腹の見せ合いから始まるのが友情です。
結果として、フリーダは何の苦も感じさせることもなく、あっさりとアイマーの中の水を神飲水に変えた。神飲水というのは、純度の高い、発火性のある、人に服用させると精神を限界まで浄めて高める効能を持つ、主に神々に属するものが好む特殊な水だ。俗世の汚れを落とすものでもあり、単純に神属の好物でもある。聖域などに自然発生しているものが最も強い効果を持つらしいのだけれども、神術によって普通の水、たとえば川水などでも、この神飲水に変容させることはできる。ただ、やっぱりこれができるのは、だいぶ熟練した高位の神官さまぐらいだ。たかだか神学校生ができることじゃない。隣で感心を通り越して呆れているディートリヒの表情を見るに、彼にもできないことなのだろう。このひとも、かなりの優等生なのだけど。
王の前で杖を握って侵入者に相対していたフリーダを思い出す。どうして、フリーダはあそこにいたのだろう。そういえば、アルノーたちも彼女に会いにいく、と言っていた気がする。フリーダは王宮で何か役割を負っているんだろうか。侮り難し。随分と長いつきあいになるのに、まだまだ謎な部分の多い子だ。もしかしたらもっと敬わなければいけないのかもしれない。
「ふーんふーんふふーん」
……鼻歌とか歌ってますけど。
るんるんと機嫌良さそうにばっしばっし神術を使い、神飲水への処理を終えたあとも、何がしか作業をしている。完全に自分の世界に入っている。自由人め。わたしとディートリヒは肩を竦め合い、自然とそれぞれの練習に入ることにした。
と、なんとなく視線を感じてはたと固まる。おのおのの自主練に励んでいた級友たちが、ざわざわしながらこっちを見ている。なんで殿下がアレと……? というような囁きが端々から聞こえてきた。うわっ、逆受難もいるし、などとフリーダにおそれをなす声も入り交じる。フリーダ、恐れられてますよ。いったい何したんですかあなたは。
(というか、そうか……)
自習のときにフリーダが演習場にくることは少ない。桁外れに力の差があるというのもあるけど、それ以上に個々に練習を行う自由な場で、さらに教師という名の見張りがいないと、ほぼ確実にフリーダは暴発するから。
だから、今日はとても珍しいのだ。……残念なことに。
それで遠巻きなのかー、とフリーダのまわりだけ円形に避けられているのを見て、わたしは虚ろな目になった。これはおそらく射程範囲をはかられている。
「……ディートリヒ、わたしたちも避難すべきでしょうか」
「…………まあ、そうだな」
さすがの心優しき王子様もこういうときのフリーダには近寄らないらしい。賢明だ。
少し移動して——一応、フリーダの動向が視界に入るくらいの位置を確保しつつ——わたしはまた聖句を唱えはじめた。ふよっ……と歪な光の玉が浮き出たものの、すぐにふしゅるるるっと消えてしまう。すごい半端な感じだった。失敗。ぐぬぬぬぬ、悔しい。
わたしが唸っていると、ディートリヒがぽつりと呟いた。
「本当にヘタなんだな」
失敬な!
じろり、とわたしは彼を恨めしげに睨んだ。そんなにはっきり言わなくてもいいじゃないですか。
「ディートリヒは、デリカシーがありません」
「ぐっ……それは、すまん。しかしグレーテル、芯術はよく使えていなかったか」
ここで素直に謝ってしまうところがディートリヒらしい。だけど気づいてますかそれよけいに失礼です。こ、このやろう。
だけども、続いた指摘には、うんざりと溜息をつく。
「あー……そうなんですよねー。なぜか、あっちの方がうまくいくんですよね」
「おまえ、信心深くないのか?」
「聞きますか、それを。真顔で。本人に」
こみかみに青筋が立つ。この男、悪意がないからよけいにたちが悪い。天然か? 天然なのか? とひとりむくれていると、ディートリヒの口の端が微かに吊り上がっているのが見えて、わたしは目を剥いた。
——からかってる? ディートリヒが、他人を、まさか、からかってる!?
怒るのも忘れて唖然としてしまう。ディートリヒはつい最近まで、ときどき授業や演習で一緒になったり、軽く挨拶を交わしたりはしても、それほど深くつきあうような相手ではなかった。わたしにとっても、おそらく彼にとっても。だから、ディートリヒの実際の性格をはかれるほど、彼のことを知っているわけではない。でも、十二番目とはいえ、この神学校にたったひとりの王子様はとても目立つ。その一挙一動はあらゆるひとに注目されて、どんな様子なのか、遠目にでも窺える。彼は特別偉ぶるひとでも、かといって物語に出てくる白馬に乗った王子様みたいなひとでも、失礼ながら王者の風格が醸し出されているというわけでもない。そうはいってもまあ、独特の近寄り難さはなくもないのだけれど、それでも王室の方にしてはわりあい親しみやすく、幾分真面目の気が強い印象のあるひとだった。声を荒げることは少なく、基本的に淡々としていて、でも友人たちとは穏やかに笑い合っていたりする。そういうときは大抵男子といるので、お嬢様方は手巾を噛み締めて涙をこらえつつ見蕩れていらっしゃるけれども。……あれ? わたし、けっこうこのひとのこと、見てたなあ。ミーハーなつもりはなかったのだけど。って、いや、そうじゃない。だから、つまり、ディートリヒが、誰かをからかったりするとは、思ってもみなかったのだ。
ああ——でも、そうか。ディートリヒは、わたしたちと同い年くらいの、男の子なんだ。
そりゃあ、戯れくらい、口にする。
「…………グレーテル? すまん、気に障ったか」
あんまりにもわたしが沈黙していたからか、ディートリヒは少し反省したように謝った。眉尻が垂れて、どこか悄然として見える。わたしは慌てて否定する。
「ああ、いえ、違いますよ。まあ、微妙にむかつきはしますが! ちょっと驚いただけです。えーとわたしが不信心者って話でしたっけ」
「いやそこまで断言はしていないぞ」
「そうですねえー、確かに、他の方々よりは、敬う気持ちが足りないかもしれませんけど」
それに、どちらかというと、王室や神殿の方々に対する敬意の方が大きい。とは、当の王室直系子ディートリヒ殿下には申し上げにくい。
ううん、どうだろう。
わたしは、確かに、信心深くはない。かといって嫌いだというわけではなくて、……なんというか、あまり知らない、お金持ちの隣人、みたいな感覚だ。
いや、でも。
「でも。わたしは、感謝しています。神に。わたしがわたしの家族を得られたのも、それが折り重なった偶然だとしても、きっと神々の眼差しもあったと思いますから。故意のない道筋は不意の導きです。わたしが幸福に思う全てに、きっと多少なりとも関わっていらっしゃる。だから、感謝はしています」
不器用な努力によって築かれた平和を、愛しているから。
壊れてほしくないから。
「……おまえの感謝は、どこか強迫観念のようだな」
思わず、といったように、ディートリヒが洩らした。わたしはぎくりとした。そして、彼の言葉を自覚していたらしい自分を自覚する。そのことに狼狽えた。どう答えれば良いのかわからず、口ごもる。そんなわたしの様子に今度はディートリヒが焦り出した。
「ああ、すまん。今日は、失言ばかりだな。その、ただの感想なんだ」
「はい、あ、いえ、大丈夫ですよ。ディートリヒが謝ることなんてありません。わたしこそ、すみません。とりあえずもうちょっと敬虔にならなくちゃだめですね」
あはは、と笑って後ろ頭を掻く。すると、その腕をやんわりと取られて、下におろされた。きょとん、とディートリヒを見上げる。なんだろう。
「……芯術が得意なら、そっちを伸ばせばいい。グレーテルは、神殿に入るつもりはないんだろう。せいぜい、試験で点を取ることができたらいいんじゃないか」
仄かな笑みとともに言われ、わたしは目をぱちくりと瞬かせた。これは、気遣われて、いる? ……誤摩化し笑いはしなくていい、と。
ふっと心が浮き上がる感じがした。知らず知らずのうちに頬が緩む。
(これは)
これは、嬉しいですねえ。
ついつい、へらへらとにやけてしまう。べつに、それほど気にしていたわけでもないし、神術が下手なまま上達しないことに関して、もうとっくの昔に自分で匙を投げていたから、ぜんぜん、そう、ぜんぜんどうってこと、ないのだけど。
「ふっふふふ。ありがとうございます。ま、でも、せめて基礎くらいすんなりいくように練習しますよ」
「基礎も駄目なのか……」
一言多い。
「うるさいですねえ。とにかく、やるのでちょっと離れますよ」
ふんと顔を背け、どこでも周囲の視線を集める男から距離を取ろう——断じて、断じて腹が立ったわけではなく——と、一歩踏み出した。
そのとき、ふいに何かがすねに引っかかるような感覚がした。
(———え?)
一瞬、それがどういうことなのか、分からなかった。単純に戸惑ってしまった。たぶん、それがいけなかった。
ぴんと張られた糸に突っ込んでしまったような、それに、
ぐらり、とわたしはものの見事に躓いた。
それはさぞかし間抜けなほどに。