3:1 夜になれば空は暗闇に覆われるが
うっすらと立ち込める霧にかすむ樹々。
秩序なく伸びきった枝葉が空を遮っていて森の中は薄暗い。
わずかな隙間からかろうじて降り注ぐ一筋の光に、私は手を伸ばした。
すくうように光を両手で受け止める。
私の手の中はこぼれるほどの光で満ちた。
それなのに、リアルな手応えなんてものはない。
確かにここに在るはずなのに……。
私は短く息を吐いた。
このうっそうとした樹海を抜ければ、きっと光あふれる明るい場所に出られるのだろう。
しかし、霧がかった中、おぼろに見えるのは果てしない緑の魔境。迷った者を閉じ込めてしまう自然の檻だ。空も見えぬほど草木が覆い茂るこの森は寂滅の森と呼ばれ、遭難者が後を絶たず、地元の民ですら立ち入らないという。
私がこの森に初めて足を踏み入れたのは三ヶ月程前になる。カラスに盗まれたペンダントの≪タリスマン≫を追いかけて……。気がつくとどの方向からから来たのかもわからないくらいに迷い、疲労と飢えとで倒れそうになった時、レム達に出会った。
暗く不気味な森の中で、レムの夢幻的な美しさはいっそう引き立って見えた。しかも、私の捜していた≪タリスマン≫をレムが片手に持っている事に気づいた時は、神が遣わした使者なのではないかとさえ思った。……実際は凶悪凶暴な魔族だったのだけれど。
その日から私の胸には赤い刻印が刻まれている。
これはレムの血よって描かれた、レムの下僕である証のようなものだ。
魔族が使う邪悪な術の一つなのだろう。この刻印はレムの意志に反応する。
レムが私を罰したいと思えば、いつ、どこにいても痛みと恐怖を私に与えることができるのだ。
どんなに遠くに離れても、我が身に刻まれた刻印がある限り、私はレムには逆らえないし、逃げられもしない。
うなだれてうつむいた私は金色の瞳と目が合った。
瞳の主はコアトマーチャーと言われる獣で、黒猫に似ているが、体の大きさも獰猛さも、猫の比ではない。
普段なら遭遇したら命はない類の猛獣なのだけれど、レムに比べればいかなる猛獣も可愛らしく見える。
どんな凶悪な猛獣や猛禽もおとなしく従ってしまうほど、レムは圧倒的に恐ろしいのだから。
こちらを見つめたままのコアトマーチャーの頭を私は撫でた。
「私達は、とんでもないご主人様を持ってしまいましたね」
今、私が触れているコアトマーチャーはレムが飼っている猛獣のうちの一匹で、"ヤマト"と名前が付けられている。
ヤマトは金色の目を細めると、触るなと言わんばかりに身を翻した。私はヤマトから嫌われているらしい。
そのままヤマトは数歩歩いてからちらりとこちらを振り返った。
『グズグズせずについてこい』
実際にヤマトが喋った訳ではないが、雰囲気と態度がそう語っている気がする。
私がうなづいて足を踏み出すのを確認すると、ヤマトは再び前を向き、先導して道なき道を歩き出した。
ヤマトの道案内がなければ、すぐに戻りかたさえもわからなくなってしまうだろう。
そんな迷宮さながらの寂滅の森だけれども、ここには良い点が一つあった。
いろいろな植物が生えていて、正確に識別さえできれば食べ物には事欠かない。
今日も食料を調達しに森を探索している最中だ。
私は植物図鑑を開きながら木の実や山草などを慎重に識別しながらカゴに入れた。
この植物図鑑はシアンという魔族に貰ったものだがとても役に立つ。
食べられる植物と食べれない毒性のある植物がわかりやすく書かれているし、薬草の煎じかたまで載っている。
摘み取った食材がカゴいっぱいになってきたのでそろそろ戻ろうかと思っていたところに、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
匂いをたどって探してみると、紅色の小さな果実がたくさん実っている一本の木を見つけた。
私のよく知っている果物の木だ。小粒の実はサンクトベリーと呼ばれ、魔除けの効果があるとされる。ほんのりとした甘さと少しの酸味があり、どんな料理にもあう。
私が住んでいた所には何本もサンクトベリーの木が植えられていたが、まさかこの森にも生えていたなんて知らなかった。
小さい頃、兄カルロと一緒によくこの果実を食べていたのを覚えている。
一つ手にとって食べてみると、昔と変わらぬ同じ味だった。
兄さんにもこの実をわけてあげたい。きっと懐かしがるに違いない。
急激に帰りたくなって、祈る気持ちで天を見上げた。が、天はもっさりとした葉っぱに覆われてしまっている。
私がいる場所は光から隔離された、夜のように暗い森の中。
明けない夜はないと言うけれど、魔族の奴隷に身を落とした私に夜明けなんてやってきそうにもない。
がっくりと肩を落としかけた時、ガサリと緑の天蓋が急に開け、柱のように太陽の光が降り注いできた。
「居た、居た!」
空から降ってきたのは、光だけではなかった。
「遅いから心配したんだぜ」
ガープが私の前にストンと降り立った。
「また迷子にでもなったんじゃないかって。お前、方向音痴だからさ」
「今日は大丈夫です。ヤマトがいるから」
「お、ヤマトと一緒なのか」
周囲を見回し、ガープはヤマトの姿を確認した。
ヤマトはというと、ガープと目が会うなりあからさまにプイッとよそをむいて、すました顔で毛づくろいをはじめた。
「相変わらず、クールだな。ヤマトは」
そう漏らし、ガープが首をすくめる。
こんなにそっけないヤマトだが、レムにはゴロゴロ喉を鳴らして擦り寄ったりしている。
「クールっていうか……。ヤマトに嫌われているんだと思います」
「だよな…。目すら合わせてくれないし……」
急にガープはこちらに顔を向け、凝視してきた。
「な、なんなんですか…?」
「そういや、クリスも最初は目を合わせてくれなかったな~って思い出してさ」
「それは……」
私が言おうとしている言葉は、私の言いたい言葉ではない。
ためらいながら口に出しかけた私だったが、ガープの人差し指がそれを封じた。
私は菫色のガープの瞳を見つめた。
森の中は静かで、風に揺れる木の葉の音だけが遠くでかすかに聞こえる。
ガープが柔らかく微笑んだ。
「帰ろう」
私はほんの一瞬、光の差し込む空を見上げた。
私の帰る場所は教会(カテドラル)一つだ。
けれど、今は――。
私はうなづいて、ガープへ微笑みを返した。
「洗濯物もといれないといけませんしね」
今の私にはもう一つ帰る場所がある。




