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小休止 ヨハン曰く、

 彼の名をヨハンと言う。

 

 自分のその、ありふれたどころか右を向いても左を向いてもでくわすような地味な名前を、彼はとても気に入っていた。それは何故か。覚えやすいからである。次に続く、父から受け継いだ名が舌を噛みそうなほどこめんどくさいものだから、その思いはひとしおだった。

 それにこの牧歌的な名は大抵の相手にもすんなりと覚えてもらえる。新たな息子も妻も、見事一発で覚えてくれたものだ。覚えてもらえる、というのはつまり、二度三度と聞き返される面倒が少ないということなのである。


博士(ドクター)、この壜はどこに置いとけばいいんすかね」


 うずたかく積まれた書物の山に狭間を作り、なんとかそこに収まってとっくり文字を追っていた彼は、無造作にかけられたその声に危うく反応しそびれた。数秒して、ああ、うん、うんうん、と腑抜けた声を出す。


「なんだっけ、それ」

「アリーセの(ズィーベン)、ハイネの枯葉と蜜を混ぜた青いやつです」

「毒羽根の蓋?」

はい(ヤー)


 とろとろと、知らず瞼が落ちてくる。ああ、今日も陽気が気持ち良いなあ。我が麗しき細君(スーセ)は今日も元気に発狂していたし、うん、今日も今日とて平和だなあ。


「博士、」

「ん、ああ、ごめんごめん。眠くなっちゃってねぇ」

「俺も眠いっすよ。ここ数日ずっとこもりっきりなんすから」


 はああ、と重いため息が聞こえた。おや、とヨハンを記憶をほじくり返す。おや、こもりっきり? 彼が? ということは、自分も一緒にこもっていたということだ。……。……? 何か違和感を覚えて首を傾げる。

 ……うん? つまり、自分が家族にあったのは、今日ではないのだろうか。


「ティーロ、私もこもっていたかな」

「何寝ぼけたこと言ってんすか。当然でしょ。俺ひとりでこもってたらつまみ出されますよ」

「……。そう? あれ、じゃあ、ところで。私たちは何日こもっているのかな」

「さあ。正確には覚えてませんが、少なくとも七日はこっから出てないっすね」

「…………そうなの?」


 あざやかな夜の色の瞳が、心底呆れたようにヨハンを見る。腕までまくった袖にはところどころ、怪しげな色合いの液体がこびりついており、仮にも王宮内に設置された研究室で、彼は裸足で歩いていた。まったくイイ性格だなあ、とヨハンはまったり助手を見つめ返す。ティーロは嫌そうに口を曲げた。


「さっさと指示出してくださいよ。これ、適当にどっか置くわけにも、ずっと持ち続けてるわけにもいかないんすから」

「ああごめんごめん。うん、そうだねぇ、じゃあその銀二十七の棚に置いてくれる? うんうんありがとう」


 さっさと壜が置かれるのを確認してから、ヨハンは書物の山の下から古ぼけた安紙を一枚引き抜いた。開けっ放しのインクにペンを漬けて、がりがりと紋と描き、つらつらと祈りの言葉を書き連ねて、最後に中央から下へ、親指を擦り付ける。ぱん、と両手を叩き合わせ、ヨハンはなめらかに口を開いた。


「おいでませ、灰燼の姫君。ユーリヒとユーディト、エルンストの焼け落ちた王に乞い奉る。どうぞこの新たな育みに豊かなご加護を」


 ぽう————と合わせた手のうちから、光が溢れた。

 密やかな、銀の鈴が響き合う音がする。しゃん、とどこか冷たいそれが彼の額に迫るよう、少しずつ近付いてくる。ティーロが軽く目礼するのを横目で捉え、彼は少しばかり、微笑んだ。のほほんといかにものどかに。


「お久しゅうございます」


 (うむ)、とたわんでしゃがれた声が頷いた。ヨハンは下げた頭を持ち上げる。見上げた先、ふわふわと宙に漂う(・・)、高貴な少女の姿をした、けれども人ではない、——すなわち神の一柱が、片頬を微かに緩めていた。花にも似た灰がその空気中に溶ける髪にふりかかり、片目はぼやけてゆらめいている。まるで弱い火のようだ。折れそうに細い足首に連ねられた銀色の輪がしゃらん、と鳴る。その指先すらとけて、文字通り漂って(・・・)いた。

 ふらり、ふらり。ゆらり、ゆらり。

 煙の如く。

 ——獣の(さが)を持ち、灰の花をまとい、加護の意志を戴く女神灰燼の姫君(アドルフィーネ)


『用は何じゃ、(めぐ)し子。妾がいつでも眠いとお前は知っておろう』

 

 気怠い言葉を受けたヨハンは「ちょっと失礼」と軽く手で謝り、散らかった棚の奥からひしゃげた袋を引っ張り出した。それを大切に持って、いそいそと灰をかぶる神へ差し出す。ぴくり、と美しい灰色の眉が寄る。じっとりとした視線で睨まれた。青くなるティーロと違い、ヨハンはただにこにこと微笑う。


「どうぞ、先日精製したばかりの花菓子です。虹神(イリス)殿とどうぞご一緒に」

『……混ぜた花は何じゃ』

「アリッサムです。白を選びました」


 ふん、と彼女は鼻を鳴らした。溶ける指先がくいっと動き、袋の中身が宙に浮く。ふよふよと自身と同じように漂うそれをとっくり眺めたかと思うと、薔薇を搾ったように赤い唇が、菓子のうちのひとつを、ぱくりと呑み込んだ。

 ティーロは少女の姿の神の様子を、はらはらしながら見守った。恐ろしい。まったく、博士ときたら命知らずだ。げっそりとそんなことを思う助手のことなど全く気にしていない風の男は、神の冷たい一瞥を受けてももちろんどうじない。


『……で』

「はい」

『今度は何ぞ』


 ヨハンはにっこりと笑った。徐々にはっきりしてきた本日の記憶を笑顔の裏でほじくり返す。そうそうそう、今日は確か、夢を渡ってあの子におつかいを頼んであったのだった。すっかり忘れていたけれど、恐らくそろそろ頼んだ全てをきっちり買い集めて持ってきてくれる頃だろう。本当にうちの娘は良い子に育ったものだ。次に帰るときまでに、何か素敵なお土産をこしらえておかないとなあ、と当の娘からすれば迷惑極まりないことを考える。

 そうして、むっつりと待ち構える神に彼は誠心誠意感謝を込めて、


「ありがとうございます。それでは暫く、うちの可愛い可愛い可愛い可愛いグレーテルの護衛をしてください」


 お願い申し上げたのだが、何故か彼女は珍しくも苛ついた顔で舌打ちし、勤勉な助手は目を逸らした。






 


 最終的に是と頷き、ひらりとどこぞに神が消えた後、ヨハンはうきうきと部屋の片付けを始めた。それを手伝いながら、ティーロは何度も何度もため息をつく。


「博士、もう無理っすよ。どーせ間に合いませんって」

「まあまあもうちょっとだから! ふふふ、ティーロ、君もあの子に会うのは久々だろう?」

「や、五日前くらいには会いましたよ」

「気のせい気のせい」


 何故。

 るんるん、と鼻歌まで始めた上司にげんなりする。まったく、このひとはいつもこうなのだ。家族と対する時は大抵、無駄にテンションが高い。いつも以上に頭のネジが跳ね飛んだ様子で接するものだから、哀れな彼の娘はいつも額に青筋を立てている。……これさえなければ、あの子もまだ心中穏やかでいられるだろうに。


「ティーロ、仕方ないだろう? 家族に会えるとついはしゃいでしまうこの気持ち!」

「いや分かりませんから。てか、それで奥さんに逃げられても知らねっすよ」

「大丈夫! 彼女はもっと変だからね!」

「……自覚……あったんすね……」


 でも変えないんすね……という突っ込みは、寸でのところで呑み込んだ。僅か扉三つ分先から、足音が聞こえたのだ。これはおそらく————


「ああ、くるね」


 ふわり、とヨハンは蕩けるように頬を緩めた。細まった目は皺がよってとことん穏やかだ。だからか、余計先程の神との契約が気になってくる。


「あの、お嬢さん、これからなんかあるんすか?」


 この男は娘を守るよう神に乞うた。

 神は是と頷いた。


 つまりは、彼の娘に何かがある、ということなのだ。


 他人事ながら微妙に心配になってきてそう尋ねたティーロの懸念を吹っ飛ばすように、ヨハンは曇りない笑顔で助手の背中をぶっ叩いた。そりゃもう容赦なくばっしばしと。痛ぇ。


「うちの娘はなんだかんで良い子だからね! これは仕方ないことなのさ!」

「いやだから意味分から」

「ああ、ほうら、やってくるよ!」


 ティーロは再び、口を噤んだ。積まれた書類で下方の見えない扉を見る。こんこん、といかにも適当に叩きました、というノックの音。

 返答を待たず、がちゃりと扉が開かれる。


「やあやあやあ、いらっしゃいグレーテル! おつかいご苦労さまだね!」


 沈んだ顔のまだ幼さの残る顔立ちをした少女を、その父親が至って陽気にまさしく空気をぶった切る勢いで出迎えた。



こっそり:

 スーセは「可愛いひと」の意で、細君のことではありません。いや、あの、ほら、「可愛い子猫ちゃん!」の勢いです。

 アドルフィーネは「灰燼の姫君」の訳語ではありません。検索かけるとネタバレか、も、しれ……ません。

 イリスさんは実在の人物・宗教・団体とは関係ないよ! これはフィクションだよ!

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