初恋
幼い頃、近所の子供が遊びに来た。
トレーナーを夢見るその子は、同じ街にシンボリ家のグラウンドがあると知って、見学に来たのだ。
私はその子によく懐いて、毎日一緒にグラウンドに出たものだ。
たぶん、初恋だった。
とは言っても、私は小学一年生で、彼は中学生ぐらいだったので、彼の方は私を意識すらしていなかっただろう。
トレーナーになる夢を語る彼と、シンボリ家を背負うアスリートに憧れた、当時の私はすぐに仲を深めた。
彼は将来、私のトレーナーになってくれると約束してくれた。
二人で毎日トレーニングごっこ遊びに興じたものだ。蜜月だったと思う。
ある日、彼が来なくなった。
当時の私は知るよしもなかったが、夏休みが終わり、彼が地元へと帰ったのだ。
私は泣いた。家族に事情を説明されても、涙は止まらなかった。
別れが悲しくて泣いたのではない。別れを告げて貰えなかったのが悲しかったのだ。
彼にとって、私はその程度だったのだと思った。
愛とも恨みとも判別がつかない感情で、胸が破裂しそうだった。
しばらくして涙が枯れた頃、私は走る事に全力を注いだ。ただひたすらに鍛練に打ち込むことで、彼を忘れたかった。
数年後、私は小学高学年にして、三女神宗教団体の大会を視野に入れるほどの、優駿と呼ばれるようになっていた。
厳しい鍛練を己に課したことで、彼のことは、時折夢に出る程度に忘れることが出来ていた。
そんな時、彼が再び現れた。
受験を控え、志望する体育大学について話を聞きに、シンボリ家を訪れていた。
今までのどんな模擬戦よりも胸が高鳴り、呼吸が乱れたことを覚えている。
彼を憎んだ日もあったが、やはりこの恋心は偽れなかった。
せっかく消えかけた胸の内の灯が、まるでガソリンを注がれたように燃え上がった。
緊張で上手く喋れないながらも声をかけると、彼が気さくに挨拶をしてくれた。
彼は私を覚えていた。
ルナちゃん、と当時の愛称で、また私を呼んでくれた。片目を閉じてウインクしたりと、ややキザで、それでいて詫びるような、困ったような雰囲気で接してきた。
そのせいか、何故別れを告げてくれなかったのかと、問い質すことが出来なかった。
私は恋する乙女のように、彼を見つめることしか出来なかった。
許そう。確かにあの頃は泣き腫らしたが、きっと彼にも事情があったのだ。
そうやって、自分を言いくるめる言葉が無限に溢れてくる。
かつての悲しみよりも、これから彼と過ごす日々に、期待で胸を膨らませていた。
受験勉強の傍ら、彼は時折シンボリ家を訪れては、事業部の人達に話を伺っていた。
私はそんな彼を邪魔しないよう、遠くから見つめているだけだった。
そんなことだからか、再び彼はここに現れなくなった。
やはり私に何も告げず、彼は大学に合格し、また去っていった。
きっと私が弱いからだ。身も心も。アスリートとしてもだろう。
なので、走りだけじゃなく、品行や学業も極めなければいけないのだろう。
彼は、私との約束を守るためのキャリアを、確実に積んでいる。
ならば私も、学園に入学するまでにもっともっと、己を高めなければならない。
今のままでは、彼に選んでもらえないかもしれない。指導において、口頭での説明を理解出来ないようでは、彼を困らせてしまいかねないだろう。
二度目の別れに、涙はなかった。
ただ少しばかりの悲しみと、自分を鍛えるために燃える情熱だけがあった。
数年が経ち、風の噂で彼が学園に赴任したと聞いた。
ちょうど入学を控えていた私は、神の定めた運命だと感じた。
君は私との約束を覚えているだろうか……。
私は君にふさわしいアスリートとなるために、今日まで一度も弱音を吐いては来なかったんだよ。
だが、私の学園入学と入れ違いに、彼は師事しているベテラントレーナーと一緒に、フランスに旅立ってしまった。
砕け散った己の破片が零れないように、皇帝という型に嵌めて過ごした。
生徒会長に就任し、模範となるよう自らに厳しく振る舞い、誰にも負けないように鍛練を続けた。
彼がフランスから帰ってきた時に、玉座に君臨する私を、見てもらおうと思ってのことだった。
そんな私の姿を見て、畏れる者も多いが、声をかけてくれる友達も出来た。
今の私は、君によって作られた、と言っても過言ではないだろう。
「アタシの両親ってさ、元担当トレーナーとアスリートだったんだ。お互い初恋だったらしいんだけどさ……」
今日もこうして何十回目かの話をして、友人が背中を押してくれる。
教師から生徒会に回ってくる情報に、シンボリ家を通した海外遠征の情報、友人であるメジロ家やサトノ家の方々による情報網を駆使して調べた、君の帰国の日取りをカレンダーに記し、今か今かと待ちわびた。
そして今日、帰国した彼が学園にやってくる。
最後に会った時より成長した姿だが、見分けられるだろうか。君は私のことをどう思っているだろうか。
もし、覚えていてくれるなら、もう過去のことは不問にしようと思う。
数年ぶりの日本の春は、少し肌寒く感じた。
お世話になっている先輩に付き添い、フランスで学ぶ機会を得た僕は、先日長い研修を終えて、今日ようやく一人前のトレーナーとしてデビューする。
長く険しい道に耐えられたのも、ルナちゃんのおかげだった。
子供の頃に出会った彼女との約束が、辛い大学受験も、トレーナーとなってからの見習いの日々も、心を支えてくれた。
たぶん、初恋だった。……いや、ロリコンではない。
彼女は学園に居るだろうか。もし居たなら、そして約束を覚えているなら、僕の最初の担当は彼女がいいな。
なんて思っていた頃、唐突に声をかけられた。声の主はシンボリ家のお嬢さん、噂に聞く皇帝様だ。
名門の出で現在も不敗の優駿、品行方正で学業にも明るく、生徒会長もこなす超人だ。
僕にとって、雲の上の存在である。シンボリ家の事業部の方々と話をしたこともあるが、シンボリ家のお嬢様方は別格だ。オーラが違う。
そんな彼女が廊下で僕を呼び止めるものだから、最初は何かの間違いかと思った。
片や学園の有名人、片や新人トレーナー。不釣り合いにも程がある組み合わせだ。
「あ、あの……、君はまだ担当は居なかったと記憶している。私もトレーナーはまだだ。よ、よければ私と専属契約を……」
「すみません。ちょっと、先約が……」
咄嗟に謝ってしまった。
あの生徒会長が初対面の僕に契約を申し出るなんて、あり得ないことが起きて、頭が回らなかった。
専属契約と聞いて、ルナちゃんを探し出してもいないのに、辞退を申し出てしまったのだ。
恐る恐る生徒会長の方を見ると、顔色が真っ青になっていた。作り笑いのまま、足が生まれたての子鹿の如く震えている。
大丈夫かと手を差し伸べると、するりとそのまま膝から崩れ落ちてしまった。
「本当に申し訳ありませんが、先約との約束事があるので……」
「ルナちゃん!?」
僕の言葉に驚きからか、すっとんきょうな声を出すシンボリのお嬢さん。
有名人の尋常ではない様子に、周りを歩いていた生徒達も、こちらをじっと見つめている。
「ちょっ、ちょっと待ってて貰えるかな、ここで騒ぐと……」
「ま、待つ!? これ以上、私に待てと言うのか……。今、君を逃したら次は何年後なんだ?!」
その後、彼女が僕の足にすがり付いて悲しみに暮れるので、呆然としていたところで、向こうの方から生徒会の副会長が、走ってきているのを見たところまでは覚えている。
あれから、僕達は初対面ではなく、僕の探していたルナちゃんは、彼女であったと誤解が解け、僕と彼女は専属契約を結ぶ事となった。
ルナちゃんはとても優秀で、僕も彼女に釣り合うトレーナーとなるべく、毎日勉強中である。
再会した日は取り乱していた彼女も、今ではすっかり落ち着きを取り戻して、まるでいくつも年下とは思えないほど大人びた振る舞いを見せる。
むしろこちらが彼女の素で、あの時は何か体調でも悪かったのかもしれない。
よく新人が専属契約をすると苦労する、と先輩達に言われていたが、今のところはむしろ僕が迷惑をかけていないかと心配するほどに、手のかからない子であった。
ただ、一つ困ったことがあるとしたら、時折、もう手放すつもりはないとか、シンボリ家に興味はないか、と、よく分からないことを耳打ちされるくらい。
……寝てる時に囁くこともあるなぁ。
興味なかったら、シンボリ家の事業部に出入りしてないんですよね。いやまぁ、偶然なんだけど、言ったら怒られそうだから黙っておこう。




