「わたくしは何も持っていません」——そう笑った令嬢を捨てた家は、誰との約束も思い出せなくなった
「では、今夜は誰があの村を守るのです」
扉の向こうから王の従弟の声がした。アデライドは控えの間で立ち上がった。呼び入れるはずの鐘は、まだ鳴らない。
紙をめくる音ばかりが続いていた。
「十年前の取り決めを出せ。領地を譲ったから守備も終わりだと、誰が決めた」
返事は聞こえなかった。
村の名はローテン。昨日届いた報せでは、村人たちは水車小屋に身を寄せている。川上の焼けた見張り小屋から、夜盗が下ってくるかもしれない。村の子ミラも、その中にいた。
アデライドは手袋の指を握り直した。十年前の声なら、今も耳の奥に残っている。
ここで黙れば、あの子たちが夜を迎えてしまう。
鐘を待たず、扉を叩いた。
ひと月前に家を出たときには、もう父の前へ戻ることはないと思っていた。
ひと月ほど前のことだ。
ウェルテンバウム公爵家の大広間で、アデライドはよく通る声を聞いていた。レオンハルトの声だった。栗金の髪を撫でつけた公子は、人前での弁舌だけはいつも淀みない。
「妻とは、家に何かをもたらす者だ」
その抑揚を、アデライドは知っていた。父が領民を門前で追い払うときの平らな声とそっくり同じだった。覚えてしまった、と心の隅で思う。覚えるつもりなどないのに、入ってきたものは出ていかない。
「お前は、何も持っていない」
広間のあちこちで息を呑む音がした。けれどアデライドは静かに微笑んだだけだった。
「ええ。わたくしは、何も持っていません」
声を荒げなかった。怯えもしなかった。語尾がふわりと落ちた。
レオンハルトがわずかに眉を寄せた。怒鳴り返してくれたほうが、彼にはやりやすかったのだろう。
妹のユーリアが姉の隣をすり抜けて、絨毯の中央へ進み出た。金髪が灯火を弾く。十七の、誰もが振り返る美貌だった。
「おねえさま」
ユーリアの声の真ん中には、まだ三歳のころの泣き方が残っている。アデライドはそれも覚えていた。
「おねえさまは、ただ物覚えがいいだけでしょう?」
妹の声は弾んでいた。昔、解けなかった問題の答えを教えてくれたときと同じ調子だった。だからこそ刃のように真っ直ぐだった。
「そうね」
アデライドはうなずいた。
「わたくしは、物覚えがいいだけ」
この家では、誰もそれを才能とは呼ばなかった。十年、ずっとそうだった。
婚約を破棄される前から、家令のベルガーは三日に一度はアデライドのところへ来た。その朝も、約束の控えを抱えてやってきた。税や支払いの帳面は書庫にある。けれど、その金額になったわけや、まだ果たしていない約束は、この薄い控えにしか残らなかった。
「お嬢さま。麦の代金のことでございます。ボーラント商会へのお支払いは、いつでございましたか。額もお教えください」
「秋の刈り入れのあと、銀で四十二」
アデライドは刺繍の手を止めずに答えた。
「お父さまが、去年の聖燭祭の前の晩にそう仰いました。商会の主人は礼を二度言って、帰りに門で杖を忘れていきましたよ」
「……杖までは、存じませんでした」
「翌朝、小僧さんが取りに来ました。その子は赤い帽子をかぶっていて、門番のヤンに飴を一つもらって帰りました」
ベルガーは小さく笑って、それを書き留めた。いつものように支払日と額だけを記すと、すぐ筆を置いた。
「お嬢さま。失礼を承知で、ひとつお尋ねしても」
「どうぞ」
「お嬢さまは、なぜご自分で帳面をおつけにならないのです。これだけ覚えておいでなら、書き留めれば立派な家政の記録になりましょうに」
アデライドは少し考えた。
「お手紙なら書きますけれど。自分のために控えることは、ありませんねえ。書かなくても覚えているのですもの」
「……さようでございますか」
ベルガーは何か言いかけて、結局、帳面を閉じた。
「お父さまも、同じことを仰います。『お前に訊けば済む』と」
アデライドは刺繍に目を戻した。
「みなさん、そう仰るんです。だからわたくしの覚えていることは、誰の役にも立たないのだそうですよ。覚えているだけ、なのですって」
言ってから、アデライドは刺繍の糸を引いた。いつものように笑おうとしたのに、声がうまく伸びなかった。ベルガーが顔を上げ、何も言わず控えを開き直した。
領民の陳情も、同じだった。
その前の冬、東の村から老人が一人やってきた。秋に父が水車小屋を直すと約束したきり、何の音沙汰もない、と。
「そんな約束を、わしがしたか」
父は首をかしげ、老人の顔と水車の絵を交互に見た。
「お父さま」
その場に居合わせたアデライドが、横から口を添えた。
「去年の秋祭りの日、お父さまはこの方の肩に手を置いてこう仰いました。『水車のことは、来年の雪解けまでに必ず直す。村の麦は、村で挽けるようにしよう』。お酒が入っておいででしたけれど、お約束はお約束です」
父は、はっとした顔をした。老人が、涙ぐんだ。
「そうだ……たしかに、わしはそう申し上げた。覚えております。お嬢さまが、覚えていてくださった」
雪が解けると、水車は約束どおりに直された。
けれど、礼を言われたのは父だった。誰も、覚えていたのが誰かを気にとめなかった。
「お前は便利だな」
父は、そのときアデライドにそう言った。褒めたつもりだったのだろう。
「便利、ですか」
「ああ。お前に訊けば、たいてい済む」
アデライドは微笑んだだけだった。老人との約束が果たされたのだから、それでよかった。そう思うことにしていた。
妹の約束も同じだった。ユーリアは村の礼拝堂へ絵を贈ると申し出て、褒められた翌日には別の絵に取りかかっていた。
「おねえさま、額の寸法は何だったかしら」
「両手を広げたくらい。窓のない北の壁に掛けるから、明るい色にしてほしいと。冬至までのお約束よ」
「そうだったわ。聞いてよかった」
妹は笑って筆を取った。絵の腕は本物だった。けれど期日を過ぎないよう声をかけ、届け先の老人を待たせずに済ませたのは、いつもアデライドだった。
隣領との往来もそうだった。盟約の細かいところを父が忘れても、アデライドが「お父さまはこう仰いました」と諳んじる。父はそれを聞いて、ああそうだった、という顔をする。
父は使いの者に命令を伝え、また妹の絵を褒める話へ戻った。アデライドには礼を言わなかった。
家を出る支度をしていると、侍女のロッテがたたんだ衣を抱えて部屋に入ってきた。
「お嬢さま。本当に、お一人で行かれるんですか」
「ええ。供を連れていくほどの身分でも、もうありませんし」
「あらやだ。何を仰るんです」
ロッテが頬をふくらませた。アデライドは、つい、その口ぶりを真似た。
「あらやだ。何を仰るんです」
言ってから、はっと口を押さえた。ロッテが目を丸くする。アデライドは自分の頬が熱くなるのを感じた。人の喋り方を覚えると、どうしても真似たくなる。子供のころからの直らない癖だった。
「……今のは、忘れてくださいな」
「お嬢さまが忘れてくださいって、それはもう無理な相談ですよ。お嬢さまの口を借りた『あらやだ』なんて、わたし一生覚えてしまいます」
ロッテが笑った。アデライドも笑った。
「ロッテ。あなたの『あらやだ』は、語尾が少し上がるの。八年前にあなたが来た日も、同じ言い方だったわ」
「……お嬢さまには、敵いません」
ロッテが、衣を抱えたまま少しだけ目を潤ませた。
その日の夕方、一通の手紙が届いた。隣領アーレンスの印だった。差出人の名を見るより先に、アデライドには書いた人がわかった。封の蝋の押し方に、その人の癖が出ていたから。
クレメンス・フォン・アーレンス。
封を切る前から、いつもの書き出しが浮かんだ。八年と四月、手紙を交わしてきた。届いた文は一通も忘れていない。けれど、今度の用件まで分かるわけではない。いつもより深い封の跡に、指を置いた。
屋敷を出る朝、玄関の前でベルガーが待っていた。例の約束控えを抱えている。
「お嬢さま」
老家令は、なかなか言葉が続かなかった。
「ベルガー。長いこと、お世話になりました」
「お嬢さま。差し出がましいのですが、ひとつだけ」
「なんでしょう」
「この控えでは、まだ足りないのでございます。支払いの額は残っても、なぜその額なのかが分からない。わたくしは……お嬢さまにお訊きすれば済むと思っておりました」
ベルガーの声が、震えた。
「お礼を、申し上げたことが、一度もございませんでした」
アデライドは、少しのあいだ、その老いた顔を見ていた。
「ベルガー。三年前の春、あなたはわたくしに『お嬢さまに訊けば済む』と仰いました」
「……はい」
「あの日のあなたの声は、少しだけ嬉しそうでした。便利だ、とは違う響きで」
アデライドは、ふわりと笑った。
「わたくし、それを覚えております。だから、もう十分ですよ」
ベルガーが帳面を抱えたまま深く頭を下げる。アデライドは、それに小さく頭を返した。
門をくぐると、背中でもう一度「お嬢さま」と呼ぶ声がした。その声が少しだけ湿っていたことを、アデライドは覚えてしまった。振り向きそうになって、手にした手紙を握り直した。行き先を選んでいいと書いてくれた人が、隣領で待っている。
アーレンス領の記録庁では、扉を開けるより先にペンの音が聞こえた。紙を擦る細い音が、アデライドを迎え入れた。
クレメンスは墨色の文官服を着た背の高い男だった。表情はいつも乏しい。けれど人の話を聞くときだけ、その瞳が深く落ち着く。アデライドはそれを十年前から知っていた。
——あれは、まだ十のころのこと。
両家の晩餐の席だった。アデライドは末席で、大人たちの話を聞くともなく聞いていた。話が、ずいぶん前の貸し借りのことでもつれた。誰がいつ、何を返すと言ったのか。当主たちの記憶が食い違い、場が険悪になりかけた。
そのとき、アデライドが小さく口を開いた。
「三年前の冬至の晩に、お父さまはこう仰いました」
そして、当時の言葉を、声色まで真似て諳んじた。場が、しんとした。子供がそらで言ったことが、当主の記憶よりも正確だったからだ。大人たちは気味悪そうに目を見交わした。物覚えのいい子だ、と誰かが薄く笑った。
その晩、廊下でひとり立っていたアデライドに、若い記録官が声をかけた。まだ十八の、クレメンスだった。
「あなたが先ほど仰ったこと」
彼は、まじめな顔で言った。
「あれは、この家の誰の記憶よりも正確でした。あなたが覚えていることは、この家の誰よりも価値がある」
アデライドは、目をまたたいた。城で、誰も言わなかった一言だった。
「……価値、ですか。みんなは、気味が悪いと」
「価値です」
クレメンスは、きっぱりと言った。それから急に困った顔になり、用件を探すように口ごもって、何も言えずに一礼して去った。
——その背中を、アデライドは、今でも覚えている。
「ここを、お使いください」
クレメンスは記録庁の片隅の卓を示した。それだけ言って口をつぐむ。用件は済んだという顔だった。
「ありがとうございます。あの、クレメンスさま」
「はい」
「八年前の、春のお手紙。覚えていらっしゃいますか。古い徴税の台帳が二重になっていて、どちらが本物かとご相談くださった」
「……覚えて、います」
「あのお手紙の、最後の一行」
アデライドはすうと息を吸った。
「『あなたが覚えていることは、この家の誰よりも価値がある。だから、こうしてまた筆を執ってしまう』」
クレメンスの手が止まった。
アデライドは彼の手紙を一字も忘れていなかった。彼が書いた言葉を、彼の前で、彼の声よりも正確に再生してみせた。
「……一字も、違っていない」
「ええ。ひとつ残らず」
クレメンスが何か言いかけて、やめた。代わりに布で包んだものを卓の上にそっと置いた。ほどくと、古い羊皮紙の写しだった。隣国の、ずいぶん昔の記録らしい。
「これは……」
「珍しいものが、手に入ったので」
それだけ言ってまた黙る。アデライドは写しの上にかがみこんで、目を輝かせた。
「まあ。この綴り方、二百年前の様式ですね。三行目のここ、書き間違いを上から直していますわ。書いた人、きっと急いでいたんです。線が右に流れているもの」
「……よく、そこまで」
「だって、面白いんですもの。古い人の癖が紙の上に残っているんですよ。二百年前のこの人、たぶん左利きです。ほら、撥ねの向きが——」
アデライドは、止まらなくなった。羊皮紙の上を指でなぞりながら、書き手の癖について、思いつくことを次から次へと話した。クレメンスは、それを遮らずに最後まで聞いた。城で、誰もしてくれなかったことだった。
「……あ」
ふと、アデライドは我に返った。
「ごめんなさい。わたくし、また。こういう話、つまらないですよね」
「いいえ」
クレメンスは首を横に振った。
「面白い。もっと、聞きたい」
アデライドは、目をまたたいた。それから、ふわりと笑った。
「あなたはずるい人ですね、クレメンスさま。十年前から、ずっと」
「……何が、です」
「分かっていないなら、いいんです」
クレメンスは本当に分かっていない顔をしていた。アデライドは、その顔も、もう覚えてしまった。
その夜、二人は記録庁の窓辺で長く話した。
「ウェルテンバウムのお家には、帳面が少ないと聞きました」
クレメンスが静かに切り出した。
「税や支払いは残しています。でも口で交わした約束は、わたくしに訊けば済むと。お父さまはそう仰っていました」
「……それは」
クレメンスがひとつ間を置いた。
「あなたに訊けることと、記録が要らないことは別です。誰か一人に預けたままでは、その人が席を外しただけで困る」
無音が、二人のあいだにゆっくり降りた。
アデライドはしばらく窓の外を見ていた。それから、膝の上で手を組んだ。
「東辺境の村に、ミラという子がいるんです」
クレメンスが彼女を見た。
「三年前にお父さまの行列が通ったとき、その子が花を一本差し出して。お父さまは、来年もまた通ると約束なさいました。次の年、お父さまは村を通りませんでした」
あのとき、ミラは行列の馬を見上げていた。父が先へ進むと、アデライドのそばへ来て、その手を取った。
「今度は、わたしが渡し場までご案内します」
覚えたてらしい言葉を、少し胸を張って使った。小さな手のひらが汗ばんでいたことも、アデライドは覚えている。
その場で村の道を指さして教えてもらったのに、まだ一度も、一緒に歩いていない。
「行列の日取りを変えても、あの子は知らなかったかもしれません。お父さまは、今も覚えていらっしゃるのかしら」
「あなたは、覚えている」
「ええ。いつか、ご案内していただかなくては」
アデライドは組んだ手をほどき、卓の端に置いた。
クレメンスは何も言わなかった。ただ、卓の上の彼女の手のすぐ隣に自分の手を置いた。触れはしなかった。並べただけだった。
並んだ手のあいだは、指一本ぶんしか空いていなかった。アデライドは話を聞いてくれているのだと思って、そこへ目を落としたまま、しばらく息を整えた。
数日が過ぎた。羊皮紙の写しが、卓の上に何枚も増えた。クレメンスは毎日、何か珍しいものを一つずつ持ってきた。アデライドは毎日、それに目を輝かせた。
「クレメンスさま。今日は、何を持ってきてくださったんですか」
「……古い、隣国の旅日記です。三百年前の」
「まあ。見せてください」
クレメンスは黙って差し出す。アデライドは、それを受け取って、すぐにのめり込んだ。
「この人、三百年前の人なのに宿の主人の悪口ばかり書いていますね。『卵が古い』『毛布が薄い』。ふふ。人って、三百年経っても文句を言うところは変わらないんですね」
「……あなたはいつも、そういうところを読む」
「いけませんか」
「いいえ」
クレメンスは、少し間を置いて言った。
「あなたが読むと、三百年前の人が急に隣にいるように思えます」
「それは、わたくしが覚えるからではなくて」
アデライドは、日記から顔を上げた。
「あなたがわたくしの読み方を、面白がってくださるからですよ」
クレメンスは、それには答えなかった。ただ、次の日も、また珍しいものを一つ持ってきた。
そして、東辺境から早馬が来た。
「ローテンの川上で、見張り小屋が焼かれました」
使者の外套から、濡れた馬の匂いがした。アデライドは日記を閉じた。
「村は。水車小屋のある村は、無事ですか」
「まだ火は入っておりません。村人は石造りの水車小屋へ避難しています。ミラという娘が、渡し場の子らを連れてきたそうです。村長から伝言を預かりました。公爵家の兵が橋を離れた。このままでは夜を越せない、と」
ミラ。父の行列が見えなくなるまで、手を振っていた子だ。
アデライドは立ち上がった。古い旅日記が膝から落ちた。
「なぜ兵を引いたんです」
クレメンスが使者に尋ねた。使者は、持ってきた書状を差し出した。
「公子レオンハルトさまの指示です。土地をアーレンスへ譲る代わりに、橋を守る義務もなくすと」
「その書状は、今朝こちらにも来ました。主君は承認していない。境界だけでなく、兵を渡す許可まで話が食い違っている」
クレメンスは卓へ地図を広げた。西の細い川と、東の太い川。その間に、村の名があった。
アデライドは西の支流に指を置いた。
「十年前に定めた境界はこちらです。村はもともとアーレンスの領地です。でも、お父さまが橋を守るとお約束なさいました。向こう岸の水車を公爵領の者にも使わせていただく代わりに」
「なら、公子の案は譲歩ではない。元からこちらの土地を差し出して、守備の約束だけを捨てることになる」
クレメンスの声が低くなった。
「あなたは、その取り決めを覚えているのですね」
「ええ。でも、わたくしがここで話すだけでは兵は戻りません」
村を守る。その言葉を、父は確かに口にしていた。いま村にいる人たちは、兵が去るとは思わず暮らしていたはずだ。
ミラの手のひらの熱を思い出した。案内をしてくれると言ったあの道が、いまは逃げるための道になっている。
「忘れられた約束が、人を殺す」
口にして、アデライドは卓の端をつかんだ。父の声をなぞるだけなら、いつでもできる。今は、自分の願いを言わなければならなかった。
「クレメンスさま。両家の方を集めてください。わたくしが話します。その前に——今夜の守りを、お願いできますか」
「主君に、臨時の護衛を願い出ます。領有の争いと人命は分けられる」
「ミラたちは水車小屋にいます。橋までの道を守っていただければ、子供たちを公爵領へ逃がせます。三年前に、わたくしもその道を歩きました」
「分かりました」
クレメンスは別の紙を引き寄せた。
「避難の護衛を先に出す。評定は明朝、公爵家の東の館で。ヴァルター殿も国境警備のため、今あちらにいます。王の従弟も巡察に同行しているそうです。立会いの下で、あなたの証言を申し入れます」
ペンが紙を走った。アデライドは、その音を聞きながら息をついた。
覚えているだけでは、誰にも届かないことがある。届くように話すところまでは、自分でしなければ。
東の館へは、ここから馬車で半日ほどだった。夕刻、臨時の護衛を出す命令が下りた。村人を守るためだけの派遣で、両家の境界を決めるものではない。その条件をクレメンスが読み上げると、アデライドはうなずいた。
「ありがとうございます。では、わたくしたちも参りましょう」
翌朝。評定の扉を開けると、アデライドの名を呼ぶ父の声がした。
ひと月前と同じ声だった。けれど卓に置かれているのは、妹の絵ではなく、村へ送るはずの命令書だった。まだ印はない。
ヴァルター辺境伯が地図の端を押さえている。使者から今朝の報告を受けたばかりだという。
「護衛は水車小屋に着いた。村人に負傷者はいない。だが、避難の護衛だけでは橋を守り続けられぬ。川上にまだ夜盗がいる」
アデライドは礼を言って、卓へ進んだ。
「何も持たぬ姉君を、呼んでどうする」
レオンハルトが椅子の上で身じろぎした。
「国境のことは、私とユーリアが任されている」
「お久しぶりです。では、お約束も引き継いでくださったのですね」
アデライドは小さく一礼した。
「その約束とは何だ」
王の従弟が問うた。
アデライドは、地図の西の支流をなぞった。村の東には太い本流があり、村から公爵領へ渡る橋は西に架かっていた。
「十年前の取り決めです。領地の境界は、この西の支流まで。村はアーレンス領です。ただ、水車を公爵領も使える代わりにこちらの橋と村の守備は公爵家が負うと」
「違う。境界は東の本流だ。私は、そう記憶している」
レオンハルトが卓を叩いた。
「だから村を譲ると申し出たのだ。土地まで譲って守備を続けるなど、割に合わん」
「その案では、もともと相手の土地を相手に譲ることになりますわ」
「でたらめだ。証拠はあるのか」
「両家が印を押した盟約書は、ございません」
アデライドは、父を見た。
「でも、仰った方はここにおいでです」
アーレンス辺境伯が、卓の向こうで腕を組み直した。
「私は西の支流を境界と覚えている。だが、公爵殿が守備の条件を認めぬ。私の側の控えにも、水車を使わせることまでしかない」
「そちらでは、なぜ全文を残さなかった」
王の従弟が問うた。
「正式な書面を取り交わそうと求めました。公爵殿は、酒席の口約束まで疑うのかと返された。こちらも意地を張り、ならば当主の言葉を信じようと。橋に兵が出ている間は、それで済んでいた」
「公爵殿。それは事実か」
父は唇を結んでから、うなずいた。
「その……娘に訊けば、確かめられたので」
アデライド自身の手で、控えを作ってはこなかった。使いの者が来るたびに父へ答え、それで済むと思っていた。家を出る直前も、橋の守備を秋まで続けると言い添えた。父はユーリアに任せるからよいと、顔を上げずに答えたのだった。
「十年前、雪解けの晩でした」
アデライドはゆっくり語り始めた。
「アーレンスの辺境伯さまは、こう仰いました。『村の水車は公爵領の麦も挽こう。西の橋は一緒に使う。ただし、こちらの兵は本流の東を離せぬ。ローテンを守る者が決まらなければ、話はできん』」
語尾を少し低くした。辺境伯は顔を上げた。
「そしてお父さまは、葡萄酒の杯を置いて——『ならば橋はわしが直す。村も守ろう。水車を使う間は、その費用を惜しむつもりはない』と」
「わしは、そこまで……」
父が言いかけた。アデライドは父の声で続きを返した。
「『冬の兵の薪代だけは、こちらで出す。去年のように凍えさせては、妻にまた叱られる』」
父の指が止まった。
「お母さまが亡くなられた翌年でしたね。辺境伯さまはお酒をお注ぎにならず、杯を伏せていらっしゃいました」
「……その話を、した」
父の声が落ちた。
アーレンス辺境伯も、組んでいた腕をほどいた。
「奥方が兵に繕い物を届けていた話だ。思い出した。私は『地図に境界を引いても、村は守れぬ。橋に兵を置いてこそ守れる』と言った。公爵殿の申し出に、その言葉を返した」
「ええ。わたくしも覚えております」
母の話に笑っていいのか分からず、膝の上で手を握っていた。その指先の熱まで、アデライドには消えていなかった。
「では、守備は水車の利用の対価だったのだな」
王の従弟が、父に問い直す。
「……そうだ」
父は地図を見たまま答えた。
「水車は、今も使っている。兵を引くよう命じてはならなかった」
「ヴァルター殿、これまでの守備は」
「公爵家です。橋の修繕費も冬の薪代も、公爵領から出ています。こちらの巡察控えと照合できます」
ヴァルター辺境伯が書状を卓に置いた。王の従弟はそれに目を通し、両当主を見た。
「両家が今認めた条件を書き直す。境界は西の支流。水車の共同利用と引き換えに、公爵家が橋と村を守る。異存は」
両当主が、順にうなずいた。
レオンハルトの口が半分開いたまま止まっていた。
「私には、そのような話は……」
「お前は、確かに覚えていると言ったな」
王の従弟の問いに、公子は口を閉じた。
その隣で、ユーリアが青い顔をしていた。膝に置いた手が、ドレスの布を握っている。
「ユーリア」
父が呼んだ。
「姉から、橋の守備のことを聞いていたか」
「聞いて……いました。でも古いことは、変えてしまえばいいと。今のお約束は、わたしたちで決めるからって」
ユーリアはレオンハルトを見た。公子は顔を背けた。
「そのときの条件を、覚えているか」
「……いいえ」
妹の声から、弾む響きが消えた。
「おねえさまに訊けば、いつでも分かると……思っていました」
アデライドは手を伸ばしかけ、膝へ戻した。妹の代わりに返事をするのは、もうやめようと思った。
クレメンスが、新しい盟約書を広げた。アデライドが言葉を確かめ、両当主が印を押す。続いて書かれた守備命令には、今度は父がためらわず印を下ろした。
「先に、こちらをお届けください」
アデライドは盟約書よりも、命令書を使者の近くへ押した。
「水車小屋にいる子たちが、今日の夜も待っています」
王の従弟がうなずいた。使者は命令書を胸に入れ、その場から駆け去った。廊下を遠ざかる足音を、アデライドは最後まで聞いた。
「アデライド。戻ってくれば——」
父が椅子から身を起こした。
「いいえ、お父さま」
アデライドは顔を上げた。声は震えなかった。
「お約束は、これから皆さまでお持ちください。わたくしは、アーレンスへ帰ります」
隣でペンを片づけていたクレメンスの手が止まった。
アデライドはレオンハルトに、小さく一礼した。
「忘れたのは、わたくしではありませんでしょう」
公子は、答えなかった。
その夜、ユーリアは自分の部屋で、絵筆を持ったまま動けなくなった。
白い絵の具を少し混ぜれば、欲しい色が作れる。外国の本を開けば、昨日覚えた文章が読める。何も失ってはいなかった。
それなのに、評定では何も答えられなかった。
窓のない礼拝堂へ贈った絵のことが浮かんだ。あのとき姉は、冬至までと言っていた。ユーリアが額の寸法を訊けば、掛ける壁の暗さまで教えてくれた。
絵は自分で描いた。けれど、待つ人のことを思い出していたのは姉だった。
ユーリアは、いま描いている絵を見た。誰かに頼まれた気がした。どこの壁に掛けるのだったか。
口がいつものように動いた。
「おねえさま——」
扉の向こうから返事はなかった。
いつでも訊けば済むと思っていた。その人を何も持っていないと笑ったのは、自分だった。
ユーリアは絵筆を置いた。姉への怒りを探そうとしても、評定でうなずかなかった自分の首の固さばかりが思い出された。
「……ごめんなさい」
小さな声で謝っても、ここに姉はいなかった。
後日、ベルガーはユーリアに、約束控えを見せてほしいと頼まれた。
広げた新しい手帳には、届け先と期日を書く欄があった。空いているところへ誰の名を書けばいいのか、ユーリアはひとつずつ尋ねた。ベルガーは帳面を持って、隣に腰を下ろした。
絵の腕は以前のままだった。けれど領民への返答を任せる役目は外された。手帳をつけているだけで、もう誰も才女とは褒めなかった。
レオンハルトは、確かめもせず兵を引かせた責任を問われ、公爵家の交渉役を外された。ユーリアとの婚約の話も立ち消えになったと、ベルガーは公爵の口から聞いた。実家の所領で、まず帳面を読むところから始めさせられるという。
ベルガーは薄い約束控えを開いた。アデライドから聞いて額だけを書いた頁に、今度は、理由を書く欄を作った。誰に、どんな言葉で約束したのか。過ぎたことを自分が忘れていれば、もう訊いて埋めることはできない。
あのお嬢さまが埋めるべき帳面ではなかった。自分たちが書かなければならなかったのだ。
国境の村ローテンに、公爵家の兵が戻った。橋を押さえると、川上の夜盗は村に近づかず散ったという。焼かれた見張り小屋は戻らない。けれど村の家には、火を入れさせずに済んだ。
村長の手紙には、ミラも家に帰ったとあった。小さい子らを一緒に連れ帰り、それぞれの家の戸口まで送り届けたという。その下に、本人から頼まれた伝言が添えてあった。
——待っています。今度こそ、渡し場までご案内します。
アデライドの耳に、三年前の声が甦った。覚えたての言葉を少し胸を張って使った、あの子の声だ。
今度こそ、一緒にあの道を歩ける。あの子が待っていてくれる。
アデライドは記録庁の窓辺で、その報せを二度読んだ。一度で覚えてしまうのに。
紙を持つ指から力が抜けた。目の前の字が滲んで、もう一度「待っています」を探した。
「……間に合いましたね」
アデライドがつぶやいた。
「ええ」
クレメンスが隣に立っていた。彼はしばらく黙っていた。それから、いつもの用件を言うときと同じ平らな声で言った。
「アデライド殿。お願いが、ひとつ」
「なんでしょう」
「あなたの覚えていることを、隣で書き留めていたい」
アデライドが目を上げた。
「あなたが覚え、私が書く。守られるのではなく、並んで。そういう約束を、結びたい」
間が降りた。けれど今度の沈黙は、重くなかった。
「クレメンスさま」
「はい」
「それは、お仕事のお話ですか。それとも」
「……それとも、とは」
「ご自分でも、お分かりでしょう」
クレメンスが、めずらしく目を伏せた。耳の先が、わずかに赤い。アデライドは、それを見て、ようやく気づいた。
八年と四月、交わしてきた手紙を思った。一字残らず覚えている。けれど、珍しい本を見つけるたびに彼が筆を執った理由を、今日まで別のものだと思っていた。
「まあ」
アデライドは、口元に手を当てた。
「わたくし、ずっとご親切なのだとばかり」
「……私も、言えませんでした。十年」
「お互いさま、ですね」
二人は、顔を見合わせた。
アデライドは返事をしようとして、困った。どんな相談にもすぐに答えられたのに、今は耳まで熱くなる。クレメンスは急かさずに待っていた。
「……それ、とても、いいお約束ですね」
少し考えて、付け足す。
「それなら、書き留めてもいいですか。今度は、わたくしからのお約束も」
「あなたが、書くのですか。覚えていらっしゃるのに」
「ええ。だって、これは——あなたとの約束ですもの。覚えているだけでは、もう足りないんです」
クレメンスが、ほんの少しだけ笑った。乏しい表情の、いちばん端で。それを、アデライドはまた、覚えてしまった。今度のは、忘れたくない方の記憶だった。
アデライドは書きかけの手紙の裏へ、ペンを走らせた。紙を擦る音が、今日は自分の手から生まれた。
——これからも、あなたに一番にお話しします。
「役に立つことばかりでは、ありませんよ。卵の古い宿の話もします」
「それも、聞きたい」
隣でクレメンスが、日付と自分の名を書き添えた。アデライドもその下に名を書いた。人の交わした言葉の控えではない。二人で選んだ、これからの約束だった。
窓から入る光の下で、その一行のインクがまだ乾いていない。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
アデライドは、忘れないことを何の役にも立たないと言われてきた人です。でも、村の人が待っているものも、手紙をくれる人の言葉も、ずっと大切に覚えていました。
忘れられた約束が、人を殺す。だから彼女は、覚えている言葉を口にし、村へ届く命令書に変えるところまで見届けます。一人に預けきりだった約束を、今度は皆で持つ。その先で、彼女自身も帰りたい場所を選びました。
無事の報せを二度読むところと、最後に自分から約束を書くところを、楽しんでいただけたら嬉しいです。
「断罪令嬢は鮮やかに嗤う」シリーズの一編です。
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