第九話 : 再びのケヤキ
三月、一日。月曜日。
国立歩夢は無機質なベッドの上で覚醒した。今日から高校生活最後の月曜日。彼の頭には、鷺沼京子の告白、そして彼の「透明人間」的な行動の真意という、過去のすべてが揃っていた。
もはや、京子に真実を語らせる必要はない。彼の目的は一つ。「空白の瞬間」を、彼の意識に刻み込むことだ。
彼は京子に電話をかける。
「鷺沼。今日、放課後。小三の時、俺たちが登った、あのケヤキの木がある公園に来い。そこで、すべてを終わらせる」
放課後。歩夢は、小学生の頃の記憶に薄く残る公園へと向かった。
そこには、京子が立っていた。そして、瑛人もいた。京子が、歩夢に「もう一度、すべてを話したい」と頼んだ結果だろう。
京子は、ケヤキの木を見上げた。
「歩夢くん。私は、この木に登るのが、あなたと瑛人よりずっと遅かった。でも、あなたは、いつも私に手を貸してくれて、『京子、焦るな。一番になることより、ちゃんと登り切ることの方が大事だぞ』って言ってくれた」
京子の瞳には、優しかった過去の歩夢の面影が映っていた。それが、彼女を突き落とすほどの劣等感に変わったのだ。
歩夢は、その木に触れた。ゴツゴツとした樹皮の感触が、彼の意識に、「記憶」を呼び戻そうとする。
「あの時、京子は俺を突き落とした。その瞬間、俺は何を『見ていた』?」
歩夢は、京子の目を見た。
「京子。お前が俺を突き落とした、あの瞬間のことを、もう一度、詳細に語れ」
京子は、目を閉じ、恐怖と罪悪感に苛まれながら、震える声で語った。
「あなたは私よりずっと上にいた。私が手を伸ばしても届かない高さ。私は……あなたの足元の枝を、木の棒で叩いた。あなたは、バランスを崩して、私の顔を一瞬だけ見て……落ちていったわ」
京子の言葉を聞きながら、歩夢は、ケヤキの木の根元に横たわった。
目を閉じ、意識を集中する。
京子の声が、彼の脳内で、過去の音響へと変換される。
バキッという枝の音。ヒュッという風を切る音。そして、彼の視界に、京子の「泣きながら歪んだ顔」が、鮮明な映像として蘇った。
それは、記憶喪失を克服した瞬間だった。
失われた記憶のパズルが、すべて繋がった。
彼は、自分が誰かに突き落とされたという事実、そして、その直前に京子の顔を見ていたということを、完全に思い出した。
彼は目を開けた。そこには、過去の自分を殺した京子の顔がある。
「……思い出したぞ、京子」
歩夢の表情は、怒りや憎しみではない、全てを理解した静謐さに満ちていた。
「俺は、お前を見ていた。そして、お前がなぜ、そんな顔をしているのかを、理解した」
歩夢はゆっくりと立ち上がった。
「この逆行は、俺への罰だと思っていた。でも違った。これは、失われた俺の人生を、お前と、そして俺自身に、もう一度、理解させるための猶予期間だったんだ」
彼が記憶を取り戻したという事実は、彼個人の意識に深く刻まれた。
そして、この記憶を取り戻した瞬間こそが、この逆行が彼に与えた「最大の贈り物」だった。
彼は二人に向き直った。
「ありがとう、瑛人。ありがとう、京子。これで、俺の空白は終わった」
歩夢は公園を後にした。彼は、ファミレスにも、コンビニにも寄らず、まっすぐに帰路についた。
部屋の隅の暗いテーブルで、弁当をかきこむ。テレビをつけ、GSを起動する。
いつもと同じ行動。だが、彼の心は、もう虚無ではない。
彼は電気を消し、無機質なベッドに体を沈めた。
――そして、翌朝。
アラームが鳴る前に目が覚めた。いつもの癖で手を伸ばし、枕元のテレビをつける。ニュース番組のオープニングテーマが流れ、アナウンサーの声が響く。
「……今日の天気予報です」
画面に切り替わった天気図を見ながら、アナウンサーが淡々と読み上げる。
「三月九日。関東地方は……」
三月、九日。
逆行は、終わった。




