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縁談を三度断ったら負けなので、相手に断ってもらいます

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2026/10/24

 午後の応接間は、窓際の卓だけが明るかった。


 そこに婚約誓約書が一枚。叔父様の印はもう押してあって、相手の名と署名の欄だけが白い。脇にペンとインク壺。壁際では書記官様が記録帳を開いて立ち、扉の脇には執事のジョスが控えている。


「よく聞いておけ、オディール。古い条項だ。三十日のうちに縁談を三度断れば、お前の婚姻はこの私が決める。書記官殿がそれを記録なさる」


 顎の合図でジョスが扉を開け、喪章を巻いた白髪まじりの大柄な男が、羊毛の匂いと一緒に入ってきた。


「ドルヴィル男爵だ。奥方を亡くされて、お子が五人。羊を千頭お持ちだ」


 男爵様は帽子を胸に当てて一礼し、卓の誓約書に目を落とした。


「持参金には南の牧草地をつけましょう。あれだけの草地があれば、羊があと五百頭は養える」


 南の牧草地を持参金? 叔父様、自分の家の台帳も読んでないの。それとも分かっていて人の約束を売った?


「ドルヴィル様、お返事の前に一つだけ。南の牧草地は、生前の父が村の組合と十年のお約束で貸したものと聞いております。まだ七年は、村の羊のための草地のはずです。……書記官様、叔父様がいまお出しになった条件を、そのままお書き留めくださいませ」


 断るのは私でなくていい。羊を入れられない草地に男爵様が首を傾げてくれれば、拒否はゼロのまま。


「記録いたしました。『後見人より、持参金として南の牧草地を付す、との条件』。『被後見人より、同地は村の組合に貸与中である、との申し出』。後見人殿、相違ございませんか」


 叔父様は一瞬口を結び、すぐに笑った。「相違ない。組合の件など、こちらでどうとでも片づく」


 叔父様は誓約書を押し出し、ペンを載せて私の前へ滑らせた。「名を書けば済むことだ」


 済むのは叔父様の帳簿のほうでしょ。私はペンに目を落としたまま、指一本動かさなかった。


「叔父様、お相手より先に私が筆をとるのは、礼を欠くように思います。書記官様、後見のあいだに家の土地をよそへお約束するには、法務院のお許しが要るものでしょうか」


 条文は私が言うより、書記官の口から出たほうが記録に残る。閲覧室のことも隠せる。


「立ち会いの書記官は、被後見人に助言をいたしかねます。ただ、条文でしたら皆様に等しく申し上げます。後見人は法務院の許しなく、被後見人の土地を人に約束することはできません。後見人殿、申請をお出しでしたら、その日付をお示しください」


「申請など、話がまとまってから出せば足りる」


 日付は出なかった。男爵様は空いた欄をしばらく見つめ、帽子を下ろして立ち上がった。


「組合との七年に、法務院のお許し。羊飼いの手には余るお話です。この縁談は、私のほうから辞退いたします。書記官殿、そのようにお書きください」


 男爵様は私に深く、叔父様には短く頭を下げ、羊毛の匂いを残して出ていった。叔父様がペンを取り上げ、音を立てて卓に置く。ペンに八つ当たりしても、草地は増えないよ。


「書記官様、ドルヴィル様の最後のお言葉を読み上げていただけますでしょうか。それと、この席はこれでおしまいと考えてよろしいのでしょうか」


 印だけ押して名前が空欄の紙は、誰の名でも書ける。


「『ドルヴィル男爵より、本縁談を辞退する、との申し出』。決まりにより、相手方からの辞退は被後見人よりの拒否に数えません。本席の記録はこれにて閉じます」


 書記官様は卓へ歩み寄り、叔父様の手元のペンには触れず、誓約書だけを両手で取り上げた。


「この誓約書は記録に綴じるためお預かりいたします。後見が終わりましたら、被後見人にお返しいたします」


「好きに綴じておけ。紙はまた書かせればいい」それから私を見ずに言った。「あと二十九日だ、オディール」


 扉が閉まる。拒否はゼロ、残り二十九日。あの筆は今のところまっすぐだった。一行だけ認めて、まだ信用はしない。


 窓の外で、村のほうから羊の鈴が一度だけ鳴った。


◇


 一幕目の幕が下りて、場内に灯りが戻った。


 ラフォン家の桟敷で叔父様が立ち上がり、手すりの前を空ける。奥の暗がりでは書記官様が記録帳を開いている。両隣の桟敷から、扇の婦人や杖の紳士たちの顔がこちらを向いた。舞台より熱心だ。


 叔父様に促されて、真新しい燕尾服の若い人が進み出た。マルソー子爵家の三男、ロラン様。彼は私の前に片膝をつき、隣の桟敷まで届く声で言った。


「オディール嬢、あなたの夫として、ラフォン伯爵の名にふさわしい男になると誓います。どうか私の妻に」


 差し出された小箱の中で金の指輪が光る。台座にはラフォン家の紋と、R・Mの頭文字が並べて彫ってあった。


 叔父様は腕を組んで手すりにもたれた。


 人前で膝をつかせて、断りにくくする。叔父様の手だ。紋とR・Mを並べた指輪、注文したのは誰。


 私は座ったまま小箱には手を伸ばさず、頭を下げた。


「お返事の前に、偽りなく申し上げておかねばなりません。父の遺言にございますとおり、爵位は私が継ぎますが、この国では娘の継いだ爵位は夫に移りません。もし別様にお聞きでしたら、ご判断を誤らせてはいけませんので。……書記官様、いまのロラン様のお言葉と私の申し上げたことを、お書き留めくださいませ」


 暗がりでペンが走り、書記官様が一歩だけ灯りのほうへ出た。


「記録いたしました。『ロラン殿より、ラフォン伯爵の名にふさわしい夫となる、との誓いと求婚。指輪一つ、台座にラフォン家の紋と頭文字R・M』。『被後見人より、娘の継いだ爵位は夫に移らない、との申し出』。ロラン殿、相違ございませんか」


 彫りまで書くのか、この人。


 ロラン様はゆっくり立ち上がった。「……相違ありません」それから叔父様を振り返る。「ギュスターヴ殿、婿に入ればラフォン伯爵を名乗れると、あなたは確かにおっしゃった。この指輪に紋を入れろと言ったのも、あなたです」


 叔父様は手すりから身を起こし、笑みを作った。「若い方は気が早い。細かいことは家同士で詰める話だ」


 細かくないよ、国の法だよ。


 ロラン様は小箱の蓋を閉じかけて、手を止めた。場内の奥で、案内係が鐘の紐に手をかけるのが見える。


「ロラン様、どうぞお急ぎにならず、本当のことをご承知のうえでお決めくださいませ。……書記官様、婿に入れば伯爵を名乗れると聞いた、指輪の紋も叔父様のお言いつけ、というロラン様のお言葉も、そのままお書き留めくださいませ」


 蓋を閉じるなら、彼の手で。


 書記官様は二人の言葉をそのまま読み上げ、相違ないかを確かめてから、一行書き足した。「本席はまだお返事が出ておりませんので、記録は開いたままといたします」


 牧草地に続いて、叔父様の嘘の約束が二つ目。審問で数える。


 幕間の終わりの鐘が鳴り渡った。ロラン様は小箱の蓋を音を立てて閉じ、燕尾服の内へしまった。


「伯爵を名乗れぬ婿入りを、皆様の前で乞うつもりはありません。書記官殿、この縁談は私のほうから辞退いたします。そうお書きください」


 彼は私に短く一礼し、叔父様には目も向けずに扉を押し開けて出ていった。


 少しだけ、彼が気の毒だった。


 灯りが落ちていく。拒否はゼロ、残り二十日。


 二幕目の序曲が始まった。


◇


 夜の大広間は、燭台の灯りで昼より明るかった。


 招かれた貴族と商人が四十人ほど、杯を手にしている。楽団の弓がふと止まり、叔父様が広間の中央で杯を高く上げた。


「皆様、今宵はお知らせがございます。姪オディールと、ボネ商会のボネ殿との婚約が整いました」


 ざわめきの中から、恰幅のいい四十がらみの男が進み出て一礼した。商会主のボネ様。革の書類挟みを開き、封蝋のついた書面を一枚、そばの小卓に置く。表には「東の銀山 採掘権譲渡の件」。


「採掘権はギュスターヴ殿よりお約束いただいております。あとはお嬢様のお返事ひとつで」


「さあ、オディール。皆様の前で頷きなさい」叔父様は杯を私へ向け、それから壁際へ声を張った。「書記官殿、姪の承諾を、皆様の前でしかと記録していただきたい」


 婚約が整った? それに銀山。父の代には年に金貨四千枚、家の収入の大半。それを爵位のない商人に約束した。牧草地、伯爵の名に続いて三つ目。


 頷かず、ボネ様へ一礼する。小卓の書面には触れない。


「ボネ様、皆様の前ですので、偽りなく申し上げます。婚約のお話は、私は今宵はじめて伺いました。それから、東の銀山の採掘権は爵位についたもので、爵位を持つ者しか持てないと、父の台帳にございました。……書記官様、叔父様とボネ様のお言葉、それに小卓の書面を、そのままお書き留めくださいませ」


 ペンの音のあと、書記官様は広間の中ほどへ向けて、三人の言葉を平らな声で読み上げた。


「承諾のお言葉は、まだ出ておりません。記録には、席で出た言葉のみを記します。小卓の書面は、決まりにより記録に綴じます」


「皆様、姪はこれまでの縁談をもう二度断っております。ドルヴィル男爵も、マルソー家のご子息も。娘の気まぐれにも限りがございましょう」


 二度断った? 嘘の数を流して、気まぐれな娘に仕立てて頷かせる気だ。


「ギュスターヴ殿、爵位なき者には譲れぬ、とお嬢様はおっしゃった。そこを伺わぬうちは、私も頷けませんな」


「娘の台帳の読み違いですよ」


 私は広間の皆様へ一礼した。


「叔父様のお言葉に一つだけ申し添えます。ドルヴィル様もロラン様も、ご自分から辞退なさいました。……書記官様、これまでの二つの席が記録にどう書かれているか、皆様にお聞かせくださいませ。それと、私の読み違いでしたらお詫びいたします。採掘権の条文をお教えいただけますでしょうか」


「第一の席、『ドルヴィル男爵より、本縁談を辞退する、との申し出』。第二の席、『マルソー子爵家ロラン殿より、本縁談を辞退する、との申し出』。相手方からの辞退は、被後見人よりの拒否に数えません。本日までの拒否の記録は、ございません」


 頁が今夜へ戻る。


「条文は皆様に等しく申し上げます。採掘権は爵位につき、爵位を持つ者のほかは持つことができません。……後見人殿の『二度断った』とのお言葉も、記録に記します」


 叔父様の嘘が、一行に数えられた。


 ボネ様は書面から手を離し、書類挟みを閉じた。


「持てぬものを約束されて頷くほど、商いは甘くございません。皆様の前で申し上げます。この婚約は、私のほうから辞退いたします。書記官殿、そうお書きください」


 封蝋の書面は小卓に残ったまま。叔父様の杯の縁が揺れて、葡萄酒が一滴、床に落ちた。「商人風情が」と口の中で言うのが聞こえる。


 その染み抜き代、私の衣装代から引かないでね。


 叔父様が楽団へ手を振り、弓が上がって、ワルツがまた流れ始めた。


 拒否はゼロ、残り十日。今夜も、あの筆はまっすぐだった。


◇


 夜の閲覧室には、ランプが三つ灯っているだけだった。


 奥の長机に書記官様がいた。ラフォン家後見の記録帳と何通もの書面を広げ、頁を揃えて綴じ直している。


 入口脇の机から、係のおじいさんが眼鏡を押し上げた。


「ラフォン家のお嬢様ですな。明朝の審問の申し立ての写しを、お見せするよう言いつかっております」


 写しの頭に「後見人ギュスターヴ・ラフォンより申立て」。これまでの縁談はいずれも被後見人が偽りと脅しで相手を追い返したもので、拒否と数えるべきこと。担当書記官ユーグ・ベルタンは被後見人に肩入れしており、その記録は信用できないこと。審問は明朝、後見終了の審問と同じ席で。


 偽りと脅し。三つとも拒否に数えられたら、ちょうど三度。笑えない。


 でも三人とも自分の口で「辞退すると書け」と言った。


 今夜あの人に話しかけたら、それこそ肩入れの証拠にされる。


「閉室の鐘は九時です。それまでは、どの棚でもご自由に」


「ありがとう存じます。お手数ですが、紙とペンを一組お貸しくださいませ。この写しを書き写させていただきたいのです」少し声を落とす。「それと、明朝の審問にドルヴィル男爵、マルソー家のロラン様、ボネ商会のボネ様をお呼びするには、今夜のうちにどなたへ、どのような書面で願い出ればよろしいのでしょうか」


 奥で、綴じ紐を通す手が一度止まった。印だけの誓約書と、封蝋の「東の銀山」の書面が、それぞれの席の頁のあとに挟まれ、紐が締まる。


「係殿。私はこの記録を綴じ終えるまで、奥の机におります。後見部長のお言いつけにより、今夜はラフォン家後見の件について、どなたともお話しいたしかねます」


 おじいさんが紙とペンを出した。「証人のお呼び出しは、審問官あての願い書を今夜のうちに後見部の受付箱へ」


 そのとき扉が開き、外套の肩を夜露で濡らしたジョスが入ってきた。私の前に釣書を一通。表書きは「ルグラン商会 ルグラン殿 五十二歳」。その上に、叔父様の印だけが押された誓約書。


「旦那様からの言伝でございます。今夜この縁談の誓約書にご署名なされば、申し立ては取り下げる、と」


 柱時計が八時を打った。


 署名すれば取り下げる? 本気で拒否と数えるべきと思っているなら、紙一枚と引き換えにはできないでしょ。申し立てが脅しの道具だという証拠を、わざわざ夜露に濡れて届けてくれた。紙はまた書かせればいい、は本当だったらしい。五十二歳、顔も知らない人。


 ペンには手を伸ばさない。


「叔父様にお伝えください。縁談のお話でしたら、決まりどおり書記官様の立ち会う席で、ルグラン様ご本人から伺います。今夜ここでお答えすることはいたしません。お断りではございません、と。……係様、いまの言伝、お聞きくださいましたね。この釣書と誓約書を、証人の願い書に添えてお納めしてよいものでしょうか」


 答えを待つあいだに紙を引き寄せ、写しを書き始める。九時まで一時間。写しと願い書三通。正午まで十六時間。


 書記官様が新しい紙に書きつけ、扉の脇のジョスの前へ行って、いまのやりとりを午後八時の日時ごと読み上げる。「――『被後見人より、今夜は答えない、断りではない、との返答』。相違ございませんか」


「……相違ございません」


「係殿、後見部長あての覚え書きです。明朝の審問の前にお渡しください」


 書記官様は私の手元へ一度も目を向けず、奥の机へ戻っていった。ジョスは私に一礼し、外套の襟を立てて出ていく。


 おじいさんは釣書と誓約書を眺めた。「縁談の席の書面ではございませんから、記録には綴じられません。ですが願い書に添えるのはご自由です。添えた物は、審問官の目に入ります」


 私のペンの音と、奥で頁を繰る音。拒否はゼロのまま。書き写したら、隅の机を見に行こう。


◇


 朝の審問室は、高窓からの光で白かった。


 正面の壇に後見部長のヴァレ夫人。脇の証人席には書記官様が、綴じ直した記録帳を前に座っている。向かいの長椅子にドルヴィル様、ロラン様、ボネ様。


 夫人は申し立てを読み上げ、顔を上げた。「この後見は本日正午に終わります。被後見人も、証人に問いを向けて構いません」


 叔父様が立ち、長椅子を手で示す。


「お三方とも、姪に追い返されたのです。席のたびに姪が出まかせを並べ、皆様を怖じ気づかせた。辞退と書かれていても、中身は姪の拒否です」


 出まかせ? 私が言ったのは台帳と条文だけ。並べたのは叔父様のほうでしょ、牧草地に伯爵の名に銀山。


「お三方に同じことを伺います。あの席で、私はお断りの言葉を申し上げましたでしょうか。私の申したことに偽りはございましたでしょうか。辞退をお決めになったのは、私に脅されたからでしょうか」


 書記官様は問いを書きつけ、記録帳の背に手を添えた。「三つの席の頁と書面二通、すべてここに綴じてございます。お求めがあれば読み上げます。それ以外は申し上げません」


「お断りの言葉は一つも伺っておりません」ドルヴィル様が先に言った。「組合との七年は本当で、お許しも出ていなかった。それで私から辞退したのです」


「伯爵を名乗れると言ったのはギュスターヴ殿です。お嬢様は本当のことをおっしゃっただけだ」


 ボネ様が書類挟みを指で叩く。「脅されたと申すなら、相手はお嬢様ではございませんな」


 そのとき扉が開き、黒い外套の男が手代を連れて入ってきた。


「ルグラン商会のルグランでございます。本日正午が期日の借用証を持参いたしました。金貨八千枚、担保は東の銀山。ギュスターヴ殿のご署名がございます」


 叔父様の顔から血の気が引いた。


 八千枚。父の代の銀山の二年分。昨夜の五十二歳は貸し主本人だったわけだ。私ごと借金を片づける気だった?


「ルグラン様、昨夜、叔父様の執事が閲覧室で私に釣書を届けました。……部長様、その釣書と誓約書は願い書に添えて受付箱へ納めております。それと、銀山を担保とする許しの申請が出ていたかどうか、お確かめいただけますでしょうか」


 書記官様が記録帳と年次報告の写しを壇へ差し出した。


「第一と第三の席の余白に、それぞれ『許可申請の記録なし』と書き添えてございます。年次報告には、ルグラン商会への支払いが『屋敷の修繕のための借入の利息』として毎季載っており、担保の記載はございません」


 余白。あの席で、もうそこまで書いていたのか。


 夫人は申請台帳を取り寄せ、頁を繰った。「許しの申請は一件も出ておりません。後見人、この署名はあなたのものですね」


「兄の家の銀山だ。弟の私が使って何が悪い。どうせ嫁に出す娘の持参金だ。借りた金は、娘の縁談で片がつくはずだった」


「いまのお言葉、記録に」夫人はそれだけ言った。


 どうせ嫁に出す娘。二年ずっと、そう見ていたんだ。それより修繕。この二年で新しくなったのは、叔父様の馬車だけ。


「部長様、一つだけ申し上げます。父が亡くなってから、屋敷には一度も手が入っておりません。私の部屋は雨漏りがいたしまして、桶を置いて凌いでおります。お疑いでしたら、お検めくださいませ」


 書記官様は私の言葉を読み上げ、写しの一枚を指で示した。「年次報告に、修繕の箇所も内容も記載はございません。なお私が通されたのは応接間のみで、奥の様子は存じません」


 知らないことは、知らないと書く。最後まで、そういう筆だった。


「申し立ては退けます。被後見人よりの拒否は一つもありません。記録は信用に足ります。後見人ギュスターヴ・ラフォンは本日をもって解き、流用した分の弁済を命じます。銀山の担保は無効。ルグラン殿、取り立てはギュスターヴ本人からなさい」


 ルグランが一礼し、叔父様は椅子に腰を落とした。


 拒否はゼロ。正午まで、あと数時間。


 高窓の光が、壇の上まで伸びていた。


◇


 正午の鐘が鳴り終わって、しばらくたつ。


 昼の閲覧室は、昨夜とは別の部屋のように明るかった。入口脇の机には「昼の休み 一時まで」の札。


 手元には、審問室で渡された院の証書が巻いたまま置いてある。爵位と領地を、私の名で認める紙。


 書記官様が薄い書面の束と受領書を運んできて、証書には触れずにその脇へ置いた。


「席の書面二通を、決まりによりお返しいたします。お改めのうえ、ご署名をお願いいたします」


 一歩下がって、彼は初めて私の顔を見た。


「ご署名をいただければ、私の務めは終わります。……そのあとで一度だけ、書記官としてではなく、お話しさせていただけますか。お嫌でしたら、それで結構です」


 紐を解いて一枚ずつ広げる。誓約書の名と署名の欄は、空いたまま。誰の名でも書ける紙が、やっと私の手に戻った。


 受領書に「オディール・ラフォン」と書き入れ、向きを返した。


「確かにお受け取りいたしました。三つの席の記録、ありがとう存じました。……ベルタン様、どうぞお話しくださいませ」


 署名一つで、この人の務めは終わった。今なら、話しても肩入れにはならない。


「一年前、この後見の担当は、僕が自分から願い出ました。銀山の数字が気になったのと、もう一つ。二年前、開室前のこの部屋で、喪服の方が毎日のように後見法を書き写しておられたのを、覚えていたからです」


 見られていた。誰にも言わずに隠したつもりの二年を、知っていたのはこの人だった。


「それから、お部屋の桶のことを。伺いながら、応接間より奥を見ようとしませんでした。申し訳ございません」


「お謝りになることはございません。奥をお見せしなかったのは、叔父様でございますもの」


 見下されていると思っていた。見立ては外れ。損得で言えば、借りがあるのはこっちだ。


 隅の机へ一度目をやってから、私は彼を見上げた。


「あのころ、後見法の注釈書はいつも貸出中でした。それがある朝から、あの机に、三度の拒否の条項へ栞を挟んで置かれるようになって。……あれは、ベルタン様でいらっしゃいましたか」


「……はい。僕です。けれど条項を読み解いたのも、三つの席でそれを使われたのも、あなたです。僕が運んだのは、本だけです」


 私は立ち上がり、深く一礼した。令嬢の作法より、少しだけ長く。


「あの本がなければ、私は半年は遠回りしておりました。……いつか、お屋敷へお越しくださいませ。今度は応接間より奥まで、ご案内いたします」


「伺います。書記官としてではなく。日取りは、あなたが決めてください」


 早すぎれば屋根が間に合わない。遅すぎれば言いそびれる。職人の手配に三日、雨が降らなければ足りる計算。


「では、七日後の午後に。お茶くらいはお出しできます。今日からは、私の名で払えますので」


 証書と束を胸に抱え、扉の手前で振り返る。


「七日後でございます、ユーグ様。お忘れになりませんよう」


 名前で呼んだのは、書記官としてではないと言われたから。顔が熱いからではない。……たぶん。


「忘れません。屋根が直っていなくても伺います。桶を置いておられたお部屋も、お許しいただけるなら見せてください。見ようとしなかった分を、一度は自分の目で見ておきたいのです」


 今日捨てるはずだった桶の予定を、一行で撤回する。


「では、桶は七日後まで置いておきます。あのお部屋は最後に直させますわ」少し目を伏せて、また上げた。「床の染みは、二年分ございます。どうぞお覚悟くださいませ」


 今度は振り返らずに扉を出た。


 昼の廊下が明るい。足が速くなりすぎないように、階段のほうへ歩いた。


◇ ユーグ視点


 七日後の午後は晴れていた。


 屋根には足場が組まれ、職人が二人、古い瓦を下ろしている。記録帳は四日前に院の書庫へ納めた。


 扉を開けたのはジョスだった。僕の帽子を受け取りながら、彼は目を伏せたまま言った。


「お嬢様は奥でお待ちです。応接間ではございません」


 開いたままの応接間の前を通り過ぎる。窓際の卓には何も載っていなかった。廊下は奥へ行くほど暗くなり、壁紙の継ぎ目が浮いていた。年次報告の「修繕」の二文字を、僕はこの廊下の手前で受け取っていたことになる。


 窓のそばに立っていた彼女は、僕を見ると一礼した。喪服ではなかった。


「ようこそお越しくださいました。お約束どおり、片づけずにおきました」


 床の中ほどに、木の桶が一つ置かれていた。底に昨夜の雨が指一本ぶんほど溜まっている。その周りの床板は、輪を幾重にも重ねたように黒ずんでいた。輪を数えかけて、やめた。数えるのは、もう僕の筋ではない。


 見上げると、天井板が一枚外され、その向こうで職人の影が動いていた。


「この部屋は最後に、と申しつけたのですけれど、昨夜の雨を見て、職人が見かねたようで」


 彼女は少し困ったように笑った。


 僕はしばらく黙って、染みを見ていた。詫びは七日前に済ませた。重ねれば、また彼女に何かを言わせることになる。見ようとしなかった分を、いま見ている。窓の下の小さな机には、紙の束とペンが置かれていた。二年前、閲覧室で見たのと同じ、細かく詰めた字だった。


「では、捨ててまいります」


 彼女が屈んで、桶の縁に手をかけた。僕は思わず一歩出て、手を伸ばしかけた。


「いいえ」と彼女は言った。「これは私の桶でございますから」


 伸ばした手を下ろした。この二年を運んできたのは彼女で、僕ではない。だから扉のほうへ回り、開けて押さえた。彼女は桶を両手で提げ、水をこぼさないよう、ゆっくりと僕の前を通っていった。すれ違うとき、ほんの少しだけ、こちらを見上げた気がした。顔は、見ていた。


 廊下の先で、裏庭へ出る戸の開く音がした。水の撒かれる音が続き、それから村のほうで羊の鈴が一度鳴った。屋根の上では、職人が新しい瓦を打ちつけはじめている。


 僕は乾きかけた染みのそばに立ったまま、戻ってくる足音を待った。名で呼んでよいかと尋ねるのは、彼女が戻ってきてからにしようと決めた。


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