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その武器はいつもディーテが持っている

作者: 佐久矢この
掲載日:2025/11/26

午前の光が、錆びた屋根を鈍く照らしていた。

王都南端の駐屯地、第5師団訓練場。

硬く踏みしめられた赤土が靴底にこびりつき、風が吹くたびに砂煙が舞い上がる。

鉄の匂いを含んだ風が、ひんやりとした春の空気を切り裂く。


「構え!」


号令と同時に、木剣の音が鋭く空を裂いた。

その中心で動く一人の女――ディーテ・ラインハルト。


金糸を編んだような髪が、振るわれるたび陽光を散らす。

背筋は常に真っすぐで、剣筋に一分の隙もない。

手にした剣の真っすぐささえ彼女に似合いのアクセサリーといった具合で、もはや武器というより身体の一部だった。


「そこまで!」


訓練終了の声が響くと同時に、汗を拭う音と息を吐く音が交錯する。

剣の柄に滲んだ汗を見つめ、わずかに唇を噛む。


(足の踏み込みが甘い。あれじゃ敵に間合いを取られる)


他人の訓練にも、つい目がいくのが悪い癖だった。


そんな真面目さゆえに“やりすぎる女”とも呼ばれることもある今日この頃。

今年の春、彼女は第5師団に属する小さな分隊の隊長に昇格したため、周囲の風当たりは少し厳しい。

昼の鐘が鳴り、訓練場の喧噪がゆるやかに薄れていく。


ディーテは木剣を壁に立てかけると、無造作に束ねた金髪を結い直した。

指先に汗が光る。


――最近、空気が重い。


原因は、王都で囁かれるひとつの噂。

第5師団の上官が、王弟派に肩入れしたという。

食堂の窓際、硬いパンをかじりながら、ディーテは眉をひそめた。

灰色の空が硝子に滲んでいる。


「こんなことで、うちが疑われるなんてやってらんないわ」


対面の席に座るカルロ・メルツが、パン屑を払って苦笑した。

ディーテよりは4つ若いまだ19歳の青年だが、彼の目だけは妙に達観している。


「隊長、顔が険しいです」

「険しくもなるわよ。上がしくじったせいで、下まで疑われてるのよ?」

「まあ、こういう時は“耐える”しかないですって」


ディーテはスプーンをくるくると回し、スープの表面に浮かぶ自分の顔を見た。

波紋が揺れるたび、現実が歪むようだった。


「……あの人、ほんとに王弟派についたのかな」


誰にともなく呟く。

王弟――体が弱く、表舞台には出てこない男。

だが、裏では密かにクーデターを企てているという噂が絶えない。

その影に第5師団の名がちらつくだけで、軍全体の空気がぴりつくのだ。


「まじめにやってるのが馬鹿らしくなるわ」

「でも、ディーテ隊長らしいです」


カルロが笑う。


「どんな時でも、“仕事を投げ出さない”」

「皮肉?」

「いえ、尊敬です」


ディーテはスプーンを置き、窓の外に目を向けた。

曇り空の向こう、陽光が一筋だけ差し込み、遠くの旗がきらりと光った。

訓練場の鉄柵がその光を反射して、まるで刃のように冷たい輝きを放つ。


(嫌な予感がする)


まるで何かが、ゆっくりと動き出す前触れのようだった。

その日の夕方。

詰所の掲示板に新しい命令書が貼られ、周囲がざわつく。


「第5師団、第6師団と合同演習を実施」


カルロが声を上げた。


「第6師団……? またお貴族さまたちと?」


ディーテは一瞬、顔をしかめた。


「最悪」


思わず口から零れる。

指先が紙の端を掴んだまま動かない。

第6師団――式典の飾りと揶揄される華やかな部隊。

戦場では到底必要がないだろう金糸の刺繍が施された軍服。磨き抜かれた靴。

彼らは、戦場ではなく式典の舞台に立つような人種だ。


実際に、貴族の子息の拍付けに利用されているようで、主な仕事は軍隊のイメージ維持。

そして、その中心にいるのが、ディーテの天敵。

貴族出身のアレント・ヴァルシオンだ。



かつて軍学校で、幾度となく剣を交えた相手。

負けず嫌い同士が顔を合わせるたび、火花が散った。

試合のたびに観客が沸き、勝敗表には二人の名が並ぶ。


「またあいつか……」


窓の外で風が鳴った。

灰色の空の下、遠くに見える訓練塔が、不吉な影のように揺れている。

その揺らぎを見つめながら、ディーテは無意識に拳を握りしめた。


(嫌な予感が、する)


それが、単なる“勘”ではないことを彼女はまだ知らなかった。





夕刻、訓練場の空気は熱を帯びていた。

整列した兵士たちの間を風が通り抜け、砂埃が舞い上がる。

第5師団と第6師団――対照的な二つの部隊が、広い演習場を挟んで向かい合っていた。

片や、磨き抜かれた金具と深紅の刺繍が眩しい貴族の軍服。

もう片方は、泥と汗の跡が染みついた革の装具。

兵たちの背筋が伸びるたび、衣擦れの音が微かに重なった。

そして、その中央。

金髪を束ねた女と、黒髪を撫でつけた男が向かい合う。


「久しぶりだな、ラインハルト隊長」


アレント・ヴァルシオン――軍学校時代からの天敵。

声は穏やかだが、口角の上がり方が腹立たしいほど完璧だった。


「そうだったかしら。私としては、もう会わなくて結構なのだけれど」


剣を構えた姿は凛とし、目だけが鋭く光る。

アレントは笑みを深め、片手を差し出す。


「さて、せっかく久しぶりに会えたんだ。この模擬戦、賭けをしないか?」

「賭け?」

「勝った方が、何か一つ相手に命令できる」

「まあ、いいわよ。言質取ったからね」


周囲からざわめきが起きる。

訓練場に張り詰めた緊張が走り、観覧していた兵士たちの視線が二人に集中しているのがわかる。


双方、向き合って構えたところで、号令が鳴った。

剣がぶつかる。

砂煙が舞う。

互いの剣筋が火花のように交錯し、音が乾いた空気を裂いた。


アレントの剣は少しばかり力押しなところがある。

がっしりしている上にそれなりに上背もあるので、ウェイトだけでもかなり相手を押せてしまう。

対してディーテは一撃一撃は少し軽めだが、的確に相手の嫌なところをつく、あまり手合わせしたくない類の剣筋だった。


足元の赤土を踏み砕き、腕の筋肉が軋む。

互いに一歩も譲らぬ攻防――

だが、 アレントの口が動いた瞬間、決着はあっけなく訪れた。


「ディーテ・ラインハルトさん!俺と付き合ってほしい!」

「……え」


頭が真っ白になった彼女の剣を、彼の刃が軽やかに弾いた。

剣は華麗に宙を舞い、乾いた音が響く。


「勝負あり!」


観衆がどよめく。

負けた、と悟った瞬間、ディーテの背中を冷たい風が撫でた。

アレントが歩み寄る。

彼の手が差し出された。


「もう一度言う。……ずっと好きだった。俺と付き合ってほしい」

「……は?」


静寂。

訓練場に風が通り抜ける。

鳥の声さえ止んだ。たぶん。

次の瞬間、あちこちから戸惑い混じりの拍手が起こる。


「え、今の本気?」

「まじか。アレントさん、まさかほんとに?」


ざわめきが交錯し、空気が妙に生ぬるい。


「賭けには勝っただろう。頼む」

「いや、あれはノーカウントにしてもいいくらいの反則技じゃない?」

「軍人に二言はないだろう」

「えー…いやあ…」


ディーテは呆然としたまま、反射で受け答えしているような状況だ。

人生で初めての告白だ。


(……何を言ってるの、こいつ)


だが、頭の奥で別の声が囁いた。


――最近、第6師団の情報収集に“女”が使われているという報告があった。

――王弟派が、軍内部の動きを探っている。


(まさか……これもその一環?)


目の前の男が、笑顔の裏でどんな腹を探っているかなんて、誰にもわからない。

彼は常に余裕を崩さない男で、無表情からは何を考えているのかを容易に読み取らせない。


しかしながら、これはむしろ、利用できるかもしれない。


(情報を得られる。うちの潔白も証明できる。手柄も立つ。これは……使える)


ディーテは深く息を吸った。

唇の端に笑みを浮かべ、まっすぐ彼を見上げる。


「――賭けは賭け。でもあなたの勝ち方は完全とは言えないと思うわ。だから、妥協案。一か月の猶予をあげるから、がんばって口説いてくれる?」


観衆がまたざわつく。

アレントは一瞬、目を瞬かせ、次の瞬間にはにかむように笑った。


「了解しました、隊長殿」


夕陽が二人を照らし、盛り上がった場内に影が長く伸びる。





演習が終わって数日。

いつもの王都の朝は、冷えた鉄の匂いと、靴音の重なりから始まる。

ディーテは報告書を抱え、資料室へ向かっていた。

だが、廊下の先で待っていたのは――やけに見慣れた姿。


「おはようございます、隊長殿」


アレント・ヴァルシオン。

第4師団の軍服は今日もやけにきれいで、白い手袋さえ埃ひとつついていない。

姿勢は完璧、笑顔も隙がない。

ただし、その笑みの矛先がまっすぐ自分に向けられているのが、非常にやっかいだった。


「……第6師団の隊長様が、なぜ第5の廊下に?」

「たまたま通りかかったからだな」

「散歩する暇があるなら、仕事してくださいます?」


ディーテの声が冷えきっているのに、彼は楽しそうに笑う。


「君の顔を見たら、一日くらいは運が良くなりそうな気がして」

「そうですか。女性の顔がみたいなら、第6師団にはたくさんのかわいらしいメイドさんがいらっしゃるらしいですが」

「それは嫉妬か?」

「違う」



足を止めずにすれ違うが、背後から軽やかな足音が追いかけてくる。


「昼、予定あるか」

「ある。食堂でカルロたちとご飯」

「なら、俺も同席していいか?」


彼女の返答を待つ前に、アレントは自然な流れで隣を歩いていた。

距離が近い。

香水ではなく、ほんのりとしたインクと紅茶の匂いがする。

不覚にも、それが心地よかった。





昼休み。

食堂の隅の席に、第3師団の空気にまるで馴染まぬ人物が一人。

アレントは背筋を伸ばし、整った所作でナイフとフォークを扱っていた。

軍食の煮込み肉すら、彼の手にかかると宮廷の料理に見える。

姿勢、手の動き、指の角度――すべてが美しかった。

カルロがこっそり囁く。


「……あの人、食べてるだけで高貴さ出るんですね」

「そう見えるなら、たいした演技力よ」


ディーテは冷たく言い放つが、スプーンを握る手が微かに震えている。

アレントはふと彼女を見つめ、微笑んだ。


「髪、下ろしてるところが見たい」

「……は?」

「いつも結ってるから。風に揺れる金髪、きっときれいだと思う」


カルロが咳き込み、周りの兵士たちは一斉に顔を背けた。


ディーテはスプーンをテーブルに叩きつける。


「訓練中にそんなこと考えてるの?」

「いや、ずっと前から考えている」


その瞬間、彼のまなざしがほんの一瞬だけ真剣になる。

笑いの中に、まるで本物の熱を隠しているような。


(……何考えてるのよ、この人)


頬が熱くなり、ディーテは立ち上がった。


「そんなこと考えている暇があるなら、訓練でもしてなさいよ」

「君と一緒ならいくらでも」

「……そんな嘘、誰が信じるの」

「嘘だと思うか?」


ディーテは我慢ならず、がんっとわざとらしく大きな音をあげて立ち上がった。

黙って聴き耳を立てていた周りの兵士たちが一斉にざわついた。

カルロは苦笑しながら手を上げる。


「隊長、落ち着けよ。食堂壊す気か」

「壊さないわよ!」


つんとすまして、そのまま自分の分の盆を持って踵を返す。

後ろでカルロが「こんな空気感で一人にしないでくださいよ」と言った気がしたが、まあ問題ないだろう。

食堂を出たあとも、心臓の鼓動だけがやけに大きい。

耳の奥で、彼の声が何度もリフレインする。


――髪を下ろした姿が見たい。


午後からの訓練中、風が吹くたび、後れ毛が頬をくすぐった。

ほんの一瞬、それを思い出して剣先がぶれた。

彼女はいつも誰よりも冷静で、鉄の女とも噂される人間だ。

けれど、その日だけは、自分の鼓動がほんの少しだけ遅れた気がした。






2人の攻防に周囲も慣れてきた頃。

カルロが報告書を持ってディーテの部屋に入室すると、ディーテは渋面で手紙を読んでいた。

それだけで、なんとなく誰からの手紙で、どんな内容なのかが分かる。

カルロがふと笑う。


「……隊長、殿下に押され気味じゃないですか?」


ディーテは顔を上げずに答える。


「押されてない。あれは全部、演技」

「でも、顔が赤いですよ」

「もともとこんな顔よ」


窓の外、にじんだ夕日が沈みかけている。

風に揺れるカーテンの向こうで、どこか遠くの鐘が鳴った。

その音が、妙に胸に響いた。


――一か月の猶予。

彼が本気で迫ってくるなら、こちらも全力で“演じる”だけ。

けれどその夜、眠りに落ちる直前。

アレントの笑顔が脳裏に浮かび、胸の奥が小さく疼いた。


(……あれは全部、演技)





翌朝の執務室は、紙の束とインクの匂いで満ちていた。

報告書を仕分けているディーテの背後から、軽快な声が飛ぶ。


「やあ、ディーテ君。君、いい人ができたらしいじゃないか」


顔を上げると、第5師団でのディーテの直辱の上司、クララ・ローマンがにやにやと笑っていた。

男らしい口調とは裏腹に、肩口で切った栗毛は上品に固められ、なかなかの美人である。

その笑みは、部下をいじるときだけ異様に深い。


軍学校時代からお世話になっている先輩で、あまり多いとは言えない軍人女性同士、ふたりはとても仲が良かった。


「別に、少し話をするくらいで、特に何の進展もありませんよ」


クララは腕を組み、にやりと笑った。


「それにしたって、あんなに綺麗な顔の男に口説かれるなんて君も隅に置けないじゃないか」

「やめてください。私の恋人は剣なので」

「恋人よりも仕事か。まあ、君らしいな。……じゃあ、これ」


差し出されたのは、紙袋。

中から覗くのは柔らかな生成りのワンピースだった。

胸元には小さなリボン。裾はふんわりと広がっている。


「なんです、これ」

「昔、私が若い頃に着てた服。少し直せば君にちょうどいい。デートにはこういう隙のある服を着ていくのがいいだろう」

「クララ先輩、こんなひらひら着ることあったんですね」

「主人を落としに行った最初のデートでの記念すべき服だよ。縁起がいいだろう」

「戦いにくそうです」

「この服で戦うんだよ。デートという戦争で、男を手に入れるために」


ディーテは言葉に詰まった。

クララの目が愉快そうに細められる。






翌週。

市場は春祭りの準備で賑わっていた。

パン屋の香ばしい匂い、果実酒の甘い香り、焼いた魚の煙。

人々の声が溶け合い、色とりどりの布が風に揺れる。


ディーテは人混みの中、落ち着かない様子で立っていた。

黒のスラックスに白のシャツは一見すると男性のようだが、髪は今日は高く結わず、肩に流している。


「髪、よく似合ってる」


背後から聞こえた声に、ディーテはびくりと振り向いた。

アレントがそこにいた。

薄手の紺色のコートを羽織り、いつもの軍服よりずっと柔らかい印象。


「来てくれて嬉しいよ」


彼の返答は軽いのに、笑みの奥が穏やかで、

その柔らかさに、ディーテは目を逸らす。





もうすぐ約束の一か月になるのだから、デートのチャンスくらいほしい。

そんなアレントのわがままな意見は、訓練場のど真ん中で叫ばれた。


ディーテは無視を決め込むつもりだったが、周囲の男性たちは、ここ数週間、顔のいい男が必死になって彼女に「デートくらいしてやれ」だの「減るもんじゃない」だのと説得に回った。

それはもう、切実なほどに。

ディーテはただ、崇高なる訓練の邪魔をしないため、仕方なくイエスを告げたにすぎない。たぶん。




果物店で、アレントが熟れたリンゴを手に取り、ディーテの方に差し出す。


「これは?」

「見た目は悪いけど、甘いらしい。俺はこういうほうが好きでね」

「それ、私のこと?」

「違う。君は見た目もいい」


その軽口に、ディーテの耳が少し赤くなる。

彼が何気なく彼女の手から袋を受け取るとき、 指先が一瞬だけ触れた。

妙に温かかった。

人混みの中を歩く彼の歩幅に合わせて、いつのまにか歩く速度が同じになっていた。

昼食は、小さな路地裏のカフェだった。

貴族が来るような場所ではなく、かといって町の食堂よりは洒落ている。


木製のテーブルには花瓶、窓の外は色とりどりの紙飾り。

アレントはナプキンを広げ、さらりとディーテの好みを聞くと、注文を済ませる。

出てきたのは、色とりどりの前菜にサラダ、子羊の赤ワイン煮込みと

肉多めなのは、ディーテの趣味に合わせているからだろうか。

やはり、食事の所作が驚くほど丁寧で、美しい。

フォークを取る指の動きまで静かで、見とれてしまうほどだった。


「……貴族って大変ね」

「なんだ、いきなり?」

「スープ一口飲むのにも作法がありそう」

「今はないよ。君がいると、そんなのどうでもよくなる」

「またそうやって」


「本心だよ」というと、アレントはにやりと笑った。


「初めて会ったときは、こんなに彩度の高い女がいるのかと驚いた」

「ほめてないでしょう、それ」

「ほめてるよ。君を見た瞬間、剣の光より眩しかった」


ディーテは苦笑した。

けれどその言葉が、なぜか心の奥で残響のように響く。

彼の目に映る自分が、

いつもの“剣を操る女”ではなく“女”として見られている――

それが不思議と怖く、そして少しだけ嬉しかった。


(気を緩めるな。これは恋じゃない)


頭の中で繰り返す。

その日、次の休日に美術館へ行く約束をした。


その夜、鏡に映る自分の髪をほどいたとき、胸の奥に、名もない痛みが走った。







――それは、まだ彼女が軍学校の生徒だった頃のこと。


春先の夕暮れ、訓練場には剣の音だけが響いていた。

他の生徒たちはすでに帰り支度を済ませているのに、

金髪の少女だけがひとり、薄闇の中で剣を振っていた。


ディーテの父は王国騎士団の一人だったが、彼女が十歳の時に戦死した。

何も帰ってはこなかった。

空の棺の前にぼんやりと立ちながら、母も兄弟もいない小さなディーテは、父の背中を思い出した。

大きくて、温かい。こんな伽藍洞の棺なんて、父ではない。

あの人の背中を追いたい。


(必ず、どんな形でも)


15歳の時、ディーテは養護施設を出て、軍学校に入った。


空はすでに茜色から群青へと変わり、訓練場の影が長く伸びていく。

風が吹くたびに、金糸のような髪が揺れ、夕陽を跳ね返した。

汗に濡れたシャツが肌に張りつく。

呼吸が荒くなっても、彼女は止まらない。

何度も、何度も、木剣を振る。


「……また、残ってるのか」


背後から声がした。

振り向くと、同じ学年の少年――アレント・ヴァルシオンが立っていた。

貴族出身で、常に余裕をまとった優等生。

一度剣を合わせてからなぜか妙に懐かれて、たびたび話しかけてくる。


女性が珍しいのかもしれない。

前の戦争で男性が少なくなったこともあり、軍学校は女性も受け入れているが、まだまだ数は少ない。


「なにか用?」

「もう日が暮れる。剣より先に、君の腕が折れるぞ」

「折れるわけないでしょう」

「疲労で折れることもあるらしいぞ」

「まあ、骨折は何回かしているけど、あれは治るから大丈夫」


淡々と答え、もう一度木剣を構える。

その刃筋はまっすぐで、迷いがない。


「……」


アレントは黙って見ていた。

風に散る砂塵、夕陽に照らされる金髪。

剣を振るたび、汗が軌跡を描くように飛んだ。


(ああ、綺麗だな)


戦場の光ではなく、努力そのものが放つ光。

それを見た瞬間、彼は初めて“美しい”という言葉の意味を知った。


その夜、 人気のない寮舎の洗面所で、ディーテは制服の袖をまくり、腕にできた切り傷を無言で消毒していた。

アルコールがしみるが、目を細めても、声は漏らさない。


「でも痛いものは痛いわね」


鏡の中の自分にそう呟いたとき、背後からドアの軋む音がした。


「やっぱり怪我してたんじゃないか」


アレントの声。

いつの間にか扉の向こうに立っていた。


「……覗きなんて趣味、あったの?」

「たまたま通りかかってね。というか君、やっぱり怪我してただろ。隠すのうまいな」

「そのわりには、今日気づいているような素振りだったけど」

「確証はなかった。ただ、君にしては、少し右側の反応が遅い気がしてね」


彼はため息をつき、薬箱を取り上げた。


「手、見せて」

「自分でできる」

「できてないから、血が止まってないんだ」


アレントは指先で包帯をくるくるとほどきながら、穏やかに言った。

強引にディーテの腕をとると、止血剤を取りだして慎重に傷口に塗り込み、丁寧に包帯を巻いていく。


「君はいつも、自分を追い込みすぎる」

「止まりたくないのよ」

「ああ、確かに止まらないね、君は」


包帯の端を留めたあと、彼は少し黙り、低く、息を吐くように呟いた。


「君の剣さばきは、なにより美しい」


その言葉に、ディーテは一瞬だけ動きを止めた。

手の甲に触れる指先が、熱い。

胸の奥が、わずかに鳴った。

彼女は目を逸らし、わざと笑った。


「貴族の言葉って、安っぽいのね」


アレントは軽く笑い返した。


「本心だよ」


灯りの下、二人の影が床に重なって揺れた。

夜風が窓を叩く音だけが、静かに続く。

なぜかディーテは、その夜のことをずっと覚えていた。







次の休日は、よく晴れていた。

春の陽はやわらかく、公園の噴水が細やかな光を散らしていた。

子どもの笑い声、鳥の鳴き声、そして風に揺れる木々のざわめき――

そんな穏やかな景色の中、ディーテはただ一人、石畳の上に立っていた。


髪はいつものように結い上げず、肩に流している。

白いワンピースの裾が、風を受けてふわりと揺れた。

金の髪に光が差し込み、いつもは鋭い瞳の色さえ淡く見える。

彼女は、ただ待っていた。


「遅い……」


腕時計に目を落とす。

針は約束の時刻をとうに過ぎている。

胸の奥に、小さな棘のような不安が刺さった。


(落ち着かないわ)


風が吹き、白い裾をさらっていく。

花壇の影で、通り過ぎる人々がちらりと彼女を振り返る。

その瞬間――背後から、乾いた声が落ちた。


「……かかったな」


反射的に身を翻す。

そこには、粗末なコートを羽織った男たちが五人。

手には短剣と鉄棒。

顔を隠したその集団が、じりじりとディーテを囲む。


「この女だ! 王弟派の情婦だ!」


ディーテの唇の端が、かすかに上がる。


「――一般市民の避難は?」


その問いかけに、茂みの奥から、鋭い声が返る。


「もう済んでいます!」


カルロの声だ。

その瞬間、周囲の木陰から影が動いた。

第5師団の部下たちが一斉に現れ、手際よく包囲網を築く。


(……やっぱり来なかったか、アレント)


ほんの少しだけ、胸の奥が沈む。

だがそれを押し殺し、表情を鋭く引き締めた。


「目標確保を優先。カルロ、前方の二人はあなたが」

「了解!」


命令と同時に、ディーテは地を蹴った。

ワンピースの裾が翻り、金髪が宙を舞う。


柔らかい服装のせいで動きづらいが、それでも彼女の剣筋は淀みがない。

腕を掴まれるより早く、肘を返して相手の顎を打ち上げ、

次の瞬間には靴の踵で男の脇腹を蹴り飛ばした。


「お嬢ちゃんが軍人の真似事かよ!」

「これが本職よ」


ワンピースの裾が血の泥をはねる。

石畳に倒れた男の腕を取り、あっという間に関節を極めた。


「こっちは、最初から待ってたのよ」


カルロが背後から応じる。


「第6隊に手柄をやるか!」

「当たり前!」


最後の一人を押さえ込んだ瞬間、 上空を白い鳩が飛び立った。

花びらが舞うような静寂の中、 ディーテは深く息を吐く。


「……ワンピース、動きにくいったらありゃしない」






このしこたま動きにくいワンピースをクララから渡されたあの日。


「この服で戦うんだよ。デートという戦争で、男を手に入れるために」


一瞬言葉を詰まらせたディーテはにやりと笑った。


「戦うのは私の専売特許ですからね。やぶさかではありませんよ。ただ、こういう囮になるのは初めてなもので、戸惑ってはいますね」

「ふむ。君、アレントが王弟殿下ということには気づいているな」

「もちろんです。先日から、王都にそのような噂が流れています。いままで隠していたにも関わらず。わざと流した噂、情報統制ですね?」


窓の外の風がカーテンを揺らし、紙の端がひらりとめくれた。

クララはゆっくりと身を乗り出し、口元に軽い影を作るようにして言葉を続けた。


「そのとおりだ。今回、彼が旗印となり、クーデターを起こすという噂を流すことで、敵が攻撃してくるのを待つつもりだ」


ディーテの指先が紙袋からわずかに出したワンピースの裾を擦る。

布はいままでディーテが触った生地の中で、一番やわらかい。


「王弟を囮にしようということですか?」

「これは、王族側が考えた作戦だ。我々には拒否権はない」


クララは小さく息を吐き、窓の外を見やった。

午後の光が彼女の銀髪を淡く浮かび上がらせる。


「だが、敵もなかなか動かなくてね。このままアレント殿下に口説かれていてくれ。殿下が君に本気で惚れていると敵が思ってくれるなら、どこかで仕掛けてくるだろう。まあ、軍部と関連した場所では警備が厳しく無理だろうが…」

「外でデートでもしてこいと?」

「まあ、そうだな。君なら襲われてもそれなりに対処はできるだろう」


言葉は冷静だが、そこに含まれる期待は明らかだった。

ディーテは一瞬、胸の中の何かが重くなるのを感じた。

父の背を追い、いつしか自分を鍛え上げてきた理由が、こうして任務に繋がるのだと実感する。


「私の役割は、アレントの――王弟殿下の情婦というところでしょうか」

「敵には、殿下の弱点が君にあると思わせたい。引き続き頼むよ」


クララの最後の言葉は、冗談めかして優しく、その裏に軍人としての非情さがほんの少し覗いた。

ディーテはワンピースを胸元に当ててみる。


鏡の中の顔は、訓練場で泥まみれになっている時の顔と変わらない。

だが、今は確かに「隙」を演じる女としての衣装を手にしている。

たしかに、この服を着たディーテは、初めての恋に浮かれて物慣れないワンピースなど着てしまった舞い上がった女にしか見えないだろう。


この白い布は、正しく戦闘服だ。


「承知いたしました。その役目、必ず成功させてみせます」


外の稽古場からはまだ木剣の音が断続的に聞こえている。


クララは満足げに頷き、ディーテからそっとワンピースを奪うと、折りたたんでから、その胸にあてた。

布の重みが掌を伝い、彼女の肩に小さな責任の影を落としていく。






砂塵が陽炎のように揺れ、石畳の上に血のしぶきが散った。

作戦は成功するはずだった。だが、敵の数は想定より多かった。

茂みの影、屋根の上、通りの角――どこからともなく増援が現れ、

第5師団の兵たちは防戦一方に追い込まれていく。


「隊長、囲まれました!」


カルロの声が上がる。


「下がるな! 間合いを取れ!」


ディーテは短剣を抜き、白い裾を翻しながら敵の懐へ踏み込んだ。

ワンピースが風を受け、柔らかな布が陽光を反射する。

血と風と花の匂いが混ざる戦場に、その白だけが異様に鮮やかだった。


しかし――数が多い。


剣を弾き、体を回転させてかわすが、背後から別の影が迫る。

刃の気配が、風を裂くように背中をかすめた。

そのとき。


「下がれ!」


鋭い声が響き、同時に、何かが割り込む音。

火花と共に刃が弾かれ、目の前に黒い影が立った。


「……アレント!?」


陽光の逆光の中、彼が剣を構えていた。

深い紺の外套が翻り、風に舞う。

鋭い切っ先が敵を押し返し、その動きは迷いがなく美しかった。


「何してるんですか、あなた!」

「こっちの台詞だ」


視線がぶつかる。

一瞬だけ、戦場の音が遠のいた気がした。


「まったく……どうしてこうなるのよ!」


アレントが背を預けるように立ち、ディーテが前に出る。

白い裾を蹴り上げ、敵の腕を払い、踵を返して喉元に一閃。

砂が舞い、金の髪が風に流れた。


「第6隊に手柄を取られてたまるか!」


叫びながら、彼女は剣を振り抜いた。

隣でアレントが苦笑する。


「まだそんなことを言う余裕があるのか」

「当然よ! ……ワンピース、動きにくい!!」


そのあとは、言わずもがなだ。

ひらひらと舞う薄く白い戦闘服に、敗北の文字はない。





長い1日だった。いや、長い1か月だった。

彼女の報告をもって、すべてが終わる。

執務室の扉を開けると、上官クララ副隊長が待っていた。

机の上には整理された書類、香り立つ湯気の消えかけた紅茶。

クララは軽く笑い、ディーテを見上げた。


「ご苦労だったな」


その声には、ほんの一瞬だけ安堵が滲む。

ディーテは敬礼し、報告書を差し出した。


「第5師団、第6師団合同作戦。クーデター派、全員拘束。王都内での残党の確認も完了しています」

「……よくやった。ここから、黒幕をあぶり出すのは、まあ、上の仕事だ」


クララは短く言い、報告書に目を通す。

ページをめくるたび、紙の擦れる音が静かに響いた。


「この件で、第5師団の疑いは晴れた。君のおかげだ」

「光栄なお言葉です」


短い返答には、ディーテの疲れが少し滲んでいる。

戦闘の興奮が冷め、任務が終わった今、心に残るのは奇妙な空洞だけだった。


「アレント殿下は?」


クララが書類から顔を上げる。


「無事だ。公には“敵の標的となった王弟殿下を救出した”という形で発表される。君の功績もきちんと記されるよ」

「……それは光栄です」


言葉とは裏腹に、胸の奥で何かが鈍く鳴った。

報告を終え、敬礼ののち、踵を返す。

扉に手をかけたとき、クララがふと声をかけた。


「どうした? 浮かない顔だな」


ディーテは振り返らずに言った。


「いくら“隙を作るため”とはいえ……もう、ワンピースはこりごりです」


クララが小さく笑った気配がした。


「似合っていたけどね」


その言葉を背に受けながら、ディーテは廊下へ出た。

陽射しが窓から差し込み、磨かれた床に光の帯を落とす。

その上を、彼女の影が静かに伸びていく。

任務完了。







軍本部の長い廊下は、午後の陽射しで白く染まっていた。

窓から差し込む光が床に斜めの線を描き、磨かれた靴音がその上を打つ。

執務室を出たばかりのディーテは、胸の中の疲労を押し隠すように歩いていた。

角を曲がったその瞬間。

一瞬足を止めたディーテは、何事もなかったように、歩き出した。


廊下の先に、黒い軍服の男が立っていた。

アレント・ヴァルシオン。

改め、アレント・ヴィンランド王弟殿下。


この国の第三王子にあたる、病弱で表舞台には出てこないはずの彼。

腕を組み、壁にもたれ、いつになく険しい顔をしている。

その目は、戦場よりも鋭く、静かに怒っていた。

会釈をすると、その横をすり抜けようとしたディーテに、アレントは「おい」と声をかけた。


「俺に話すことがあるだろう」

「……ありません」


冷たく言い捨て、すれ違おうとしたディーテの腕を、彼はためらいなく掴んだ。


「どうして黙って捕らえられた」

「はあ? そっちが私を囮にしたんでしょう?」


誰もいない廊下に、思いのほか声が響く。

二人の間に、また戦場の空気が戻っていた。


「俺が?君を囮に?」


アレントの眉がぴくりと動く。


「君を囮にしたことなんてない。なんなら、囮になろうとしていることに腹が立って、あんなところで隠れて待っていたわけだし」

「……え?」

「俺は本気で君に惚れている。分からなかったか?」

「え」

「元から本気で告白したよ。一世一代の大告白だ」

「……あー、あの、うん。そう……なのですか」


うまく返せない。

どう考えても嘘なのは分かっているのだが、作戦が終わったいま、まだその嘘をつく理由が皆目見当がつかない。

うまく出てこない言葉の代わりに、心臓の鼓動だけがうるさく鳴った。

アレントの目が細められる。


「君は、俺を“化かしていた”つもりだったんだな」

「……どういう意味ですか」

「本当に嘘をついていたのは、俺じゃなくて君だろう?」

「は?」

「君は“任務だと思ったから仕方なく付き合っていた”と言うのだろうが…… でも、この1か月の君のすべてが、本当に“演技”だったのか―― 君自身も分からなかったんじゃないか?」


ディーテの呼吸が止まった。

風が窓から吹き抜け、金の髪がふわりと揺れる。

アレントはゆっくりと近づき、ひどく低い声で、真っ直ぐに続けた。


「俺が君を口説くのに必死だったとき、君はその気持ちを弄んでいたわけだ」

「そ、そんな言い方……」


彼の影が近づく。 距離はもう一歩分。

ディーテは逃げようとしたが、足が動かなかった。

アレントは微笑んだ。

その笑みは、戦場のどんな光よりもまぶしくて、何よりも真剣に見えてしまう。


「君に純情を弄ばれた。責任を取って、俺と結婚してくれ」


廊下の静寂が、まるで時間を止めたように凍りついた。


「……は?」

「結婚してくれ。今すぐ」


ディーテは一瞬、何を言われたのか理解できず、次の瞬間には真っ赤になって叫んでいた。


「しょ、しょ、職場でプロポーズするんじゃない!!!」

「じゃあ、今度はプライベートな場所で言う」

「言わなくていい!!!」


彼女の叫びに、陽光がきらきらと窓を照らす。

その光の中で、ディーテの頬は誰よりも赤かった。






そんなプロポーズから、三つ季節が廻った頃。


王都広場は祝祭のようなざわめきに包まれていた。

空を舞う白鳩、掲げられた王家の旗。

兵士たちが整列し、群衆がざわつく中――壇上に立つ一人の青年が声を張り上げた。


「ディーテ・ラインハルトを――第2王子アレント・ルーベントの婚約者として発表する!」


歓声と驚愕が同時に爆発した。

ディーテは壇上で、顔を覆いたくなる衝動を必死にこらえていた。

隣ではアレントが満面の笑み。

その顔がまぶしすぎて、もはや見られない。


(どうしてこうなったのよ……)


後方の人混みで、カルロが遠くから親指を立てている。

クララ副隊長は頬杖をつきながら、にやりと笑っていた。

アレントはディーテの手を取ると、 観衆の前で堂々と掲げた。


金の髪が光を受け、風に舞う。

ディーテはため息をつき、顔を背けながら小声で呟く。


「ほんと……あなたって、どうしようもない」


けれど、その声には、ほんの少しの笑みが混じっていた。







人の波が歓声と拍手で渦を巻く。

王都広場の旗が風に鳴り、花弁が空を舞っていた。

そのざわめきから少し離れた石畳の上で、カルロは手を後ろに組み、

ひとり、晴れやかな壇上を見上げていた。


「そうは言っても――」


ぽつりと漏らす。


「まるで任務のために近づいたと見せかけたのは、殿下でしょう」


隣で立っていたアレントが、ゆるやかに笑った。

陽光に照らされた銀の肩章が眩しく光る。


「任務に見えるように仕立てたのは確かに、俺の方だ。 いい時勢が重なったな。 ちょうど俺が狙われていて、第5師団にも疑惑の目が向けられていた。まあ――普通に考えたら、そんな中で隠れているはずの第三王子が近づいてきたら、なんらかの任務に任命されたように見えるな」


カルロは苦い顔をしながらも、どこか納得したように頷く。


「……それは確かに」

「そんな勘違いくらいさせないと、真面目なあの子は俺の相手をしてくれないだろうからな。まあ、第5師団の上の方もそういうことだと思ってしまって、実際に彼女を囮にしようと考えだしたときは、本当にどうしてやろうかと思ったが」


アレントの口調は軽いが、その目の奥に宿る光は、柔らかくも確かなものだった。

カルロは呆れたように笑う。


「なかなかいい性格してますよね、殿下」

「君もね」


アレントは軽く笑い返し、視線を壇上へ向けた。

風が吹き、旗がひるがえる。

白い礼装に身を包んだディーテが、観衆の前で整然と立っている。

金の髪が陽を受けて光を返し、その姿はどんな宝石よりもまぶしかった。

「でも――」と、アレントは小さく続ける。


「――あの子にやられっぱなしだったのは嘘じゃない。惚れた方が負けだというなら、俺の完敗だよ」


その言葉と同時に、 ディーテがふとこちらを振り返った。

ほんの一瞬、視線がぶつかる。

ディーテは小さく眉をひそめ、照れ隠しのように顔をそむける。

それだけの仕草なのに、アレントの胸には笑いがこみ上げた。


「……鉄壁に見えて、あれで存外隙のある女だ」


呟いた声は風に紛れたが、

アレントの目は彼女をまっすぐに追っていた。


「だから、俺が守るしかないだろ」


穏やかで、決して口説きではないその声音。

カルロは肩をすくめ、軍人人生史上で一番の微妙な笑みを浮かべながら敬礼した。


「……どうぞ、お幸せに」


アレントは答えず、ただ静かに頷いた。

その目は、晴れ渡る空よりも澄んでいた。


そしてその視線の先――

壇上のディーテの横顔が、春の光の中でほんのわずかに緩んだ。



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