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狼と王と巫女様と。

 聖堂で鈴を鳴らしたような、幾重にも重なってたわむ、奇妙な咆哮が響き渡った。

 巨大な影を従えた、大きな灰銀の狼が、凶悪な顔で歯を剥き出しにして男に襲いかかる。その体毛から火の粉じみた銀色の灰が飛び散り、暴風に巻き込まれる木の葉のように乱舞すると、一斉に燃え上がって男を追撃する。ちらちらと金銀にきらめくそれらはやがて糸のように伸び、男の体を拘束した。

 ここにきて、この一瞬の乱入を茫然と見ていたユティ様が、はっと表情を引き締めて素早く両手を動かした。短縮詠唱すら口にせず、光の矢を次々と放つ。違わず男を貫いていった矢は、すぐに砂のように崩れ落ちる。突き刺されたにしては男に怪我はなく、ただ完全に意識を落としたようだった。どうやらユティ様が出したものは、あまり攻撃性のないものらしい。

 わたしはというと、燃えるように体が熱く、そのうえ異常に重く感じた。視界が白く明滅して立っていられない。目眩がする。根こそぎ体力を奪われたような感覚だった。何とか壁に手をついて、震える膝を叱咤し、苛立つほど緩慢に狼の方へ近付く。

 銀の炎の糸にぐるぐる巻きにされた男を、クラウスが綱で縛った。定位移動の祈言を組んだアルノーがどこかへ連絡に行き、ほどなくして同じ制服を身につけた男たちが侵入者を連れていった。そのうちのひとりが、怪我人の確認をする。ユティ様が真っ青を通り越して真っ白な顔で、血に濡れたクラウスの額に触れた。クラウスはといえばまったくもって怪我人らしくなく、うぶな少年ぶりを発揮し、真っ赤になって後ずさった。アホだ。呆れた風に思いながら、けれど実のところ、心底安堵する。何度も打ち身を受けたアルノーも、若干顔色が悪いものの、命に別状はなさそうだった。今にも泣き出しそうなフリーダが歯を食いしばって杖を握り、じっとアルノーを見つめ、いっときばかり俯いた。けれどもすぐ、おのれの後ろを振り向く。そこではあのとき無謀にも飛び出したディートリヒが、深刻な表情で誰かを気遣っていた。


 ——陛下だ。


 考えなくても、分かる。我らが偉大なる王陛下、そしてディートリヒの父君が、おそらくそこにいた。そうはっきり気づくと、奇妙な興奮と緊張、そして畏れによって背筋から手足までぶわりと総毛立った。

 制服の男たちと、クラウスの傷を診終わったユティ様も、彼を取り囲んだ。残ったアルノーがクラウスに肩を貸す。

 いくらかの問答が繰り返されると、男たちに連れられ、そのひとが歩き出す。かつん、かつん、と硬い靴の鳴る音が少しずつこちらへ向かってきた。緊張はどんどんいや増していき、急な体調不良も相まって、わたしは今、自分が気絶していないことが不思議でたまらなかった。

 真横を、通り過ぎる。

 ぶあつく、剣胼胝のできた大きな手が、ふいに、あまりにも自然に、伸びた。

 そうして、まるで階段の手すりに触れるように簡単に、わたしの頭にその手が置かれた。

(……っ!)

 ひゅっと息を呑み、驚愕したわたしは、完全に硬直していた。そのわたしに向かって、重厚な低い声がこぼれおちる。


「神よ、そしてヨハンの娘よ。この身を救っていただき、感謝する。この恩、忘れ得ぬ」


 力強く、しかし威圧的ではない、深く重い声だった。

 絶句して返事もできずにいるわたしに頓着せず、そのひとは傲然と歩み去っていく。扉が開き、重たい開閉音が止んだ頃、わたしは漸く正気に戻った。

(な、なん……)

 ぶるぶると手が震える。頬が紅潮し、何がなんだか分からなくなってくる。——今、何が、起きたの。

 とんでもないことが、この身に降りかかってきた!

 いや、この言い方ではまるでよくないことのようだ。そうではない。これは恐ろしく、あまりにも分不相応な、この身に過ぎる栄誉だ。

 じわじわと這い上がってくる高揚が、この現実を強くしらしめる。わたしは凄まじい音を立てて高速振動する心臓をぐっと押さえつけた。

 そのとき、やわらかい毛がふくらはぎのあたりに触れた。見ると、長い狼の尾が巻きついている。それは何本にも分かれていて、やっぱりちらちらと銀色の灰を散らす。それがあんまりきれいなので、わたしはうっかり見蕩れて惚けてしまった。これは、これが、フィーネ様? 本来の姿、というものなのだろうか。神獣様は、基本的に現世(うつしよ)に合わせてただの獣のような姿をしているけれど、神々の世ではもっと荘厳で華麗で目眩がするような威を有する。はずだ。現に、うちの学校にいらっしゃるエサイアス様は、酔っぱらうと自身の制御ができなくなって、たいへんな巨躯に戻ってしまう。

(————あれ?)

 ちょっと待て。さきほど、王陛下は何か、おかしなことを仰ってはおられまいか。確か、そう——神よ、と。

 神? この場に、神が、いた? それは、どこに。

 わたしは穴が空くほどフィーネ様を凝視した。頭の芯がくらんくらんしている。頭痛だ。これは頭痛だ。だんだんと血の気を失っていくわたしと対象的に、フィーネ様はのんびりと毛繕いなどなさっている。そのお姿はしゅるしゅると縮み、あえぐようにわたしが危うい息をしたときには、お会いしたばかりの頃の大きさに戻っていらっしゃった。

 熾火を宿した銀と青の獣の瞳が、理知的に理性的に叡智をもって深淵を窺わせ、人よりはるか高みにいる者の眼差しでわたしを射た。


『お前、ちょいと鈍過ぎやしないかえ』


 ……仰る通りで。

 呆れた口調にわたしはがっくりと項垂れた。







 



 怪我人のクラウスとアルノーがフリーダを伴って部屋を出ていく。おそらく、怪我をちゃんと診てもらいにいくのだろう。去り際に、結局来たのか、とクラウスが笑った。彼はたぶん、わたしの抱えていた気持ちと、ここへやってきた理由に気づいたのだと思う。アルノーが安心させる顔で微笑み、わたしに感謝の目を向けた。それから、ついに泣き出してしまったフリーダの頭を優しく叩いて、空いた片腕でやわらかに抱き寄せる。彼の首にかじりついたフリーダが、ぐずぐずと鼻をすすりながら二人を先導していった。

 あとには、ユティ様にディートリヒ、わたし、そしてフィーネ様が残された。

 しんと静まり返った室内で、なんともいえない、けれど決して不快ではない沈黙が流れる。あえて言い表すならば、安堵の一歩手前、というところだった。

 最初に口を開いたのはユティ様だった。この国の、輝ける、ユスティーナ猊下。我らが巫女様。生ける聖女。


「びっくりしたよ。グレーテルが、そのお方を連れて、まさか助けにきてくれたんだもの」


 優しい声でユティ様は仰った。浮かんだ慈愛がじんわり心に沁み渡る。ユティ様は膝をついて、フィーネ様に(こうべ)を垂れた。恭しい仕草だった。巫女様のそんな行動にわたしとディートリヒは飛び上がったけれど、ご本人はまったく気に留めておられない。


「灰と狼と仁の神よ。我らをお助けくださり、心より御礼申し上げまする」


 ユティ様のうつくしい声はとけるように室内に浸透し、ディートリヒが弾かれたように彼女にならって膝をついた。フィーネ様はけだるげに尾を揺らすと、よい、よい、と鬱陶しそうに呟く。


『顔を上げよ。妾はヨハンとの約定に従ったまでじゃ。そも、お前たちを助けおったのは、この娘。妾の力をこちらで行使するには、媒介がないとここら一帯半壊させてしまうからのう。ゆえに、その代償として、この娘にかなりの負荷がかかっておる。おそらく立っているだけでも辛いのではないかえ? 休ませてやるがよい』


 ……なんか今すごいこと言った。

 半壊っておい。あとヨハンってうちの父のことですか? まじで? えっ、お知り合いですか。お父様はいったい王宮で何をしているんだ! いちから十まで先に言ってほしい情報しかない!

 それにしても、このしんどさはそのせいだったのか。まあ、神様の力を借りたにしては、たぶん良い方なんだろう。むしろこれくらいで済んで良かった。アルノーみたいなのは例外中の例外だから。

 でもユティ様はちょっと咎めるような、複雑な視線をフィーネ様に送った。


「ご助力には感謝致しますが、代償も告げず、神官でもない少女に、勢いであなた様の力を使わせるのはいかがかと存じ上げます。万が一が起きては遅いのですよ」

『分かっておる。しかし、時間がなかったからのう。そこな王子は恐れ知らずに飛び出していきよるし』


 突然水を向けられたディートリヒが、ぎくっとあらぬ方を向いた。


『それに、尋常のものなら気絶するはずじゃが、その娘は無事立っておる。……やはり、あの女の娘、か』

「え? やはり、なんですか?」

『いや……、まあとにかく。大事ない。万事恙無く済んだのじゃから、良しとせよ』


 んなお気楽な。大雑把過ぎるフィーネ様に、ユティ様はしょうがないなあというように苦笑した。


「さて、それじゃあわたしは聖下の様子を見てくるよ。幸い、浄めの儀に入っていて、こちらにはきていなかったのだけど、心配だから。——グレーテル」

「! は、はい!」


 ふいに名前を呼ばれ、わたしの心臓が魚みたいに跳ね上がった。ちいさく白く、やわらかい手が、ぎゅっとわたしの両手を包み込む。目をしろくろさせて、わたしは大いにどぎまぎした。ななななんだなんだ。

 そんなわたしにユティ様はふわっと笑って、


「ありがとう。あなたの勇気と優しさに、この上ない感謝を」


 まるで本当に天使様みたいな声音で、はっきりとそう仰った。それから目を見開くわたしの隙をついて、ぱっと抱きしめてくる。わたしが驚きの声をあげるとすぐに解放し、ディートリヒの頭をふわりと撫でると、風のように去っていった。

 その後ろ姿を、ディートリヒとふたり、茫然と見送る。


「な、なんか、すごい方だな」


 ぽつりとこぼされたディートリヒのその言葉に、まったくもってその通りだとわたしはかくかく頷いた。

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