5:2 どんなに拭っても、拭い去ることはできず
私は目を覚ました。
外は明るみ始めており、薄明かりが部屋に差し込んでいる。
心臓がドキドキとすごい速さで脈打っていた。寝具は汗でびっしょりと濡れている。
乱れた呼吸に上下する胸を抑え、一旦息を止めた。ゆっくりと息を吐きながら呼吸を落ち着かせ、現実を呼び戻す。しかし、今のは夢だと自分に言い聞かせようとすればする程、胸苦しくなった。
夢は現実が創り出すものだ。
彼を――ニックスを私は救えなかった。
何も出来ず、それどころか記憶の底に押し込めて努めて思い出さないようにしていた。そうすることで後ろめたさを誤魔化していたのだ。
だがいくら誤魔化したところで真実はひとつも変わることなく、こうした悪夢となって罪悪感が蘇る。
コンコンと扉を叩く音に、私は急いで涙を拭い顔を上げた。
返事も返さぬうちに突風に吹かれたように扉が開き、ガープが姿を現した。すがすがしい朝の空気が舞い込み、暗鬱を流しさる。
「おはよう」
「お、おはようございます」
「朝食作るだろ? 手伝うよ」
「はい」
私はいそいそとベッドから降り、いそいそと着替えを手にとった。
「クリス、なんか目が腫れてるけど……?」
菫色の瞳で顔を覗き込まれた私はあわてて取り繕った。
「ね、寝起きだからです! 着替えたらすぐに行くから待っていてください!」
ガープを半ば強引に締め出して私は息をついた。
過去のことを思い返してメソメソ泣いていたなんて知ったらガープはきっと気にするだろう。
ガープはもう人間を殺したり食べたりしないと誓ってくれたのだし、蒸し返してネチネチと咎めるつもりもない。
私は手早く身支度を済ませ、台所へ向かった。
朝食といっても、茹でた木の実と果物を用意するだけなのでそう時間もかからない。ガープが手伝ってくれるし、あっという間に準備が整った。
レムを呼びに部屋を訪れた私は、ノックをしかけてその手を止めた。
ドア越しになにやら話し声が聞こえる。レムとは違うもう一人の声があった。誰と話をしているのか気になって、私はついつい聞き耳を立ててしまった。
『最近のガープの様子はどう?』
水の上を撫でてゆく風のような抑揚。聞き覚えのある喋り方だ。
『フンッ、知らんわ!』
レムが機嫌悪そうに答えると、話の相手は妖艶に笑った。
『レムがそんなに怒るって事はある意味計画どうりいってるってことさ』
『オレにはわからんのやけど。なんであの計画にあいつが関係あるん?』
『知りたい?』
『うん…』
『キスしてくれたら教えてあげるよ』
キ、キス――――!?
頭の芯がカッと熱くなる。私は焦って、部屋の中に飛び込んだ。
「レ、レムッ!!!」
慌て叫んだところでハッと我に返った。
しまった。ノックもせずに部屋に入ってしまった…!
レムは驚いたように一瞬だけパッチリと目を丸くして、それから案の定、鋭敏に目を細めて睨む。
思わず後ずさりしそうになったが、レムのすぐそばに立つ男の姿が私の足を留めさせた。
光加減で男の髪が銀色に輝く。どことなく蝶を連想させる優雅さが漂っていた。スラリとした裾長のしなやかな服を着こなした男は、緑がかった瞳に甘いマスクの端麗な顔立ちをしている。
彼の名はシアン。
そうだ、シアンだッ!!!!
シアンはレムやガープたちと同じ魔族の生き残り。博識で歩く大百科事典のような存在だ。彼には前に一度だけ会った事がある。その時もらった植物図鑑はとても重宝している。だけど、もう二度と会いたくは無かった……。
というのも、シアンはある意味、レムより怖いからだ。
部屋に飛び込んだのはたぶん正解だった。
立ちすくむ私を見て、シアンはうっすらと笑みを浮かべた。
「フフッ。美味しそうなおやつが飛び込んできたね」
絡みつくようなネットリとしたシアンの視線に、身の毛がよだつ。
一歩一歩シアンがこちらに歩み寄ってきた。
180度方向転換をして逃げ出したいが、レムを残したままこの場を離れるわけにはいかない。
なにせシアンは…………。
そうこうしているうちにフゥっと耳元にシアンの吐息がかかった。ゾゾッと悪寒が走り抜ける。
「折角だから君から可愛がってあげようか」
そっとささやかれる耳打ちに身の危険を感じ、戦慄した。
シアンは変態なのだ。性別問わずに迫ってくる。
怖い。ホントーーーーに怖い! なんというか、次元の違う怖さだ。
当然、抵抗を試みるけれど、魔族の力たるや格段に強く、
「いけない手だね」
なんて言われて、簡単に手をねじり上げられる。
もう泣きたい。いや、死にたい。
変な事をされるぐらいなら、レムにミリ単位で切り刻まれて殺されたほうがよっぽどマシだ。心の底からそう思う。
服を引き剥がされそうになったところで、
「シアン、やめろ」
と弦を弾くような一声でレムがシアンを制した。
レムに助けられ、私は自分が情けなくなった。
レムを助けようと思って飛び込んだのに逆になってしまうなんて……。カッコ悪すぎる。
しかし、レムは私を助けるつもりは微塵もなかったらしい。
「オレの部屋でヤんな。よそでヤれ」
そう言い切ってピシッと外のほうを指さす。
「いいじゃないか。ベッド貸してくれても。ねぇ?」
シアンはフフッと笑いながら私に同意を求めた。
同意なんか求められても、私としてはウンともスンとも言えやしない。私にとっては場所以前の問題なのだから!!
「ほら、クリス君だって此処がいいと言っているよ」
言ってない! 言ってないんですけどーーーーッ!!!
私が声に出して否定するより早く、レムがプチンと切れた。
「絶対イヤや!!」
レムが声を張り上げた時には、もうすでにシアンめがけて鞭が飛んできていた。
瞬きする間もない出来事だった。
ぱさり、とあでやかな蝶が現れ羽を広げ、空気が震えるほどの衝撃をあっさりとはじき返した。
シアンの手にあるものを良く見てみれば、それは蝶ではなかった。扇子だ。しかもやたらと派手な色の……。
シアンは少しの動揺もみせず、ひらりひらりと扇子をはためかせながら風をそよがせる。
さらに、
「少し腕が鈍ったんじゃない?」
とレムをわざと挑発するようなことを……!
多分にもれずレムの怒りは高ぶった。
「シアン、キサマ……ぎったんぎったんに叩きのめして、首に縄かけて引きずり回したる…!」
「フフ、面白いね。全力でおいでよ」
「覚悟しときや!!」
怒号と共に振り下ろされたレムの鞭は稲妻のような速さでシアンに迫る。
もはや私の目では二人の動きを正確に捉える事は出来なかった。
部屋のあちこちでパン! パン! と花火を鳴らすような発破音が聞こえ、椅子や台なんかが飛び交い、真っ二つに割れたり粉々に砕け散ったりしていた。
数拾合ぐらいやりあったところで、蛇のように地を這わせたレムの鞭がシアンの片足に巻付き、動きを捉えた。
ぐいっと引っ張られ、バランスが崩れるシアン。
レムの勝利――と思ったのはつかの間で、体勢を崩すふりをしてシアンは鞭を掴み上げ一気に引き寄せた。大きくよろめいて「あっ…!」と洩れたレムの上擦った声に、私の心臓はドキンと跳ねた。
転びそうになったレムをシアンがすかさず抱きとめる。
その瞬間だった。
レムがシアンの腹部にナイフをグサリと躊躇なく突き立てた。
仲間相手というのになんという容赦の無さだろうか。
私はショックを感じ目眩がした。
シアンも怖いがやはりレムも恐ろしい…………。
だが、シアンのほうが一枚上手だった。
レムのナイフがシアンの扇子ではたき落とされ、カランと乾いた音を立てた。ナイフの刃には血らしきものはついていない。
「残念だったね」と微笑みながらシアンは服の下から二つ目の扇を取り出す。
どうやらこの扇がナイフによる攻撃を防いだらしい。
シアンは舌打ちするレムを抱きすくめ、頤を持ち上げ唇を近づける。
シアンがレムに口付けをしようとしているのだと気付いて、私は魂が抜け出そうな虚脱感に見舞われた。叫ぶつもりで口を開くが、息がこぼれただけで声が出ない。阻止したいという思いだけが空回りする。
突然シアンがレムから飛び退いた。
その直後、シアンの立っていた床から僅かに粉塵が舞い立つ。
床に落ちていたはずのナイフが消え去り、床がえぐられたように削がれた。
顔色を変えたシアンがつぶやいた。
「撕開不相交の術……?」
シアンは問うようにレムを見た。レムは驚いた表情で首を横に振る。
膝を落とし、シアンはえぐれた床を調べ始めた。先ほどまでの微笑はシアンの顔から消え失せている。
騒動から一転して部屋の中は静まリかえった。
私は一人、胸を撫で下ろした。
何が起こったのか私にはよくわからないが、レムが助かった事にほっとした。
「なんだ。遅いと思ったら、シアン来てたのか」
ふいっとやってきたガープに沈黙の空気がかき消される。
呑気に現れたガープにシアンは鋭く尋ねた。
「ガープ、君かい!?」
「は?」
「撕開不相交の術……」
「そんなの使えるのアイツだけだろ」
「…………」
再び床を見つめ、黙り込んで考えるシアンの背中をガープが景気良くバシンと叩いた。
「来いよ、朝食できてるからさ!」




