無力な聖句と祈り。
ユティ様はとても機嫌良さそうに白い布を目深に被って何事か呟いた。聞き取れた言葉が確かなら“エレンを煙に”だと思う。どういう意味だろうかと考えあぐねている間にアルノーがあっと声を上げた。
「それ、もっと早くやってくださいよ!」
「アルノーが色々言うからだよ。今からでも大丈夫だってば」
「あなたのその楽天思考どうにかしてくださいよ!」
「天下泰平の証でしょー」
……うーん、よく分からないけど、話を総合するに、今のは術なんだろうか。巫女様って不思議な祈言を使うって聞いたことがあるような。それかな。
クラウスと二人で首を傾げていると、ユティ様はぱっと笑った。あのね、と楽しげに続けられる。
「今のはね、身隠しの芯術でね、これで普通に大通りも歩けるよ。のんびり行こうね。買い食いもしようね」
「姫様!」
どうやら歓楽気分のご様子です。
*
宣言通り異国の旅商から白いもっちりした食べ物に蜜がかかった菓子を竹串に刺して食べながら、わたし達は王宮へ向かった。不思議な食感だけどもなかなか美味しい。ユティ様はご満悦でお顔をきらきらさせていらっしゃる。クラウスがデレデレして多少気持ち悪い。アルノーはユティ様を守るようにさりげなくかの方の背後にいる。
「白蝋、梛枝、灰鈴、桃果」
うたうように不思議な祈言を囁きながらユティ様は輪舞を踏むように軽やかに歩いていく。ときどきそのお声は止まって、柔らかくおしゃべりする。漸く緊張が溶けてきたらしいクラウスが答えては問いを投げかける。アルノーとわたしはこっそり苦笑し、友人の必死な様子を腹の内では大爆笑していた。だってクラウスが借りてきた猫みたいに大人しく、忠犬みたいにユティ様にまとわりついている。可笑し過ぎる。
祈言、というのは術を使う時に詠唱の言葉を指す。聖句とは少し違う。聖句というのはお祈りの言葉や、神様からいただいた言葉、それから時には儀式に用いる言葉のことで、だいたい普通の詠唱では短縮されない。巫女様や聖下、芯師の人達はできるかもしれないけれど、大抵のひとは難しくてまったく発動しない。聖句というのはとても神聖なものだから。
対して祈言は神様に乞う言葉だ。昔の人々が少しずつ編み出していった神々やその眷属に働きかける言葉。そうして力を借りて事を成す。
これも詠唱破棄や短縮は難しいとされる。けれどもできなくはない。現に芯師の人々は大抵簡単な祈言は短縮する。言葉にしている時間が面倒だし、無駄だからだ。
ただ、ユティ様が今使っていらっしゃるような祈言は、どうにも毛色が違うように思える。異国の言葉のような、不思議な音。
……そういえば。
そういえば、お父様はそういう昔々に捨て去られた祈言や古詩を発掘したり、研究なさっていたりするのだった。
ちなみに古詩は祈言が織り込まれた『力ある物語の欠片』のことだ。戒めを盛り込んだ古い詩でもあるけれど、本来の原文、というよりも書かれた原文の文字は思念や力を持つらしい。教科書に載るとただの古詩になってしまうのだけど。
古詩というのは大抵韻がある。そしてその中には何らかの物語ないしは意味が描かれる。祈言よりもずっと不思議なものらしい。
と、いうのはお義兄様に聞いた話だ。あのひとは古詩が専攻だったから。
そんなことをつらつらと考えていると王宮に辿り着いていた。澄み渡る空の下、傲然と佇む白亜の大宮殿。我らが王陛下のおわす場所。
白い塔が右端にあり、複雑な紋様が彫り込まれ、うっすらと金色の線で上品に彩られている。
……ふわあ。
何度見ても圧倒されるシュテンヘルツいち巨大な城の門前でひそりと感嘆の息を洩らす。綺麗なものは何度見ても心穏やかにしてくれる。美人は三日で飽きるなんて、そんな勿体ないことあるもんですか。……性格に難ありだったら、まあ、分からなくもないけども。お義兄様とかお義兄様とかお義兄様とか。
わたし達は城門の前で長い槍をどんと構えてものものしく立っている門番さん達に近付き、用向きと通行証を見せる。アルノーは顔を覚えられているのを良いことに、男二人は手ぶららしく、門番さん達はちょっと苦笑いした。わたしも顔は知られているけど、一応持ってきたのに。なんとなく釈然としない。
「ん、そちらは……司祭様、ですか? 申し訳ありませんが、通行証は、」
やっぱりユティ様のお姿は司祭様に見えるらしい。真っ白な布を目深に被って顔の見えないかのひとに、門番さんは心苦しそうにそう言いかけ、ふと口をつぐんだ。
ユティ様がくすりと笑ったからだ。
「…………ま、さか」
お年を召していらっしゃる門番さんの方が、呆気に取られたように顎を落とす。ユティ様は少しだけ布を上げて、そのご尊顔をさらした。
「こんにちは、今日の当番があなただなんて、運がいいな」
ぱっと聞くと下手な口説き文句に聞こえなくもない台詞をさらりとのたまい、ユティ様は固まる門番さんに向かって「通行証ないんだけど、入っても大丈夫かな」と朗らかに尋ねた。門番さんはもちろん、全力で頷いていた。
……さすが巫女様。
さて、とうとう王城についてしまったわけで。
だからわたしは三人と別れなくちゃいけない。たぶん、三人とも、尊い方々のところに行くのだろうから、お父様の用事で来たわたしとは、全く違う方向になる。広大な王城はわたしなんかが把握できない、というよりも一般人は把握しちゃいけないくらい区分けされていて、少なくとも研究室のある棟と、王陛下方がいらっしゃる場所は天と地ほどの差があるのだ。
(本当は、ご一緒したいんですが)
でも、わたしじゃ足手まといだ。クラウスも、まあ、あんまり役に立たなさそうだけど、どっちにしろ彼はアルノーと来て、それからフリーダに会いに来たのだから、同行しないわけにも行かないだろう。悔しいな、とちょっと思う。面倒事はぜんぜん、まったく、これっぽっちも好きではないのだけども、それでもユティ様や陛下が危ないかもしれない、って時に、わたしはお父様のお使いを果たすしかできない。わたしはこれでもシュテンヘルツの人間なのだ。それってものすごく、歯がゆい。
お義兄様なら、とこういう時、思う。
お義兄様なら一体どうしただろう。いつも変態で変態で変態なお義兄様だけど。結局、わたしはお義兄様に頼り切っている。……依存している、と言っても良いかもしれなかった。もしお義兄様がいらっしゃらなかったら、わたしはもっと駄目になっていたかもしれないから。
わたしはユティ様の手をぎゅっと握ってから、名残り惜しくも離した。
「あんまり、無理なさらないでください」
「うん、あんまりね。だいじょーぶだよ、ありがとう」
ユティ様はやっぱり天使みたいに無垢に笑って、アルノーとクラウスとともにわたしと反対側に消えていった。わたしはその背に向かってつたない聖句を唱えてみる。あなたが無事でありますように。そういう意味の『慈愛』の聖句。
「…………」
柔らかな円を描いて神術が成る。それは弱々しく惑ってから、すっと三人が行った方向に溶けていった。効果の程は、あまりどころかかなり、期待できない。
わたしは肩を落として、研究室に向かう渡り廊下へと走り出した。