第五話 : 百人一首
三月、五日。金曜日。
国立歩夢は無機質なベッドの上で覚醒した。今日の現実は、高校生活最後の金曜日。昨日、高木瑛人から得た「記憶喪失」の事実は、今も彼の意識に残っている。
小三の事故で過去のすべてを失った。あの時の自分に何が残っていて、何が失われたのか。あの事故の前に自分と鷺沼、瑛人との間に何があったのか。それらを知る「記憶の地図」は手に入れたが、肝心の具体的な行動指針はまだ見えていない。
彼は、いつもと同じように学校へ向かう準備を始めた。今日は授業らしい授業はなく、卒業前のレクリエーションとして百人一首大会が体育館で開催される日だ。
「百人一首か」
一週目の『今日』、歩夢はこれに何の関心も持たず、適当に参加して早々に敗退した。しかし、彼の古い携帯ゲーム機GSには、小学校の頃にやり込んだ百人一首ゲームのデータと、そこで徹底的に叩き込まれた暗記の技術が残っている。札の位置、読み手の癖、決まり字。それは、彼の「空白の過去」とは関係なく培われた、単なる知識と反射の集積だ。
「どうせ、明日にはリセットされる。なら、この無意味な繰り返しの中で、一度本気を出してみるか」
『透明人間』として生きてきた自分が、この世界にどれだけ波紋を起こせるのか。その探求心を持ち、歩夢は体育館へと向かった。
百人一首大会は、全四クラス、合計百二十八名が参加する完全トーナメント形式だ。七回勝てば優勝。特に賞品があるわけでもなく、卒業前の「思い出づくり」以上の意味はない。だが、歩夢にとってこれは、彼の「意識」に持ち越された能力を試す実験だった。
一回戦、二回戦、三回戦。
歩夢は席に着くと、周囲の空気を一切無視して札の配置に全神経を集中させた。GSの百人一首ゲームの「配置記憶モード」で鍛えられた力が、現実の畳の上で蘇る。読み手の歌い始めの音、札の位置から決まり字を予測し、彼の指は反射的に動いた。
「っ速い!」「あいつ、誰だ?」
周囲の生徒たちが、徐々に歩夢の異様な集中力と速度に気づき始める。三年間、誰の記憶にも残らなかったはずの『透明人間』が、静かに、圧倒的な強さで勝ち進んでいく。勝つ度に、彼の席の周りに集まる視線が増え、それは彼にとっての初めての「違和感」だった。
四回戦。
歩夢は体育館の隅の特設コートに案内された。周囲の喧騒が遠のく。
対戦相手は、三年C組の遠藤 茜。学年でトップクラスの優等生であり、文化系では毎年必ず何かしらの賞を取る才女だ。その整った顔立ちと、常に冷静な佇まいから、彼女を知る者はみな一目置いている。
「よろしくお願いします」
茜は歩夢に淡々と礼をした。その瞳には、彼が『透明人間』であるという認識は一切なく、ただ単に「百人一首の対戦相手」として見つめている。
歩夢も無言で応じ、札を配置する。
試合が始まると、歩夢の反射速度が、三回戦までとは比べ物にならないほどに遅れた。茜もまた、彼と同じように札の配置を記憶し、決まり字を聞くや否や、迷いなく札を払う。
「ちっ」
歩夢の指が、わずか半歩遅れる。彼がGSで培った速度は、どうやら「過去」の百人一首の経験に裏打ちされた、本物の才覚には敵わないようだった。歩夢が五枚差をつけていると場面で、一瞬の判断ミス。
「みかき、もり……」
先に手を伸ばした茜が、微かな差で札を奪う。
「……参りました」
最終的に、二枚差で歩夢は敗北した。
歩夢は席を立ちながら、茜に目を向けた。
「俺は……国立歩夢だ」
茜は一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに冷静な微笑みを浮かべた。
「知っています。次も負けませんよ。」
歩夢は、初めて自分の行動が他者に「認識」されたことと、それでもなお「結果」はリセットされるという冷たい法則を同時に理解した。
彼は体育館を出て、いつも通りの惰性的な日常へと戻る。
帰宅し、部屋の隅の暗いテーブルで、弁当をかきこむ。テレビをつけ、GSを起動する。
百人一首の記憶は鮮明だ。遠藤茜の冷静な顔、彼女に敗北した時の畳の感触。
「本気を出しても、この世界を変えることはできない。だが、経験は積み重なる」
彼の意識には、新しい「情報」が刻まれた。
彼は電気を消し、無機質なベッドに体を沈めた。
――そして、翌朝。
アラームが鳴る前に目が覚めた。テレビをつける。ニュース番組のアナウンサーの声が響く。
「明日は、三月四日。関東地方は……」
三月、四日。
国立歩夢の人生は、空白の過去へと、さらに一歩踏み込んでいた。




