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グレーテルと最後に残る王子様。

 ユティ様が去り、残されたのはついにわたしとディートリヒのふたりだけだ。何だこれどんどん人が減っていく。あれほど緊迫感に満ちていた室内は、今はただ、空いたままの窓から渇いた風がひゅるるっと吹くばかり。侘しい。あ、フィーネ様もいるけど。


 少しの時間をおいて、ディートリヒが心配そうな顔を向けてきた。たぶん、わたしがものすごく具合悪そうにしているからだろう。実際、吐き気と目眩とだるさとどう表現すれば良いのか分からない腹への圧迫感とでいっぱいだった。気持ち悪くてとにかく横になりたくて仕方ない。


「グレーテル、さきほど巫女様が、イザベラの間を使えばよい、と仰っていた。そこまで歩けるか?」

「イザ、ベラ……?」

「ああ、ここからそう遠くない。この部屋を出て、角をひとつ曲がったあたりだな」


 わたしは少し悩んだ。歩くこと自体は、苦ではない。距離も、問題ではない。辛いのは確かだけれど、わざわざ休ませてもらうほどのことでもない、と思う。何より、わたしは早く帰らなくてはならない。

 だから、わたしは結局、そのありがたい申し出を辞退することにした。


「大丈夫ですから、わたしは帰ろうと思います」


 ディートリヒは戸惑ったようだった。うつくしく整った眉を、そっとひそめる。


「だが……かなり、酷い顔色をしている」


 ぬるい温度を持った手が、わたしの冷えた頬に当てられた。いたわるような仕草だ。いや、間違いなく、彼はわたしを、いたわっているのだ。

 その心遣いにどこか嬉しい苦笑を洩らし、本当に大丈夫なので、と囁く。ディートリヒの手は、宥めるように重ねたわたしのそれより大きく、華奢で繊細そうな、陶器の人形のような見た目なのに、彼は生きた男の子なのだな、ということをよく感じさせた。処女雪のように白い指は長く、咲き初めの百合のようだった。うつくしい王子様。底知れない神秘的な紫の瞳は角度によると冷徹に見えるけれど、彼は、とても優しいひとだ。わたしはじいっとその憎たらしいほどきれいな顔を見上げた。


「でも、ありがとうございます、ディートリヒ」

 

 はっきりとそう告げる。と、ディートリヒはそれでもう反論するのは諦めたらしい、ひとつ溜息をついた。


「あまり、無理はするな」


 駄々をこねる子どもにするような言い方にわたしは呆れた。ディートリヒがそんなこと言っても、まるで説得力がない。


「それなら言わせていただきますけど、ディートリヒ。なぜ、あんな飛び出し方をしたんです。もしタイミングが悪ければ死ぬことだってあったかもしれませんよ」

「どのときだ?」

「そんなに覚えがあるんですか」


 なんて奴だ。視線に非難を込めると、あっと彼は口ごもった。


「いや、違う。そういうわけではない。つまり、それは、おまえを置いて俺が陛下のもとまで向かったときのことか」

「なんとなく、認識の重点がずれている気がしますが。まあそうですね。置いていかれたたとは、思ってませんでしたけど」

「そう、なのか?」


 怪訝そうにされて、わたしは大いに憤慨した。


「あなたのなかで、わたしはいったいどういう人間なんですか。あの状況で、わたしを気遣っていただきたくなんてありません。ひどいですよ」

「え、いや、そんなつもりでは……すまん。おまえを侮っての言葉ではなかったんだ」

「ではディートリヒ殿下。わたしの言いたかったことは理解していただけたのですか?」


 厭味たらしく言いやれば、彼は苦り走ったように唇を歪めた。不快指数がだだ上がりしたらしい。


「……やめてくれ」

「殿下」

「すまん。悪かった。申し訳ない。だが俺は、おまえが何を責めたいのか、分からない」

「……正直で、鈍感なひとですねえ」


 真っ正直過ぎて、なんだか毒気を抜かれてしまう。

 このくらいで勘弁してやることにして、ディートリヒ、とわたしはゆっくりと彼を呼ばわった。丁寧に。


「あなたが王陛下のもとに走ったのは、流れ弾、と言っていいのか微妙ですが、かの方に被害が及びそうだったからですか?」


 アルノーが弾き飛ばされたとき、新たな攻撃が、ちょうど陛下との対斜線上に放たれていた。それにちゃんと気づいたのは、男を捕まえてからだったのだけれど。

 はたしてわたしの疑問にディートリヒは頷いた。


「ああ。軌道に乗り過ぎていたから、あのままでは陛下に直撃していただろう。と、あのときは咄嗟に思ってしまってな、よく考えずに動いてしまった。結果として、足を引っ張ってしまったのは、すまなかった」

「そういうことを言いたいのでもありません」


 自省と悔恨の色を見せたディートリヒにぴしゃりと叩きつける。まったくこのひとは何も分かっていない。


「それに、足を引っ張ったというほどでもなかったでしょう。でもそんなことより、あんな捨て身では、あなたが(・・・・)、死んだかもしれないんですよ。——いえ、違いますね」


 ふと、わたしは表情を改めた。ディートリヒの関心の薄そうな顔を探り見る。そうだ、違う。このひとは、そんなことくらい、きちんと分かっている。何も考えずというが、それが分からないほど無鉄砲ではないはずだ。問題なのは、そのことに対する、彼の中での重要度だ。


「分かっていたのに出た、のですね。つまり、あなたは、自分の生き死にをまるで問題にしないで、陛下を庇われた。自分の命を、軽んじていらっしゃる」


 ディートリヒは予想外のところを突かれた、というように目を丸くし、当たり前のようにまた頷く。それが何か? と言うように。

 わたしはあんぐりと顎を落とした。なんでかけらも悪びれないんだこのひとは。


「なぜ」

「なぜ、と言われても。陛下の代わりはいないし、今いなくなられては困る。一の兄上は優秀であらせられるが、この国を治めるにはまだ未熟、王になるには早過ぎる。あの人——陛下は、父としてはまったくよくないが、王としての手腕はどんなに敬っても余りあるほどだ。したがって、王家の人間として、俺はまず陛下を第一にお守りしなければならない」

「あなたの命より?」

「十二番目の王子をひとり失ったとしても、それほどの損害にはならない。王をなくすことに比べれば」


 淡々と、きっと心の底から、当然に。

 もうすぐ雨も上がるだろう、と空を見上げて自明のことを話すように。

 ディートリヒが言う。

 わたしは、眉宇を寄せ、こみ上げる不満のまま彼をなじりかけ、けれど結局否定はできなかった。それは、確かに正論ではある。間違ってはいないし、彼の選択だ、他人がとやかくケチをつけることでもないだろう。わたしだって理解できる。それどころか、納得さえする。どこにも瑕のない考え方だと思う。

 けれども。


「……わたしは、そういうのは、好きじゃないです」


 わたしは俯く。

 ディートリヒは片眉を跳ね上げる。


「なに?」

「悪いとは思いませんし、どちらかと言うと共感できますし、ある意味当然だとも思いますけど、それでもせめて、ディートリヒ、あなたの身についても省みてほしいです」

「俺?」


 彼らしくなく、間の抜けた声。はい、とわたしはひとたび、唇を噛み締める。


「王陛下を、父君を、第一に考えることに、わたしはそれほど異議を見いだせません。でも、ちょっとくらい、自分の安全も考えてはどうですか。庇うにしても、一緒に避ける、とか。あなたは、鉄でできているわけではないんです。頑丈な盾ではないんですよ」

「だが、無傷でお守りするには、俺が盾になった方が、確実性がある」

「そういうのが、嫌なんですよ」


 はーっ、とわたしは大きな溜息を吐いた。やれやれだ。なんだってこう頑固なんだろう。こっちの言うこともちょっとは聞いてもらいたい。


「ディートリヒ、わたしは、あなたが怪我をするのも、死んでしまうのも、ものすごく嫌ですからね。友人、になれそうな相手を、簡単に亡くしたくはありません。あなただって、自衛の余地も充分にある場面で、フリーダとかに、自身のことなんてまるで気にせず他の人間をむやみやたらと庇って死なれたら、後味悪くないですか」


 想像したのか、ディートリヒはちょっと顔をしかめた。それから、困ったように微笑む。


「そこで、友人と断言はしないんだな、おまえ」

「だってわたしとディートリヒは、出会ってすぐ激烈に意気投合したわけでも、今までそんなによく話していた方でもなかったでしょう。ここ最近から、というか。そんな相手に友達だからなんぞと言われても胡散臭いだけかと思いまして」

「ははは」


 思い切り私感だったけれど、これを聞いてディートリヒは、夏の陽みたいに明るく、朗らかに声を立てて笑った。


「確かにな、……ふ、ははは」

「そんなに笑うことですか」

「いや、はは。そうだな……」

「ちょっと、ディートリヒ」

「そうだな、俺も、フリーダにそういうことは、されたくないな。おまえにも」


 笑いの気配が静かに変わり、どこかしんみりと彼は呟いた。わたしは瞬く。それから、至極真面目に首肯した。


「ええ、そうでしょうとも。自分がされて嫌なことと、ひとが嫌がることは、なるべくしてはいけません。常識です」

「常識か」

「だと、わたしは思ってます」

「最後の最後で自信がなさそうだな」

「私見ですからねえ」

「これだけ言っておいてか」


 くつくつとディートリヒの喉が鳴る。楽しそうだ。その様子に当てられてか、わたしの頬もにんまりと緩んだ。どうやら、この考えは受け入れてもらえたらしい。良かった。ひとしきりニヤニヤとしたところで、冷めた声が割り込んできた。


『……おまえたち、話は終わったかえ』


 はっと振り向くと、だいぶわたしたちに忘れられていたフィーネ様が、どこか拗ねたように半眼になっていた。

 あ、とわたしとディートリヒは同時に呟いた。

 神様をすっかり忘れてた。



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