表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

25/28

小休止 クラウス曰く、

 どうやらいつの間にか意識を失っていたらしい。クラウスは医務室の豪奢な寝台で、なんだか落ち着かない気持ちで身を起こした。まだ陽の昇り始めたばかりなのか、窓の外はうっすらと白んでいた。

 周りを見渡すと、真っ白な絹に隔てられた向こうに、同じように寝台が並んでいる。壁となっている絹布をやんわりとめくるとアルノーがいた。彼はまだ眠っている。疲労が色濃く刻まれた、あまり芳しいとは言えない顔色が痛々しい。その寝台の横に椅子をひっつけて、アルノーの手を固く握りしめて俯せになる誰かがいた。考えるまでもなくフリーダだった。そういえば、とクラウスは思い出す。この少女は、あのとき、いつになく毅然と、まるで知らぬ女のように厳しい表情で立っていた。泣き虫のフリーダが、だ。全てが終わったあとも、怪我を負ったアルノーのもとにすぐにでも駆けつけたかったろうに、真っ先に王のもとへ向かった。彼女は、おのれの責務をまっとうしたのだ。最後まで。

(えらいな、フリーダは)

 こんこんと眠り込む彼女の頬には、涙の痕があった。夜中に泣いていたのだろう。怖かったのだ、彼女は。当然だ。だって十六歳の女の子なのだ。そのうえ世紀の泣き虫で恐がり。天真爛漫で物怖じしない、歩く災厄の種だけれど、長年同じ学び舎で過ごした身として、彼女が決して強くはないことを知っている。長い付き合いの友人なのだから。

 そんなフリーダがあれほど頑張っていたというのに比べ、自分ときたら。

 クラウスはまったくもって自省の念が絶えなかった。情けなくて仕方がない。あの方の——シュテンヘルツの(たっと)き巫女の、一度の盾にもなれなかった。


 この国でもっとも神の愛を享ける巫女ユスティーナ。

 ありとあらゆる加護を持ち、あまねく重圧を背負う女。


 うつくしいひとだった。

 青い夜の銀の月光を寄せ集めたような髪は清らかな水のように流れ、ときおり光の加減で虹色にきらめく黄金の瞳は不思議な輝きに満ちていた。強い意志を宿す思慮深い眼差しと裏腹に、彼女は折れそうなほど細く、肩は薄く、真っ白な(はだ)は傷をひとたび負おうものなら壊れてしまいそうな儚さだった。

 けれども彼女は未熟で半端なクラウスたちよりずっと勁く、しなやかで、たぶんその身は鋼で護られていた——彼女自身の力で。

 かのひとにとってはあの場にいたどの人間もみな、庇護の対象だった。同等の位を持つ、王陛下ですらそうであるようだった。彼女はまさしくこの国を護る立場の人間だった。

 当然だ、彼女はシュテンヘルツのすべての民に敬慕される巫女。

 当然だ、彼女はシュテンヘルツの民の希望。

 当然だ、彼女は人より神に近しき人間。

 分かり切ったことだ。

 分かり切ったことなのに——なぜ、こんなに、哀しいのだろう。

 その当然の事実が、どうしてこんなにも彼を打ちのめすのか。

 は、と知らず詰めていた息を吐く。苦しい。これは、怪我のせいだろうか。意識すると、じわりと痛みが脳まで伝わる。この痛みを忘れてはいけない、とふいに思った。クラウスは、布売りの息子だ。神官でも、兵士でもない。その職につくこともないだろう。戦いと遠い場所で生きていきるものが、こういう痛みに慣れるのはあまりよくないことだ、と思う。

 それもまた分かっている。けれどもまた、それなのに、と彼は胸許を掴んだ。

 悔しい。

 ——ああ、悔しいとも! おのれの無力が憎いほど!

 唇を噛み締め、傷を押さえ、ぎりぎりまで眉根を寄せ、クラウスは心中で呻く。

(なんて、役立たずなんだ、俺は)

 そう、嫌悪に顔を歪めたとき、ふわりとやわらかな風が流れた。窓の外からだった。何かに引かれるようにクラウスは面をあげ、視線を向けた。そのとき、細い窓枠にそれと同じくらい華奢な足がひらりと舞い降りた。


「え……?」


 驚きのあまり、思わずこぼれおちた彼の声に、そのひとが反応する。


「ああ、ごめんね。起こしてしまった?」


 気遣わしげに世にも稀な瞳が、ただクラウスだけを見つめる。いたわりと、心配と、申し訳なさ。そんな感情を込めた悲しそうな両眼。

 天使が降ってきた————いや違う! 

 茫然としていたクラウスは我に返った瞬間、寝台から転げ落ちそうになった。叫びそうになる口を慌てて塞ぎ、深呼吸をする。彼の過剰反応に相手もまた驚いていた。


「だ、大丈夫? ごめん、まだ起きていないと思ったんだ。窓からの方が近道だったから」

「あ、い、えあの、」


 そういう問題ではなく! いやそれも充分衝撃だったが。

 

「なぜ、ここに……ユティ様……」


 動揺のせいか、声が震えた。恥ずかしいことこのうえない。羞恥と困惑で顔色を悪くするクラウスに、ユスティーナはすまなそうに微笑んだ。そんな表情すら、芸術品のように心を惹きつける。心臓がどん、と音を立てた。


「謝罪と、感謝を。巻き込んでごめんなさい。一緒にあの男の攻撃を防いでくれてありがとう」


 それは、おそらく、疑いようもなく彼女の本心だった。だからこそクラウスはやるなくて、不甲斐なくて、虚無感を覚えるほどに辛かった。


「俺は……俺は、何も……」

「なぜ? あんなに助けてくれたのに?」


 謙虚だね、とささめくように微笑う。このひとは、このひとが感じていることは、きっと、クラウスが思う『助ける』とは違う。

 大いなる巫女は守るべき民に守られるなんて、きっと考えたこともなかったのだ。

(でもそんなのは、助けじゃない。結果が伴わないなら、足を引っ張っただけだ)

 だから、そんなことを言わないでほしい。そんな、嬉しそうに、けれど罪悪感を持って。


「クラウス? ……怪我の、調子が、悪い?」

「ちが——違います。大丈夫です」

「だめだよ、診せて。それに、このためにもきたの」


 どういう意味かと問い返す前に、ユスティーナは真っ白な両手を複雑に動かし、クラウスの腕の傷の上にかざした。


(はふり)と赦しを。傾城のエリナ=ルオール、これは蜜の呪い。神よ、これは命と時。汝、乞われし者、いまひとたびの慈悲を願う」


 透き通った声が小さく祈言を唱えた途端、淡い燐光を纏って傷が完全に消えていく。クラウスの傷が終わればアルノー、そして軽傷のフリーダに、と移っていく。クラウスは密かに驚愕した。上級とか、高位とか、そんな言葉ではすまされない、不可能と可能のぎりぎりの線を踏み越えた領域をいく術だ。とそこまで考えたクラウスの血の気が引いた。


「なんてことを……! こんな、どれだけ消耗するんですか! たとえ巫女様といっても、むぐ」

 

 彼らしくもなく荒げられた口は、たった今まで術を操っていた少女の手によってむりやり閉じられた。やわらかく仄かに体温を持つ指が彼の唇を押すものだから、一瞬で思考が四散し、頭の中が真っ白になる。一気に体が熱くなり、動悸息切れ目眩が怒濤の如く押し寄せてくる。


「はいはい、大丈夫だから。まあ正直に言うと軽く負担はかかるけどね、そう大したことじゃない。だってわたしは、シュテンヘルツの巫女だからね」


 にっこりと愉快そうにする彼女の顔が、けれど先程よりも白くなっていることに気づかないほど、クラウスは鈍感ではなかった。そしてそのことを彼女も分かったのだろう、穏やかな笑みは苦笑に代わり、弱ったなあ、と優しく呟いた。


「本当に、大丈夫なんだよ。わたしは、言うなればこれがわたしの仕事で、義務で、許された権利だから」

「権利……?」


 そう、と巫女は頷く。


「わたしの民を、守る権利」


 厳然とした口調だった。決して折れない意志の宿る、強い言葉だった。それはとてもゆったりとした、少女らしい甘やかな声であるというのに、聴くものに反論を抱かせない、絶対的な決意を孕んでいた。

 圧されたクラウスが二の句を継げず、言葉を失う。ユスティーナ・クリューゲルはあまりに誇り高く、完璧なまでに巫女だった。

 けれどもその完璧さは砂の城のように崩れ、歯痒さにうつくしい面が歪む。


「なのに、あなたたちを巻き込んでしまった。特に、クラウス、あなたを」

「え、お、俺ですか」


 クラウスはびっくりした。自分の何がこのうつくしいひとの心を曇らせているというのか! 殴りたい! 自分を殴りたい! クラウスはだいぶ混乱していた。


「アルノーやフリーダは神殿関係者だし、ある程度危険のほどを理解して彼ら自身の意志でとどまってくれたけれど、あなたは違う。あなたは、わたしが、わたしが守らなきゃいけなかった。……あんな怖い目に、合わせて、傷なんて、作らせては、いけなかったのに」


 泣きそうだ、となぜか彼は、そう思った。ユスティーナにそんな素振りはなく、悔いをにじませてすら、巫女然としているのに。けれども一度そう感じた瞬間、クラウスは彼女の細い肩に触れ、抱きしめて、その淡い呼吸を間近に聴きたいというおそろしい欲求に駆られた。不敬にもほどがある。だというのに気づいたときには彼の右手は銀の髪を撫でていた。

 とんでもなく、自然に——けれど不器用に。

 彼女は目を大きく瞠り、いっとき息を止めたようだった。

 クラウスは彼女が口を開く前に、衝動に任せるようにして言う。


「俺は、俺の意志で、あなたについて行ったんです。ユティ様、あなたのお役に立ちたくて、あなたの前に立ったんです」


 その点では、だから、アルノーたちと同じですよ。

 そのようなことをもごもご続けると、ユスティーナはまるで異国の言葉を聴いたかのように瞬きを繰り返し、まじまじとクラウスを凝視した。長い長い沈黙が続き、あまりに長いそれに耐えられなくなってきたクラウスが目を回すより僅かにはやく、ぽつりと彼女はこぼした。


「……頭を撫でられたのなんて、いつぶりかなあ」


 一人言のようなそれが空気に溶けていくにつれ、真珠のような頬がだんだんと赤味を増していく。クラウスはといえば、慌てたように手を引いた。やっべえ、俺巫女様に何してんだ!


「ああああのすみません!」

「なんで謝るの」


 あはは、と弾けるようにユスティーナが笑う。しどろもどろになるクラウスが可笑しくて仕方ないらしい、目尻に微かに滲むのは涙だ。まったくもって情けない気分になってきた。


「ユ、ユティ様」

「あはは、ごめんごめん」


 弱り切った彼の声に謝るものの、彼女の笑いはなかなか止まない。あんまりにも無邪気に楽しそうに笑うから、クラウスは本当に困ってしまう。心臓がうるさくて仕方ない。指は震えている気がする。でも、それもすべて、緊張のせいだということにしてしまいたい。こんなきれいな女の子、それもお貴族様よりえらいひとが目の前にいれば、誰だってこうなるもんだろう、とおのれを納得させる。——だって、俺は布売りの息子なんだから。

 ひとしきり笑ったユスティーナはふと真顔になった。真剣な声を出す。


「あのね、それから、もうひとつ。これは、アルノーたちが起きてから詳しく話したいんだけど、先にひとつだけ」

「は、はい」


 どうやらあまりよくない話のようだ。クラウスは身を強ばらせた。


「まだ、さっきの不審者に吐かせてる最中だし、はっきりしたことは言えないから、不安を煽るだけになる、とも思う。でも言わせて」


 そこで気持ちを鎮めるように彼女は息を整えた。


「生誕祭の間、どうか気を張っていて。あなたたちは、顔を見られてしまったから、もしかしたら——また、巻き込まれるかもしれない。危険なんだ、って思っていて」


 ごめんね、本当にごめんなさい。そう悄然と肩を落とす少女に向かって、そっと手を伸ばす。ためらいにためらってから、細い指におのれの手を添わせた。

 不思議そうにこちらを窺ってくるユスティーナに彼は笑顔になった。


「警告してくれてありがとうございます。でも大丈夫ですよ。……それに、頼りになる巫女様がいらっしゃいますから」


 それを聞いてぽかんとした当の巫女様は、次の瞬間くしゃくしゃに笑み崩れた。陽のひかりに銀の髪が輪を描いてきらめき、心底嬉しそうに黄金の瞳が潤んで細められる。


「うん。任せて」


 そして驚くべきことに、彼女は自らクラウスの手をぎゅっと握った。それであるので彼はみるみるうちに真っ赤になってしまったのだった。


 そんなふたりの会話の斜め下方、人の声で覚醒に至った少年がだらだらと冷や汗を流していた。起きたはいいものの、なんだか深刻だったり楽しげだったりどうにも声をかけづらい、ともたもたしているうちに見事にタイミングを失っていたのである。アルノーはとにかく気まずかった。何これどうしよう起きろフリーダ!

(え、ていうか、え、なに、クラウスって、え? そうなの? マジなの? ユティ様はどうなの? えっちょ、もう色々限界なんだけどほんと誰か助けて! グレーテル! こういうときこそ冷静になんかつっこんでよ!)

 ほのぼのと平和なふたりの傍で、アルノーはひたすら悶々としながら息をひそめていた。叶うならきっとうずくまって頭を抱えていただろう。いっそ気づいてくれ! という念は虚しく、ユスティーナもクラウスもまったくもって察する気配はない。欠片もない。アルノーは必死に溜息を押し殺し、意識を飛ばすべく奮闘する。

 医務室のこの異様な空気を、しかし知らぬはフリーダのみである。

 


誰!? って感じの影の薄さですがなにげ名前だけは三話から出ているクラウスくんでした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ