最終話 : 赦し
三月、九日。卒業式当日。
国立歩夢は、今日が「人生の終点」ではないことを知っていた。
彼は、記憶を取り戻した「新しい自分」として、再びこの日を迎えた。
いつもの癖で手を伸ばし、枕元のテレビをつける。画面の隅の日付は、間違いなく「三月九日」。
アラームが鳴る前に目が覚める。いつもの行動。だが、今日は違う。彼の心は、「空白」ではなく、「記憶」で満たされている。
高校生活最後の登校。
彼は、上履きに履き替え終わると、教室へ向かう途中でゴミ捨て場の前を通りかかった。
分別用のゴミ箱の一つが、パンパンに膨れ上がっており、誰かがその上に、分別されていない弁当の容器を乗せていた。以前の彼なら、それを「誰にも言われず片付ける」という無意識の惰性で行動していた。
しかし、記憶を取り戻した今の歩夢は違った。彼は、立ち止まった。
彼は、そのゴミ箱に手を伸ばす代わりに、近くにいたクラスメイトの男子に声をかけた。
「おい、佐藤。そのゴミ、分別が違うぞ。こっちの箱に入れろ」
彼の低い、しかし確かな声に、佐藤は驚いて振り返った。
佐藤は、三年間、歩夢に声をかけられたことなどなかっただろう。一瞬の戸惑いの後、佐藤は少し気まずそうに、言われた通りにゴミを分別し直した。
「誰の記憶にも残らない、孤独な善行」ではなく、「他者と関わり、変化を生み出す行動」。
歩夢は、初めて「透明人間」を卒業する一歩を踏み出した。
卒業式が始まる。
体育館に入ると、歩夢はすぐに鷺沼京子の姿を探した。
歩夢は、彼女にだけ聞こえる声で続けた。
「この逆行は、俺が、お前を赦すための時間だったんだ。お前の罪も、俺の空白も、全部わかった。俺は、お前を赦す。だから、お前も自分を赦して、前を向け」
歩夢の赦しは、京子の罪の意識を打ち砕き、未来へ進む自由を与えた。
卒業式は滞りなく終わった。
みんなは泣きじゃくり、抱き合い、打ち上げへと流れていった。
歩夢は、卒業証書だけを手にして、家に帰った。
親からの仕送りを崩し、コンビニで一番安い弁当と、惰性でいつも買うエナジードリンクを買う。
帰宅し、部屋の隅の暗いテーブルで弁当をかきこむ。
彼は、古いテレビをつけてニュースを流し、あとは小学校の頃に流行っていた携帯ゲーム機、GSを引っ張り出して電源を入れる。
古いドット絵が虚しく点滅する。しかし、彼はそのGSの電源を切り、棚の中に入れた。
「もう、過去の惰性にすがるのは終わりだ」
彼は、初めて就職情報誌を手に取った。
「なんのために生まれてきたのか、なんのために高校三年間を過ごしたのか」
その答えは、「これから、見つける。」
彼は、エナジードリンクを一口飲む。
「まあ、今日も何もなかったな。……でも、明日がある。」
彼はそう自嘲して、電気を消し、無機質なベッドに体を沈めた。
国立歩夢の人生は、卒業式翌日の朝、何の予兆もなく、未来へと舵を切った。




