三
夜も更けた頃、道三は密かに準備を整えていた。表の商売道具とは別の、隠し扉の向こうにある道具箪笥から、必要な物を選り分ける。
「縄具、錠前外し、そして...」
彼は小さな布袋を取り出した。中には、特殊な粘土が入っている。錠前の形を写し取るための道具だ。表面を油で処理することで、微細な傷一つまで忠実に写し取ることができる。
「清吉」
「はい」
「明日の商談は、巳の刻(午前10時)に設定した。その間に...」
道三は言葉を途切れさせ、意味ありげに目配せをする。清吉は無言で頷いた。若さゆえの身軽さを活かし、屋敷の裏手から床下に潜り込む役目を担うのだ。
道三は小さな紙包みを取り出し、清吉に手渡した。
「これは百足香じゃ。床下で見張り犬に出くわした時のためじゃ」
百足香は、特殊な香料を調合した防御用の薬。犬の嗅覚を一時的に麻痺させる効果がある。材料となる建草は、表向きは鎮痛剤として扱われる生薬だ。
「それと、これも持っていくように」
今度は、細い竹筒を渡す。中には、特殊な目薬が入っている。
「闇目の薬じゃ。暗闇で目が慣れるまでの時間を縮める。ただし、効果は一刻(約2時間)ほどしか持たぬ」
清吉は両方を懐に納めながら、さらに自身の装備を確認していく。足袋の裏には滑り止めの特殊な加工が施され、着物の背には何本もの細い竹ひごが縫い込まれている。それらは必要に応じて、様々な用具として使用できる。
「道三様」清吉が小声で問いかける。「もし...土蔵の中で何か見つけた場合は?」
「写し取るのじゃ」
道三は別の小包みを取り出した。中には、特殊な油を染み込ませた薄紙。文書に重ねて軽く擦るだけで、内容を写し取ることができる。
「ただし、気をつけよ。最近の厄介者どもは、罠を仕掛けることを覚えおった。文書に特殊な粉を振りかけておき、触れると手に色が付くようなものもある」
「では...」
「これを使うのじゃ」
今度は、小さな筆を取り出す。穂先に水晶を細かく砕いた粉末が付着している。文書の表面に振りかけられた粉を確認するための道具だ。
「水晶が怪しい粉を弾くのを見れば、罠と分かる」
月明かりが窓から差し込み、道具箪笥の影を長く伸ばす。道三は最後の準備として、火打ち石と火口を確認した。そして、懐から一枚の紙を取り出す。表面には市場の取引表が書かれているが、実はこれも特殊な暗号だ。
「では、明日の朝...」
「はい、承知いたしました」
二人は静かに頷き合う。明日の陽が昇れば、表の商談という形で向かいの屋敷に入り、その裏で清吉が諜報活動を行う。成功すれば、屋敷の不審な動きの真相が明らかになるかもしれない。
道三は再び火皿の灯りに目を向けた。炎が小刻みに揺れ、壁に揺らめく影を作る。その様子は、まるで彼らの危うい立場を表しているかのようだった。
[続く...]