十
道三は返り霧を、通路の床に特殊な形を描くように撒いた。これは「霧文字」と呼ばれる技法。霞の粉の中に、一時的に文字や印を浮かび上がらせることができる。
「参る...」
追手の足音が、きき板の上を通過する。その瞬間、道三は小さな火打ち石を打ち鳴らした。火花が散る。
「なっ!」
突然の閃光に、追手が一瞬ひるむ。その光は、霞の粉によって増幅され、さらに床に描かれた霧文字を浮かび上がらせる。そこには、伊賀流の古い印が...
「まさか、この印は...」
追手の一人が声を上げる。その声には、明らかな動揺が含まれていた。
「やはり」道三は小声で呟く。「元・伊賀者か」
かつての同流の者たちが、なぜ敵として現れるのか。その謎は後ほど解くとして、今はこの状況を打開せねばならない。
「清吉」
道三の合図で、清吉は背中の竹ひごを取り出した。それは「遠矢」と呼ばれる特殊な吹き矢に変化する。矢じりには、眠り薬の代わりに「惑わし香」が塗られている。嗅ぐと、一時的に方向感覚を失う薬だ。
「ここは...」追手の声に迷いが生じている。「罠か」
彼らの混乱を見計らって、道三は次の手を打つ。通路の壁に仕掛けられた「響き筒」を叩く。竹筒の中を螺旋状に走る音が、通路全体に不思議な反響を引き起こす。
「これは!」
追手の一人が、思わず耳を押さえる。響き筒の音は、特定の周波数で人の平衡感覚を狂わせる。しかし同時に、その音は別のメッセージも伝えていた。
近くの町奉行所の同心たちへの緊急信号。音の反響が、地下通路のネットワークを通じて伝わっていく。
「動け!」
清吉の放った遠矢が、霞の中を飛んでいく。惑わし香の効果と響き筒の音で、追手の動きが鈍る。
しかし...
「待て」道三が清吉の腕を掴む。「もう一つ...」
通路の奥から、新たな足音が聞こえ始めていた。今度は紛れもない、町奉行所の同心たちの歩み足。そして...
「道三殿!」
聞き覚えのある声。白井の部下、田村の声だ。
道三は素早く判断を下す。状況は一転した。今や追手たちは、町奉行所の同心たちと、道三たちの間に挟まれている。
「仕掛けるぞ」
道三は最後の切り札を取り出した。薬種商ならではの特殊な調合...
[続く...]




