無邪気な才能と天賦の災い。
風が吹いている。それはがたがたとしきりに窓を揺らし、家の中にまで冷気を忍び込ませていた。暖炉に薪を投げ入れるほっそりとした手。まだ幼い、少年の腕だ。やわらかく頼りなげな、そして少し痩せた腕だった。そのひとは片膝を立てて座り、背を向けている。毛布を被ったわたしは、ぼんやりとそのちいさな背中を見つめる。寒いのに、身体の奥が熱くて気持ち悪かった。どうしてかすぐに息が切れてしまう。さみしい。ふいに思った。ここにはふたりも人間がいるのに、わたしはすごく淋しくて、心許なくて、ちょっぴり泣きそうだった。ぱちぱちと火の燃える音がする。暖炉の中で薪が崩れる。わたしは毛布を引きずり、這いずるようにして、少年に近づいた。彼は気づかない。熱い息が喉から洩れる。おにいさま。弱々しい声が、ついでのようにこぼれた。おにいさま。無様に揺れた呼び声は、ひどく掠れていたけれど、確かに彼の耳に入ったらしい。驚いたように振り向かれる。わたしはふにゃりと笑み崩れた。望んだものを得て、じわりと淋しさが引いていく。
おにいさま。
呼びかける。
おそらく、愛を込めて。
手を伸ばすわたしを戸惑った瞳で見下ろし、お義兄様は——
一日ほど休んだところ、完全に体力が復活した。実質的にはほぼ無傷なので、わたしは翌日には学校に行けることになった。
校舎内に入ると、休んでいたことを知っているからだろう、すれ違う級友たちがかわるがわる気遣いの言葉をくれた。ありがたく思いながら、ひとりひとりに大丈夫ですと返していく。今日は神術の実習がある。あまり好きではない授業だけれど、すっぽぬかすわけにもいかない。憂鬱な気分になりながら演習場へ向かう。
予想と違って、演習場にいるものたちはみんな、好き勝手に練習をしていた。目をぱちくりさせていると、とんとんと肩をつつかれる。わたしは飛び上がった。へんな悲鳴が出た。
「すごい反応だなあ。今日は自習らしいよ。誰かと組んでもいいし、ひとりで練習しても大丈夫」
……どうやらわたしはあからさまに個人練習が良いという顔をしていたようだった。級友が笑って付け加えたのに対し、ほっと胸を撫で下ろす。団体練習では、たいがい足手まといになってしまうから、なるべく避けておきたい。ほんっとうに、神術は向いていないのだ。
端に移動してぶつぶつと聖句を唱える。が、しかしあまりうまく発動しない。というかしょぼい。せめて防護結界を形作れるようになりたいんだけどなあ。うーん、と悩んでいると、すぐ近くでちゃぷんと水の音がした。なにげなくそちらに視線をやってからぎょっとする。
「ばっ、フリーダ!? 何やってるんですか」
「何って、これ、お水を、はこん、で、え」
ぐぬ、と潰れた声で呻くフリーダの両手にはたっぷり水を注がれたバケツ。当然ながらその腕はぷるぷると震え、今にも床にぶちまけそうだった。わたしは頬を引き攣らせた。こっちは病み上がりなのに!
片方を強制的に奪い取ろうとしかけ、寸前で思いとどまる。代わりに、子馬にするように慎重に、どうどう、と彼女を刺激しないようにしながら指示を出す。
「ゆっくり、ゆーっくりで良いですから、それを、地に、下ろしてください」
「う、うん」
「ゆっくり! 焦らない!」
「あわわっ、うん」
無事、二つのアイマーが地面に下ろされ、わたしとフリーダが安堵でひたいをぬぐったとき、悲劇は起きた。いや、相手があのフリーダであるというのに、のんびり油断していたわたしが悪かった。
彼女はほんの少し、胸を反らし——そうした瞬間足を躓かせてこけた。
「あっ」
フリーダの膝が、ごつん、と鉄の容れ物に突撃する。中身が波立ち、ぐわんとふちが揺れたかと思えば、あまりにも呆気なく、アイマーがその頑強に見える体勢を崩した。
わたしとフリーダは見事に固まった。動けなかった。——ああ、こぼれる!
あわや、と天を仰いだわたしは、だけどいつまで経っても足許の濡れる感触がしなくて、訝しみながら薄目を開けた。
「……あれ?」
「とまってるー!」
フリーダがぱあっとはしゃいだ声をあげる横で、わたしはぱちくりと瞬く。アイマーは斜めに傾いて空中に飛沫を浮かべた姿のまま、時が止まったように停止していた。なにこれすごい。神術にこんなのあったっけ。
と、背後でふかぶかとした溜息がこぼされた。え。
「なんでおまえは、こうも的確にやらかすんだ? フリーダ」
「ディートリヒ?」
腰に手を当てて目を眇めるのは、どんな角度でも麗しい、ディートリヒ殿下そのひとだった。わたしはまじまじと彼の全身をくまなく観察した。見たところ怪我の痕はないけれど、仮にも一応正真正銘、このひとは王子様なのに。しばらく王城に引きこもっていなくて良いのだろうか。わたしの表情を読んだのか、彼は軽く苦笑する。
「俺はフリーダより軽傷のはずだ。特に何もしていないしな。狙いをつけられているでもなし、身を控える必要性を感じられない」
さらりと無茶なことをおっしゃる。王家の人間だという自覚は充分あるのに、どうして自分のことに限定すると、こう、なんか投げやりになっちゃうんですかねえ。
「えー、でも、この前ので目をつけられたかもしれないじゃない?」
フリーダがじゃっかん不満そうに苦言を呈した。わたしもうんうんと頷く。だけど肝心のディートリヒはぴんとこないらしい。
「それはないんじゃないか? べつに俺が王子だとは分からなかっただろうし。俺よりもグレーテルやアルノーたちの方が覚えられていそうだが」
「えっ、わたし!?」
なんで!? すごい嫌だ!
顔を土気色にするわたしに、ディートリヒは少し呆れたようだった。分かっていないのか? とは、え、ちょっとどういう意味ですか。なぜフリーダまでそんな顔をする。とても心外です。ドジっ子フリーダのくせに。
「やだなあ、グレーテルったらもしかして忘れてるの? 自分のことなのに」
「何がですか」
「あのとき、グレーテルは神様のお力を貸していただいたでしょ。そんでもって使ってたでしょ。もしあいつの仲間が様子を窺っていたりしてたなら、ぜったい抹殺リストに入ってるね」
(フィーネ様——————!!)
わたしは思いっきり叫びそうになった。ああああもうっ、フィーネ様のばかばかばか! なんてことしてくれるんですか! せめてもっとこうー、うまーく誤摩化した感じで使わせるとか、もっと、もっと他に方法なかったんですか! そりゃあ、あのときは助かりましたけど後引くとか聞いてない。あんなのもう無理だよ。あの日は雰囲気に呑まれてなんかめちゃくちゃ悩んでそんでもって重大な決断した気になってたけど違う。ぜったい違う。流されただけだ。
後悔あとに立たず。中途半端に関わるからこういうことになるのだと、グレーテルは今更ながらに反省した。
「それに、グレーテルは……その、目立つからね」
フリーダが歯に挟まった言い方をする。それで、現実に引き戻された。わたしは苦笑いで頭の後ろを掻いた。ディートリヒが何か言おうとして、結局黙る。まあ、わたし自身の中身は、地味で影薄い不信心者ってだけなんですけどねー。外見だけなら、記憶に留まりやすい自覚はあった。とは言っても、決してかわいいとか美人とか、そういうたぐいではないのだけれど。
「首突っ込んだのはわたしです。自業自得ですから、仕方ないですね」
「でも、本当に助かったんだよう」
「それなら嬉しいですけどねえ。そういえばフリーダ、それ何に使うんですか?」
ちら、とまだ停止したままのアイマーを見る。さすがディートリヒの術だ、持続時間が長い。忘れていたらしい彼の指が動き、ゆっくりと地面に下ろされる。
「あ、これねー、全部浄めて神飲水にするの。エサイアス様に捧げるんだー」
「…………」
これ、ぜんぶ?
にこにこしながらさらっと難しいことを簡単そうに言う友人に、わたしはちょっと寒気を覚えた。フリーダの告げた内容は、実際、かなり高度な神術と技力を必要とするものだった。なんつーやつだ。さすがすぎる。ていうかフリーダ、ぶっちゃけ、あのときのわたし全然いらなかったんじゃ……ユティ様もいらしたし。思ったけど、口には出さなかった。ディートリヒも黙って珍妙なものを見る目を向けている。
普段は台風なのに、わたしの友人はこれに関してだけは、そら恐ろしいくらいの実力者なのだった。