第一話 : 眠らぬ街
森を抜けた先には、高い石壁に囲まれた街があった。
その名は《フィーン》。
交易と信仰の中継地として古くから栄えた中規模都市で、中心にはかつて聖堂があったという噂だけが残る。
夜明け前の空気は乾いていた。吐く息は冷え、歩くたびに地面の砂埃が舞う。
リュークはマントの裾を引き寄せながら、街の外縁部へと向かう細い獣道を踏みしめた。
「……騒がしい街だ」
遠く、城壁越しに灯りが見える。
それが朝の光ではないことを彼は知っていた。この街では、夜でも灯が消えない。
眠らない者たちが、常にどこかで金を動かし、欲望が血のように循環している。
だからこそ、追われる身にとっては都合がいい。
喧噪の中では、名前も過去も曖昧になっていく。リュークのような男にとって、それは一つの“隠れ蓑”だった。
街の東門――商隊が出入りするための門は閉じていたが、門番は眠っていた。
いや、見張っていたふりをしているだけかもしれない。銀貨を投げ入れると、何も言わずに門がわずかに開く。
リュークは低くフードを被り、ひとり街へと踏み込んだ。
※
外周の家々は古く、建材も不揃いだ。石と木を無理に継ぎ足したような、傾いた家が連なっている。
道路には朝の商売を始める準備をする者、荷を積む旅商人、何をしているのか分からない男たち……さまざまな人種と境遇が入り混じる。
この街に来るのは初めてだった。
それでも、リュークは迷いなく歩いた。
彼には「迷うこと」がない。ただ、目的の場所まで、必要最低限の情報と予測だけで進む。
歩きながら、ペンダントの火種を指で軽く撫でた。
燃えているわけではないが、意識を向けるたびに確かに“反応”がある。
死者の祈りが集まる場所は、時にこうして彼を導いてくれるのだ。
そして、その火は――街の奥、かつて礼拝堂だったという廃れた建物の方角を示していた。
「……あそこか」
彼は街の外周から、さらに奥――貧民窟へと足を進める。
建物の密度が増し、路地が狭くなっていく。
垂れ下がる洗濯物、水たまり、口喧嘩の声。鼻を突く酒と腐肉の匂い。
スラムは“生きていた”。どこか森と同じように、静かに、だが確かに息づいている。
そんな場所で――突然、声が飛んだ。
「おーい、そこの君! 旅人でしょ!」
足を止める。声は背後、少し離れた石段の上からだった。
リュークは振り返る。そこに立っていたのは、年の頃は彼と同じくらいの少女だった。
赤みの強い金髪を後ろで束ね、白と青の刺繍が施された服を着ている。場違いなほど明るい笑顔で、こちらに手を振っていた。
「この辺り、危ないよ? 案内しようか?」
リュークはしばらく黙っていた。
(……誰だ、こいつ)
声をかけてくる者のほとんどは、何かを求めてくる。
金か、情報か、それとも、ただの好奇心か。
だがこの少女――何かが違った。
真っ直ぐすぎる視線。その奥に、言葉では計れない“何か”がある。
「……放っとけ」
短く言って、リュークは歩き出した。
しかし、彼女はついてくる。
「名前、なんて言うの?」
「言う必要あるか?」
「じゃあ、私が勝手に呼ぶよ。スラム通りを抜けるの、ちょっと大変だし!」
鬱陶しい。だが、引き剥がすほどの理由もない。
それに――ペンダントの火は、まだ街の奥へと脈打っていた。
「好きにしろ」
「やった、じゃあ案内するね!」
そうしてリュークの横を歩く彼女は、リーネアと名乗った。
彼女の存在が、この街でのリュークの運命にどう関わるのか――その時、本人たちはまだ知る由もなかった