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黒い陽だまり

作者: 月森

大学から駅に向かう大通りを三つ目の角で曲がった所に、そのレストランはぽつんと立っていた。


一般家庭の水準以上のものは食べてこなかった僕の舌でも分かる程度には美味しく、両親からの仕送りと週3のバイトで何とか一人暮らししてる僕の財布でも十分耐えられる程度には安かったので、彼女とも度々訪れたことのある場所だった。


しかし、今日彼女にこの話をした後の展開によっては、もう気まずくて来れなくなるかもしれない。

僕はそのことを再び思い出して、もはや今日何度目になるかも分からない溜息をついた。



大学生活が始まっても相変わらず女性との接触が少なめだった僕に唐突に彼女ができたのは、夏独特のあの高圧的な太陽が、段々となりを潜めだした頃のことだった。

今は12月だから、もう三か月ほど前になる。

ろくに人の来ない大学図書館の雑誌棟にどういう訳か度々訪れていた彼女が、雑誌棟を大学での己の居場所と決め込んでいた僕に話しかけてきたのがきっかけだった。

僕は当時、初めて本について真剣に語り合える仲間を得たことに歓喜したものだ。

僕の主観ではあるけど、彼女もそれを楽しんでいたように見えた。

そうして仲良くなっていくうち、ふとした会話から二人が小学校の時クラスメートだったことが分かった。

僕はいわゆる目立たないタイプの子供だったし、彼女は彼女で今とはかなり違う雰囲気だったらしいから、お互いに今まで気付けなかったようだった。


そして、僕らが付き合うことを決定的にした事件は、ある日の夕暮れに、大学近くの喫茶店で起こった。

そのころには既に僕たちは、機会があれば一緒に食事に出かけたりする程度には仲良くなっていた。

事件なんて少し大仰な表現になってしまったけど、その内容はごく単純なものだ。


彼女が、僕に告白した。


世間的には大したことじゃないだろう。

今日び告白なんて東京に限ったとしても毎日どこかしらで行われている。

しかし、とにかくその時の僕にとってそれは、事件と呼ぶにふさわしいだけのインパクトを持って迫ってきた。

僕の方に断る理由なんてあるはずもなく、晴れて二人は付き合うことになった。

冴えない文学青年と美女の恋。ここまではありがちというか、よく聞く物語だ。

シンデレラだって男女の役割を逆にすれば同じタイプの物語と言えるだろう。

 

しかし、実に、実に不本意ではあるけれど、現実は童話と違ってめでたしめでたし、で終わりとはいかないものだ。

結論から言うと、僕は今日彼女に別れ話をするつもりでいる。

もちろんその結論に至るまで、僕は悩んだ。悩みぬいた。一生分は悩んだと言ってもいい。

そうして出した結論が、「別れる」というものだった。


理由はいくつかある。


まず、彼女が完璧すぎたことだ。

美しい栗色の髪。その手触りは絹糸のようだった。

大きくて形の良い眼。瞳は奇麗な鳶色だ。

均整を保ちながらも豊満なスタイル。モデルとしてスカウトされたことも一度や二度じゃない、と後で聞いた。

頭の回転も早いし、頑固なところはあるけど一本気で魅力的な性格をしている。

それに対して僕は、かろうじて平均に引っ掛かる程度の風貌だった。

身長は160cm代だし、頭だって別段良くはない。

僕と彼女がデートで出かけても、奇異の視線で見られるか、そうでなければ恋人同士ではないと判断されるかのどちらかだった。

僕の目の前で堂々と彼女をナンパされたことだってある。

付き合って日が経つうちに僕は、自分が彼女と釣り合っていないんじゃないか、彼女は僕以外のもっと優秀な奴と一緒にいるべきなのではないか、

という思いにとらわれるようになっていた。


もう一つの理由は、付き合い始めてからの彼女の態度だ。

それは、献身的、という言葉に集約できる。


これだけ聞けばうらやまがられるかもしれない。

綺麗な女の子が何くれとなく世話を焼いてくれるのだ。普通なら文句の出るはずもない。

しかし、彼女の態度は、こう、何というか、あまりにも病的に過ぎた。

世話を焼く、というよりは、プライバシーの侵害と言ったほうが近いぐらいだった。

彼女と付き合ってすぐに僕らは半同棲生活を始めていて、家事はほとんど彼女が行っていた。

僕も手伝おうとはしたけれど、彼女の方が自分がやりたいと言って聞かなかった。

それではあまりにも情けないと、以前僕が気まぐれに部屋の掃除をしたら、彼女に烈火の如く怒られた。

何事であっても全ての僕の世話を焼かないと気が済まないのだ、彼女は。

普通なら、たとえ付き合っている者同士でも多少は個人のプライバシー、いわば秘密というものを持っている。

夫婦だって、互いに何の秘密事もないなんてことは有り得ないと思う。

だけど、彼女は僕にそれを求めた。どんな小さいことであっても、秘密は一切許されなかった。


プライバシーが存在しない。


それは、気の休まる、自分だけの時間というものが存在しないということだ。

彼女と付き合ってからの僕の消耗ぶりは筆舌に尽くしがたいものがある。


彼女の度を超えた嫉妬もまた、僕を悩ませた。

女友達とあいさつ程度の会話を交わしただけでも、彼女はすぐに、僕に濁った瞳を向けた。

家に帰ってから、僕が今日大学で他の女と3秒も目を合わせた、道でミニスカートを目で追っていた、などと言って泣き出したこともある。

その度に時間をかけて彼女をなだめるのは、随分と骨の折れる作業だった。



そんなこんなで、付き合って一ヶ月足らずで僕は早くも精神的に追い詰められていた。

それでも彼女が好きだったから、僕は何とか歯をくいしばって耐えぬいた。

しかし、さすがにもう限界が来ていた。

僕が読んでいたミステリー小説のヒロインが自分と似ていないというだけで泣き出すようなのには、もううんざりだったのだ。


「急に呼び出して、一体どうしたの?」

ふっと気がついたら、彼女は既に僕の席の横に立っていた。

会うたびに思うことだけど、彼女は本当に奇麗だった。

神話の世界から抜け出してきたと聞いてもどこか納得してしまうような、幻想的な美しさだ。


「とりあえず」と僕は言った。「すわりなよ」

彼女は僕の顔を見て何かを感じたのだろうか。不審気な顔をしながらも、僕の向かいの席に座った。

「二人でこの店に来るのももう何度目になるかしらね」

これで最後になる、と口走りそうになったのを、すんでのところで押しとどめる。ここはやはり、率直に言うべきだろう。


「落ち着いて聞いてくれ」

「何よ、改まっちゃって。プロポーズでもするつもり?」

彼女はそう言って、おどけた表情を作った。どうやら、僕の隠しきれない緊張を彼女なりに好意的に解釈したらしい。

こうなると、別れよう、なんて益々言いにくくなる。

僕は揺らぎかけた決意を固めるために、彼女にばれない程度の所作で深呼吸をした。

一息吸って、一息吐く。

その行動の中で、僕は、自分のやるべきことをやるための心の準備を終わらせた。


「別れよう」


深呼吸のおかげか、どうやら声は震えずに済んだようだった。

彼女は僕の言葉を聞いても何も言わずに、うつむいたままだった。

そのまま、淡々と時間だけが過ぎていく。

静寂が周囲を包む。

いや、実際はレストランの中なんだからそれなりに雑音はあったはずだけど、二人の間に流れる濃密な空気に包まれて、僕の耳はどんな微かな音も感知することができなかった。


この状態のまま、既に何時間も過ぎているような気がする。

実際には五分ぐらいなのだろうか。

もしかしたら一分もたっていないかもしれない。

僕はその静寂の中で何もすることができず、ひたすらに無我の境地をたゆたっていた。



「ねえ、知ってる?」

僕があと一歩で何かの向こう側にたどりつけるところまで達した時、彼女は唐突に呟いた。


その言い方は僕に話しかけたようにも、かといって独り言のようにも聞こえなかった。

虚空にただ漠然と投げかけているような、少し目を離したら溶けてなくなってしまいそうな、そんな言い方だった。

「うん?」

その言葉が世界に溶けきってしまう前に、僕は何とか言葉を紡いだ。


「夜に車を運転してるとさ、虫が飛び込んできて自殺することってあるじゃない。あれって何でか分かる?」

唐突な質問に、僕は少し考え込む。


「えっと、前にどこかで、虫には明るい方に餌があると思う習性があるって聞いたことがあるよ。ライトを見て飛び込んだ結果はねられてるんじゃないかな」

僕はとりあえず、常識的な答えを返した。

もちろん、彼女が求めている答えがそういうものじゃないことぐらい、僕にだって分かっていたけど。


「そうじゃないの」と彼女は言った。「私はね。虫は、生まれ変わりを信じていると思うの」

「え?」

「だって虫って、どんなところからでもどんどん生まれてくるじゃない。

『世界中で無数の仲間が生まれてきてて、それに全部まっさらな新しい魂が宿っていると考えるのはむしろ不自然だ。

魂が無数なわけがない。

だから、新しく生まれてきた虫の中には、昔の仲間達の魂が宿っているはずだ』。

虫たちは、そう考えているの」

「虫って、案外哲学的なんだね」

「茶化さないで」

彼女の目の焦点は、僕に合っていなかった。というより、ここにある何にも合っていないようだった。

それに唐突に気づいた僕は、何となく子供の頃によく遊んでいたビー玉を想像させられていた。


「それに、もう一つ理由がある。それは、虫が光を愛していることよ。

崇拝しているといってもいい。

光に近づくためには、虫は何だってできる。

そんな虫の目の前を、光が通り過ぎようとしている。

もちろん虫だって、それにぶつかれば死んでしまうことぐらいわかってるわ。

その証拠に、昼間は車に突っ込んでくる虫なんていないじゃない。

でも彼らは、命に代えてでも光に近付きたい。

そしてできることなら、光とともに在りたい。

だから虫たちは、死を覚悟して光を追うの。

そして生まれ変わったら、今度は光とともに在ろう。

そう思って、虫達は自殺してるのよ」

彼女は何かに取りつかれたように、一息に喋った。

それは一定の静寂さを保ちながらも、まるで、彼女の魂をそのまま言葉にしたような恐ろしい迫力を秘めたものだった。

レストランの中にはしっかりと暖房が利いているはずなのに、僕は急に尋常でない肌寒さを感じた。

「虫は」と僕は呆けたように言った。「どうして、そんなに光を愛しているんだ?」

「それは」と彼女は言った。

「直観と呼んでもいいし、本能と呼んでもいい。名前は何であれ、そういう抑えがたい衝動のせい」

彼女はそこまで言うと、大きく息を吸い込んだ。

「そしてそれは、私があなたを愛する理由でもある」

そして彼女は、ゆっくりと顔をあげた。

僕はその顔を見て、思わず声をあげそうになった。

瞳に、感情が無い。

魚だって爬虫類だって、たとえ人形でさえ、ここまで何も感じられない瞳はしていないだろう。

さっきの話をしている間に、彼女の中から魂が抜けだしてしまったかのようだった。


「と、とにかく、もう別れよう。話はそれだけだ。でもこれだけは覚えておいてくれ。僕は君が嫌いなわけじゃないし、今後も君と良い友達でいたいとは思っている」

くだらない言葉遊びに過ぎないことは分かっている。しかし、僕が他に一体何を言えただろう。

僕はその後すぐに、強い罪悪感を感じながらもコーヒー代だけ置いて席を立ち、レストランを後にした。

とにかく怖かったのだ。あんな、あんな空虚な瞳をした、彼女が。


ドアを開けて外に出ると、いつのまにか雨が地面に打ち付けられていた。

空を見上げる。濁ったような曇り空だ。

冷たい雨粒が顔を打つ。冷気が体を包む。

近所で買った15800円のコートが、雨に濡れていく。

僕はその時唐突に、ヒトが空を飛びたがった理由を少し悟ったような気がした。




翌日僕の元に、彼女が自殺をしたという連絡が届いた。

罪悪感を感じはしたけど、僕は余り驚かなかった。

多分、どこかでこの結果を想像していたんだと思う。


彼女は僕宛に遺書を残していた。

両親からは遺書の内容を教えてほしいと熱心に頼まれた。

たった一人の娘が遺したメッセージだ。知りたいと思うのは当然だろう。

でも、僕は教えなかった。といより、教えられなかった。

僕自身内容を知らなかったからだ。

それから十年経った今に至るまで、その遺書は開封されずに押し入れの奥にしまわれている。


僕は最近、ふと思い立ってカマキリを飼うようになった。

ハエやバッタを捕まえてきてカゴの中に入れると、カマをふるって捕食する。

そのしぐさは踊っているようにも見えて、どこか心がなごむ。

まるで虚空と戦っているようだ。

そこには何もいないのに。

僕はそこに何かがいるかもしれない可能性に何とか目を反らしながら、今日も彼にエサを与える。


元々は長編として2chに投稿させていただいたものの導入、プロローグのようなものです。

本来ならこの10年後から本編が始まるのですが、そちらはストーリーに破綻をきたしてしまい途中で止まってしまっているので、プロローグのみを短編として改稿いたしました。


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― 新着の感想 ―
[一言] 言い回し、テンポ、文体といった文章全てが好みです。 加えて私の大好きなヤンデレ要素が入っていて、この長編を見れないことが残念で仕方ありません。 いつか再構成してくださることを願います、とプレ…
2012/07/04 23:13 退会済み
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