第四話 : 空白の残響
三月、六日。日曜日。
逆行した事実は、過去の行動のすべてをリセットした。しかし、国立歩夢の心には、昨日瑛人の口からこぼれた言葉の残滓だけが、まるで砂浜に残された足跡のように刻まれていた。
「小三の時の決定的な出来事」「鷺沼京子」「明るかった過去」。
歩夢は、いつものように暗い部屋のベッドで覚醒し、天井を睨んだ。昨日の「選択」が無意味に終わったことを自嘲する一方で、彼の心は一つの衝動に駆られていた。
「もう一度、瑛人に会う。聞くべきことは、まだある。昨日の俺は、肝心なことを聞き出す前にリセットされた」
彼は携帯を手に取った。高木瑛人の連絡先から、電話をかけた。
「....もしもし、瑛人?」歩夢の低い声は、感情を抑圧しているようだった。
電話口の向こうで、瑛人の明るい声が響く。
「お、歩夢じゃん! ちょうど良かった。明日にでも飯に誘おうと思ってたんだ」
「.....昼飯、付き合ってくれないか。ファミレスで」
「マジで!? いいね! 行こう行こう! ちょうど俺、暇だったんだ」
ファミレスの席に着く。目の前の瑛人の笑顔も、彼の口から出る言葉も、すべてが既視感に満ちている。歩夢は確信していた。俺が昨日と寸分違わぬ行動をすれば、瑛人の反応もまた寸分違わぬものになる、と。
「最近元気してる? 歩夢」
「……なんとか、やってる」
「なら良かった。心配してたんだよ。俺も、鷺沼も」
昨日と同じ会話の繰り返し。歩夢は、この会話の流れが「空白」に繋がる唯一の道だと知っていたから、すぐに核心に踏み込んだ。
「.....瑛人。小三の時の『あのこと』。詳しく話してほしい。何があったんだ」歩夢の低く、暗い声が、ファミレスの喧騒の中で妙に響いた。
瑛人は人懐っこい笑顔を消し、深い悲しみを帯びた表情に変わった。その表情は、昨日と全く同じだ。
「歩夢……やっぱり、覚えてないんだな」
彼はため息をつき、静かに語り始めた。
「小三の秋だった。俺と、お前と、鷺沼の三人で、公園の大きなケヤキの木に登ってたんだ。誰が一番上まで行けるか、競争してた」
話を聞きながら、歩夢の脳裏に、公園の砂の感触、ケヤキの木の年輪が刻まれた樹皮のゴツゴツとしたテクスチャが、鮮明に蘇る。しかし、それらは断片的な「感覚」だけであり、意味のある「記憶」には結びつかない。
「その時、お前が枝から足を滑らせたんだ。結構な高さから、頭から落ちた」
瑛人の声が震えた。
「救急車で運ばれて、お前は一命を取り留めたけど……医者から言われた。『事故以前の記憶が、ほとんど失われている』って。記憶喪失だった」
記憶喪失。その言葉が、歩夢の空白の人生を象徴する、決定的なピースだった。
「その事故以来、お前はまるで別人のようになった。入院中は混乱してずっと暴れてたって聞いた。退院してからも、以前の『明るい歩夢』はどこにもいなかった」
瑛人は悲しげに、歩夢の目を真っ直ぐに見つめた。
「両親も、その現実が受け入れられなかったんだろう。お前はすぐに祖父母の家に預けられて、俺たちとは疎遠になった。それからお前は誰とも関わらない、まるで『透明人間』みたいになってて……俺も、鷺沼も、声をかけられなかった」
国立歩夢の「透明人間」としての三年間。それは、高校生活三年間ではなく、小三の事故から始まる、長い空白の残響だったのだ。
進学先もなければ、就職先もない。今まで誰の記憶にも残らない。なんのために生まれてきたのか。その答えは、事故で失われた「過去の自分」の中にあった。
歩夢は、すべてを悟った。
「この逆行は、ただの罰じゃない。俺の空白を埋めるための猶予期間だ。リセットされる明日が来る前に、失われた過去を取り戻せと、この世界が促している」歩夢の心に、冷たい確信が生まれる。
「……そうか。分かった」歩夢の声は、感情の読めない平坦なトーンだったが、その瞳の奥には、昨日までの「惰性」とは違う、冷たい探求の光が宿っていた。
歩夢はそう言って席を立った。
帰宅し、部屋の隅の暗いテーブルで、弁当をかきこむ。テレビをつけ、GSを起動する。
いつもと同じ行動。だが、歩夢の心は、すでに過去をたどる旅へと出発していた。
(鷺沼京子。俺に声をかけられなかった、もう一人の友達)
(小三の秋。記憶喪失になった『あの日』)
(俺の失われた『明るい過去』)
彼は電気を消し、無機質なベッドに体を沈めた。
――そして、翌朝。
アラームが鳴る前に目が覚めた。テレビをつける。ニュース番組のアナウンサーの声が響く。
「三月五日。関東地方は……」
三月、五日。
国立歩夢の人生は、空白の過去へと、さらに一歩踏み込んでいた。彼の意識には、瑛人から得た「空白の残響」という名の、確かな記憶の地図が残されていた。




