第八話 : 輪郭
三月、二日。火曜日。
国立歩夢は無機質なベッドの上で覚醒した。今日の現実は、高校生活最後の火曜日。彼の心には、「鷺沼京子に突き落とされた」という重い真実が、鉄塊のように沈んでいた。
リセットされたはずの今日、彼は再び京子に電話をかけた。迷いは一切ない。彼の目的は、もはや記憶を取り戻すことだけではない。京子が背負った罪悪感の重さ、そして、彼女が自分を突き落とすほどに「嫉妬した過去の自分」の真実を掴むことだった。
ファミレスで京子と向かい合う。歩夢の口から出る言葉は、昨日と寸分違わない。
「結論から聞く。なぜ、俺を突き落とした」
京子は、歩夢がこの事実を知っているという運命に、諦めと深い悲しみを滲ませながら、昨日と同じ告白を繰り返した。
「歩夢くんは、いつも私より先を、上を見ていたから……」
京子の告白を聞き終えた歩夢は、初めて京子に過去の自分のことを尋ねた。
「俺は、どんな生徒だったんだ。事故の前は」
「……すごく、明るかった。誰にでも声をかける、クラスの中心で、透明人間なんかじゃなかった」
その時、歩夢は、この空白の三年間で誰も気づかなかった、『透明人間』としての最大の謎に切り込んだ。
「卒業前の思い出ビデオ。俺は、体育祭、文化祭、修学旅行のクラス集合写真、すべてに映っていなかった。なぜだ?」
京子は顔を上げた。その問いは、彼女の記憶にも鮮明に残っていたらしい。
「あれは……歩夢くんが、いつも、誰もやらないことを、たった一人でやっていたからじゃない?」
彼女は淡々と、しかし決定的な事実を語り始めた。
体育祭の集合写真:閉会式後、クラス集合写真を撮る際、あなたは皆が競技で使ったパイプ椅子を、誰にも言われず一人で倉庫に運んでいた。運搬を終えて戻ってきたときには、撮影が終わっていたのよ。
文化祭の集合写真:出し物前、みんなが準備で興奮している中、あなたは汚れたトイレを掃除していた。先生が集合を呼びかけたとき、あなたは手を洗っていて、間に合わなかった。
修学旅行の記念写真:記念碑の前でクラスが並んだとき、あなたは皆が捨てたゴミを拾い、近くのゴミ箱まではぐれて運んでいた。
京子の説明に、歩夢は強い既視感を覚えた。
(コンビニでいつも買う、一番安い弁当と、惰性でいつも買うエナジードリンク……)
彼は、高校三年間、誰の目にも留まらないところで、「誰もやらないこと」を惰性で続けていた。それは、彼の「透明人間」としての孤独な行動原理だったが、それはもしかすると、事故前の「明るい自分」が持っていた、無意識の「奉仕精神」の残響だったのではないか。
「卒業証書だけを手にした、何もなかった三年間」ではなかった。誰の記憶にも残らなかっただけで、彼は行動していた。誰にも求められないところで、誰にも気づかれないところで。
「……それが、俺の行動原理だったのか」
京子は首を横に振った。
「違う。事故前の歩夢くんは、みんなに感謝されていた。でも、事故後は、それを誰にも言えず、誰にも理解されないところで、一人で続けていた。それが、私たちが知る、『記憶喪失後の国立歩夢』の姿よ」
彼の虚無的な日常は、失われた「明るい自分」が周囲へ向けた無償の奉仕を、記憶喪失によって「誰にも見せない孤独な行為」へと歪めてしまった結果だった。
「歩夢くん。あのGSもそうよ」
京子は、歩夢の部屋に転がっているはずの古いゲーム機について口にした。
「小学生の頃、あなたはGSで百人一首のゲームにハマってた。すごく強くて、誰にも負けなかった。その『何かに熱中する力』だけは、記憶喪失でも消えずに残っていたんだと思う。ただ、それを人前で出す意味を、あなたは忘れていただけで」
百人一首大会で発揮した異常な集中力と強さ。あれは、「失われた過去の自分」が持っていた唯一の才能の残滓だった。
歩夢は、すべてを理解した。
「俺は、透明人間じゃなかった。ただ、孤独な行動を、誰にも見られずに続けていただけだったんだ」
真実を知った歩夢は、京子に問いかけた。
「京子。お前は、明日、また俺に『ごめんなさい』を繰り返すのか。俺は、その告白を受け入れたという『意識』だけを持って、明日を迎える。だが、お前はすべてをリセットされ、またこの一日に怯えることになる。それが、お前の『罰』なのか」
京子は、静かに頷いた。
「そうよ。私は、この罪を背負って、ずっとこの時間が巻き戻ればいいと思っていた。でも、本当に巻き戻ってしまった。これは、私への罰なの」
歩夢は、席を立った。明日、この告白はリセットされる。
彼は電気を消し、無機質なベッドに体を沈めた。
――そして、翌朝。
アラームが鳴る前に目が覚めた。テレビをつける。ニュース番組のアナウンサーの声が響く。
「三月一日。関東地方は……」
三月、一日。
国立歩夢の意識には、「孤独な行動の真意」と「京子の罰」という、「空白の過去を埋める決定的な鍵」が、冷たく、そして鮮明に刻まれていた。




