雨の降る日に
気が付けば高校三年生、夏。
またしても人生の分岐点に立たされることとなる。正直、まだ生きているとは思ってもみなかった。もっと早いうちに、何年も前にこの世界から消えているはずだった。それがどうだろう、まだのうのうと生きているではないか。こうやってソファに座り、崩した姿勢でパソコンを叩く。窓に映った雲ひとつない晴天から目をそらすようにしてまた画面を見る。増えていく文字、消された文字。どれも記憶には残らない。ああ、もうこんな時間かと肩を落とすのが日常だ。
段ボールに飲み込まれたプラスチック製の棚を見つける。すっかり埃を被っていた。引き出しを開けると懐かしいものが続々と救出された。おままごとで使っていた財布代わりのポーチ。一段目のファスナーを開けてみるとなぜか図書カードの包装紙が入れられていた。小学生の私はなんでも取っておく癖があったから、きっとそのせいで取り残されていたのだろう。
二段目のファスナーを開けてみると小学二年生と小学三年生の頃の担任の先生から届いた暑中見舞いと年賀状が入っていた。まだあったのか、と少し複雑な想いを覚える。シミができたハガキは古い紙の匂いがした。十年も経てば古くなるのか。そっとファスナーを閉めてまた見つける日が来ることを願う。
二年生の頃の担任はどうも私のせいで特別支援学校の教員の資格を取ったらしい。本当かどうかは知らないが、もしそうなら申し訳なく思う。確か担任は当時まだ二十代前半だったはずだ。小学校教諭になったばかりの先生に、私はどれだけの迷惑をかけただろう。「曜」だとか画数の多い漢字を書けなかった私は今では米粒より小さい文字を書くこととなった。それを知ればきっと驚くのだろう。丁度あれから十年経つということだが先生はまだ三十代前半ということになる。若い。
三段目のファスナーを開ける。おもちゃの紙幣に小銭が出てきた。万札に二千円札。まて、二千円札?これが本物であったなら、なんて想像してしまう。そんなことを想像してしまうあたりそういう人間になってしまったということだ。おもちゃの札束は小さく薄っぺらい。何の価値もない。まるで自分のよう。思い出はまた仕舞っておく。捨てたのは包装紙だけだ。
やっと人に感謝できるようになってきた。今までウザいだとか思ってきた自分を殴ってやりたい気分になる。人は一人では生きていけないと信じたくなかった。だが本当に人は一人では生きていけないのだ。今もまだ座りっぱなしのソファを作ったのは誰だ。買ったのは誰だ。今目の前にしているパソコンもこの家も誰かがつくりだして、誰かが買って。それを私が使っている。一人では使えるどころかつくりだすこともできない。やっぱり人は一人では生きていけない。目の前に現れたスイカを見ながら。
今までに出会ってきた人はいい人ばかりではなかった。もちろん悪い人も居た。傷付けてくる人も居た。だがそれも人生、それが人生。そんな出来事が人を強くして生きる糧になる。絶望に満ちていた過去も、お先真っ暗ではないかと嘆く現在も。先の見えない未来を歩くのは足が竦んでしまう。それでも歩いていく。走るのは苦手だから歩く。わざわざ苦手なことをして心を疲弊させるのはよろしくない。
高校三年生、夏。
雨の降る日でもないのにタイトルを設定して、この文章は何分かで読み終えられるようなものを一時間かけて書いている。無駄だと思うか?自分はそうは思わない。ただぼーっとSNSやら動画やら見るより、文字に起こすほうが何倍も楽しいではないか。
人生の分岐点に立った今、三年前と同じように人生の案内板が欲しいと思っている。道に迷っていても自分の中では進みたいものがすでに決まっていたりする。自分の中で、なにを大切にできるのか。なにを紡いでいけるのか。拙い文章に人生の一部をくれた貴方に感謝の意を表す。ありがとう。