第六話 : 痕跡
三月、四日。木曜日。
国立歩夢は無機質なベッドの上で覚醒した。今日の現実は、高校生活最後の木曜日。彼の頭には、高木瑛人から得た情報、百人一首での敗北の感触、そして何よりも「鷺沼京子」という名前が、冷たい炎のように灯っていた。
「鷺沼京子……3-Aの生徒だったはずだ」
彼の「透明人間」としての三年間で、彼女とはクラスが違うだけで、ほとんど会話した記憶がない。しかし、彼女の席が窓際の一番後ろだったこと、休み時間にいつも静かに本を読んでいたことなど、誰の記憶にも残らないはずの「背景」としての情報だけは、歩夢の頭に鮮明に残っていた。
逆行を繰り返すうちに、彼の意識は一つの結論に達していた。
> 「リセットされる前に、空白のパズルを完成させること」
歩夢はいつもの惰性を捨て、初めて学校へ「目的」を持って向かった。
体育館で行われる卒業式予行練習の最中。全員が壇上の先生に注目しているこの時間こそが、透明人間である歩夢の最も得意とする「情報収集の時間」だった。
彼は静かに席を立ち、3-Bの教室を出る。3-Aの教室へ向かい、鷺沼京子の机を探す。彼女の席は窓際の一番後ろ。机の引き出し、ノートの端。彼女が残した、「リセットされても持ち越せない」具体的な「痕跡」を探す。
引き出しには、次の進学先である大学のパンフレットが一枚、挟まっていた。
「T大……文学部。そして、連絡先」
パンフレットの隅に、彼女の筆跡で書かれた小さな電話番号を見つける。歩夢は、その番号を脳裏に焼き付けた。
予行練習が終わり、教室に戻ると、歩夢はすぐに自分の席に着いた。誰一人として彼の行動を気に留めた者はいない。透明人間としての利点は、今回も彼の情報収集を完璧にサポートした。
下校時間、歩夢はすぐに携帯を取り出し、脳裏に焼き付けた番号をダイヤルする。
「……もしもし」
電話口の向こうから、静かで、しかし凛とした女性の声が聞こえた。鷺沼京子の声だった。
「……国立歩夢だ」
彼の低い声に、電話口の向こうで一瞬の沈黙が走る。
「歩夢……くん? なんで、私に……」京子の声に、微かな動揺と、長年の月日がもたらした「空白」を感じさせる響きがあった。
「聞きたいことがある。小学校三年の時の、事故のことだ。お前と、俺と、瑛人の三人でいた、ケヤキの木のことについてだ」
歩夢の言葉は、まるで彼の心臓の鼓動のように抑揚がなかったが、その一言一言は、電話の向こうの京子の心に、決定的な衝撃を与えた。
「あなた……覚えてないはず、じゃなかったの?」
京子の声が、震えた。
「俺は、忘れてない。お前が、それを知っていることもな。会って話がしたい。今日、今からだ」
歩夢は、一方的に、ファミレスを指定した。過去の自分を嘲笑うように、再び瑛人との再会に使った、あそこへ。
ファミレスの席で待っていると、少しして京子がやってきた。私服姿の彼女は、歩夢の記憶の中の「教室の隅で本を読む生徒」ではなく、まるで過去の記憶から飛び出してきたような、「生きた人間」としてそこにいた。
「まさか、あなたが声をかけてくれるなんて……」
京子の瞳には、安堵と、歩夢に対する強い戸惑いが混ざり合っていた。
歩夢は本題に入る。
「結論から聞く。俺が記憶喪失になった時、お前は何をしていた」歩夢の問いは、尋問のようだった。
京子は深いため息をつき、話し始めた。
「私は、事故の瞬間を見ていない。ケヤキの木の下で、瑛人とじゃんけんをしてて……」
彼女の話を聞くうちに、歩夢の心の中で、一つの決定的な「違和感」が生まれた。それは、瑛人の証言と、京子の証言の間の、わずかな「矛盾」だった。
「待て。瑛人は、『俺たちが誰が一番上まで行けるか競争していた』と言っていた。お前は、『木の下でじゃんけんをしていた』と言っている。どちらかが、嘘をついている」
京子の顔から、一瞬にして血の気が引いた。彼女は震える声で、テーブルに視線を落とした。
「そんな……」
彼女は、何か「真実」を知っている。そして、それを「隠している」。
歩夢は確信した。
「すべてを話せ、鷺沼。お前の知っている、事故の真実を」
歩夢の冷たい探求心は、彼女の心の奥底に封印された、「空白の真実」へと迫っていた。
> 「明日にはすべてがリセットされる」という事実は、歩夢に「ためらい」を許さなかった。彼は、この一日に、京子のすべての情報を聞き出すつもりだった。
彼は電気を消し、無機質なベッドに体を沈めた。
――そして、翌朝。
アラームが鳴る前に目が覚めた。テレビをつける。ニュース番組のアナウンサーの声が響く。
「三月三日。関東地方は……」
三月、三日。
国立歩夢の意識には、「鷺沼京子との矛盾」という名の、「空白の真実」を照らす、新たな地図が刻まれていた。




