七
算盤が床に落ちた瞬間、特殊な仕掛けが作動する。玉の中に仕込まれた火薬が連鎖的に発火し、更なる煙と共に、甘い香りが部屋中に充満していく。
「な、何だ、この匂いは...」
追手の声が段々と朦朧としていく。算盤の玉に仕込まれていたのは、特殊な眠り薬。生姜と大蒜を原料とした刺激臭で煙幕の存在を隠し、その中に清明散という特殊な薬を混ぜ込んであった。
道三は素早く、商人用の合羽を羽織る。その裏地には、特殊な加工が施されている。火薬の煙を通しにくい油で処理され、さらに内側には薬品の効果を防ぐ、備長炭の粉末を縫い込んでいた。
「むぅ...」
追手の動きが鈍くなる中、道三は障子を蹴り破って縁側に出た。裏庭には、既に二人の武士が立っている。だが、彼らも薬の効果で、既にふらつき始めていた。
「そこを...」
刀を抜こうとする武士の動きは、明らかに鈍い。道三は薬箱から、最後の切り札を取り出す。「響き玉」と呼ばれる特殊な玉だ。
地面に投げ付けられた響き玉が、甲高い音を立てて炸裂する。通常の爆竹とは異なり、特殊な調合により、人の平衡感覚を狂わせる周波数の音を発生させる。
「うっ...」
武士たちが平衡感覚を失って躓く隙に、道三は井戸に向かって駆け出した。清吉が残した竹ひごは、まだ井戸の中に垂れ下がったまま。
「道三様!」
井戸の底から、清吉の声が聞こえる。既に地下道への入り口を開けているのだろう。
道三は竹ひごを掴み、井戸を滑り降りていく。合羽の裾が、水音を最小限に抑える。井戸の中ほどには、普段は見えない位置に足場が設けられている。そこから横穴が開いており、地下水脈に沿って掘られた秘密の通路へと続いている。
「証拠は?」
「無事です」清吉が小声で答える。「それに...新たな発見も」
二人は薄暗い地下道を進みながら、声を潜めて会話を続ける。通路の壁には、所々に特殊な印が刻まれている。道三の店の地下を起点として、江戸の町中に張り巡らされた地下通路の道標だ。
「聞こえるか?」
道三が立ち止まり、耳を澄ます。地上からの物音は、もう聞こえない。追手は、薬の効果で完全に行動不能に陥ったはずだ。
「ここで」
道三は通路の一角で立ち止まる。壁に仕込まれた装置を操作すると、細い竹筒が現れる。町奉行所との連絡用の通信筒だ。
「まずは、白井殿へ第一報を...」
[続く...]