グレーテルは砂糖菓子を携えて。
わたしの通うアンナ=バルバラ高等神学校は基本的に半日で終る。朝早くに聖堂で朝課に参加し、黙々と司祭様のお説教を聞いて、神術や芯術、語学、史学、職業的な選択科目を受ける。お貴族様もいらっしゃるから結構濃厚な授業だ。とは言っても卒業して暮らしていく為のすべが主だけども。
神術、というのは神様のお力に似た、もしくは神様のお力を借りる、人ならざる術のことで、これはまあ大抵の人はそこそこ出来る。お祈りを欠かさず覚えていて、信心深いとさらに良い。ただ芯術は目一杯身体を酷使し、己の精神を覆す勢いでがっつり世界に働きかける、時には超神術と言われる難しい術だから、苦手な人はすごく苦手。ときどき旅人はこんなわたし達の力を魔法と呼ぶけれど、そんなに可愛らしいものじゃないと思う。そもそも魔法は理論がよく分からない。お義母様の『くろまじゅつ』はさらによく分からない。ちなみにわたしは神術はそこそこド下手だけど芯術の方はわりと普通だ。あんまりないことだけど、多分、わたしの信心深さが足りないってことだろう。
「何とか言いなさいな気持ち悪いですわね!」
そんな神学校にも後ろ暗いことは山ほどある。
ばっしゃあ、と水をぶっかけられたわたしは、ロゼッタ王宮風にくるくると髪を巻いたお嬢様をぼけらっと見つめていた。ぽたぽたと水滴が髪から落ちる。わたしは「はあ」と曖昧に頷きつつ、一体何故彼女はこのような阿呆臭い所行に打って出たのか、ということについて考える。
……うーん? やっかみを負うほど、わたし優秀じゃないんですけども。
よく分からない。それにしても困ったな。びしょ濡れ。このまま帰ったらまたお義兄様に怒られてしまう。……いや、このお嬢様が危ない。お義兄様はそういうカンだけは良いから、きっと簡単に原因を突き止めてしまうだろう。あーやだ過保護。
「えっと……何か拭くもの、いただけませんか」
さしあたって一番の重要事項を言ってみた。のに、何故かくるくる髪のお嬢様はカッと目を剥いてさらに怒り狂った。
「馬鹿にしてますの!?」
自分が言えって言ったのに……。
面倒臭いなぁ、このひと。
ぽりぽりと濡れた頭を掻いてしまってから、その冷たさにうっと詰まる。べとべと。使ってない水で良かったけど、でもこれ結構酷いんじゃないかなー。
校舎裏なんていう古典的な場所で首をひっつかまえられ何やかんやと怒鳴られまくしたてられたかと思えばこの有様。一体このお嬢様は何がしたいんだろう。ていうか、貴族? それとも豪商の子かな。少なくとも富裕層であることは間違いない。なんか偉そうだし。
「えーとですね、あの、何故わたしは怒られているのでしょうか」
「そこからですの!? あなたひとの話聞いてなくって!?」
「……。……えー、あー……、………………すみません」
「本当に聞いてなかったんですのッ?!」
だって急に喋るから!
ぶるぶると屈辱に震え始めたお嬢様にわたしは軽くびくついた。やばい。このひとやばい。近頃巷で頻発してるキレやすいワカモンだ。どうしよう厄介なのにぶち当たっちゃったなぁ。
「なんてひと! あなたのような下賎な女がディートリヒ様のお側に侍るなんて、許されなくってよ!」
…………えー、と。
ディートリヒ? って、あのディートリヒ、かなぁ。てことはこのひとはやっぱりお貴族様だ。でも別に侍ってない……っていうか、そんなに親しくないのに何で? 昨日ちょっと荷物運びをお手伝いさせていただいたくらいだと思うんだけど。一体何がどうこんがらがってこんなことに。
ディートリヒ・ユストゥス・ベルンハルト・ディーツェル・マテウス=トゥルンヴァルト。長ったらしいお名前のこのお方は、わたし達の王国シュテンヘルツ聖王国王家の十二番目の王子殿下だ。うちの王様にはそれはもうたくさんのお子様がいらっしゃるから、王都のそれなりに有名なこのアンナ=バルバラ高等神学校にするっと入れられたぐらいのことは、別におかしなことでも珍しいことでも何でもない。ただの確率の問題だ。殿下と呼ばれるのは王宮で充分だと嘆いていらしゃったから、大抵の人はディートリヒと呼んでいる。敬称付けをやめられないひともまあいるみたいだけど。
それでもディートリヒは王子だ。だからお貴族様の彼を見る目は、わたし達なんかとはちょっぴり違う。やっぱり恐れ多いという色が強くて、だけども、いやだからこそなのか何なのか、女の子はあわよくばお嫁さんに! という子が多い。ちなみにディートリヒはとびきりの美人だ。お義兄様にはいささか見劣りするけれど(まあこれは家族の欲目かもしれない)、底の見えない紫がかった濃い青の眼に、緩やかに波打つ銀により近い白金の髪を肩の下あたりまで伸ばして軽く結っている。羨ましいくらいの美人さんだ。わたしは美少女は大好きだけど、男が美しくてもむかつくだけだからぜひとも王女様に生まれていただきたかった。……こんなこと言ったら不敬でひっ捕らえられるかもしれないけど。
「人違いだと思うので」
「はあっ!? ——ってちょっとお待ちなさい! 話はまだ終ってな」
「——————アッヘンバッハ?」
……わあ、なんてナイスタイミング。
よく通るどこか冷たい、氷菓のような高めの声。それでも少年のものと分かる。一部のお嬢さんの胸をときめかせるには充分な、透き通った声はあんまり耳慣れない。わたしは小さい頃からずうっと聞いてきたお義兄様の声の方がしっくりくるから好きだ。
だって何だか、ディートリヒの声は妙に高貴で侵し難いものがある。
「こんなところで、一体何をしている」
びくっ、と分かりやすくアッヘンバッハ家のご令嬢は身を震わせた。がたがたともう既に涙目だ。恥じらうように目を伏せて「あ、ああ、あ」と言葉にならない声を吐く。なんつうベタな。
「ディ、ディートリヒ、様……! これはっ」
「……言い訳は良い。己の行動を俺に見られて恥じるなら、さっさと清潔な布の一つでも持ってくるんだな」
「————!」
ぼろっ……とお嬢様は涙を零した。きらきらとその溢れる涙を風になびかせて、彼女は逃げるように走り出した。うわーお、古典的。わたしは空笑いした。何だろう、このとっても損した感は。え、あれ、この構図わたし悪者じゃない?
「……大丈夫か」
「あ、すみません、変なところをお見せしてしまって」
「いや、俺のせいだろう」
「……あ、あははは」
分かってるんならああいう信者達を何とかしてくれ! とか思うのはさすがに酷なんだろうな。突き詰めればディートリヒのせいじゃないし。でもなんか割に合わないなぁ。
「ところでディートリヒはどうしてこんなところにいらっしゃるんですか?」
「いや、……フリーダに苺を取ってくるよう頼まれてな。神獣様の今のご好物らしい」
自国の王子をパシるとはフリーダ恐るべし。
まあ、それに素直に従うディートリヒも何だか何だかだけど。ふうん、と納得してわたしはしぱしぱと目をしばたたいた。うー、水が沁みる。気持ち悪い。
ディートリヒはそんなわたしの様子を見て申し訳なさそうな表情になった。
「そんなに気にしないでください。それより苺、早く持っていった方が良いでしょう?」
「ああ、——すまん」
「律儀ですねぇ」
苦笑してわたしは自分の用事を済ませる為に彼と別れた。
てくてくと歩き、裏庭の奥へ進む。ディートリヒとは丁度反対側だ。白い花が年がら年中咲いている場所。今は蒲公英も咲いていたり綿毛になっていたりする。わたしはその中の綿毛をひとつ、いただきますと呟いて手折った。ふう、と息を吐きかける。一瞬で半分以上の種が飛び上がり風に乗って流れていく。わたしはそれが全て目に見えなくなる前に、親指と人差し指をくわえて、ピイイイイイ、と口笛を吹いた。
すぐさま、ばさばさばさっと羽ばたきの音が届く。見上げると首まわりが灰色の、全体的に真っ白い鳥が大きく翼を広げて旋回していた。
「シュテルン!」
プガァ、と情緒もへったくれもない声でシュテルンは鳴いた。