描く幸福な家族の肖像。
抵抗を諦めてお義兄様の頭にしがみついていると、とろとろと睡魔が押し寄せてくる。遅すぎず、かといって急いてはいない、ゆったりとした歩みによる振動が、強ばったわたしの精神をほぐしていく。寝てもいいよ、グレーテル。お義兄様が囁く。わたしは首を振り、根性で瞼を開かせる。せめて家の付近に着くまでは起きていたい。お義兄様。頼りない声が吐息のように零れ出た。おにいさま。なあに、と問い返される。その響きの優しさに、わたしはお義兄様の首に絡ませた腕の力を強めた。
「……どうして、迎えに……」
「義父上に知らせをもらったんだよ。まったく、無謀なんだから」
「…………お父様のばか」
「そんなこと言うんじゃありません」
くすくすと軽やかな笑い声。わたしは膨れっ面になる。お父様のばか、ばか、ばか。何で言っちゃうんですか。あのひとも大概、わたしのことを信用していない。まあ、それはいつだって正しいばかりなのだけど。
あれ? でも、わたしがあの部屋にいたことまでは、お父様だって知らなかったはず。
不思議に思っていると、それが分かったのか話の流れなのか、お義兄様がその疑問に答えてくれる。
「あの部屋にいるのが分かったのは、僕がきみに追尾の術をかけていたからだよ」
「————は?」
ちょ、今おっそろしいこと言いませんでしたか。眠気も吹っ飛んだ。
わたしが無表情になっているのも気にせず、お義兄様は機嫌良さそうに続ける。
「いやあ、だって不安じゃないか。きみがどこにいるかいつでも分かるよう、僕はちゃあんと把握しておかないと、と常日頃から思っていたんだよ。術をかけたのは今日の昼なんだけど、グレーテル、ぜんぜん気づかなかったね。ナイスタイミングだったろう」
「な……な、な……」
「あれ、どうしたの。もしかして具合、ひどくなってきた?」
ぶるぶるとわななくわたしの震えが伝わったらしい、お義兄様は血相を変えて心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。
(————だ、)
「誰のせいですか、誰の! なんつーことしてくれてるんですか! そおいうの、世間では変質行為っていうんです!」
「えっ、どうして。きみの居場所をいつでも分かるよう、いつでもきみの傍にいけるよう準備しておくのは、僕の愛だよ」
「重い!」
間髪入れずに叫んでもまったくお義兄様は堪えてない。それどころかにやにやと口許を緩めていらっしゃる。
「照れない照れない」
「わたしの話を聞いてください!」
もうほんと駄目だこの人!
叫び過ぎてぐったりすると、隙を縫ってちゅっとついばむみたいに口づけられる。びくっと身じろけば、角度を変えて吸いつかれた。優しく甘噛みされ、お義兄様のやわらかな唇がわたしの血の気の引いた唇を湿していく。
「ん……うぁ、ふ……」
最後に深く口づけられて、ただでさえ疲れていたわたしはくらくらと目を回してしまった。堪えていた意識の糸がぷつんと切れて、それで視界は闇に溶ける。わたしはお義兄様の思惑通り、夢も見ない眠りに落ちた。
「……弱ったきみには、無茶な構い方できないからねえ。早く元気になって。——愛してるよ」
まったくもって勝手極まりないお義兄様に、ちょっぴり腹を立てながら。
目覚めると黒い紗がかかっていた。
(え………、!?)
はっきりしない頭でぼんやり瞬きすると、紗の中で二つの紫の光がぎらりと迸る。何!? と跳ね起きたら、ゴンと誰かのひたいに頭部がぶつかった。い、いたたたた。
「って、あ、れ……お義母様……?」
「……」
わたしが頭突いてしまったのはお義母様だったらしい。お義母様は無言で悶絶していらっしゃる。二拍ほどおいて、わたしは大慌てで謝った。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか、お義母様」
しばらく俯いてひたいを押さえていらっしゃったお義母様は、ふっと顔をあげ、いつもより陰鬱で具合のよろしくなさそうな顔で、ぽつりとおっしゃる。
「……起きた、のね……」
わたしは瞬いた。外では朝鳥たちが和やかにさんざめいている。のんびりした陽光が窓辺から差し込み、わたしの部屋の中を明るくさせた。好い朝だった。起き抜けの頭もだんだんはっきりしてきて、お義母様の言葉がわりと長い時間をかけて脳に浸透した。
起きた、とは、それは、わたしのことを言っているのだろう。お義母様は、わたしが起きるのを待っていらっしゃったのかしら。なんて珍しい。
と、そこまで考えて、わたしは昨日のことを思い出した。思い出した途端、全身がどっと重くなる。何これ筋肉痛? わたしはげっそりした。
なんだか、目紛しく、訳の分からない一日だった、と思う。
詳細に記憶をさらうと、寒気のようなものが背筋を這いのぼってきて、しんとお腹が冷たくなる、気がする。血を流す友人たち、青ざめたフリーダの顔、折れそうなほど細いお体で、それでも立ち続けるユティ様、飛び出すディートリヒ、そして————シュテンヘルツの巫女様を、魔女と罵ったあの男。
ぞっと肌が粟立った。
どうして、あんなことを、あのひとは言っていたんだろう。
(巫女様を、よりによって、あんな……)
唇を噛み締める。あんな、あんなのは、ひどい。どうしてユティ様が、不審者なんかに蔑まれなければならないの。そんなのおかしい。
ぐっ、と拳を握りしめたとき、やんわりと頭のてっぺんに何かがかすめた。ひどく緩慢に、最小限の動きで、誰かの手が、わたしの頭を撫でている。
誰か。
それは、ひとりしか、いない。
わたしは息を詰め、ひそやかに驚愕する。激しく瞬きを繰り返す。清流のように流れる美しい黒髪が揺れる様を、目で辿っていく。
「お、義母、さま」
わたしの何の意味もなさない呼びかけに、お義母様は応えなかった。けれども、わたしの頭を撫でる手も止めはしなかった。静謐な眼差しが絶え間なく注がれる。お義母様が何を考えていらっしゃるのか、わたしには分からない。
それでもお義母様が、錯乱することもなく、じっとわたしを見つめ、撫でてくださっている。
どうしようもない感情がぼろぼろと溢れ、喉の奥が熱くなった。嬉しくて、嬉しくて、少し怖くて、だから、今にも泣き出してしまいそうだった。緩んだ涙腺から生まれる涙を必死で塞き止める。
(お義母様、どうして)
——どうして?
なぜ、撫でてくださるのですか。
わたしは、今、喜んで良いのですか。お義母様、と子どものように、抱きついても?
「グレーテル」
陰気で湿気を帯びた声が、弱々しくわたしを呼ぶ。はい、と顔を上げる。お義母様はするりと右のてのひらをわたしの頬まですべらせた。
「……無事で、良かったわ……」
消え入るような言葉は、はっきりとわたしの耳に届いた。あ、だめだ。思った。だめだ、これは、もう。
ほろり、とあたたかい水が目のふちからこぼれ、お義母様の手に跳ねた。お義母様が妖しく美しい紫の両目を丸くして、柳眉を寄せる。わたしのお義母様は、とてもうつくしい。ちょっといつも陰鬱なだけで。
「……どこか、痛む、の……?」
哀しげな声に、いいえ、と首を振る。いいえ、お義母様、違うのです。わたしは、とても、嬉しいだけ。それだけ。
わたしはこのうつくしいひとを安心させるように微笑んだ。
「大丈夫です。ありがとうございます——お義母様。起きるのが遅くてごめんなさい、朝ごはん、作りますね」
元気を込めてそう言った次の瞬間、部屋の扉が開いた。目を向けると、にっこりしたお義兄様が入ってくる。
「ああ、良かった。回復したみたいだね。まったく義父上も、何だってケモノなんかつけるのかなあ。グレーテルは僕に任せておけばいいのに」
「……お義兄様、早く術を解いて欲しいのですが」
「あ、そうだ! 今日は僕が朝ごはんを作っといたよ。病み上がりのきみは一日ゆっくり休んでいればいいの」
「だからひとの話を———、って、わあっ」
怒鳴りかけたところを、ひょいと寝台から持ち上げられる。昨日と同じく、また小さな子どもみたいに抱えられて、わたしは真っ赤になった。
「ちょ、ちょっと、なんですか。やめてくださ、」
「だめだめ、まだ本調子じゃないんだから。今日は自分で動いちゃだめだよ。僕がどこにでも運んであげるからね」
「なっ————」
「……ヘンゼル、そっとね……気を、つけなさい……」
「分かってますって。さ、義母上も行きましょう。小さなパンをたくさん焼いて、溶かしたバターに、ジャムも色々出しておきました。あと、絞り立ての牛の乳が届いたばかりなんです。それから卵、新鮮なうちに食べましょう」
「お義母様っ、止めてくださいよ!」
「……美味し、そうね……」
まったくわたしの話を聞かないお義兄様、我が道をいくお義母様、そしてやっぱり最後には抗えずに疲労困憊に陥るわたし。それからお仕事が終わらないお父様は、まだ帰っていらっしゃらない。
お義兄様の肩の上で項垂れながら、わたしはわざとらしい溜息をつく。お義兄様がそれにちらりと笑うのが分かった。人の気も知らず、なんだかとっても楽しそうだ。恨めしい。
「グレーテル、お腹が空いただろう?」
お義兄様はいつだって勝手だ。むう、と唇を尖らせると、お義母様が無造作にわたしの頭に触れる。その仕草に、お義兄様がわずかに瞠目して、すぐに嬉しげに天使様みたいに幸福そのものの笑みを浮かべた。まったくこのひとの中身があれほど残念なことを、欠片も感じさせない表情だ。あたたかな腕の中、今日も完全な敗北を知る。胸のうちにじんわりと優しい何かが広がっていく。ああ、と目を伏せる。なんて、しあわせなのだろう。
(わたしは、)
家族を、愛してる。
たぶん、何よりも。