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ただいま戻りましたわ、お義母様。

 ぐるるるる、と再びお腹が鳴った。耳まで真っ赤になる。い、いつもは、こんなことないのに。今日はお義兄様が引き止めるから……!

 憮然とするわたしにお義兄様はまるでお義兄様然として笑い、


「ほうら、いいから着替えておいで。義母上への挨拶も忘れずに」

「ひあ……っ?!」


 ちゅっとわたしの人差し指に口づけたかと思ったら、そのまま口に含み、一瞬のうちに舌先で舐め回してから吸い付いた。ばっと引き抜いてぷるぷる震えると、お義兄様は天使様みたいな顔をつやつやさせている。こ、この、へんたい……っ!


「お、お義兄様の、」

「いいこだから着替えてきなさい。早くしないと僕が君を食べてしまうよ」


 いやー!

 わたしはぐるんっと身を翻して脇目も振らず階段を駆け上った。目、目が、目が本気だった!





 凄まじい奇声が相も変わらず廊下に響いている。わたしは乱れた息を整えて、お義母様のお部屋に入った。ふと妙に納得のいかない気分になる。いつもお義母様はこうして錯乱していらっしゃるから、わたしは帰ってきてもお帰りと言ってくれる人はいない。だけども今日、珍しく早く帰ってきたお義兄様は見通したように出迎えた。多分、お義兄様は、わたしがそれをものすごく喜ぶことを知っている。だから大袈裟なハグをかましてどさくさ紛れに変態行為にまで及ばれても、わたしはお帰りと、言葉だけじゃなくて全身で言われたことが、嬉しくてたまらなくて、何だか結局お義兄様に感謝してしまう。そこまで見越しているなら本当にお義兄様というお方は腹立たしいひとだった。

 ————お義母様に、ご挨拶。

 ただいま、という言葉。届くかどうかもしれないのに、お義兄様は簡単にそんなことを仰る。


「お、お義母様」

「きえええええええええええええええ!」

「お義母様! グレーテル、ただいま戻りました!」


 両手をグワッと振り上げ妙な踊りを始められたお義母様の腰をはっしと掴む。そのまま虫のようにへばりついて大声を出すと、ぴたっとお義母様の動きが止まった。ぎぎぎぎぎ、と首が鈍く動く。ひー、怖いですお義母様。


「…………ぐれーてる」

「は、はい、お義母様。お義兄様が先に帰っていらっしゃって、また珍しくもお食事を作ってくださるそうです。お義母様も、ご一緒に、」


 そこまで言いかけたわたしの言葉を遮ったのは、振り返って、引き離すようにわたしの肩を押したお義母様の手。その仕草にびくりとする。謝って、慌てながら離れようとする、と。


「……………………お帰りなさい、グレーテル」


 わたしは目を見開いた。細く、弱々しい声。とけて消えてしまいそうな。けれどもそれははっきりと、わたしに向けられた言葉。

 じわじわとお腹のあたりがあったかくなってくる。何だか無性に泣きそうで、わたしはただ、はい、と微笑った。


「はい、お義母様。ただいま、です」







 チーズをふんだんに使い、刻んだパセリが螺旋状に並んでいるシュペッツェレがテーブルの中央にどんと乗っている。香ばしい麺の匂いがふわりと鼻孔をくすぐった。パンはカイザーブレートヒェン。お義兄様は料理がお上手だ。あんまりやらないけれど、作るとすごく上手い。出来ればお義兄様が料理をしてくださったら楽なのに、気が向かないと一切手を出さないのだから面倒な人だ。

 はふ、と息を吹きかけながらフォークで麺をすくい、あぐあぐと口に運ぶ。美味しい。作り立てだからちょっと熱いけれど、お腹に溜まるこっしりとした味がとても美味しい。


「あとでオレンジクーヘンを作るからね」


 ……どうしたんですかお義兄様。今日、やけに機嫌がよろしくないですか。だいたいお義兄様はあんまり甘いものはお好きでないはずなのに。

 ぽかんと見上げてしまうとお義兄様は食事を中断してまでにっこりと微笑み返してくる。不意に長い指が伸びて正面からわたしの頭をわしゃわしゃ撫でた。わたしがシュテルンにするように。何だかよく分からないけども、されるがままになっていると、一房髪を持っていかれて、くん、と匂いを嗅がれた。————う、ん、んんん?


「んな、」

「いーにおい」


 ふ、と唇に寄せるのが見えた。な、ななななな。わたしが固まってしまうとしばらく髪は弄ばれて、ぼた、とわたしのフォークから焼いたチーズと麺の欠片が皿に落ちた。


「…………ヘンゼル、グレーテルに、食べさせておあげなさい」


 わたしは違う意味で仰天した。お、お義母様が、助けてくださった!? めめめ珍し過ぎる……! え、これ、何かの前触れじゃないですよね?


「……可愛がるのは……食後に思う存分……なさい……」


 ——がくっ、と肩がずり落ちた。ええええええ、ちょちょちょちょっとお義母様あああああ!? 何ですかそのオチ。


「分かりましたよ、義母上。食事に戻ります」

 

 いや分からないでください!

 お義兄様はそれはきらめかしい笑顔で頷き、するりとわたしの髪を離した。弧を描いてそれは肩まで戻ってくる。お義兄様とは全然違う色。ああ羨ましい。お義兄様はどうしてあんなに綺麗な髪と綺麗な眼、完璧な美貌で産まれていらっしゃったんだろう。美男美女のご夫婦だったのだろうか。むむむ、お父様は結構美形なのにな。わたしには全然、これっぽっちも受け継がれていない。

 そんなことを考えながらパンを頬張っていたものだから、お義母様がじっと見つめてきていたことを、わたしは気付かなかった。

 その目がいつものように虚ろではなく、まるで母親のような眼差しだったことも。




    




「さあ僕の胸においで、グレーテル!」

「誰がいきますかああああ!」


 がつっ、と膝蹴りして憤然と「ご馳走様でした!」と叫んで食卓を抜ける。背後でお義兄様が何だかうすら寒くて気持ち悪いことを言ってきたけど無視。だんだん遠ざかり、判然としなくなっていくお義兄様の声がお義母様に向かう。けれども内容までは把握出来ない。何しろわたしはただでさえむかむかと憤慨していたのだから。


「……義母上、あなたはもう、好きなようにやって良いのです。ツェツィーリアとして。この家の誰にだって、——あの子にだって」

「……………」


 そういうわけで、そんな会話もわたしの耳には届かない。


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