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不愛想な後輩と『ヒーロー』の話をしよう

作者: 桧山晶

「本当にヒーローかと思いました、仁藤(にとう)さん」

 

 落ち着いた深みのある声がつぶやいた『ヒーロー』の単語がこの場にそぐわなすぎて、思わず吹き出してしまった。

 人の発言に吹き出すなんて、失礼なこととは分かっている。でも、だって……と、言い訳もしたくなる。身の丈180cmほどのガタイの良い男性が肩を落としてしゅんとしているんだから。

 

朝守(あさもり)くん、大げさすぎ。さあ、さっさと片付けて帰ろう」


 とっくに終業時間は過ぎてしまっている。私たちがバイトしている個人経営のカフェ店に、残業手当を大判振る舞いで支払える経営体力などないのだ。

 店のレジの前でしょんぼりしている朝守くんに明るく声をかけ、本日の売上金の計算に取り掛かる。それを見た彼も、元々のキビキビとした動きを取り戻し、テーブルの片付けや床掃除に向かった。

 頼もしくなったものだ。彼がバイトを始めた最初の頃は、ぞうきんの絞り方すら知らなかったんだから。

 

 数カ月前、店長から新しいバイトだと朝守くんを紹介された時を思い出す。

 第一に、もう一人雇う余裕あるの!?という衝撃から始まり、押しに弱いお人好し店長への心配になり(脅された?)、ニコリともせず真顔で頭を下げた、長身の厳つい男性の登場に、心配は確信となった。

 店長が突如として連れてきた新人アルバイトは、朝守(いつき)という、私と同い年くらいの男性だ。何かスポーツでもやっているのか、180cmを超える長身はひょろりとしたモヤシではなく、ちょっとやそっとの衝撃では倒れないだろうという謎の安心感のある体躯で、薄手のシャツの折り返した袖口からは、鍛えられた腕がのぞいていた。

 力仕事、いけそう――冷静に品定めをしつつ視線を上に上げると、森の奥の静かな湖のように澄んだ眼差しで見つめられていることに気付き、更に言うと結構整った顔つきであることに気付き、同年代の男性にじっと見つめられる経験なんてない私は、ドキマギしながら目を逸らしたのだった。


 朝守くんに不覚にもときめいたいのは、この一度きりだった。

 とんだ出オチ野郎だ。なにしろこの人、今までどうやって生きてきたんだというくらい、社会性ゼロで生活能力が著しく低いことが分かったのだ。

 

 私の人生初の新人後輩教育は、ぞうきんの絞り方からスタートした。テーブルの拭き方、床やトイレの清掃の手順と進み、ようやく注文の取り方にステップを進めたかと思ったら……彼の表情筋はセメントでも流し込まれているんだろうか。顔が恐いのよ顔が! 長身いかつめのお兄さんに真顔で「いらっしゃいませ」と見下ろされた常連のおじさまが、ぴゃっと一声鳴いて「また今度ねー!」と逃げ出していった後ろ姿を追いかけられるわけもなく……。


 最初のときめきから早数か月、ついにレジ打ちまで進んだ彼を見る眼差しは、完全に母の目線。

 ああ、こんなに立派にレジなんて打てるようになって……。

 

「仁藤さん、テーブル拭いたらびしょびしょになったんですけど」(ぞうきん絞ろうか!)

「仁藤さん、トイレが泡まみれです」(何故トイレの壁まで丸洗いしようとした!?)

「仁藤さん、このコーヒーカップの取手は着脱式なんですか?」(君が壊したんだよ!!)

「仁藤さん、――」

「仁藤さん、――」

 

 数々のやらかしが脳裏に浮かんでは消えた。この数か月でわたし、かなり菩薩度が上がったようなが気がする。

 とはいえ、朝守くんが単なる不愛想な非常識マンなら、早々に私の心も折れていただろう。私を菩薩たらしめたものは紛れもなく彼自身だ。何度注意しても嫌な顔せず(というか無表情で)、私の言ったことを忠実に真摯に受け入れて行動する彼を見ていたら、最初の刹那のときめきやら怯えやらが次第に溶けていき、愛すべき(少し非常識で不愛想な)後輩となっていくのに時間はかからなかった。

 

 そんな彼がちょっぴり分かりやすく肩を落としているのは、今日の閉店間際に起きた事件のせいだ。

 不愛想で威圧感すらあるような朝守くんだけれど、持って生まれた整った顔立ちのせいか、最近はやたらと女性客に注目されるようになっていた。不愛想なところが逆に良い!とかなんとか。

 そんな中、最近何かと彼に絡んできていた一人のガチ恋女性客(恐らく年上)が、帰り際の会計時に、ついに本格的なアプローチを始めたのだ。閉店間際、他の客も後ろに並んでいるというプレッシャーの中、打ち間違えてしまったレジの修正で頭がいっぱいになっている朝守くんに。

 

 今日は何時に終わるの? 近くで待ってるからこのあとどう? ねえ、聞いてる?

 

 畳みかける女性の攻撃に、朝守くんは眉一つ動かさず、レジの修正方法を必死に思い出しながら取り組んでいた。……と、思う。なにしろ彼は無表情が過ぎて、ピンチの時も表情が変わらなすぎだから、これはあくまで私の予想だ。とまあ確証はないのだけれど、彼があのお姉さんと仲良くしたいとは思っていないんだろうなと察した私は、ずいと彼の横に陣取った。ピピピ、と軽やかにレジの修正を終わらせた私は、にこやかな笑顔でお姉さんにレシートをお渡しした。

 

「ありがとうございました! またお越しください!」

 

 うちの子にしつこく構わないでちょうだい! と、さながら外敵を威嚇する母熊のようだ。それも当然。ここまで手塩に育てた後輩。ようやくレジ打ちができるようになった後輩なのだ。

 そうして最後の客の会計を捌いたあと、朝守くんはしょんぼりしながら、ごくごく平凡な大学生のアルバイト店員である私を『ヒーロー』と呼んだのだった。


 ヒーロー、だって。

 大げさだと言って笑い飛ばしたあと、宝箱に大切にしまっておいた思い出が不意に蘇り、ほんの少し胸が熱くなった。私がヒーローだと呼ばれるなんて。

 

 

 売上金の計算とホールの片づけが終わり、奥で作業していた店長に声をかけた私たちは、普段よりも15分だけ遅く職場を出た。

 住宅街にあるこのカフェ、閉店時間の20時ともなると、道行く人の姿はまばらになる。それでも、人の気配を感じられる家々の温かな灯りに見送られて帰る道が気に入っている。

 ふと、朝守くんがいつも曲がる角で曲がらず、なぜか私にくっついてきていることに気付き、はたと見上げた。その視線に気付いたようで、彼が言った。

 

「駅まで送ります。今日は俺のせいで遅くなったんで」

「え……気にしなくてもいいのに。たったの15分だよ」

「いや、それと……さっきレジでやたら話しかけてきた女性が、この辺をまだ張っているみたいなんで。遠回りして帰ります」

「そうなの?」

 

 気付かなかったなあ、と辺りを見回してみる。すっかり暗くなった周囲の道には人影は見えない。というか、なんで朝守くんは気付けたんだ?

 彼は()()()()ことが得意だ。

 店内に入ってくる前に人の気配を察知することができるし、なんならどういうわけか人物を特定しているような節がある。

 気配と言えば、彼は自分の気配も容易に消せるようだ。いつの間にか背後に立っていてビックリしたことが多々あったなと、芋づる式に朝守くんの不思議な特性を思い出していた。


「結構人通り少ないんですね、駅までの道」

「え? ああ、まあそうかな。あんまり気にしたことないけど」

「気付かなくてすみません、次からは送ります」

「ええ!? いいよいいよ!」

 

 突然の申し出に驚いた私は、勢いよく首と手を横に振った。

 確かに隣を歩いているだけで不審者を遠ざける結界の役目をしてくれそうだけど、彼の自宅が駅とは違う方向の徒歩圏内であることは以前聞いていたから、慌てて辞退する。

 

「朝守くん、優しいんだねー(見た目に反して)」

「……今、心の中で『見た目によらず』って思いましたよね」

「……」

 

 思わず口を噤む。

 気配に敏感なだけではなく、声に出してないはずの真意まで見透かしてしまう特技を持っているんだろうか。


「別に怒ってないです。……身内からもよく言われるんで、自分の無表情については自覚してます」

「あ、そうなんだ……」

 

 自覚あったんかい。つい心の中でつっこんでしまう。

 彼の無表情・不愛想問題は、今までなんとなく指摘できていなかった。無理に笑えと言うのも変な話だし、彼の笑顔を想像できなかったし、そもそもこうして、ゆっくり世間話をする時もなかった。勤務中の朝守くんは、常に仕事に一直線という感じで、雑談に応じてくれるような雰囲気でもなかった。

 ふと、今日の事件を思い出し、ぷっと吹き出しながら言った。

 

「そういえば、今日のお会計の時に話しかけてきたお客さんと対応している時、まったくの無表情だったよね。きっとピンチなんだろうなあって思ったから割り込んじゃったけど、表情が変わらなすぎて少し迷っちゃった」

「内心、どうしようかと汗ダラダラでした。本当に助かったんです、あの時。仁藤さんがヒーローに見えました。いや、救世主か」

「ぷっ……また大げさなこと言ってる!」

 

 ごく真面目な顔で大仰なことを言い始めた朝守くんの様子に、たまらず声を上げて笑ってしまった。

 きっと冗談でも社交辞令でもなく本心なんだろう。それがまた嬉しい。

 持ち上げられて調子に乗っていたんだろう――ついつい、私の口からポロリと大切な思い出が出てきてしまったのは、仕方のないことだと思う。

 

「私はね、本物の『ヒーロー』に会ったこと、あるんだよ」

 

 私がうっかりと口を滑らせてしまった発言に対して、朝守くんの反応は鈍かった。たっぷり何秒か数えたあと、「……本物?」と、訝しげに繰り返す声が聞こえた。


 朝守くんの不審げな返答に、ハッと我に返る。

 あのことを話すのか、話さないのか。それは私の人付き合いの深さを量る一種のバロメーターでもあるのだ。彼とはまだちょっとな――と思ったところで、カバンに仕舞い込んでいたスマホの着信音が騒々しく響き渡った。慌てて取り出し画面を見ると、『母』。


「え、もしもし? や、今帰ってるところだけど……あ、そっか。今日はちょっと遅くなっただけ。――うん、帰ってからご飯食べるよ。うん、え、ごめん気付かなかった」

 

 どうやらいつもより帰りが遅くなったことで心配して電話をかけてきたらしい。心配性だな。

 母との電話を切ると、ちょうど数十メートル先に駅とその周辺のお店の灯りが見えてきて、次第に周囲もにぎやかになってきていたことに気付く。

 いつもは一人で帰る道のりだったけれど、思いのほかバイト仲間と交流を深められて良かった。会話が途中で途切れたこともすっかり忘れた私は、満足した表情で義理堅い朝守くんを見上げたのだった。

 

「ここまでで大丈夫。ごめんね、家から正反対だったのに」

「あ、いいえ」

「じゃあ、また明日!」

「え、あの……」

 

 バイト終わりの高揚感、しかも今日は後輩にたくさんおだてられて気分がよくなっていた私は、色々と見えていなかったんだろう。朝守くんが何かを言いかけていた様子とか、彼の表情とか。……いや、あの無表情から意図を読み取るのはかなり難しいか。



 

 その日以来、朝守くんとバイト終わりに駅まで一緒に帰ることとなった。

 相変わらず仕事中はなかなか話しかける雰囲気じゃないけれど、帰り道の彼は結構会話に応じてくれることが分かり、段々と彼のことも知ることができた。

 実は私よりも3歳年上だったとか。敬語やめてください、むしろ私が敬語使います!……と、かなり騒いだけれど、結局彼のたっての希望で現状通り、ということになった。なんでも、職場では私が先輩だからだそうだ。やっぱり義理堅い。

 それから、昔から家業を手伝っていて大学には進学していない、とか。今は朝守くん自身が家業を担っている、とか。このカフェでのアルバイトは家業以外の社会経験のため、だとか。

「ウチの家業は……まあ、なんというか……『害虫駆除』、かな」

 朝守家の家業って何?という素朴な質問に対して、朝守くんは頭をひねりながら答えてくれた。

 害虫? シロアリとか?

 

 知れば知るほど逆に謎めいてくる朝守くんは、閉店後の売り上げ計算をついに一人でやりきった。

 彼が後輩になって約半年、一緒に帰るようになって1か月ほど経っていた。謎めいた後輩であろうと、この成長は紛れもなく本物で、まことに喜ばしい慶事だった。店長と二人で朝守くんをこれでもかこれでもかと褒めちぎり、次は我が店名物の美味しいコーヒーを淹れられるようになろう、と目標を確認しあったのだった。

 

 最近の日本の気候は季節詐欺かと思うほど、残暑が厳しい。もう9月の後半だというのに、日中は太陽が張り切りすぎて地球全体がのぼせ上がってしまっている。とはいえ、バイト帰りの時間帯は大分涼しい。

 夏の残り香が鳴りをひそめ、ことさらに秋を主張するかのようなひやりとした風が頬をすり抜けていく。ようやくの秋の訪れが嬉しくて、つい隣を歩く朝守くんに声をかけた。

 

「随分と涼しくなったねえ」

「今日、ありがとうございました」

「……ん?」

 

 同じタイミングで話し始めたようで、朝守くんと私の声が重なった。もしかして今、お礼を言われた?

 疑問符を浮かべた表情で見上げる私に気付いた彼は、まっすぐな目でもう一度感謝の言葉を紡いだ。

 

「計算、苦手なんです。……というより、ああいう機械全般苦手で。何度も失敗したんで……多分物覚えが悪かっただろうな、と。それなのに仁藤さん、全然嫌そうな顔せずに何度も教えてくれて……ありがとうございました」

「あー、改めて言われると、照れるね。ええと、気にしないで。私だって最初の頃、色んなことやらかして店長に助けてもらってたから」

 

 まっすぐな感謝の言葉は、どこかこそばゆい。

 照れ隠しで場を繋ぐように、深く考えることなくつらつらと言葉を垂れ流した。


「自分が失敗した時に助けてもらうと、助けてくれた人って神様に見えるよね。救世主ー!とか、『ヒーロー』!とか?」

「……『ヒーロー』」

 

 すると、何故かヒーローという言葉が朝守くんの琴線に触れたらしく、ずいと距離を詰められる。

 突然のことに驚き、目を丸くした。いつの間にか二人して歩みを止めてしまっている。

 

「ずっと聞きたかったんです、仁藤さん。……『本物のヒーロー』って、なんのことですか?」

「本物……あ、ああ……あのことね」

 

 すっかり忘れていた1ヶ月ほど前の失言を思い出させられ、思わず頬が引きつる。

 適当にごまかすか……と一瞬頭をよぎったけれど、即座に打ち消した。この1ヶ月ほど、私の個人的な質問にも嫌な顔一つせず答えてくれていた彼に対して、不誠実な対応をしていいのだろうか。いや、よくない。

 果たして彼がどこまで興味を持って聞いてきているのか測れないけれど(なんせ相変わらずの無表情)、聞かれたからには答えよう。うん、きっと朝守くんは笑わない。

 

「――3年前さ、謎の爆発事件が頻発してたの、覚えてるかな。私、あの事件に一度巻き込まれたことがあってね……あれ、ガス爆発とかそういうのじゃないの。私、見えたの。……人間じゃないもの」

 

 脳裏にあの恐ろしい記憶が一瞬蘇り、無意識に自分の腕を抱いた。

 その瞬間、今度は、力強く抱き込まれた大きな手の感触を思い出し、ふっと緊張を解いて、息を吐いた。

 

「あれは夢じゃないと思う。もう姿形は覚えてないんだけど、とてつもなく恐ろしかったことは覚えてる。……みんな、周りの人は爆発に驚いてるだけみたいで、どんどん避難していって、でも私だけ、その妙な生き物に腰抜かしちゃって、動けなくて……。それで、誰も助けてくれなくてね」

 

 言葉にしてみると、また不意にあの時の虚しさが蘇ってくるようで、心が冷えていく感覚があった。

 そんな落ち込みを振り払うように、私は顔を上げた。

 

「でもね、助けてくれた人がいたの。真っ黒な和服のような袴のような服を着て、黒子みたいなベールで顔を隠してたんだけど、その人、腰に差した刀でズバーっとその妙な生き物を吹っ飛ばしたの。それからすぐ、ひょいっと私を抱えてくれて、他の人が避難しているところまで運んでくれたんだ」

 

 そして私を助けてくれたヒーローは、また現場に駆け出して行った。駆け出していく後ろ姿を思い出す。誰かに説明されなくても理解した。あの人はああいうモノと戦っている人なんだろう、と。

 

「あの時、あの人が私を助けてくれなかったら、今私はここにいない。爆発事故で亡くなった人はたくさんいるから、そのうちの一人になってもおかしくなかったよ。だからあの人はね、私の命の恩人で、『本物』のヒーローなの」

 

 話し終えて、朝守くんの反応が気になり、チラチラと視線を向ける。大体この話を聞いた人の反応は、9割方が「素敵な創作ですね」という反応なんだけれど、彼はどうだろう。

 

「……恐くなかったんですか。そんな、化け物と闘う奴、なんて」


 無表情のままの朝守くんが呟いた。

 私のヒーロー様を掘り下げるとは、今までにない反応だ。意外な反応にわずかに目を見張る。

 

「そりゃ恐かったよ、あの化け物は。しばらく外出できなくなったんだから。でも、あの人に恐いなんて……思うわけないじゃない。助けてもらったんだから。……それより、ちゃんとお礼を言えなかったことが心残りだよ。もしまた会えたら、ちゃんと伝えたいんだよね。『助けてくれて、ありがとうございました』って」

 

 顔を隠していたから、もし街中で会ったとしても気付けないだろう。あの手の力強さや背丈から、きっと若い男性だったとは思うんだけど、それ以上の情報がないのだ。

 ちょうど話し終えたところで、また私のスマホの着信音が鳴り響いた。例によって、母からだ。あの爆発事故に巻き込まれてから、少し過保護になったような気がする。

 

「じゃあ朝守くん、またあした――」

 

 通話を押す前に別れの挨拶をしておこうと顔を上げると、隣を歩いていたはずの彼の姿が見えず、言葉が途切れた。

 慌てて後ろを振り返るも、影も形もない。ただいつもの静かな住宅街が続いていて、背中からは駅前の喧騒が漏れ聞こえていた。

 気配もなく後ろに立つのが得意の彼だ。きっとまた私の母から電話が入ったと思って、気を利かして、気配を消して先に帰ったんだろうか。

 

 その時の私は、いきなり姿を消した朝守くんの意図を深く考えることなくそのまま帰路に着いてしまい、そのまま思い出すこともなかった。その翌日、朝守くんがバイトを辞めたことを店長に聞かされるまでは。



 

 季節限定のフレーバーティ。やっぱり秋は林檎だよね。

 目の前のカップに浮かぶトロトロに煮込まれた林檎の切れ端をティースプーンでつついた。

 

「ウチの店はコーヒー専門だから紅茶はノータッチだったけど、これはこれで良いかも」

「うーん、わたしは断然、お抹茶かな」

 

 私の何気ない呟きに答えた目の前の友人、ゆうちゃんは、和室でお抹茶を味わっているかのような所作でティーカップを傾けていた。さすが茶道部所属。今日のお召し物も素敵な着物姿だ。

 

「このお店に誘ってくれたの、ゆうちゃんでしょう。大学の近くに新しい紅茶専門のカフェができてるから行こうって」

「将来の夢がカフェ経営の茜に、いつものバイト先では得られない体験をさせてあげようかと思ったの。それに趣味でもあるんでしょう、カフェ巡り。バイトが休みの日は色んなところ巡ってるって聞いたような気がするけど?」

「……おっしゃる通り」

 

 ゆうちゃんは涼しい顔をして、更にもう一口カップに口をつけると、今度は紫芋のモンブランに手を伸ばしていた。

 無意識にその手を追っていると、何気ない様子でゆうちゃんが言った。

 

(あかね)、最近元気ないよ」

「えっ?」

「いつもだったら聞いてもないのに、自分の近況をぺちゃくちゃぺちゃくちゃと話すのに、すっかり大人しくなっちゃって。似合わないため息なんてついてる時もあるし。気になるじゃない、すごく」

「そんなに元気なかったかなあ……」

「やっぱりあれでしょう、あの人。バイト先の新人くんがいきなり辞めたから?」

 

 ゆうちゃんに釣られて口元に運んでいたマロンケーキが、ぽろりと皿の上に転がった。

 動揺した。図星だった。フォークの操作を誤ってしまうほどには。

 

 朝守くんに秘密の思い出を打ち明けた翌日、いつものようにバイト先に行ったら、店長から彼が辞めたと告げられた。

 瞬時に色んな思考が錯綜した。

 どうしていきなり。何かあったんだろうか。ご家族の事情か何か。

 声も発さず眉をしかめた私を見かねた店長は、彼の退職理由をかいつまんで話してくれた。

 

 曰く、もともと期限付きの雇用だったらしい。彼の本業は家業で、今は忙しくない時期だからと、彼の身内で店長の昔馴染みの方からの依頼で受け入れたそうだ。少し世間ずれしたところがあるから、社会経験を積んでほしい、とかなんとか。確かに、ぞうきんの絞り方すら知らないのは問題だろう。

 本当は1年程度ということだったけれど、急に家業の方が忙しくなってしまったらしく、突然の退職になったそうだった。

 

「……それにしたって、一度も顔を合わせずに辞めるなんて、私を避けたんじゃないかな。店長には直接会いに来て挨拶したらしいし。……やっぱり、私のヒーロー様の話を聞いて、やべえ奴だと思われたかなあ。関わっちゃまずいって!」

「茜がガチ恋してる謎の覆面ヒーローのこと? ちょっとこじらせてるなあって思うくらいでしょう、普通。バイトを辞めるほどじゃないよ」

「が、ガチ恋って……私はそういうんじゃ……」

 

 ゆうちゃんの指摘にしどろもどろになる。

 彼女は、私の与太話を鼻で笑わずに信じてくれた稀少な人で、話を聞いたあとの第一声が、あの人が着ていた着物の生地は何かという質問だった。

 打ち明けといておかしな話だけれど、何故私の話を信じてくれたのか、聞いたことがある。曰く、他人の領域に無理やり入ろうとしない私のような人間が、他人の興味を引くための作り話をわざわざすることはないだろう、と。

 

 とはいえ、私は一言もあの人に本気で恋しているなんて言った覚えはないのに、ことあるごとにゆうちゃんが口に出すものだから、なんとも落ち着かない。

 気を落ち着かせるために慌てて紅茶を一口含んだ。あちっ。

 

「別にいいじゃない、バイトの一人や二人。出たり入ったりするものでしょう」

「そう、だよね。……そうなんだけど、朝守くんは初めてのバイト仲間で、色んなこと教えた後輩だったし、ようやく最近心を開いてくれたのか、話もできるようになってきたのになあって……寂しいんだろうね」

「ふうん」

「例えるなら、全然懐いてくれない猫ちゃんがようやく指を舐めてくれたのに……って感じ」

「え、猫系男子?」

「んー、見た目はどっちかと言えば熊系……? いや、狼かなあ……」

 

 あの高身長で威圧感たっぷりの無表情は熊っぽいけれど、仕事に真摯に取り組む姿勢とか安易に慣れ合わない感じは狼っぽい。しばらく会っていない不愛想な元・後輩を思い浮かべ、その頭に熊や狼の耳を取りつけたりなどして、くすりと笑みをこぼした。


「熊か狼って、随分と戦闘能力が高そうね。――あ、あの人みたいな感じ?」

 

 ゆうちゃんがすぐそばの窓の外を指さした。

 私たちの席は窓際で、すぐ側に歩道と車通りの多い車道があって、歩道寄りの車線には、何台か車が停められていた。

 

「えー、誰のこと?」

「あの人よ、あの人。背の高い和服の人。和服の男性ってだけで珍しいのに、あんなにガタイの良い人が着こなしてるのも、すごいわー」

 

 ちょうど私たちの席から見えるところに、一時停車中の車に混じって黒塗りの高級車が停まっていた。その車のすぐ横で、会話をする男性二人。こちらに背を向ける一人は確かに、ゆうちゃんが言う通り背が高い。もう一人の壮年の男性の頭一つ分はある。

 確かに、背の高さといいガタイの良さといい、朝守くんにそっくりだ。

 そのことをゆうちゃんに伝えようとした瞬間、ふとその人が振り向いた。

 

「……朝守くん」

 

 思わず言葉が漏れた。

 驚きで目を見開く。相手の男性も鏡のように目を見開いた。表情筋が仕事していないあの無表情が、端的に驚きを表していた。

 袴に羽織という見慣れない格好をしているけれど、間違いない。朝守くんだ。何日ぶりだろうか。少し疲れているようにも見える。

 久しぶりに彼の顔が見れて、なんとなく安心した。そのあとで嬉しさがこみ上げてきて、思わず笑顔で手を振っていた。久しぶり。元気だった?と。

 手を振り返さないまでも、手を上げるとか少し会釈するとか、何らかの反応が返ってくると無邪気に信じていた。きっと私と顔を合わせずに辞めたのは偶然で、私に対して何のわだかまりもないのだと。どこかで信じていたのだ。


 そんな予想はあっさり裏切られた。朝守くんと目が合ったのは一瞬で、その視線はすぐに逸らされた。そしてすぐ、何事もなかったかのように澄ました無表情で、やつは高級車の後部座席に乗り込んだのだ。

 ええ? 無視? 無視された? いま? なんで?


「……いま完全に目が合ってたよね。あの人が例の後輩くんなんでしょう、ねえ。明らかに避けられたよね、茜」

「ゆうちゃん……これ以上傷口に塩を塗り込まないで……」

「いったい何をしたらあんなに華麗に無視されちゃうわけ?」

 

 こっちが聞きたいよ!

 すっかり冷めてしまった紅茶を流し込んだ私は、やけ食いだと目の前のマロンケーキを頬張るしかなかった。



 

 朝守くんに特別な思いがあったから、無視されてショックを受けたわけじゃないのだ。

 たった半年間だけど、心を尽くして接してきた相手に、あんな形で避けられたことが、どうしようもなく悲しかった。

 その悲しさ、やるせなさをマロンケーキのやけ食いにぶつけた後、今度はカラオケで発散させることとなった。カラオケはいい。余計なこと考えないで済むから。

 しょぼくれた私に付き合ってくれたゆうちゃんは、何度か疑問を口に出していた。


「あの和服、相当な上物よ。しかも身のこなしが洗練されてて、着物に着られてる感もなかった。極めつけはあの黒塗り高級車。ただのお金持ち……にしては、鍛えすぎのような」

「筋トレが趣味なんじゃない? というかもういいよ、朝守くんのことは……」

 

 本当にもういいんだ。

 バイトも辞めて、彼の自宅も家業が何かも知らない。もう会うこともない。偶然あったとしても、今日のように華麗に無視されるのだ。そうだ。早く忘れよう。

 

 電車の窓越しに、ぼーっと薄闇の街並みを眺めていたら、いつの間にか降りる駅になっていた。平日夜の家路を急ぐ勤め人達に混じり、ホームに降り立つ。込み合う改札を避けるようにして歩みを遅くさせると、スマホを取り出し、母宛のメッセ―ジを送信した。「駅に着いたよ」っと。

 

 母は、私があのガス爆発事故に巻き込まれた後、しばらく外出がままならない精神状態になったことがきっかけで、私の帰りが遅くなると過剰に心配するようになった。今日はまだ夜の8時前で、いつものバイトの終了時間よりも早い。心配をかけなくても良さそうだな、と肩の力を抜いた。


 その瞬間、駅のホームの照明が一斉に落ちた。

 

「え……?」

 

 立ち止まり、辺りを見渡す。

 おかしい。絶対におかしい。周りにたくさん居たはずの乗客が一人もいない。

 まるで映画のセットのように、駅のホームという舞台装置だけが残されているみたいだ。そんな舞台に無理やり立たされているのは、私だけじゃない。何かがいる。

 

 数メートル先の駅のベンチの前に、奇妙に背の高い人影が見えた。薄汚れた鼠色の布を頭からかぶっているように見える。

 人――いやいや、あんなに背の高い人なんていない。朝守くんの優に2倍はある。じゃあ、一体。

 

 3年前の記憶の蓋が、予告なく開いた。

 爆発の音とたくさんの人の叫び声。それに、あの姿。まるで死神のようだと思ったんだ。そうだ、私は()()()()()()()()()()

 

 突然襲ってきた恐怖が喉を詰まらせる。呼吸が苦しい。足が震えて立っていられず、倒れるようにその場に膝をついた。

 本当に恐ろしい時、人は悲鳴なんて上げられないんだ。

 徐々にアレがこちらに近付いてくるのが、涙で滲む視界でも分かった。

 金縛りにあったかのようにその場に縫い付けられ、指1本動かすことができない。

 

 しゃらん。


 鈴の音が聞こえた。

 恐怖で占められた思考に割り込むように、その清廉とした音色が脳内に響く。

 しゃらん――もう一度、同じ鈴の音が聞こえた。

 

 知ってる。知ってる、この鈴の音。

 3年前、『あの人』が助けてくれた時、同じように鳴っていた。

 

「た……すけて。たすけて……っ」

 

 発声を忘れていた喉を叱咤し、言葉を絞り出した。

 まるで鈴の音に導かれるように、何をすればいいのか、迷いなんてなかった。

 

 私の言葉に反応したように、空気が震える。文字通り、私と死神の間の景色が一瞬ぐにゃりと歪み、瞬き一つの間に、黒い人影が現れた。うん、今度こそ人間だ。

 漆黒の着物と袴、腰には刀を差している。そして黒のベールで顔を隠している。背を向けたままでも分かる。()()()だ。

 

 背中を向けていた彼は、ちらりとこちらを振り返った。顔を覆うベールで目線なんて分からないけれど、なんとなく目が合った気がした。そう思ったのは一瞬で、すぐさま目の前の化け物に向き直る。

 カチャ……腰に下げた刀に手をかけた音が聞こえたかと思うと、次の瞬間には、彼の体は巨体の目の前まで飛び上がっていて、そのまま刀を振り下ろした。

 すると、今度は耳をつんざくような断末魔が響く。たまらず耳を塞いでうずくまった。

 

 どれくらいの時間、そうして震えながらうずくまっていただろう。

 カツン、という革靴の鳴る音が聞こえて、少しだけ目を向けると、黒い編み上げブーツの足先が見えた。

 

「……すみません、仁藤さん」

 

 あまりにも、あまりにも聞き覚えのある声と言い回しに、弾かれたように顔を上げた。

 さっきまで謎の化け物と戦っていた彼が、うずくまる私のすぐ隣に片膝をついていた。膝の上に置かれた黒い手袋に包まれた拳にぐっと力がこめられ、革が引き絞られる音が鳴る。

 顔を覆うベールを見つめた。ベールの向こう側は全然見えないけれど、きっと相変わらずの無表情がそこにある気がした。

 

「俺のせいなんです。……仁藤さんが襲われたのは、俺のせいなんです」

「…………朝守くん、なの?」

 

 半信半疑だ。それでも間違いないという確信がどこかである。

 震える声で尋ねる私に、目の前の彼は少し逡巡したのち、そのベールを頭上に上げた。森の奥の静かな湖のように澄んだ眼差しと目が合った。……やっぱり、こんな時でも表情筋が仕事してない。

 訳が分からないことが続いて、既に脳みその処理能力は超えているようだ。唯一、見知った彼の顔がいつも通りの無表情だったことになんだか安心してしまって、緊張で強張っていた体が次第にゆるんでいった。

 

「――今、俺たちがいるのは、通常の時空とは異なる時空です。あいつら……俺たちは『妖』と呼んでますけど、標的にした人間を襲う時にこうやって閉じ込めるんです。さっき俺が斬ったやつも同じです」

「え……っと、話がよく分からないんだけど」


 朝守くんがきっと今の状況を説明しようとしているのは理解できるのだけど、いかんせん処理能力が下がった今の状態の私ではさっぱり入ってこない。

 

「そう、ですよね。いきなりこんなこと言われても……ってなりますよね」

 

 少し困ったように眉根を寄せた朝守くんは、一拍置いて覚悟を決めたように息を吐きだした。

 

「要は、俺が仁藤さんに惹かれてしまったせいで、あなたには『匂い』がついてしまったんです。その匂いのせいで、仁藤さんは奴らに狙われたんです」

「惹か……匂い? 匂いって言った?」

「……引っかかるのそっちですか」

 

 朝守くんのあまりにもな言い様に、何か変な匂いでもさせているのかと、慌てて袖口やら肩あたりに鼻を向けてみる。

 いやあ、何も変な匂いしないけど。首をかしげたところで、呆れたように朝守くんが言った。

 

「匂いって言っても、人間が感知できるようなもんじゃないですよ。ただ、なんでか奴らには分かるんです。妖の天敵である俺たち朝守の者が心を傾ける人間のことが。……それで、とても美味しそうに見える」

「ひえっ」


 オブラートに包みもしない率直な言い方に、全身に悪寒が走った。脳裏に先ほどの恐怖がよぎる。

 震える私の肩に、安心させるように大きな手が乗ってきた。それは確かに記憶の中の『あの人』の手と同じような気がして、また朝守くんを見上げた。

 いつもの無表情がこちらを見返し、口を開いた。

 

「これ以上、仁藤さんに近付くのは危ないと思って、バイトを辞めて、忘れようと思ったんです。……それなのに、忘れられるどころか気になって仕方なくなってしまって……それでも、もう二度と顔を合わせなければ、大丈夫だと思ってたんですけど」

「ちょ、ちょ、ちょっと、待って。もうこれ以上、無理。キャパオーバ……」

「今日の昼、久しぶりに仁藤さんの顔を見た時、もう駄目だと思ったんです。だましだまし抑えつけていたもの全部、どっかに行っちゃいました」

 

 私の静止なんてまるで聞いてくれていない朝守くんは、表情だけは変えずに淡々と喋り続ける。

 ただ、その瞳の奥に確かに揺らぐ熱が見えて、こんな非常事態だというのに、他の意味で体の熱が上がってきてしまうのを感じた。

 

「巻き込んで、すみません。でも、もう忘れるのはやめにします。仁藤さんが俺のことをただの後輩だと思っているのは知ってます。理解してます。……けど、こっから全力で囲い込みしていきますので」

 

 よろしくお願いします――初めて会った時のような愚直な眼差しで、この人はとんでもない宣言をした。囲い込み宣言。



 

「――つまり、黒幕は店長ってことですか?」

「黒幕だなんて、人聞きが悪いなあ」

「全て知っていた上で、裏で手を回す人のことを黒幕って言うんです!」

 

 人の好さそうな微笑を浮かべながら、店長は手際よくコーヒーカップを拭きあげていた。その隣で同じ作業をしながら、もう何回目とも分からない追及をしている。土曜日の開店前のこの時間でなければ、黒幕の人物を締め上げることができないのだから。

 そう、店長は全て知っていたのだ。朝守くんの正体を。店長は、朝守家の先代の当主と幼馴染らしい。

 

 朝守家は平安時代から続く一族で、『妖』という化け物と唯一戦える稀有な血筋なんだそう。朝守くんはその現当主で、15歳で代替わりしたあと、3年前、数百年周期で起きるという妖の大量発生も多くの協力を得ながら抑えることができた。けれど、たくさんの犠牲者が出てしまったことで、騒動がおさまったあと、朝守くんはふさぎ込んでしまったらしい。

 

 当然だと思う。15歳からずっと、あんな化け物と戦ってきて、この国の平穏を守ってきたということは、どれほどのプレッシャーだったんだろう。犠牲者が出たのは自分のせいだと、自分を責めてしまうのも当然だ。

 

「仁藤さんも、3年前の事故の後はしばらく大変だっただろう?」

「そうですねえ。あの時は、なんでこんな目に遭うんだろうってそればっかりだったけど……。あの事故がきっかけで店長とも知り合えたし、今こうしてここでバイトさせてもらってて、それが将来の目標にもつながってるから、結果オーライですかね」

 

 3年前の連続爆発事件の被害者の会に参加した時、ボランティアで参加していた店長と知り合った。それからなんやかんやがあって、ここで働かせてもらっている。実は、あの被害者の会の運営にも朝守家が関わっていたというのだから、驚きだ。

 

「仁藤さんのそういう前向きなところ、とてもいいと思う。いかにも朝守家の人が好みそうだ」

「……やっぱり黒幕じゃないですか」

「確かにそう言われると……。樹くんのことを聞いた時にね、仁藤さんを思い出したんだよ。君の明るさが、彼の苦しみを和らげてくれるんじゃないかって。それに君、言ってただろう? あの時助けてくれた謎のヒーローに会いたいって」

「会いたい……というか、私はただ、お礼が言いたいなって……」

「まあいいじゃないの。丸くおさまりそうだし。ねえ、それ」

 

 コーヒーカップを置いたあと、店長が私の左腕を彩る紅と橙の組み紐を指した。

 

「先代当主のご夫人も、同じものを身に着けていたよ」

「……ただのお守りって聞いてるんですけど」

「ああ、そう。それは失礼しました」

「ちょ、ちょっと待ってください。何か他にも意味があるんですか?」

「さあ?」

 

 この組み紐は、匂いがついてしまって妖に狙われやすくなっている私の匂いを消してくれる作用がある、とかで朝守くんがくれたものだ。絶対に外したら駄目だと言われているし、私もあんな恐ろしい目に二度と遭いたくはないので、もちろん肌身離さず着けている。

 お守り以外にも何か特別な意味があるっていうの?

 とぼける店長を更に追及しようとしたところで、贈り主が何食わぬ顔で店に入ってきた。掃除道具一式を片手に。

 

「表の掃除、終わりました」

「ああ、ありがとう」

 

 朝守くんの言葉に、店長が答えた。

 バイトを辞めたはずの彼は、結局、忙しい土日だけ手伝いに来てもらうようになったらしい。らしい、というのは、私には何にも知らせがなかったから。今朝知らされてビックリ。その理由を聞いて更にビックリ。私とできるだけ一緒に過ごす時間が欲しい、とかなんとか。……あの無表情でそういうことを言われても、正直ピンと来ないんだけど……。

 

「あの……! 話が途中なんですが……!」

 

 朝守くんに続いて、開店前というのに可愛らしい高校生ぐらいの女の子が入店してきた。誰がどう見ても恋する目をしている。

 朝守くんは、今気付きました、という雰囲気を出しながら振り返っていた。(気配読むのが得意なんだから、絶対に気付いてたはずでしょ)

 

「まだ、何か?」

「あ、あの、それならわたしと……!」

「確かにお付き合いしている人はいませんが、逃がしたくない人はいます。今、全力で囲い込みに取り組んでいるところですので……邪魔をしないでいただけますか」

 

 こちらに背を向けているので彼の表情は見えないけれど、ええ、分かりますよ。またあの不愛想で何の感情も浮かんでいませんみたいな顔をしているんでしょう。それで振られるって、あの子、心の傷にならないだろうか。

 流石に見かねた店長が、ニコニコ笑顔を浮かべながら彼女に近付いて行って、一緒に外へ連れ出してくれた。

 店内に漂っていた緊張感がなくなり、ふうと息をつく。

 

「朝守くんって、モテるんだねえ」

「あなた以外の女性にモテたところで、何も益はありません」

「…………そういうこと、真顔で言うの?」

「すいません、これが標準なんで」

「……まあ、もう慣れたけど」

 

 相変わらず表情筋が仕事していない朝守くんだけれど、目線や眉の動きでなんとなく感情を読み取れるようになってきた。慣れってこわい。おもわずくすっと吹き出してしまい、そこではたと気付く。そういえば、こうして落ち着いて2人で話すことができたのは、あの夜以来だった。

 

「朝守くん、大事なことを言ってなかったわ」

 

 黙々と掃除道具を片付けていた彼の背中に呼びかける。

 

「助けてくれて、ありがとうございました。しかも、2回も」

 

 振り返った朝守くんの目が、驚いたように大きく見開かれた。

 

「3年前の時のも含めて、何かお礼をしたいなあ。大したことはできないんだけど……バイト代くらいしか自由に使えるお金ないし」

「あの、お願いがあるんですが」

「うっわ、びっくりした。え……なに?」

 

 いつの間にかすぐ近くまで移動していた朝守くんに驚き、そういえばこの人、自分の背丈の2倍くらいあるやつに飛びかかれる身体能力だったわと思い出す。気配を消すのも気配を読むのも、得意なのは当然ってことか。

 

「名前を、呼ばせてください」

「名前……私の?」

 

 気配を読むのが不得手な私でも分かる。

 朝守くんが、無表情のままで緊張している。

 

「少しでも、あなたに意識してもらいたいんです。ただの後輩という認識を変えたいんで……」

「もちろん、いいけど……。朝守くん、ちょっと勘違いしてるよ」

「は、」

「ただの後輩なわけないじゃん。朝守くんは私の命の恩人で、憧れの人で、ヒーローなんだから」

 

 朝守くんが虚を突かれた顔をした。

 わ、こんな表情もするんだ。

 体中に広がる優しい風を感じて、私の頬はまた緩んでしまった。

 あなたの色んな表情を見てみたい、と思ってしまうのは、何かの始まりなんだろうか。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

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