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第2話 ダリアのような赤い瞳を僕は忘れない②

 

 まぁ、とにかく問題児だったね、ルチアは。


 全く、本当に不器用な王女様だったよ。

 けれど、あの日から少し変わったんだ。

 授業では拙いながらも、一生懸命に刺繍とかに挑戦してくれたね。

 まだ私の問いに答えてはくれなかったけど。

 まぁ彼女なりに気持ちに向き合おうとしたんだろうね。

 まぁ私の教師生活も少しは穏やかになろうとしていた頃かな?

 母国から帰還指令が来たんだ。

 最も次の雪溶けの季節になるだろうから、一年は先になるんだろうけど。

 やっと落ち着いてきたっていうのに、面倒ごとばかりがやってくる。

 そういう時に運命の歯車がズレてくるんだろうなぁ。

 事件が起きたんだよ。

 私が聖職者をクビになりかねない事件がね。

 全ての発端はルチアだ。

 あのティラノサウルス、問題ばっかり起こしやがる。

 

 あれはいつだったかなぁ。

 サレムの郊外の草原にブーゲンビリアの花が咲き始めた頃だったかな。

 空には渡り鳥が羽ばたいて、ケルンの山脈の向こうへと渡っていったのを覚えているよ。

 ルチアは今までサボってばっかりだったからね。

 授業の後は二人きりで居残りで補習をさせていたよ。

 私は王族だろうが、次期女王だろうが、関係ない。

 実技試験で落ちた奴には容赦なく不可をさせて、受かるまで補習させてたよ。

 その日のルチアは様子がおかしかった。

 妙にしおらしいというか、元気の無さそうに刺繍を黙々とやっていたね。

 代わりに居眠りしてやろうかと思ったさ。

 そしたらこの王女様、どこのコネ使って調べ上げたのか。

「……ヨハンは来年の春にはビガロスに帰るんだろ」


 なんで知ってるんだよ。

 宣教師の内部情報。

 こえーよ、ケルンの王族の諜報機関。

 外国の極秘情報まで調べ上げやがったのかよ。


 ルチアの問いかけに私は黙秘を決めこんだ。

 そんな私の様子にルチアは激怒した。

 ついでに刺繍入りの祭服もぶん投げられた。

「黙ってんじゃねーよ! どうして言ってくんなかったんだよ! そんな大事な事!」

 荒れ狂うティラノサウルスがそこにはいた。

 机を蹴っ飛ばして、すぐさま私の胸ぐら掴んだ。

 凄まじい腕力で、着ていたシャツが引き裂かれた。

「……ヨハンはあたしを、皆んなと一緒に平等に接してくれてる……。あたしの実力とか、王族の権威とか、次期女王とか、そんな色眼鏡で見ない……。まるでシア神の女神みたいな存在なんだ……」


 しまった。

 スクールの教師生活に専念し過ぎて、宣教師としての仕事を忘れていた。

 シア教の教えに、平等とかあったのかな?

 いや、今は荒れ狂う猛獣を落ち着かせるのが先決だ。


 ルチアは全身をワナワナと震わせ、ダリアの瞳には涙を滲ませていた。

 どう返事すべきか、思案してるところで、ルチアから頭突きを鼻に食らう。

「この気持ち、わかんないんだよ! どうしていいかわかんないんだよ!! どうしてくれるんだよ!!!」

 そこにはか弱き一人の乙女がいた。

 失うことに恐怖する小さな少女であった。

 それが人目も憚らず止まらない涙を溢れさせた一人の娘がいた。

 美しい顔をくしゃくしゃにさせて。

 そしてルチアはケルンの女神に懺悔する。

「……女神様、ごめんなさい……」  

 ルチアは俯いたまま、しばらく動かなかった。

 肩が小さく上下している。

 嗚咽を堪えているのか、それとも怒りを飲み込んでいるのか、私には判断がつかなかった。

 握りしめられた拳が、白くなっていた。

 彼女は何度も口を開きかけては、言葉を飲み込む。

 まるで、自分の中に渦巻く感情に、名前をつけられずにいるかのようだった。

 いや違う、このティラノサウルスは、初めて「どうしていいかわからない」顔をしている。

 赤いダリアの瞳が、ゆっくりと私を見上げる。

 そこにあったのは、怒りではない。

 憎しみでもない。

 ましてや支配欲でもない。

 恐怖だった。

 失うことへの、純粋な恐怖。

 次の瞬間、ルチアは一歩踏み出した。

 逃げるようでいて、縋るような動きだった。

 小さな手が、私の胸元を掴む。

 その指先が、かすかに震えている。

 私は何も言えなかった。

 言葉を選べば、すべて間違える気がしたからだ。 

 だから、何もできず、立ち尽くしていた。

 そして、

 私の唇に柔らかく、濡れた感触が押し付けられた。

 こういう時、男女は目を閉じるのがルールだが、私とルチアは違った。


 私の唇を奪った! 

 聖職者である私の!

 国と宗教が違えど、絶対にしてはならないこと。

 タブーの中のタブーを破ったのだ。


 このティラノサウルスは。

 そして彼女は私にこう告げた。

「これでお前は穢れた。……ヨハンはあたしのモノだ。ばらされたくなかったら、あたしの言うことを聞くんだ……」


 ルチアの接吻に私は激情の衝動が走った。

 女を殴りたいと思ったのは初めてだった。

 けれど強がる言葉とは裏腹に、ルチアは自分の身を抱きしめて、酷く震えていた。

 だが、その瞳に宿る真っ赤なダリアの強い瞳の意思に、不覚にも私の心は奪われてしまった。

 背徳感のせいかもしれない。

 だがあのダリアの赤い瞳の奥に、強く心が揺れ動いてしまった。

 胸の鼓動が高まってくるのが実感できた。

 女とは、かくも美しいものなのか。

 

 かくして私はルチアの所有物に成り下がってしまった。

 恋に堕ちたのだ。


 もし、あの時彼女が剣を抜いていたなら、私はまだ理解できた。

 だがルチアは最も無防備なやり方を選んだ。

 

 神の僕からルチアの下僕へと堕ちていったのだ。


 

 え?

 無神論者だから、ルチアがしてしまった過ちの深さがわからない?

 王女様からのキスなんてご褒美だろ、だって?

 私の母国もケルンのシア教も厳しい戒律があるんだ。

 そうだな、司祭の私に口づけするとなると……。

 まぁあなたが貴族の邸宅に放火したぐらいの罪状かな。

 バレたら私は失職し、牢屋行き、たとえ王女のルチアも例外じゃない。

 無理矢理した上に脅迫したんだから、もっと重い刑罰が下るだろうね。

 それをわかった上であの娘はやったんだ。

 当時保身に走る私を理解してたからこそ、唇を奪ったのさ。

 私が共犯者になるに違いないと。

 背信の秘密を二人で分かち合うと信じ切っていたんだよ。

 事実、当時の私はルチアの所有物に成り下がった。

 私だってこんなことで出世の道を踏み外したくなかったからね。

 それからさ、私の平穏な休日がぶち壊されたのは。

 寄宿舎の窓からはツバメのツガイが飛び交っていたよ。

 眩しい朝日の日差しに照らされながら、楽しくワルツを踊るように歌を囀っていた。

 午前の楽しみは翌週に生徒達に教えるキルトコードの予習に使おうと思っていたよ。

 そこに暴君が訪れるようになった。

「ヨハン、今日付き合えよ。いいモン見せてやるからよ」

 平和な休日はティラノサウルスに踏み躙られるようになったさ。

 私は何故司祭になったのか、よく自問自答したよ。

 ケルンの馬鹿でかい山脈を登山するハメになる数奇な運命に。

 今私、登山って言ったかな?

 そんなもんじゃなかったよ。

 今でもあの眼前に聳え立つ、ほぼ垂直の崖を目の当たりにしたショックは。

 ただでさえ長く険しい山登りで足腰が疲弊し切っているのに、これを登れと崖の上のティラノサウルスは咆哮を上げていたよ。

 絶対遵守の関係だったからね。

 命がけで、岩を掴んで登ったさ。

 目を輝かせたケルンの猛獣が無邪気に呼びかけるんだ。

「ヨハン、ほらみろ! 頂上が見えてきたぞ!」

「見えません! 霧で真っ白です!」

「ここまで登れば見える!」

「無理です! 腕が痺れて、もう限界です!」

 私が本気で悲鳴を上げると、ルチアは片手で私を掴んで背負い、利き腕一本で猿が木でも登るように、断崖絶壁をよじ登るんだ。

 あの細い腕にどんな腕力が備わっているのか。

 しかも背中には大剣背負っていたね。

 その時、あの授業で殴られたのは手加減だったと痛感したよ。

「ちょっとピクニックに行くって話じゃありませんでしたか?」

「同じじゃん、こっから見える景色がいーんだよ。早く行こうぜ」

「ここまですることなんですか!?」

「平気、平気!」

 ルチアは振り返って笑った。

 悪意の欠片もない、純真無垢な笑顔がそこにはあった。

「ルチア……せめて休憩を……」

「あと少しだから大丈夫だよ!」

 それは嘘だった。

 白い濃霧の中、どれだけの時が進んだのだろうか。

 このティラノサウルスの、

「あと少しだから」

 という台詞を何度聞かされたのだろう。

 しかし、やがて霧を抜けて、視界が晴れていったのがわかった。

 崖の頂上に辿り着いた先、白く輝く荘厳な山脈、そして雲の海が漂っていた。

 冷気を帯びた、澄んだ清涼な空気が風に運ばれていった。

「うわぁぁぁぁ! ヤッホー!!!」

 ルチアは上機嫌にぴょんぴょんと跳ねていた。

 そして壮大な景観に見惚れて、両手を目一杯伸ばしていたよ。

「すげぇ! やっぱりヤベェな!! な、ヨハン」

 疲労困憊で全身汗塗れの私はただ呆れ果てた。

 そしてがくりと膝を落としたね。

「……まさかこれのために、命がけで登ったんですか……」

 その問いにルチアは不思議そうな表情を浮かべていた。

「これを見るために……私は死にかけたんですか……?」

「そうだよ?」

 その即答の一言に私は泣きたくなった。

「けどよ、ヨハンと一緒に見るとやっぱり景色が違うな! 最高だよな! な、綺麗だろ?」

「……そうですね……」

 景色ではない。

 太陽の陽光に照らされ、眩しく輝く金色の髪の少女の純真な笑顔に私は見惚れた。

「……やっぱり迷惑だったか?」

 私の味気ない感想に不安に思ったのか、ルチアは怯えるような、迷子の子供のような表情で私を見つめた。

 正しく迷える子羊だ。

 私はその小さな手を強く握って答えた。

「素敵な世界です。あなたがいなければ目にすることはなかったでしょう」

 その言葉が嬉しかったのか。

 ルチアはその美しいダリアの瞳を輝かせて、くしゃくしゃな笑顔を浮かべた。

 その姿に私の心は奪われた。

 そして胸の鼓動の高まりを感じた。

 今振り返れば、あれは青春の鼓動だったのだろう。

 どうやら子羊は私の方だったようだ。

 私はルチアに懸想していた。

 この笑顔を生涯守り通していこうと誓った。

 神を信じない司祭の私が、初めて神に祈りを捧げた瞬間であった。

 

 そうそうルチアは私の裁縫の授業にも熱心に取り組むようになったよ。

 私は刺繍のコード、キルトコードをよく教えていたね。

 四角や三角、模様を縫う順番で一つの物語ができ上がるんだよ。

 ルチアは手先は不器用だったけど、マンツーマンの補修の成果もあってなかなかの出来だったね。

「面倒くせぇ、一生使うことない知識じゃん」

 ってブー垂れながらも一生懸命学ぶ姿勢が良かったな。


 とにかく騒がしくも賑やかな日々が続いたんだよ。


 ――あの日が来るまでは。


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