アンナ=バルバラの王子様。
ものっそく怪訝そうに唇をひん曲げたディートリヒの顔は美形が残念なくらいに崩れている。ああ本当、どうして世の中女の子より綺麗な男が多いのか。どうして美少女に生まれてこなかったのか! 残念でならないったら。
ともあれ、喋っていてはまた注意されてしまう。何度かうつらうつらするフリーダをいつも通りに平手で起こして、わたしは真面目に授業を受けた。……ええ、真面目に!
神聖史学が終ったあと、わたしはさっさと教室を出て行こうとするディートリヒの首根っこをすかさず引っ掴んだ。ぐおえ、と王子様らしからぬ声で呻かれてハッと手を放す。あ、危ない危ない。うっかり不敬罪で訴えられるとこだった。
「ディートリヒ! ……あ、えっとすみません。大丈夫です、か?」
怒鳴るように呼んだところ、相手がげほげほと喉もとを押さえているのを見てわたしはちょっとご機嫌伺いした。じろ、と睨まれる。……すみません。
お義母様にする時もそうだけど、わたしは手加減というものが苦手らしい。うっかり絞殺しないよう充分気をつけないと。
「……で、なんだ?」
「あ、——えとですね。あの、今朝のことなんですが」
「なぁに? グレーテルってば、なんかあったの?」
……フリーダがいるところではなんだか話しにくいですねぇ。
わたしの微妙な表情を読んだのか、何らかのことを察したのか、ディートリヒが「ちょっと厄介ごとだ。フリーダが関わると余計こんがらがるから解決したら言う」と慣れた調子であしらい、いとも自然にわたしの手首を握って教室から抜け出した。ひどいー、という残念そうな声が背中にかかる。
うう……すみません、フリーダ。
ちょっと気まずく思ってわたしは心の中で謝った。
歩きながらディートリヒは再びわたしに話の続きを促した。
「ディートリヒは、フリーダと以前から仲が良いですよね? それじゃあフリーダにあなたの狂信者による被害はあったりしないのですか?」
ディートリヒはくっと瞠目した。え、何ですかその反応。あれ、と思ってから、わたしは自分の言葉を脳内で繰り返し————
(……あああ!?)
しまったオブラートに包まなさ過ぎた!
ひくくっと頬を引きつらせる。気が急くせいか、うっかり思ったまんまを言ってしまった。さすがに失礼だろう。ひゃあああ、と内心悲鳴をあげていると、そんなわたしの懸念に反して彼は今までの落ち着いた仮面をひっくり返したような闊達さで大笑いした。
「狂信者! それはいいな! 確かにあの類は狂信者だ。俺にでなく、王家に対するもんだがな」
「そ、そうですね……あの、お声が、」
「はじめに危うい発言をしたのはおまえの方だろう? グレーテル」
今度はわたしが目を見開いた。——知ってらっしゃったんですか。
意外。意外だ。いや予想外。わたしがディートリヒの名前を知っているのはともかく、彼がわたしのを知っているのはどうにも居心地が悪い。まるでお友達みたいじゃないですか。
「……フリーダによく聞いていたからな」
「え、あれ、わたし、口に出してましたか?」
「ダダ漏れだったぞ」
少々の意地悪さを浮かべて彼は微笑んだ。美人。悪女の貌だ。他の王室の方々のお顔は存知あげないけれど、もし————恐れ多い考えだから、あんまり口にするのもよろしくないのだけど、もし、彼が首になられたとしたら、その凄絶なお美しさで国の半数の人心を掌握出来ることだろう。この方のお顔はそのような引力がある。少なくとも今のご治世に耽溺しているものはそのお子でいらっしゃるこの方に一も二もなく跪きたくなるのだろうとわたしは瞬間的に思った。
どんなにこの平民商家貴族と多種多様に入り乱れる神学校に馴染んでいらっしゃっても、やっぱりディートリヒは額ずき敬し奉るべき王族なのだ。
「————フリーダが辱めを受けることは、おそらくあり得ない」
その美貌をちらとも崩さず呟き、ディートリヒは翡翠の石が埋め込まれた支柱を右に曲がった。わたしの次の授業は古詩学だったから方向としてはとても助かる。だけども彼は一体何の授業なのか。この周辺でやっているものと言えば、天文、神語、それから————
…………あれ?
さらりと流してしまった、けども、何だか今とっても聞き捨てならないことを言われた気がする。それから言い回しがとてもショッキングだったその意味はつまり今朝方わたしがやられたようなことを指すのだろうか。そう思うと妙に情けない気分になる。それから少しだけ、そうほんとーに少しだけ、イラッとした。……ああ、
どうも、わたしはそれなりに憤慨しているらしかった。
そりゃあ、そうだ。言いがかりで水なんてぶっかけられて、先生に神術で『乾かして』もらったのは良かったけど、それで水気はなくなったからそりゃそれは良かったけど、むかつくことには変わりない。わたしはもう少しでまたお義兄様にお説教されるところだったのに、あのお嬢様はそんなこと、きっと思いもしないんだ。
(…………いえ、私怨は、ともかく。今はフリーダです)
何しろ彼女はわたしの数少ない友人でさらに言えば籤を一本引いたところたった一人で千もの厄介ごとを引き起こす恐ろしい娘なのだから、なるたけ障り——じゃない、危害、いや、被害は少ない方が良い。
「どうしてですか?」
「……フリーダは王宮付き高等神祇官の娘だから、な」
わたしは目を丸くし、そうしてあっさり納得した。ぽこんと胸の裡からもやもやが綺麗さっぱり消え失せる。ああ、——そうか、確かに。そう、でした。よくよく考えればすぐ分かることだったのに、どうも頭に血がのぼっていたらしい。すっかり失念していた。ふっと現実に引き戻されたような感覚がして、今度は逆に、今まで妙な憂慮を起こしていた自分がひどく恥ずかしくなった。
司祭様と似たようでいて違う職業である神祇官というご職業は、時にお貴族様よりも権力がある、らしい。わたしはそんな雲の上のような人々の思惑やらお考えやらお立場やらはとんと見当がつかないから、よく知らないけど。
基本的にお祈りや布教、慈善活動をなさるのが司祭様方で、この方々は政にお関わりになることは少ない。というよりそういう生臭いところとは区別された、でもまた微妙に生臭くないとは言えない位置にいらっしゃる。
だけども神祇官——俗に神官様と呼ばれる方々は王宮内や、領地での簡易的な祭祀、やっぱりわたしにはよく分からないあれこれを司る。占をしたり気象を見たりもなさるらしい。そして、高等神術を極め、それを職業として扱えるまでに至った方が着任される。それには詩師、もしくは神師の資格もいるという。司祭様方はお祈りやものごとを教えることが主なお仕事だから、たぶん、大分違うんだろう。——ああ、そうだ、お義兄様が昔仰っていたことには、緊急時、どちらがより命の危険にさらされるかとすると完璧に神祇官の方だということ。より物質的な問題で。
非難の矢面に立つのは司祭様。というより王宮内にある大神殿の最奥にいらっしゃる聖下や巫女様なのだと思う。滅多に表に出ていらっしゃらない、これまた雲の上の方々だ。まあ今のところそれほどの問題はないから、普段は記憶の彼方にあることがらだ。
聖下と巫女様は、ほとんど権力を持たない彼らの中で唯一王室と対等でいらっしゃるようで、噂によると時々ご一緒にお食事なさったりしているらしい。もっとも、わたし達の王国で一番尊いお方は王陛下でいらっしゃるのだけども。
そういえばディートリヒは巫女様にお会いしたことがあるのだろうか。いっとう良いものを食べていることだし、きっと美少女に違いない。……まあ、底辺の食べ物しか摂っていなくても美しいひとはたくさんいるけど。
「それではフリーダは絶対、大丈夫なんですね」
確認の為、もう一度念を押すようにわたしは問いかけた。ああ、と緩やかに頷かれ、多少ほっとする。いくら神官様のご息女だと言えど、度を過ぎて暴走した女ほど怖いものはないのだから。まあ、踏み外して堕ち崩れた男も同様に言える。
……それにしても。
「……それくらいの分別はつくのに、どうしてわたしを攻撃しようと思ったんでしょうねぇ。あんまりにも短慮だと思いませんか、ディートリヒ?」
「…………いや、——つまり、それは多分、」
何やら歯切れが悪い。
なんです? と先を促すと彼はとんでもなく気まずげにごほんと咳払いをした。んんん?
「つまり、おまえの身分はいちゃもんつけても大して何もならない、と彼女が考えているということだろう」
………………………あー。
一瞬沈黙してしまったわたしは、なんとなくうら寂しい気分になった。つまり「あんたなんかお呼びじゃないのヨ! この底辺を蠢いている汚らしいメスブタが!」ということか。疑いは少なくとも気に障ったらガツッとやっちゃうんですね。
「ディートリヒ」
「……すまん」
「格差社界って超怖いですね」
「………………すまん」
高貴なるトュルンバルト王家の直系であり現在十二番目の王子であらせられるディートリヒ殿下はそれはそれは弱り切ったお顔で仰った。