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爆風は波乱と悪意の兆し。

 尊き方々がいらっしゃる棟までやってきたわたしは、そのだだっ広い回廊でふと我に返って立ち止まった。

 ……あれ?

 ユティ様たちって、このどこに向かったんだろう。

 今更過ぎる疑問に冷や汗が噴き出し、おろおろと落ち着きなく足踏みしてしまう。それを見上げ、フィーネ様は呆れたように鼻を鳴らした。ぐぬぬ、なんですか、その反応! だってわたしは普段こっちにはこないんですよ! この城ただでさえややこしいし!


『しょうのないやつよの。きやれ、あちらじゃ』


 ふよん、と尻尾を揺らし、フィーネ様は迷いなく進まれた。てくてく肉球で豪奢な絨毯を踏んでいく様子は、どう見ても威厳が足りない。だけれど今に限ってはその迷いなさが頼りに溢れて輝いていた。わたしの目も輝いた。


「わ、分かるんですか? もしかして、フィーネ様って、けっこうすごい神獣様なんですか」

『と、いうより、感じるといったところ方が正しいかのう。しかしこれは……ううむ、何やらまずい感じよの。娘、少々急ぐがよかろ』

「か、かんじる? え? そ、れって、まずいどころじゃないんじゃ……」


 一体アルノーたちは何をやっているんですか! 思わぬ深刻そうな発言にわたしはぎょっと目を剥いた。そうしてよそ見をして走り出したのが悪かったのか、横道からやってきた人物と見事にぶつかった。どん、とわたしの頭とそのひとの顎のあたりが突き合い、弾みで両者とも吹っ飛ぶ。たたらを踏んで何とか転がらずに済んだものの、わたしは慌てて頭を下げた。どう考えても相手の方が重傷だ。


「すみません! よそ見をしていて……大丈夫ですか、————って、ええええ!?」

「グレーテル? なぜここに」


 驚きに見開かれた、紫がかった濃い青の瞳、表情をなくすと冷たく怜悧に見えるそら恐ろしいまでの美貌。そこにいたのは、学校にいる時より遥かにきらびやかな衣装に身を包んだ、ディートリヒ殿下だった。なんでこのひとがここに、と口をぱくぱくさせて彼を見上げてから、彼が王子だということをきちんと思い出す。つまり、ここは彼の家も同然なのだ。そりゃ、いて当然だ。むしろわたしの方がおかしい。訝しげな彼の視線も分かるというものだった。


「父が、研究室に、勤めていて、……あー、まあ、ちょっとそのー、今から野暮用でして」


 歯切れ悪くわたしが言うと、「なんだそれは」とディートリヒは呆れ返る。なんだかこのひとには呆れられてばかりいるなあ。悲しいことだ。でも今は悲しんでいる場合じゃない。気まずさを振り切りにっこり笑って、


「すみません、ちょっと急ぐので、これで!」


 脇を走り抜けようと踏み出したところで後ろからフィーネ様に飛びかかられた。びたーん、正面から転倒する。痛い! めちゃくちゃ痛い!


「な、何するんですか!」

『まあ待て。これは運がよい。ふうむ』


 ふうむ、のあたりでフィーネ様はひなたぼっこする老犬のような気持ち良さそうな表情をなさった。ぺたん、ぺたんと嬉しげに尾が揺れる。深淵な両目がうっそりと細まり、ディートリヒをじいっと観察する。よく分からず、フィーネ様とディートリヒの双方を交互に見つめる。ディートリヒの方はといえば、戸惑った様子で喋るお犬様を見ていた。どうやら犬好きらしく、フィーネ様のやわらかさそうな頭におそるおおそる手を伸ばす。が、鬱陶しそうに避けられてしまい、若干落ち込んだようだった。哀れ。

 太古の荒ぶる海を閉じ込めた石のように、彼女の瞳は灰にけぶり、けれど炎の揺らめきを秘めて、興味深そうに十二番目の王子を見ていた。いっときも瞬くことなく、その視線は、とうとう圧迫感に堪えかねた彼が一歩後ずさるまで注がれた。

 そして、ふっときらめくように笑う。

 

『ほーお、今代の国主の子か。娘、お前、よほど奇縁があると見える。おもしろいことよの。愉快愉快』


 軽い。

 今までの沈黙は何だったのかと突っ込みたくなるほどあっさりと視線を外し、フィーネ様はくるりと彼に背を向けた。はたはたと尾を揺らしながら再び歩み始める。訳が分からないけれど、彼女なりの理由があったのだろうと納得して、後に続こうとする。と、


『十二番目のディートリヒ、だったかえ。丁度よい、お前もついてまいれ』


 さらりと命じられ、ディートリヒが唖然とする。は? と首を傾げ、なにこれ、という感じでわたしの方を窺った。すみませんわたしにも分かりません。フィーネ様は、まったくもって謎な方だ。

 それに——わたしは、彼は、ディートリヒの名前を、一度でも口に出した、だろうか?

 その覚えはなかったし、ふたりも初対面のようだった。顔の造作で王家の人間だと分かったとしても、何人もいらっしゃる王陛下のお子様方の誰か、ということまでは分かろうはずがない。何より、ディートリヒはそれほど有名な王子じゃなかった。これまで一緒にいたところまっとうなひとのようだし、十二番目なのだから、当然と言えば当然だけれど。

 いや、それより。


「何言ってるんですか! ディートリヒは急いでたんですよ、無茶言っちゃいけません」

『そこな王子の行き先はおそらくお前と同じぞ。ならともに往けばよかろ』

「へ?」


 そうなの? と振り向くと彼もわたしと同じような顔をしていた。


「俺は、陛下のおられる場所を探していたんだが」

「え、わたしもです」

「お前も? なぜ……というか、その方は、あー、いったいなんなんだ……?」

『確認し終えたかえ? では往こうぞ。もたもたするでない』


 ぴしゃりと言われ、わたしとディートリヒは釈然としないまま、小走りでフィーネ様の後を追った。







 耳をつんざく爆発音がしたのは、フィーネ様がある一室を肉球で差し示したと同時だった。古風でありながら精緻な彫り細工をほどこされた扉がたいへん残念なことに木っ端微塵に吹っ飛び、わたしたちの顔面を木片と爆風が強打していく。反射的に顔を覆ってから、真っ青になって室内を見渡すと、窓側を向いた少女のうつくしい髪がばらばらと風になびいているのが目に入った。それが誰かを察し、駆け寄ろうとした、刹那。


「————邪神の、魔女が」


 びくりとわたしは頬を強ばらせた。あまりにも強い殺意と憎悪の込められた唸り声だった。濃い灰色をした、顔形、身体的特徴を隠す奇妙な服を着た男が、壊れた窓枠に手をかけて彼女——ユスティーナ猊下を睨みつける。

 対してユティ様はちらとも身じろぎせず、眉ひとつひそめることなく、超然と立っていらっしゃった。けれども、わたしはユティ様のように平静ではいられなかった。おのれの耳を疑い、限界まで目を見開き、唇をわななかせた。

(……なん、ですって)

 今、この男は、何と言った?

 おそらくわたし以外の人々もそうだったのだろう、最初に我に返ったのは額から血を流し、膝をついているクラウスだった。


「なん、だと————てめえ、ふざけんな変態野郎!」


 変態って。確かにそう言いたくなるファッションセンスの方ですが。そんな突っ込みも今は口を突いて出なかった。いつも陽気で明るく、意外と穏やかな性質のクラウスが見たこともないほどの怒りを迸らせ、燃えるような殺意を正体不明の男に向けていた。そこではじめて、ユティ様の表情が変わる。きょとんとしたどこかあどけないお顔で、不思議そうにクラウスを見やった。そして、ふっと嬉しそうに唇が緩められる。こんな時だというのに思わず凝視してしまうほど、お可愛らしい笑みだった。

 だけれど、そんな空気をぶった切って男が哄笑う。螺子が飛んだ絡繰り人形のように引き攣った笑声は、ぞっとするほど甲高く、えもいわれぬおぞましさを内包する。

 なんだ、この男は。

 気持ち悪い、と思った。そしてそれは、この男のみに抱いたものではなかった。記憶の扉をこじ開けて、何か、最も思い出したくない何かに、爪のさきでなぞるように触れる嗤い声。この聞いている方が狂っていくような感覚。

 なぜ、そんなものに、覚えがあるの。

 わたしは、いま、何を————


「無礼な。ここをどこと心得る。畏れ多くも我らが王陛下とユスティーナ猊下の御前であるぞ。————ひかえよ」


 混乱に呑まれそうになった瞬間、きんと凍るような冷然とした叱責が響いた。不審者に対するにしてはあまりにも場違いで、わたしは一瞬自分に言われているのかと錯覚してしまった。視線を走らせて発言の主を見つけ、えっ、と激しく瞬く。

(フリーダ……)

 質素ながらかっちりとした白と深藍の特徴的な上着を肩からかけ、爆発のためか、ところどころ煤をまとったフリーダが震える手で細長い杖を握り締めている。必死なんだ。あの歩く逆受難体質の、ついつい神獣様を甘やかしてしまう、根っこはごくふつうの女の子のフリーダが、逃げもせず真っすぐに立っている。声に震えを含むことを許さない、硬い声がよけいに彼女の内心を表していた。フリーダ。

 わたしはぎゅっと拳を握りしめた。一歩、室内に踏み込む。ディートリヒが慌てたようにわたしの肩を掴み、気遣うように見てくるのを、無言で見返す。彼はひどく辛そうな顔で少しだけ躊躇って、でも結局は手を離してくれた。わたしはちょっとだけ微笑む。ありがとうございます、ディートリヒ。

 と、ここでわたしを引き止める相手がもう一匹。


『無茶無謀はおやめと云うたのを忘れたのかえ。娘、お前、おやじさまに貰った壜をお出し』


 え……壜?

 何のことだ、と首を捻ってから、そういえばここにくる前にお父様になんか謎の壜を貰っていたことを思い出した。でも、どうしてフィーネ様がそんなこと知っているんだろう。疑問符を浮かべていると、短気を出したフィーネ様が苛立ったように急かしてくる。


『よいかえ。その中身の粉を指に一触れさせ、お舐め。そしてフォルスティン詩編の五七二番目……って覚えてはおらぬか。ええい、仕方ない、短縮を教えてやるゆえ、今すぐ覚え、行使せい』


 慌ただしく告げられた祈言をぐるぐると反芻する。よく分からないけれど、何もしないよりはましだろう。覚えたかと問われ、ぶんぶんと頷く。そのとき、アルノーのみに許された神々への招請の声が叫ぶように上がり、けれど完成される前に荒々しく中断させられるのが聞こえた。鋭く彼の肩を切り裂いた刃の破片が地に落ちるのと、アルノーが倒れるのはほぼ同じだった。どん、と鈍い音が生々しく耳に届く。


「穢れた言葉を口にするな、魔女の手下どもが!」

「てめえ、いいかげんに……、っう」


 異常なほど激した男の言葉に、クラウスが掴み掛かりかけて蹴り飛ばされる。青ざめたユティ様がさっと両手を水平に動かし、やわらかい膜のようなものを張る。アルノーが攻撃の強度にしては重傷ではないのも、たぶんユティ様のお力だ。その様子に、けれど男は邪悪な生き物を見るかのように嫌悪の面持ちを剥き出しにし、憎々しげに顔を歪める。

 ふいに、一連の動きについていけず、絶句してしまったわたしの横をディートリヒが風のように飛び出していった。ぞっと肝が冷える。フィーネ様がらしくもなく舌打ちし、教えたようにやれ、と怒声を上げて素早く駆けた。焦りに突き動かされたわたしは言われるままに壜を開け、粉に指をつけて軽く舐める。途端、ごうっと胃の腑の上あたりが燃え立つような奇妙な感覚が身の裡に起こった。視界が蝶の鱗粉できらめくように鮮やかに、けれどけぶり、喉の奥がどくりと鳴った。まるでそれがならいついたかの如くてのひらが動き、わたしは教えられたばかりの祈言を驚くほど低くか細く絞り出す。




「捕らえ、捉え、囚え! 雁字搦めよ、孤独の王たる灰の女狼(アドルフィーネ)!」


大遅刻で本当に申し訳ありません……! お待ちくださっていらした方、本当にありがとうございます。

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