担任や保護者が手を引いて机まで連れていった。美郷は自分の名前は既に漢字でも書けるようになっていたので、自分の机を難なく見つけ、椅子に腰かけた。机の上の「祝入学」と書かれたノートをパラパラとめくっていると、隣に坊主頭で色黒の男の子が座った。二人はお互いのノートを見せ合うなどして次第に打ち解けた。その後すぐに近所に住んでいることがわかり、お互いの家に行き来するようになっていった。

遊び場は主に近くにある雑木林で、小学5年生くらいになると、下級生を引き連れて「探検」したものだ。そういえば一度、こんなことがあった。


その日は朝からカブトムシやクワガタを探して美郷と浩輝、クラスメイトの昭雄(あきお)に3年生の男の子二人で雑木林を歩いていた。

収穫は上々で、気をよくした五人は普段入らないような林の奥深くまで探し歩いた。

「あっ、あれ見ろよ!」

昭雄が声をあげて指差した方向を見ると、そこにはひときわ大きなクヌギの木。上の方の枝で、虫たちが蠢いているのが見えた。

「美郷、登れない?」

浩輝がそう言ってデコボコとした木の表面に手のひらを当てる。木登りは美郷の得意技である。早速彼女は木の凹凸に手足をかけ、するすると器用に登り始める。二股になったところにまたがるようにして見上げると、手を伸ばせば届くところに数匹のクワガタが見えた。三郷は太い枝に身を預けるようにして手を伸ばすと次々にクワガタを掴み、浩輝がかまえていた網の中へと放り込んでいく。最後の一匹を捕まえようと手を伸ばした時だった。突然彼女はバランスを崩し、わっと叫ぶと地面に勢いよく落下した。

「痛えっ…」

右の足首を抑えて蹲る美郷を見て、浩輝たちが慌てて駆け寄った。美郷が大怪我をしたのは誰の目にも明らかだった。みるみるうちに赤紫色に変色していく足首を見て、3年生の二人はパニックになり泣き出してしまう。美郷は慌てて、

「大丈夫、大丈夫だから!」

と下級生をなだめるのに必死で、自分は泣く暇もなかった。

「俺がおぶってやるから、谷口んちで見てもらおう。」

浩輝がそう言って手を差し伸べた。11歳にもなっておぶってもらうというのは心底情けない気がしたが、足の状態を見れば選択の余地はなさそうだ。美郷が痛む足を庇いながら立ち上がると、大柄な浩輝は弾みをつけて彼女を背負った。足首が痛み、涙が滲んだ。

「谷口んち」というのは町外れにある診療所で、クラスメイトの谷口菜々(たにぐち ななみ)の自宅である。父親が医者をやっていて、このあたりの子供たちは大抵一度はここの診療所に厄介になっている。市の中心部まで行けば大きな総合病院もあるのだが、確か車でも一時間はかかったはずだ。

「頑張れよ、すぐ着くからな。」

浩輝は汗だくになりながら雑木林を抜け、山道に沿って歩き始める。昭雄は下級生たちの手を引き、少し遅れて付いてくる。すると、美郷たちを後方から追い抜いていった軽トラックが、少し前方で止まった。

「あれ、うちの車だ。」

浩輝がそう言って、歩く速度を早めて軽トラに近づいていく。車から降りてきたのは浩輝の父親だった。

「おい、どうしたんだお前ら。」

「美郷が木から落ちて怪我した。」

「ええっ。美郷ちゃん、大丈夫か。」

浩輝の父は慌てて浩輝の背中から美郷を抱きかかえ、助手席に乗せると彼らの方を振り返った。

「お前らは荷台に乗れ。診療所まで行ったら美郷ちゃんのお母さんに電話して、すぐに来てもらうんだ。」

浩輝と昭雄は真剣な表情で頷くと、下級生を先に荷台に乗せ、自分たちも乗り込んだ。

「オッケー、父ちゃん。」

浩輝が荷台から運転席のドアを叩くと、軽トラはすぐに発車した。車に乗っていた時間は5分ほどで、あっという間に診療所に着いた。

浩輝の父が美郷を診察室にかつぎ込むと、浩輝はすぐに三郷の家へと電話をかけた。出たのは母親だった。

― ええっ、美郷が怪我。それで、大丈夫なの。

― 痛そうにはしてたけど、うちの父ちゃんが車で谷口んちまで運んだから、きっと大丈夫。

おばちゃん、すぐ来れる?

― 大丈夫よ。ありがとうね、浩ちゃん。


足首には見事にヒビが入っていた。包帯でぐるぐる巻きにされ、松葉杖をついて出てきた美郷を見て、浩輝は小さな声で言った。

「あの、ごめんな。」

「うん、何言ってんだよ浩輝。浩輝のせいじゃないだろ。」

「でも、登れって言ったの俺だし…。」

浩輝は今にも泣き出しそうな顔をしていた。美郷は慌てて言い繕う。

「言われなくても登ってたぜ、絶対。」

そう言って笑ってみせたが浩輝はすっかり元気をなくし、父親に連れられて帰っていった。

結局両親に危ないことはするなとこっぴどく絞られ、夏休みを棒に振ってしまい、所属していた少年少女野球の大会にも出られず悔しい思いをした。その後父に連れられて浩輝の家へお礼に行ったのだが、その時のことは覚えていない。あの時、浩輝は出てきたのだったろうか。


中学に入ると、美郷はサッカー部に入った。ちょうどその前の年にサッカーのワールドカップが開催され、田舎の子供たちのあいだでもサッカーブームが巻き起こっていた。一方浩輝は少年野球を卒業したあとも中学で野球を続けた。この頃というのは性別の違いに敏感になってくる頃である。男子生徒に混ざって真っ黒になるまでサッカーに明け暮れる美郷を友人たちはからかったりもしたが、彼女は気にもとめず中学生活を楽しんだ。決して女子生徒たちと関わりがなかったわけではない。むしろ女子たちの中心にいる存在だったし、「男の子みたい」と言われながらもおしゃれを楽しんだりもした。格好いい柄のTシャツを買い漁った程度だったけれど。

修学旅行では新潟の海辺の町へ行った。美郷も浩輝も生まれて初めて見る海に圧倒され、日が暮れるまで泳いで楽しんだ。最終日の夜は恒例の肝試し大会である。地元の漁師たちが協力して幽霊に扮し、森の遊歩道のいたるところに潜んでいるところを、男女ペアで回るというものだ。ここでも腐れ縁で美郷と浩輝がペアになった。怪奇現象とか霊とかいったものがもともと苦手な美郷にとって、その時の浩輝は心なしか頼もしく思えた。

「なんだよ、全然怖くねーじゃん。」

浩輝は先へ先へと歩いて行ってしまうのだが、ここまでですっかり怖気づいてしまっていた美郷は恐る恐るといったように浩輝の背後に隠れながら歩いた。

「美郷はさー。」

ふいに、浩輝が口を開いた。

「高校、どうすんの。」

地元の中学生の中には、都会の高校へ進学する者も少なくない。多くは寮の完備された私立へ行って親元を離れる。美郷はといえば別に都会に対する憧れも強くなく、地元の高校へ行くつもりではいたのだが、担任教師は保護者面談の席などでしきりに東京の私立進学を勧めてきた。


「美郷さんの成績なら、十分上位校も狙えますよ。」

「はあ。」

母親もわざわざ東京の私立に行かせるつもりはないらしく、

「今日ね、先生に東京の女子高勧められちゃった。」

などと帰ってから笑って話していた。となりの高峰さんの家のお姉さんは、東京にある女子高に通っていて、たまに帰省してくると美郷に女子高生活について教えてくれた。それでも美郷にはその魅力がいまいち理解できなかったのである。


「別に、普通に檜枝行くつもりだけど。」

檜枝高校へは、自宅から自転車で20分ほどで通える。学力的には余裕だったし、多くの友人たちも行くというので美郷もそのつもりでいた。そう言うと浩輝はぱっと目を輝かせて、そうか、と言って頷いた。


あの笑顔はそういうことだったのか。美郷はようやくそこに思い至ってまた頭を掻いた。

携帯の時計を見ると、10時50分をさしていた。何か気の進まないことが待っている時の時間の流れというものは理不尽に早い。アイスカフェオレを飲み、窓の外を見る。国道とはいえ、今の時期車の通りはまばらだ。時折材木を満載したトレーラーが走っていく。まだ浩輝が現れる気配はない。

と、携帯が振動した。

― 新着メール 一通

おそらく浩輝からだろう。遅れるという連絡かもしれない。そう思いながら心なしか慌ててメールを見ると、発信者の欄に

― 大前 理花

と書いてあった。一瞬、表情が凍りつく。様々な悪い憶測が、美郷にメールを開けることをためらわせた。

「美郷、ひどい。」

「もう絶交だから。」

そんな言葉が脳裏をよぎる。胸に重苦しく、黒いものがのしかかる。意を決して受信箱を開き、理花からのメールを選択して決定ボタンを押した。

― 美郷、ごめんね。


こんな一文でメールは始まっていた。理花にしては珍しい長文である。しかし、謝罪で始まっているとは…。

― 竹下くんに頼まれて、断れなくてOKしちゃったんだけど、竹下君が好きっていうのは嘘。私が竹下くんに告白したってことにして、彼が美郷に気持ちを伝えるきっかけにしようってなって、こんな試すようなことしちゃったんだ。


理花も悩みながらメールを打ったのだろう、そんなことが文章から見てとれた。ここまで読んで、美郷は全てを理解した。これは二人が組んで打った芝居だったのだ。騙されて気分が悪いような、これまでの不安から解放されるような、何とも言えぬ気持ちになる。とはいえ理花を責めることはできない、と美郷は思った。それにしても浩輝も狡い手に出たものだ。だけど…。

彼女の全身から力が抜け、シートにもたれかかった。それとほぼ同時に、店のドアが開き、鈴の音が小さく鳴り響いた。ユニフォーム姿の浩輝は店内をきょろきょろと見渡し、美郷の姿を見つけると決まり悪そうに俯きながら彼女のいる席へとやってきた。

「おう。」

そう言って荷物を降ろし、シートに腰掛けると美郷の方に向き直った。美郷は黙って浩輝を睨みつけているように見えた。無理もないか、理花から既に全てを聞いているはずである。そう思って彼は一つ息を吐いた。

「浩輝、お前…。」

美郷はゆっくりと口を開いた。ああ嫌われたな、心のどこかでそんな声がした。

「そういう大事なことは…自分で言えよっ。」

「うん。ごめん。」

浩輝は再び俯き、身を乗り出す美郷の視線から逃れるように身を縮めた。何を言われようと甘んじて受け止めるつもりだ。

「でも…私も浩輝のこと言えた義理じゃないんだ。」

「えっ。」

乗り出していた身体を引いて、美郷は震える声で言った。その目にはうっすらと涙を浮かべている。浩輝はぎょっとして、さらに自らの行いを責めた。

「今までだって、お前が誰それから告られたなんて聞くたびに気が気じゃなくて、断ったって聞いたときはなんだかほっとした。この前だって、お前が理花のこと断ったって聞いて、少し…安心してたんだ。」

言葉が出ないまま、浩輝は美郷の声に耳を傾けた。それ以外にできることは彼にはないように思えた。

「私も、浩輝のこと、好きだった…から。」

そこまで言うと美郷はテーブルに突っ伏して身体を小刻みに震わせて洟を啜り始めた。昔からの様々な思いが、浩輝の目の前に映し出されるようだった。どうしていいかわからぬまま、彼は美郷の腕に手を当て、その手をゆっくりと動かした。

「じゃあ、返事は…。」

そこまで言って浩輝ははっと思い、こんな状況でまだ美郷に追い討ちを書けるような自分の厚かましさを恥じ、言葉を飲み込んだ。しかし彼の気持ちとは裏腹に、美郷は突っ伏したまま小さく頷いたのである。そして弱々しい声で、

「私で、いいんだったら…。」

再び沈黙が訪れる。

突然、浩輝は触れていた手で美郷の腕を掴んで引き起こすと、立ち上がって店の出口の方へと彼女を引っ張った。美郷が慌ててそれを制止する。

「お、おい、待てって。どこ行くんだよ。金払うから引っ張るなって。おい!」

美里が会計を済ませると、再び浩輝は勢いよく彼女の手を引き、店を出た。

「何なんだよ、浩輝。どこ行くんだって。」

「走るぞ、美郷。」

「はあ?」

「そういう気分なんだ。」

「馬鹿野郎、手離せって。」

美郷が抗議するのも構わず、そのまま二人は国道に沿って走り始めた。美郷はすっかり諦めて浩輝の手を握ったまま走っていく。走りながら美郷は携帯を取り出し、理花のメールに返信した。


― 策略、お見事! 悔しいけど完全にハマった。覚えとけよ!


どこへ向かって走っているのか、美郷には見当もつかない。

それでもいいや、と彼女は思った。このまま浩輝に任せて走っていよう。たどり着くのはどこでも構わない。そう腹を決めた。

日はほとんど真上に昇りかけている。山々の間からは、麓にある市の中心部が見下ろせた。浩輝が愛を打ち明けたあの日と同じ、穏やかな秋晴れであった。


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