灰色の尾を追う昼下がり。
お父様の研究室を飛び出して、わたしは真っすぐ玉座のある王宮の中央に向かった。もたつく足を無我夢中に動かし、息を切らしながら走る。研究所を出て、三つ目の角を曲がったところで、ふいに何か灰色の影が前方を遮った。ぶつかる、と慌てて足を止めて、ひっくり返りそうになる。う、わ。
「……っと、……?」
踏みとどまって相手に目を向け、わたしは首を傾けた。
……犬?
角に隠れるようにして立って——四つ足で——いたのは、ふさふさした灰色の長毛を優雅にたなびかせた、耳の尖った犬だった。青と銀が混じり合って、熾火のように揺らめく瞳。吸い込まれそうになる。流れる水を思わせる叡智をたたえた眼差しはどこか気怠げで、だけれど身動きできなくなる強さでわたしを見つめてくる。品定めされているみたいで、落ち着かない。
なんで、犬がこんなところにいるんだろう。誰かが連れてきたのか。でも、猟犬のようにも見えないし、連れてきたとしても、いったいどうして。
(あ、もしかして、神獣様?)
それなら、王宮に居てもおかしくない。うん。わたしはぺたんとしゃがみ込み、そっと推定神獣様に手を伸ばした。
「こんにちは、神獣様。すみません、急いでいるので、失礼しますね」
『む、撫でるなら喉にしてたも』
……………。
喋った! 神獣様が、喋った! 人間の言葉で! シュテンヘルツの言葉で!
ばばっと後ずさったわたしは、間抜けにも尻餅をついてしまった。目をまん丸くして、ぱくぱく口を動かす。え、ええええ。なにそれ。神獣様って、わたしたちの言葉は分かっても、お喋りになることなんてないはず。ああ、でも、本当は喋れるのかもしれない。喋らないだけで。えええ、でも、それなら何でこの方はあっさり喋っているんだ。意味が分からない。
神獣様は眠そうに欠伸をして、ぺしんと尻尾を地に打ちつけた。その尾から微かにこぼれおちた、灰色の粉が大理石の上できらきらと光った。なんだろう。
『娘、急いでいるのではなかったのかえ』
「えっ、あ、はい」
『では往こうぞ』
「は、い?」
ぺろり、と左手の中指を舐められ、くすぐったさにきゅっと目を細める。あれ、べたべたしていない。ていうか、どっちかというと、さらっとしている。不思議だ。
神獣様は小首を傾げた。なんとなく、えもいわれぬ愛嬌がある。かわいい。もふもふしてる。撫でたい。沸き上がってくる衝動のまま、危うく神獣様を鷲掴みしそうになった。のだけど。
『なんじゃ、這いずって往くつもりかえ。時間がかかろうぞ』
続いた言葉があんまりにも可愛げがなかったので、その欲求はすぐさま鎮火した。わたしはちょっとむっとしたけれど、確かにその通りだったのでさっさと立ち上がった。
「では、行きます」
『是』
ぺこりと頭を下げてから走り出すと、なぜか神獣様もついていらっしゃった。なぜ。思わずガン見すれば、彼女——声からして、おそらく女性——は前を見ろというように顎をしゃくった。……どうしてそう当然みたいな顔をしていらっしゃるんですか。
わたしの怪訝な眼差しをどう感じたのか、ああ、というように神獣様が灰色の尾を振った。こころなしか誇らしげにおっしゃる。
『妾のことは、フィーネと呼ぶがよい』
いや、そういうことを聞きたいんじゃなくてですね!
どうやらフィーネ様の中では、わたしに同行することは決定事項らしかった。行き先、分かってらっしゃるんだろうか。若干不安になったけれど、今はそんなことをごちゃごちゃ言っている場合じゃない。仮にもたぶん神獣様だし、危なくなったら、きっと自分で何とかしてくれると信じておく。たぶん。……。駄目だ。やっぱり不安になってきた。だってなんかこの神獣様ヘンだし、あんまり俊敏そうでもないし。お帰りいただこう!
以前フリーダたちに教えてもらった、使用人用の通路の下にある抜け道を突っ切ったところで、わたしはぐるっと振り向いた。
「あ、あ、あ、あの、フィーネ様、わたしこれからちょっとよろしくないところに向かうんです。ですから、あの、ここでお別れしましょう!」
『何を惚けたこと言っておる。さっさと進め』
「ひとの話聞いてない! そうじゃなくてですね、つまり、危ない、かもしれない、んです。フィーネ様」
お願いです、とわたしは、たぶん、たいそう情けない顔で呟いた。眉尻と口端がぐんと下がっているのを自覚する。神獣様はひとの感情を読むことができるのだろうか。分からない。でも、この顔で意図がきちんと繋がったらいい。怖いのは、好きじゃない。わたしはお義兄様じゃない。誰かをちゃんと守ることなんて確約できない。
フィーネ様の不思議な色の瞳がくるりと回って、凪いだ湖みたいに透明な静けさを包んでいた。うつくしい。極上の櫛で梳いたような長い灰色の毛も、その瞳も。そのすべてが、控えめながらもたっぷりと贅を凝らした芸術品と違わなかった。フィーネ様のうつくしさは、ユティ様の清らかさと似ている。間違いも瑕も何ひとつない、そのようなうつくしさ。そのように在る如く見せる、気高さ。
——囚われて、泣きたくなる。誰も傍に寄ることを、許されないような気がするから。
わたしはユティ様の細い肩を思い出した。清らかで、凛として、だけどやわらかく穏やかであって、そうしてどこか侵し難いうつくしさを背負った、おそらくそれを神々しいというのだろう、真っ白な背中。でも、ユティ様の手を誰かが繋ぐところを、わたしは想像できなかった。それは、今、わたしがとても不安だからかもしれなけれど。だからそんな風に怖い方に考えてしまうのかもしれないけれど。
フィーネ様は湿った黒い鼻をすいと揺らして、叱りつけるみたいに尻尾を振った。俯くことを許さない眼差しに一瞬息を止める。
『お前が一人で行ったとて、何ができると言う。……ああ、悪い意味で言ったのではないぞ、それぞれの場所があるということじゃ。適材適所というやつよの。娘、お前にはろくな戦闘能力もなかろう。お前が何を案じておるのか一応分かるが、無用な心配というものじゃ。いちいち細かいことを考えるはやめい』
「そ、そうなんですか?」
いかにも弱そうなのに。犬だし。
思ったことが顔に出てしまったのか、フィーネ様はわたしをぎろりと一睨みなさった。怖い。
『よいか、娘。使えるものがあれば使う、ということを覚えることじゃ。何もいずれかの守護人となりたいわけではなかろ。他の誰ぞができるというなら、その誰ぞを引っ張ってこれたらそれで大収穫なのだと分からぬかえ。まあ、そればかりではないが……つまり、妾は、選ぶことを考えよ、と言いたいのじゃ』
「えらぶ」
『手段を選んで半分を失うより、手段を選ばずすべてひっくるめて確保する、と豪語した男がおる。まあ、そのようなことじゃ。分かったかえ? なら往くぞ』
ふぬう、と嘆息して、フィーネ様はすたすたと歩き出してしまう。わたしは慌ててその後ろ姿を追った。ゆらゆら揺れる尻尾には、やっぱり灰色の粉が蝶の鱗粉めいてきらきらと輝いている。フィーネ様は不思議な神獣様だ。しかも、饒舌。
と、大儀そうにフィーネ様が振り返った。
『はようせい。お前、根暗のくせにちょっと暢気ぞ』
「ね、根暗じゃないです!」
失敬な発言を全力で否定して、わたしは少しだけ軽くなった足を速めた。