憂鬱と能天気の相談室。
たいそう御機嫌なお父様に招き入れられ、軽くイラッとしながらわたしは研究室のなかに進んだ。途端、むわっと埃臭い匂いに襲われる。ここ、ちゃんと掃除しているんだろうか。二人を胡乱な眼差しで眺めたところ、かなり薄汚れていて、どうも爽やかさが足りない。いつかお義兄様もこんな風に身なりに構わなくなるのかと思うと、なんだか少し腹立たしい気持ちになる。あの秀麗な顔で、こんな惨状。許せません。
「いやあ久しぶりだねグレーテル! 僕がいなくて淋しかっただろうそうだろう! よし、今度は君が夜ひとりで眠ってすすり泣いているときに僕の幻が枕元に立って慰める祈言を編んでみせよう!」
ホラーです。
ぴき、と額に青筋が立つのを自覚する。お父様と話しているといつもよく分からない方向に突き進んでいって、最終的に何を話したかったのか何を聞いていたのかさっぱりよく分からなくなるからすごく疲れる。ティーロさんが呆れた顔でお父様を一瞥して、俺は手伝わないっすよ、と言い切った。もくもくと部屋の整理をしている。ティーロさんがいつもこんな魔窟で埃まみれで過ごさなくてはいけないのは、八割方お父様のせいなのだから、彼はもっと怒って喚いて罵っても良いと思うけれど、彼が怒っている姿をわたしは見たことがなかった。
「編み出すのか構いませんが、ぜったいわたしには使わないでください。もうおつかいしませんよ」
お父様のきらきらしていた目が一瞬で曇った。
「それは酷い。グレーテル、君ときたら、いったいいつから反抗期に入ったんだい? 父さんは哀しみで泣いてしまうよ!」
「勝手に泣いてください。それじゃ、用は果たしましたからね」
「うん。ありがとう。また頼んでもいいかな?」
ころっと表情を変え、お父様はにこにこと首を傾げた。わたしはその変わり身の早さに少し呆れたけれど、やっぱり欠片も躊躇わずに「いいですよ」と頷いてしまう。そうするとお父様はとても嬉しそうになって、大きなてのひらでやわらかくわたしの頭を撫で叩いた。その慣れた仕草は幼い頃から変わらず、良い子だね、と笑うその目尻には皺が増えた。とんちんかんで人の話を聞かないお父様のものとは思えないほど柔和な眼差しが、あたたかな雨のようにじわじわと注がれる。
わたしは、家族にとても弱い。
そして、今、わたしはとても、平和だ。胸にくすぶる感情の愚かしさをわたしは知っている。分かっているのにもやつきは消えないから、表情をうまく作り損ねて、わたしはとても機嫌の悪そうな顔になってしまったようだった。だからだろう、
「どうかしたかい、グレーテル」
優しい声がそっと耳の奥まで通り抜ける。わたしはお父様から目を逸らすように俯いた。すると、ティーロさんが無言でお茶を出してくれる。……器は、何か怪しげな壜だったけれど。机の上の一角を、乱雑に積まれたものの山を無理に押し避ける仕草が、いかにもものぐさっぽくて、着実にお父様に染められている。ありがとうございます、とお礼を言うと、彼はびくっと体全体を揺らして明らかに狼狽え、躓きながら凄まじい勢いで飛びずさった。冷や汗が流れている。わたしは半笑いになった。
(……ティーロさん、まだ女の人苦手なんですね……)
ティーロさんはとても細い。お父様と同じように研究にのめり込むひとで、結構食事を食べ忘れていたりする。たぶん、そのせいだろう。外にあまり出ないから肌も白い。そのティーロさんが目に見えて土気色の顔になっている。
「失礼な男だなあ、君は。僕の娘なんだけどねえ」
わりと本気で不満そうなお父様の言葉に、ティーロさんが思いっきり唇を歪めて眉間に皺を寄せるのを見て、わたしは慌てて両手を振った。
「いえ、わたしが不用意だったんです。ていうか、お父様はもっとティーロさんを労ったらいかがですか。苦労ばっかりかけているんですから」
「うーんまあねえ。ところでグレーテル、君、何かあったんじゃないのかい」
「え」
「さっきからずっと、何か言いたそうな顔をしているじゃないか」
「……それは、」
言ってごらんよ、といかにも気安くおっしゃるお父様は、お義兄様に少し似ていると思った。それともお義兄様が似たのだろうか。血が繋がっていなくても、ずっと傍で、家族として生活していけばふとした瞬間に共通点が見られる。血が繋がっていてもまるで同じ要素を窺えないことがあるように。
それは、わたしの髪や目の色が、如実に表している。
(……そんなことは、分かり切っていることです)
くだらない感傷を振り払い、わたしは迷うように口を開閉させてから、ごくりと生唾を飲み込む。こうやってお父様に悩みを聞いてもらうのは、いつ以来のことだろうと、少し考えた。
「とても危ないところに、友達が向かっているんです」
「ふうん?」
「巫女様や、陛下が、危険なのだと」
「それは大変だ。僕らにもとばっちりがきそうで困る。それで?」
「わたしは、一緒についていかなかったんです」
「まあ、賢明な判断だねえ」
うんうんとお父様は頷いた。ちょ、博士、空気読みましょーよ、とティーロさんがちょっと焦ったように言ってくれたけれど、完全無視しいる。
「だって、君は弱いからね」
お父様は優しい。わたしたち家族には格別優しくて、ちょっと煩くて、かなりうざったいけれど、きっとこの世の何より大事にしてくれている。お父様と、お義母様と、お義兄様と、わたし。この生活がずっと穏やかに続くように。
だけど、お父様はわたしにつまらない夢を持たせはしない。現在の時点での事実をそのまま突きつける。
わたしはちょっと笑ってから、苦い息を吐いた。そうですよね、と返す声が自己嫌悪に歪むのが、なんだか滑稽だった。ティーロさんが気遣わしそうにちらちらとわたしを窺い、何度か口をぱくつかせたあと、困ったように眉尻を下げてそうっと手を伸ばしてきた。なんだろうと思うと、労るように肩を撫でられる。その手はぷるぷると震えていて、ティーロさんこそ気遣いたくなる顔色の悪さだった。もしわたしではない、たとえば初対面の女の人とかだったら卒倒していたかもしれない。なのにこんな風に優しくしてくれる、とても善い人。淀んだ胸の裡をふっとほぐしてくれる。
その様子を微笑んで眺めていたお父様は、でもね、と言葉を続けた。これは、とても珍しい。
「君はどうしたいんだい」
きょとんとわたしは瞬いた。それは——質問の意味があるだろうか? どちらにしても、わたしの取るべき道は一つだったのに。その気持ちを察したのか、頬皺を深くしてお父様が苦笑する。
「僕は、君の希望を聞いていないよ。君はもう家のなかでヘンゼルにひっついているばかりの子供じゃないだろう」
「……わたしは」
「うん」
「…………もし、お義兄様だったら、」
「僕はねグレーテル、君の希望を聞いているんだよ」
ぐ、と口をつぐむ。もしお義兄様だったらこんなときどうしただろう。でもそんな疑問は何の意味もないのだ。だって、わたしとお義兄様では、スペックが違いすぎる。でも。
でも、わたしは。
「いきたい、です。だって、わたしも、シュテンヘルツの人間です」
感謝している。
豊かで穏やかな王国を統べ、慈しんでくださる王陛下に。
神殿の奥で日々わたしたちを守ってくださる巫女様に。
あらゆる災厄を押しのけてくださる聖下に。
わたしの家族を育み、引き合わせてくれたこの国に。
たとえそのどれもが気休めでも、気紛れな神々よりずっと確かな支えなのだ。
何より、わたしは後悔が嫌いだ。とても、嫌いだ。だけどいつも後悔してばかりいる。今だってそうだ。どうして一緒にいかなかったのだろうとずっと思っている。理性では、むしろ邪魔をすることになるかもしれないと理解して、だからこうして一人でお父様のところまできたというのに。
「だったら行ってきなさい。どうしてもそうしたいんだろう」
お父様はさらりと仰った。うじうじうだうだとキノコが生えてきそうなわたしと正反対だ。
「え、でも」
さっき弱いから行かなくて正解だったよ、みたいなことおっしゃってらしたじゃないですか。そう言いかけて口ごもる。お父様がにこにこしていたから。
「いいかい、グレーテル。さっきも言った通り、君はもう右も左も分からない泣いてばかりの子供じゃないんだよ」
「な、泣いてばっかりじゃありませんでしたよ!」
「君ができないと思うことの半分は、わりとうまくいくものだ。半分は本当にできないだろうけどね。だから、まあ、ヘンゼルに怒られない程度に好きにやりなさい」
「さっきと言っていることが違います……」
「深く考えて喋るの苦手なんだよねえ」
人間失格な発言をするお父様をティーロさんが軽蔑の目で見下ろしている。気持ちがよく分かる。わたしもそうしたい。なんだかとっても腹立たしい。お父様はいつも自分勝手で何考えているのかよく分からなくて適当だ。
むかむかしながらわたしはバッと立ち上がった。大声をあげる。
「お父様!」
「うん?」
「わたし! もう、行きますから!」
「うん気をつけてね。怪我したらヘンゼルに言っちゃうからね。あとこれ持っていきなさい」
扉に向かいかけたところで何かを投げて寄越され、慌てて受け止める。小さな——壜?
「なんですか、これ」
「なんかあったら使って」
「使用方法が分かりません」
「まあまあ、急いだ方がいいんじゃないかい。僕とティーロは君の差し入れで休憩するよ」
「う、」
どうして差し入れを増やしたことなんて知っているんですか!
怒鳴りたかったけれど、ティーロさんが休憩の一言にとても嬉しそうになったのでグッとこらえて走り出す。失礼しました! と言い捨てて、わたしは研究室の扉を勢い良く閉めた。