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小休止 ヘンゼル曰く、

 

 彼の脳内ではたびたび義妹に対する深刻な愛情が暴走しては炸裂する。



 いや、たびたびというのはおかしいかもしれない。ヘンゼルにとって一日の九割は義妹のことで頭の隅から隅まで閉められていて、残りの一割もほとんど侵食——いや食いつぶされている状態なのだから。

 加熱用調理器具(コッヘル)が盛大な悲鳴をほとばしらせ、さっさと茶の準備を始めよと喚いている。けれども今朝方より秒速で減少していく義妹(グレーテル)成分に苛々していたヘンゼルはそんなもの知るものかとばかりに無視し、同期の友人が呆れた風情で野苺と東の地に生息する葉の一種を混ぜたなかなかメルヘンな紅茶を出してくれるまで、自分の課題に没頭していた。古詩の文献を漁り、葉の紙に、溶かした白墨をつけた木片を使って文字を書き殴る。彼の内心に反して流麗な線を描く文字が浮き上がり、そこら中に散らばっていく。ぐるるるる、という唸り声に漸く約一時間ぶりにその顔をあげたヘンゼルは、空腹を訴えてくる子犬の姿の聖獣の額を力一杯弾いた。


『キャウン!』

「犬みたいな声出しても可愛くもないよ、アハティ。おまえがグレーテルだったら僕だって機嫌良く薔薇と宝石のご飯でも差し出してやったのに」


 ちっ、使えない犬風情が。

 罰当たりなことを考えつつ、彼はいつの間にか隣に用意されていた紅茶を当然のように口許へ運び、優雅に亜麻色の液体を嚥下した。ごくん、と白い喉が動き、天使めいた金の髪が揺れる。グレーテルが幼い頃たいそう気に入っていたもののひとつだ。今ではさして興味を抱いてくれないのがひどく淋しい。グレーテル。僕の可愛いグレーテル。甘いお菓子と小鳥のささめき、白い霧と光にとける花が好きだった幼い義妹(いもうと)

 ああ困ったな。彼は古詩の綴りを確認しながらぼんやりと思った。否。

 心底うんざり犬の一匹でも焼き殺したい気分で思った。


 グレーテルが、足りない。


「ヘンゼル! 愛しい愛しいグレーテルちゃんが恋しくて苛ついてるのはよっく分かったから神術で課題に八つ当たりすんのやめろ!」

「黙れ人の義妹をちゃん呼びするな死ね」

「どわああああっっ!?」


 ピン、と空中で人差し指を弾く。きらりと銀色が光って一直線に友人の頭蓋に突っ込んだ。がふっ、というわりと重傷っぽい悲鳴をものともせず、ヘンゼルはゆっくりと椅子から立ち上がる。軽く死にそうな友人は床を毛虫の如くのたうちまわりながら涙目で彼を見上げた。


「何すんだよ!」

「あのね、金輪際あの子の名を軽々しく呼ぶな————って何回言わせれば分かるんだよ。呼ぶな、見るな、思い出すな。穢れる」

「ひでぇよ!」

「ホルスト。グレーテルは、僕だけの可愛い可愛いグレーテルなんだよ」


 うっそりとそれはまあ堕落した天使のように恍惚とヘンゼルは美しい顔を歪めた。ふわりと目と口だけで微笑する。グレーテル、とその名を口にする時ばかり、彼はこの世の栄華を極めた王者のように、婉然と。


 ぞわ、とホルストは総毛立った。やべぇ、ちょーキレてる。

 どんだけ堪え性ないんだよ、と口にしない理性があった自分を褒めてやりたい。







 研究院、というのはその名の通り、この王国に存在する数多の研究対象をそれそのものに取り憑かれたように研究する場所である。とは言え正式な職場ではない。様々な資格を正規に取得する為の場所だ。能力の向上を第一の目的とし、在籍するのは未だ学生に区分されるものたちである。が、彼らを教え導く気難しい偏屈な教師達が跋扈しているのも事実だ。彼らは大抵そこらのごくごく普通の教師達と違って我が道を行く微妙にトチ狂った人間ばかりなので、研究院に入った生徒達は皆一様にパシられることになるのがならわしだった。

 今大量の書物と神術要素や神々の眷属の気配を充満させたこの部屋で行われている残業まがいのこともそのひとつである。


 つまり、以前よりヘンゼルはずっとグレーテルと離れている時間が長くなったということなのだ。


「おまえさ、何で研究院入ったの? その気になりゃ特赦で神師の資格ぐらい、取れたんじゃね?」

「義父上が入っといた方が良いと仰ってね。何よりグレーテルが、」

「あ、うん、分かった。はいはいはい」


 げんなりとホルストは片手を振り、ヘンゼルは興味もなさげに視線を落とす。ふと背筋の冷えるような水気が周囲を覆ったかと思えば、一瞬にして視界が流水で囲われる。怪訝に眉をひそめればどうもそれは水を司る神々の眷属による悪戯のようだった。左右縦横一面に張られた水鏡。不思議な色を宿す義妹とは似ても似つかぬ己の姿をヘンゼルはぼんやりと眺めた。


 ……昔は、あんなにこの容姿を気に入っていたのに。


 揺れる水鏡の中で長い金の睫毛が影を作る。青い瞳。あの子とは違う。ああ。

 ああ、あの子が欲しい。あの目も髪も唇も耳も手も指も足も爪も目尻に滲み零れ落ちる涙もその身の裡に流れる血液すら、全て。

 あの子の何もかもを僕のものにしてしまえたなら良いのに。

  貴公子もかくやというその美貌を最大限にきらめかせて、彼はうっとりと現実逃避した。うっ、とホルストがドン引きするのも構わずに、見た目的には麗しいことこの上ない微笑でニヤニヤする。数日前に久しぶりに触れた彼女の唇は焦げつくように甘かった。ふるりと震えるあの熱と甘い悲鳴。ああ耐えられない。今すぐ奪ってやりたくなる。


「……お、おーい? ヘンゼル? ヘンゼルー? ……おまえさ、あんまり構いすぎると逃げられるぞ」

「はあ? 何言ってんの。僕はどんなにグレーテルが違うウジ虫にたぶらかされても逃がしてなんかやらないよ」

「ウジ……、大切なんだろ? いーのかよ、そんなことして」


 こいつの頭の中で自分は一体義妹に何をしているというのか。軽く失礼である。


「————良いんだよ、グレーテル自身が昔言ったんだから」

「はー?」


 ふ、と魔性の笑みでヘンゼルは水の眷属の悪戯を握りつぶす。ばしゃん、と凄まじい音が立って水鏡は消え、うすら寒そうにするホルストと目があった。


「たまには我を通したって良いんだよ、ってね」




 ホルストは真剣に、このド変態の友人の義妹が哀れ極まりなく思ったのだった。













 グレーテル、グレーテル。

 僕の愛しいグレーテル。僕の馬鹿なグレーテル。

 君があんまり綺麗だから、こんな風につけ込まれる。


 ああ、ねぇ、僕のグレーテル。


 愛しい君が僕の鳥籠の中でさえずっていてくれるなら、いくらでも尽くしてあげるけど。

 君が逃げようって言うんなら。




 あらゆる手札を駆使して君を閉じ込めてあげるから。




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