尋問には甘いケーキを。
わたしの部屋にオレンジクーヘンを持ってお義兄様がいらっしゃったのは宿題を終えて少し経ってからのことだった。
ぼんやりと今日の出来事を反芻し、後でお父様のおつかいにいかなきゃ、とそんなことを考えていた矢先。……お父様、わたしがアンナ=バルバラに通っていても買いに行くのは一旦家に帰ってからだって、すっかり忘れていらっしゃる。ともかく午餐の鐘が鳴るまでにいかなくちゃ。
そんなことをだらだら考えていたら軽いノックの音がした。警戒しつつドアを開ける。すると芳醇なオレンジの匂いがふわりと漂い込んできた。むむ、仕方ありませんね。まったく卑怯な。
お義兄様を招き入れ、寝台脇の卓を引っ張り出す。大皿に乗ったクーヘンにごくりと唾を呑んだ。おおおう、美味しそう。どきどきしながらすっかりくつろぎ気分のお義兄様からケーキナイフを奪い取ってそっと刃を入れる。小皿に取り分け、薔薇の装飾のフォークをお義兄様に、白百合の装飾のフォークを自分に。それからぽすん、と寝台に腰掛ける。隣にお義兄様。
「い、いただいても?」
「もちろん」
お義兄様はにこにこした。わたしも破顔する。——いざ、クーヘン!
がっつくように頬張ってむぐむぐと噛み締める。ええ、家族の前だからこそ出来る暴挙ですとも。ディートリヒの前でやろうものなら、彼自身はともかく周りのお貴族様達にすごい形相で睨まれることだろう。まったく上流階級は礼儀にうるさい。大事なことだけども。
「……? お義兄様は召し上がらないのですか」
「ん? うん、あとでね」
あとで?
何だかよく分からないけど、今食べる気はないらしい。変なの、怪訝な思いで顔を上げてお義兄様を直視したわたしは、ぎくりと硬直した。
お義兄様が笑ってらっしゃる。
にこにこと、まるで穏やかに、まるで正常に、絶え間なく笑ってらっしゃる。
……ものすごく、嫌な予感がした。
動揺してつい己の姿を確認してしまう。匂い、は、特にしない。髪の毛も汚れてない。どこも、おかしくは、ない、はず。
なのに、お義兄様はとても怖いお顔で笑ってらっしゃる。
最後の欠片をごくんとわたしが呑み込んだ時、お義兄様はそのぞっとするほど綺麗な指を伸ばしてわたしの顎を掴んだ。
「あ、あの、おにい、さま?」
「グレーテル、何があったの?」
間髪入れずにお義兄様は言った。え、と喉が引きつる。——ああ、おかしい、わたし、今、別に変なところなんてなかったはずなのに。
密かに青ざめると麗しい笑顔はさらに深くなる。ねえ、グレーテル。あまいあまい、あまったるいくらいの声音がわたしの名前を何度も呼ぶ。たわんで響くみたいに浸透する。ねぇ、僕の、愛しいグレーテル。お義兄様は繰り返す。震えるような美声が耳元を掠めてざらりと巻きつく。
「一体何をされたの?」
いつの間にか両手で頭の両側から挟まれていた。髪の毛がぐしゃぐしゃになっているのが分かる。でもお義兄様は気にしない。にこにこと美しく笑ったまま、ヘンゼルお義兄様はわたしを射抜く。
グレーテル、と。もう一度、繰り返して。
「言わないと僕が君を食べてしまうよ」
めちゃくちゃに壊して泣かせてくるわせて、絶望するくらいあいしてあげる。
天使みたいな顔でそんなことをのたまうお義兄様の表情はびっくりするぐらい本気だった。ぞーっ、と危険信号が脳裏でチカチカし始める。い、いえうあ。怖い。お義兄様怖い! だらだらと冷や汗が流れ、より身近な恐怖に心臓がばくばくと駆け巡る。どどどどどうしよう。お義兄様、お、怒っていらっしゃる。——何で!? 何でわたし何も言ってないのにお義兄様は分かってらっしゃるの!? おかしくないですか!?
内心、ひい、とわたしが悲鳴をあげてることだって、きっとお義兄様はお見通しだ。分かってて、このひとはこういうことをするんだ。
でも、だけど、いつもは簡単に降参するわたしは、何故かこのときばかり、何だかよく分からない焦燥感で、ものすごく、それはもうものすっっっごく、言いたくなかった。
だから、抵抗を試みる。
「い、」
「い?」
「いわ、なきゃ、だめですか」
お義兄様は優しく首を傾けた。まったく女の敵と言っても過言ではないさらさらした金糸がわたしの額にかかる。わたしは唇をひん曲げて踏ん張った。お腹の中にはお義兄様が作った美味しいオレンジクーヘン。胸の内には常にないほどの妙な意地。ええ、まだ、睨み合えますとも!
「グレーテル?」
ああ、でも。
うぐ、とわたしは詰まった。詰まった隙にちゅっと瞼に音を立てられる。ひええええ。やっばい今日のお義兄様はとっても絶好調のようだから、このままだと本気で食べられる。駄目だろ。それ駄目だろ! お義兄様が人食いなんて嫌過ぎる! それも初犯は義妹だなんて! にんげんはにんげんをたべてもおいしくないとおもいます!
拳をぐっと握り締めながら丁度心中で叫んだ時、甘い吐息がかかった。頬骨のあたりが震える。ぞわわわわっ、と全身が反応する。じわじわと視界があやふやになってきて、その合間を突くように唇の端をぺろりと舐められた。
「ひ……ゃ、あ……っ、んふ」
あむ、と最初に食べられたのは上唇。柔らかくお義兄様の唇で噛まれる……というより揉まれる。端から、少しずつ、じりじりと。
……うひい。
水音がぐわんぐわんと頭を揺らした。熱い。は、と必死で息を吐き出す。頭部から離れたかと思ったお義兄様の手がそうっとわたしの手首を持ち上げた。ゆるやかな拘束だ、と気付く理性は残っている。けども、腕も頭も足も心臓も唇も、何もかもが痺れていて駄目だった。逃げ、られ、ない。
ふと、唇が離れる。ひんやりとした微風がわたしとお義兄様との僅かな間をすり抜ける。お義兄様がわたしを見る。——ああ、どうしてこんなに宝石みたいに綺麗な目がこんなに病んでいるのか。熱っぽく潤んだ双眸は色気たっぷりで義妹でもうっかり悩殺されそうなのだけど、いかんせん残念さが全面に出るのは一体何故。
湿った唇がまた押し当てられる。ん、う。今度はちう、と吸われていく。長いくちづけ、で、わたしの唇の皮がお義兄様に吸収される。くるしい、ん、ですがお義兄様!
「っは、あ……ん、ふあ?」
あーもうどうしよう駄目負ける。
既に朦朧とし始めていたわたしは案の定すっかり降参していた。だけども喘ぎ声しか出なくてその意思が表せない。一旦離れた唇が下唇を揉み始める。ぱくり、ぱくりと優しく食べられていく。最後にぺろぺろとねちっこく舐められた。
「……僕はね、グレーテル。君のすべてを知らなくても、君がされた不快なことを看過出来るほど、控えめじゃないんだよ」
——ずき、ときた。
お義兄様が悪い。
お義兄様は、そんな、妙に切なく言うから。しかも世界で一番綺麗な声で。
なんだか変に罪悪感が沸き起こってきて、ごめんなさいをしたくなるのは、ぜんぶ、ぜんぶお義兄様が悪い。
「……です」
「うん?」
「みず、かけられた、だけ、です」
言ってしまってから後悔した。お義兄様の蒼の眸に剣呑な色が走り抜ける。そう、と小さな呟き。
「でも、それだけじゃないでしょ」
とん、と肩を押されてあれっと思った時には寝台に仰向けに倒れていた。座った姿勢で倒れたものだから膝の裏が微妙に痛い。起き上がろうとしたところに何故かお義兄様が乗っかってくる。首筋に金色の頭がうずめられて、むやみやたらとくすぐったかった。
高貴な猫みたいだ。
わたしはくすぐったさについくすくす笑ってしまって身をよじらせる。ふっと息を吐きかけられてさらに身をよじる。う、く、くすぐったい、です! と訴えたつもりなのだけど不明瞭なものになってしまった。せくはらはやめたのかとちょっぴりほっとしていたら、不意に雷が走ったみたいな衝撃が首筋を襲って、びくんっと身体が跳ね上がった。——ん、なな。
「あッ、……ぅ、や、」
ちょ、やめ、首! 首噛みやがりましたよこのひとっ?!
真っ赤になったわたしに向かってお義兄様は妖艶に微笑う。ぜんぶお吐き、グレーテル。見透かすみたいな目で言われて、わたしはひっと頬を引きつらせた。
「い、言いま、っんむ」
言い終わらないうちに覆い被さられ、気付けば深くくちづけられている。い、息、でき、ない。でも手首を押さえられているから身動きも取れない。あと怒ってらっしゃるお義兄様が超怖い。
歯列を割ってぬるりとしたものが侵入してきて、口内を舐め回される。ぎゃーっ、とあわあわするわたしの舌をお義兄様のそれがあっさり絡めとった。
「っ、ふ…………ぅ、あ……んっ……!」
しばらくぴちゃりぴちゃりと水音が響き、わたしは熱いくちづけの餌食になっていた。わたしが本当に気を失いそうになるたびにすっと唇が離れ、だけどもすぐさままた塞がれる。その繰り返し。……なんだか色々貪り取られた気がする。
それでも、その合間合間になんとか喋ったわたしに対するお義兄様の漸うの返答は、
「————うん、だいたい分かったよ。じゃあ取りあえずその子殺そっか」
実に病んでるとしか言い様のないド犯罪発言だった。
タイトルはあの……カツ丼みたいな感じで。