ヘンゼルお義兄様について少々。
「おいで、僕の可愛いグレーテル。今日はミュランの塩焼きだよ」
うっとりするほどの美貌をこれでもかというくらい甘くゆるめたヘンゼルお義兄様は手招きしながらそっとわたしの髪をすくいあげそのまま抱き寄せるという随分器用な芸当をやってのけた。息がかかるほどの距離。わたしが衝撃でされるがままになっているからか、お義兄様は心底嬉しそうに笑った。くっそこの超人的美形男が女の敵め! ……ごほん。失礼。
ああ、お義兄様のこのあまったるい奇行は今に始まったことではないので気にしない。うざったいけど気にしません。そんなことより。
「……ミュランの……塩焼き……?」
朝っぱらからなんつう重い食事を用意しやがるのかこの義兄は。
……じゃなくて。
ミュラン? ミュラン、って、あの、この前お父様がこっそり狩りでしとめて持ち帰ってきた、あのミュラン? あの、今の時期ではなかなか手に入らない高級肉の? ————わたしが、せっかく、お父様に勝手に馬鹿食いしないようじっくり注意してまでホクホク大事に取っておいたご馳走用のミュラン肉!?
「……お、」
「お?」
にこにことお義兄様が繰り返す。さらさらの金髪が揺れて、柔らかな蒼の瞳が細められる。おまえは王子様かってほどの美人っぷり。もういっそ美少女に性転換しろ世の為人の為義妹の心の平穏の為!
ぶるぶると怒りに震えるわたしの拳にはとんと気付いていらっしゃらないらしいお義兄様は当然のようにわたしの頬を両手で挟み額を近づけてくる。ぶち、と脳内で何かが切れた。その気ならこちらだって手があるんですからね! 心の中で叫び、わたしはキッとお義兄様を睨みあげる。
「お義兄様の、ばかああああああああああああ!」
ごつん! とわたしは容赦なく自分の石頭をお義兄様の額にぶち当てた。
…………何で攻撃したのにこの人は心底幸せそうに笑ってんの!? ナニ!? とうとう『まぞ』にでもなったわけお義兄様!?
ヘンゼルお義兄様はお義母様の前の旦那様の連れ子だ。つまり、わたしとはほとんど赤の他人ってことになる。血縁的に言って、だけど。何しろお義母様とも血の繋がっていらっしゃらないのだから、筋金入りの他人様だ。
そうは言っても家族であることには変わりない。お義兄様の義妹にさせていただいたのは、確か七つの頃。二つ年上のお義兄様は九つになられたばかりだった。無垢で子供らしい女の子だったわたしは、このたいそう美しい新たな家族にとってもとっても喜んだ。それはもう、引き合わされた瞬間天使様に遭ったみたいな心地でぼーっと見蕩れるほど。骨抜きにされた。相手の反応も構わずまとわりついていた、ああ、あの、愚かしき幼い日々よ!
いやいやいや話が逸れたわ。
そう、あの頃は、まだお義兄様はまともだった。むしろ素敵で完璧で自慢のお義兄様だった。——白状します。わたしはいわゆる『ぶらこん』だった。お義兄様大好き、が口癖だった。穴があったら埋まりたい。
それがどうしてこうなったのか。
今ではお義兄様は十八歳、わたしは十六歳。さすがに兄離れもして、さすがに「お義兄様大好き」は言わなくなった。だけどその反対に、何故か、何故かお義兄様は脳みそとろけてんじゃないのってくらい阿呆な妹馬鹿に変貌してしまったのだ! ああなんて悲劇! 主にわたしが!
そりゃあ、そりゃあお義兄様のことは好きだ。す、……いや、うん、好き、だとも。うざいけど。でもわたしが好きなお義兄様はちょっとぎこちなくて、頭を撫でてくださる手が触るか触らないかのあの遠慮深さというか、慣れていらっしゃらないもどかしさ、それからちょっとクールで表情の少ない、でもたまに見せていただける控えめな笑顔がもう本当に天使様みたいなお義兄様で————
あんな朝から抱きしめてきたりキスしてきたり髪の毛をむやみやたらと触ってきた挙句意味不明なもうどこぞのお姫様にでも言ってろよ的な美辞麗句を口走るような甘ったるいお方じゃなかったのに!
ああ、一体いつからこうなったのか。わたしが神学校に中途入学する前はまだ普通だった。なのに、気付けばこんな。
「グレーテル、ごめんね。まだ怒ってる?」
怒ってる? と聞きながら何であなたは義妹を抱きしめてるんですかやめろ暑苦しい!
けっとやさぐれた気分で、無理矢理離れようとしてもお義兄様の力は意外に強く、なかなか逃がしてくれない。——って、ぎゃあ! 息っ、息、わざとかけやがりましたよこの人っ!?
「だって今日からグレーテル、高等神学校の二年に上がるでしょ? 朝からお祝いしたかったんだよ」
……う。
そういうお義兄様だってもうすぐ研究院にご入学ではありませんか、そちらの方がおめでたいです、ともごもご呟く。ああもう、何でそういうこと言うのかこの人は。うう、だめだめ、ほだされるもんですか。肉の恨みは深いんです!
「……それに、半日学校って言っても、また暫く会えなくなっちゃうし。グレーテル成分を朝から目一杯補給しとかないと、うっかり友達殺っちゃいそうだから」
「————」
それが本音かこのド変態義兄が! ていうか意味分かんないし!
……え? あれ、待って? まさか、わざわざわたしに怒られるために、お肉使った、ん、じゃ……?
恐ろしくなってそっと見上げると、お義兄様はそれはそれは麗しいお顔でふわりと微笑んだ。ウッカリ見蕩れている間に顔が近づき、——ちゅ、と目尻に何やら熱いものを押し当てられた。
……………………わーお?
さすがにここまでくるともう暑苦し過ぎて、どうしよう恥ずかしさと恐怖とお義兄様の変態加減に泣きたい。もういいから早く恋人作ってくださいマジで。
「……とりあえず、気持ち悪いですお義兄様」
「傷つくなぁ、グレーテルってば。でもいいよ、君が言うことなら何でも嬉しいからね。——文句言ったって、僕はやめてあげないよ、可愛い可愛いグレーテル。君の目に映る全てを殺して回りたいくらい愛してる」
もうやだこのひと。
耳元すれすれで囁かれて、わたしはがっくりと項垂れた。……お義兄様。
もうイイ歳なんですから、『しすこん』は良い加減にしてください。恥ずかしい。ていうか。
……なんか、日に日に病んでってません?